○山本武利『新聞と民衆:日本型新聞の形成過程』 紀伊國屋書店 1973.9(新装復刊2005.6)
日本の新聞ジャーナリズムには、いくつかの特異な性格が見出せる。格調ある言論活動を行う高級紙(クオリティ・ペーパー=大新聞)と、娯楽中心の大衆紙(マス・ペーパー=小新聞)の区別がないこと。「不偏不党」をうたって、いずれの政党、政治的主張からも一定の距離をおいていること。その結果、幅広い読者層を持ち、世界でもまれな巨大な発行部数を誇っていること。
本書は、そうした「日本型新聞」の形成過程を、明治から大正初年に追ったものである。短い期間に、さまざまな新聞が、離合集散と変貌・興亡を繰り返す。長谷川如是閑、池辺三山など、著名なジャーナリストのほか、福沢諭吉、中江兆民、内村鑑三、黒岩涙香など、当時の知識人・思想家・文学者の多くが「同時に新聞人だった」ことをあらためて思い出させる。
日本の新聞は、幕末~明治初年、言論のメディアとして誕生する。考えてみれば、電話も電信も鉄道もなかったのだ。昨日、東京で起きた事件が、今日、九州や東北に伝わることはあり得なかった。したがって、初期の新聞は、すばやく事実を伝える報道メディアでなく、じっくり読む論説のメディアだった。
明治前期の新聞は、民衆の啓蒙と指導への使命感、自負に燃えていた。一方、読者も新聞記者に対して敬意を抱いていた。そんな中で、政府に与する「御用新聞」と見なされることは、人気の失墜(→営業上の不利益)を意味した。ちなみに、最も「御用」色が強かったのは、福地桜痴の『東京日日』で、逆に、政党からも政界からも「独立不羈」をうたったのは、福沢諭吉の『時事』であった。
新聞がなかなか普及しなかった原因は、民衆のリテラシー(よみかき)水準の低さにある。『文部省年報』によれば、1880年(明治13年)当時、自分の姓名を書けない者が、滋賀県で32.2%、群馬県で48.6%だという。これにはちょっと驚いた。「日本は江戸時代から寺子屋の普及によって、民衆のリテラシー水準が高かった」という俗説を、私は漫然と信じていたので。しかしまあ、視野を農民まで広げれば、こんなものかも知れない。
明治10年代に入ると、言論活動を主とする「大新聞」に対して、娯楽中心の「小新聞」が部数を伸ばしてきた。前者は教員や官吏に読まれ、後者は商家や芸娼家で読まれた(そうか、公務員が勤務時間中に職場で新聞を読んでも怒られないのって、この頃からの伝統なのね)。
明治20年代には、政党・政府から独立しつつも、一定の理念をもった新聞が現れる。陸羯南の『日本』、徳富蘇峰の『日本』、「小新聞」系では、黒岩涙香の『万朝報』と、秋山定輔の『二六新報』。特に『万朝報』は、弱者を擁護し強者を攻撃する「勇肌(いさみはだ)」の編集方針が、江戸っ子気質の下層読者に歓迎されたという。
しかしながら、日清・日露戦争を期に、読者のニーズは「論説」から「報道」に移る。これにいちはやく適応したのが『朝日』だった。新型輪転機の導入、電信・電話の活用など、大胆な資本投下によって、読者や競合他社を驚かせた。その背後には、国民リテラリーの向上による読者層の拡大がある。すなわち、新聞事業は、巨大な大衆を購読層とするマス・コミュニケーション産業として始動しつつあった。
そうして、新聞と民衆の関係は「生産者と消費者の関係」になっていき、今日に至る、というのが本書の見取り図である。私としては、明治20年代の新聞ジャーナリズムの活況が、今日に続かなかったことを、とても残念に思う。日本の新聞には、「不偏不党」の大衆商品になる以外の可能性もあったはずなのに。
本書によって、明治期のさまざまな新聞の性格が、大雑把に分かったことはありがたかった。今後、明治期の文献を読む上で、非常に助けになると思う。『二六新報』と『万朝報』は、ゆっくり読んでみたいなー。
ところで、本書が書かれた1970年代には、マス・コミュニケーション産業としての新聞の地位は盤石だったろうと思う。2006年の今はどうなんだろう? やっぱり、インターネットとの競合で衰退しつつあるのかしら。それとも、大衆商品から、何か別のものに変貌していく兆しはあるのだろうか?
日本の新聞ジャーナリズムには、いくつかの特異な性格が見出せる。格調ある言論活動を行う高級紙(クオリティ・ペーパー=大新聞)と、娯楽中心の大衆紙(マス・ペーパー=小新聞)の区別がないこと。「不偏不党」をうたって、いずれの政党、政治的主張からも一定の距離をおいていること。その結果、幅広い読者層を持ち、世界でもまれな巨大な発行部数を誇っていること。
本書は、そうした「日本型新聞」の形成過程を、明治から大正初年に追ったものである。短い期間に、さまざまな新聞が、離合集散と変貌・興亡を繰り返す。長谷川如是閑、池辺三山など、著名なジャーナリストのほか、福沢諭吉、中江兆民、内村鑑三、黒岩涙香など、当時の知識人・思想家・文学者の多くが「同時に新聞人だった」ことをあらためて思い出させる。
日本の新聞は、幕末~明治初年、言論のメディアとして誕生する。考えてみれば、電話も電信も鉄道もなかったのだ。昨日、東京で起きた事件が、今日、九州や東北に伝わることはあり得なかった。したがって、初期の新聞は、すばやく事実を伝える報道メディアでなく、じっくり読む論説のメディアだった。
明治前期の新聞は、民衆の啓蒙と指導への使命感、自負に燃えていた。一方、読者も新聞記者に対して敬意を抱いていた。そんな中で、政府に与する「御用新聞」と見なされることは、人気の失墜(→営業上の不利益)を意味した。ちなみに、最も「御用」色が強かったのは、福地桜痴の『東京日日』で、逆に、政党からも政界からも「独立不羈」をうたったのは、福沢諭吉の『時事』であった。
新聞がなかなか普及しなかった原因は、民衆のリテラシー(よみかき)水準の低さにある。『文部省年報』によれば、1880年(明治13年)当時、自分の姓名を書けない者が、滋賀県で32.2%、群馬県で48.6%だという。これにはちょっと驚いた。「日本は江戸時代から寺子屋の普及によって、民衆のリテラシー水準が高かった」という俗説を、私は漫然と信じていたので。しかしまあ、視野を農民まで広げれば、こんなものかも知れない。
明治10年代に入ると、言論活動を主とする「大新聞」に対して、娯楽中心の「小新聞」が部数を伸ばしてきた。前者は教員や官吏に読まれ、後者は商家や芸娼家で読まれた(そうか、公務員が勤務時間中に職場で新聞を読んでも怒られないのって、この頃からの伝統なのね)。
明治20年代には、政党・政府から独立しつつも、一定の理念をもった新聞が現れる。陸羯南の『日本』、徳富蘇峰の『日本』、「小新聞」系では、黒岩涙香の『万朝報』と、秋山定輔の『二六新報』。特に『万朝報』は、弱者を擁護し強者を攻撃する「勇肌(いさみはだ)」の編集方針が、江戸っ子気質の下層読者に歓迎されたという。
しかしながら、日清・日露戦争を期に、読者のニーズは「論説」から「報道」に移る。これにいちはやく適応したのが『朝日』だった。新型輪転機の導入、電信・電話の活用など、大胆な資本投下によって、読者や競合他社を驚かせた。その背後には、国民リテラリーの向上による読者層の拡大がある。すなわち、新聞事業は、巨大な大衆を購読層とするマス・コミュニケーション産業として始動しつつあった。
そうして、新聞と民衆の関係は「生産者と消費者の関係」になっていき、今日に至る、というのが本書の見取り図である。私としては、明治20年代の新聞ジャーナリズムの活況が、今日に続かなかったことを、とても残念に思う。日本の新聞には、「不偏不党」の大衆商品になる以外の可能性もあったはずなのに。
本書によって、明治期のさまざまな新聞の性格が、大雑把に分かったことはありがたかった。今後、明治期の文献を読む上で、非常に助けになると思う。『二六新報』と『万朝報』は、ゆっくり読んでみたいなー。
ところで、本書が書かれた1970年代には、マス・コミュニケーション産業としての新聞の地位は盤石だったろうと思う。2006年の今はどうなんだろう? やっぱり、インターネットとの競合で衰退しつつあるのかしら。それとも、大衆商品から、何か別のものに変貌していく兆しはあるのだろうか?