○中沢新一『アースダイバー』 講談社 2005.5
私は京王線の幡ヶ谷・笹塚周辺に住んでいる。表通りを歩いていると気づきにくいが、ちょっと小路を折れると、とんでもない急坂に出くわすことがある。このあたりは、台地と低地が入り組んで、坂の多い、複雑な地形を成しているのだ。
年末年始、たまたま「2ちゃんねる」の「まちBBS」で「幡ヶ谷・笹塚 PART68」という、ご当地スレッドを読んでいたら、代々幡の火葬場・医療少年院・刑場などの話題から、神田川支流・玉川上水の低湿地について、興味深い投稿があって、「これらの低地に関しては、現在書店で販売されているアースダイバー(中沢新一著)という東京の元来の大地の姿を探る内容の本に付属されている地図ではっきり見ることができます」と書いてあった。興味をそそられて、すぐに書店に買いに走った。
地質学者の研究によると、東京の地層は、「洪積層」(堅い土)と「沖積層」(砂地)で、できているそうだ。これら2つの地層の分布をていねいに追っていくと、縄文時代、東京はフィヨルドのように海と川が入り組んだ、複雑な地形だったことが分かる。古代人は、ミサキの突端に神を祀り、聖地とした。その記憶は、すっかり風景の変わった今日にも、何らかのかたちで保持されている。
というわけで、著者は、縄文時代の東京再現地図を片手に、ママチャリで東京を経巡る。風景に対する鋭敏な嗅覚に加えて、文献上に残されたさまざまな伝説、著者独特の文明史的な視点が興味深い。たとえば、崖下の湧水で養殖されている金魚に、繰り返しを拒否する怪物的な生命を見出し(人々が反復する時間を生きていた前近代、怪物的な金魚が愛好された。明治になって、全てがめまぐるしく変化するようになると、自然は紋切り型のパターンで描かれるようになる)、砂州に出現した盛り場・浅草に歴史の無い「アメリカ」を発見し、まるで臨戦態勢のように「森」に隠れ棲む近代の天皇に思いを馳せる。
四谷怪談のお岩が、実は幸福な武家の主婦であったこと、新宿の起源となった「中野長者」の伝説に大蛇と黄金が刻印されていること、小さな火の精霊「秋葉三尺坊」に守られた秋葉原、新宿歌舞伎町の名前の由来(新宿に歌舞伎座を誘致しようとした)、名古屋の「コーチン芸者」が新橋に住み着いたこと。語られるエピソードは、どれもこれも、果てしない空想をそそられる。別段、「愛・地球博」まで行かなくても、東京にだって、たくさんの地霊や精霊が住んでいるのだ(モリコロよりは、少しこわもてだけど)。
ところで、本書の印象的なタイトルは、アメリカ先住民の神話から取られたものだという。一神教の天地創造神話では、神様は、まるでコンピュータ・プログラマーのように、天地を設計し、創造する。ところが、アメリカ先住民の神話では、はじめ、世界には陸地がなかった。勇敢な動物たちは、次々に水中に潜り、陸地の材料を探してくる困難な任務に挑んだ。とうとう一羽のカイツブリが水底にたどり着き、水かきの間に一握りの泥を掴んで浮かび上がることに成功した。
著者は、この神話を「無意識」への遡行に喩える。東京という町は、大昔、「無意識」の底から引き上げられた泥が、あちこちに堆積している。東京を歩くことは「無意識」の痕跡を旅することだ。時には、我々もカイツブリになって、「無意識」から、一握りの泥を掴んで浮かび上がってこよう。そうやって作られる「世界」は、コンピュータプログラミングのように、スマートでも合理的でもないけれど、きっと心優しい姿をしているだろう。
私は京王線の幡ヶ谷・笹塚周辺に住んでいる。表通りを歩いていると気づきにくいが、ちょっと小路を折れると、とんでもない急坂に出くわすことがある。このあたりは、台地と低地が入り組んで、坂の多い、複雑な地形を成しているのだ。
年末年始、たまたま「2ちゃんねる」の「まちBBS」で「幡ヶ谷・笹塚 PART68」という、ご当地スレッドを読んでいたら、代々幡の火葬場・医療少年院・刑場などの話題から、神田川支流・玉川上水の低湿地について、興味深い投稿があって、「これらの低地に関しては、現在書店で販売されているアースダイバー(中沢新一著)という東京の元来の大地の姿を探る内容の本に付属されている地図ではっきり見ることができます」と書いてあった。興味をそそられて、すぐに書店に買いに走った。
地質学者の研究によると、東京の地層は、「洪積層」(堅い土)と「沖積層」(砂地)で、できているそうだ。これら2つの地層の分布をていねいに追っていくと、縄文時代、東京はフィヨルドのように海と川が入り組んだ、複雑な地形だったことが分かる。古代人は、ミサキの突端に神を祀り、聖地とした。その記憶は、すっかり風景の変わった今日にも、何らかのかたちで保持されている。
というわけで、著者は、縄文時代の東京再現地図を片手に、ママチャリで東京を経巡る。風景に対する鋭敏な嗅覚に加えて、文献上に残されたさまざまな伝説、著者独特の文明史的な視点が興味深い。たとえば、崖下の湧水で養殖されている金魚に、繰り返しを拒否する怪物的な生命を見出し(人々が反復する時間を生きていた前近代、怪物的な金魚が愛好された。明治になって、全てがめまぐるしく変化するようになると、自然は紋切り型のパターンで描かれるようになる)、砂州に出現した盛り場・浅草に歴史の無い「アメリカ」を発見し、まるで臨戦態勢のように「森」に隠れ棲む近代の天皇に思いを馳せる。
四谷怪談のお岩が、実は幸福な武家の主婦であったこと、新宿の起源となった「中野長者」の伝説に大蛇と黄金が刻印されていること、小さな火の精霊「秋葉三尺坊」に守られた秋葉原、新宿歌舞伎町の名前の由来(新宿に歌舞伎座を誘致しようとした)、名古屋の「コーチン芸者」が新橋に住み着いたこと。語られるエピソードは、どれもこれも、果てしない空想をそそられる。別段、「愛・地球博」まで行かなくても、東京にだって、たくさんの地霊や精霊が住んでいるのだ(モリコロよりは、少しこわもてだけど)。
ところで、本書の印象的なタイトルは、アメリカ先住民の神話から取られたものだという。一神教の天地創造神話では、神様は、まるでコンピュータ・プログラマーのように、天地を設計し、創造する。ところが、アメリカ先住民の神話では、はじめ、世界には陸地がなかった。勇敢な動物たちは、次々に水中に潜り、陸地の材料を探してくる困難な任務に挑んだ。とうとう一羽のカイツブリが水底にたどり着き、水かきの間に一握りの泥を掴んで浮かび上がることに成功した。
著者は、この神話を「無意識」への遡行に喩える。東京という町は、大昔、「無意識」の底から引き上げられた泥が、あちこちに堆積している。東京を歩くことは「無意識」の痕跡を旅することだ。時には、我々もカイツブリになって、「無意識」から、一握りの泥を掴んで浮かび上がってこよう。そうやって作られる「世界」は、コンピュータプログラミングのように、スマートでも合理的でもないけれど、きっと心優しい姿をしているだろう。