○斎藤希史『漢文脈と近代日本:もう一つのことばの世界』(NHKブックス) 日本放送出版協会 2007.2
あっ、斎藤希史さんの新刊!! 本書を見つけたときは、懐かしい友だちに会ったみたいに嬉しかった。と言っても、2005年のサントリー学芸賞を受賞した『漢文脈の近代』(名古屋大学出版会 2005.2)しか読んではいないのだが、この1冊で、すっかりファンになってしまったのである。
本書は、前著で提示された豊かな問題系列の中から、特に「近代日本文学と現代日本語」に焦点を絞ったものである。”大学出版会もの”らしく、いくぶん専門知識を要求された前著に比べると、文体は平易で読みやすい。だが、本書のテーマ設定は、ややアクロバティックかもしれない。著者は、漢文は日本文化の基盤だから、東アジアの共通文化だから、漢文の素養を大切にしようという類の、耳に慣れた物言いをしない。むしろ、現代日本語が「捨てたはずの」漢文脈とは何か、「それを捨てた私たちとは何であったのか」という問題にこだわる。さらに言えば、東アジアの諸国は、いずれも漢文脈を外部化する作業を通じて、地域の固有性や多様性を獲得したのではないか、と著者は考える。
この問題設定が、凡百の「漢文」論と異なる、本書の眼目なのだが――本のオビの「漢文だから表せる物の見方、感じ方」っていうのは、著者の意図に対して、誤読スレスレのような気がする。
ともかく、本文中に引かれた幕末・明治人のエピソードには、興味深いものが多い。頼山陽の『日本外史』が光緒元年(1875)に中国広東で出版され、「その文章は古えの風格がある」と称されているとか。中村真一郎の外祖母は明治初年生まれで「文字通り無学な田舎の一老媼」に過ぎなかったが、『日本外史』を暗誦できたとか。徳富蘆花の自伝的小説によれば、明治10年代の学生には『佳人之奇遇』の漢詩を暗記し、吟唱する者が多かったとか。
明治初年には、漢文学習の素材として艶史の類がよく読まれた。具体的には「情史抄」(原本は馮夢龍の「情史」)や「燕山外史」などである。こんなこと、一般の近代文学史では誰も教えてくれない!
漢文脈の正統――士大夫的感覚においては、小説はあくまで私的世界のものだった。とすれば、公人として陸軍軍医総監までつとめた鴎外が書いた「舞姫」を、才子佳人小説の系譜のもとに読むことは、あながち間違いではないかのかも知れない。
福沢諭吉、中村敬宇ら、洋学者における漢文脈。森春濤、大沼枕山ら、今は忘れられた明治漢詩壇における漢文脈。いずれも興味深い問題を含んでいる。そして、鴎外、荷風――彼らは、継承するにしろ反発するにしろ、「士大夫」的な漢文脈の素養に対して自己の位置を定めた。これに対して、商家生まれの谷崎は、士大夫的な感覚から相対的に自由であり、漢文脈、あるいは支那を「素材」として如何ようにも操ることができた。一方、漱石の系譜に連なる芥川は「経世意識」を強く持つがゆえに、「私は支那を愛さない」と言うのである。この対比、面白い。
あっ、斎藤希史さんの新刊!! 本書を見つけたときは、懐かしい友だちに会ったみたいに嬉しかった。と言っても、2005年のサントリー学芸賞を受賞した『漢文脈の近代』(名古屋大学出版会 2005.2)しか読んではいないのだが、この1冊で、すっかりファンになってしまったのである。
本書は、前著で提示された豊かな問題系列の中から、特に「近代日本文学と現代日本語」に焦点を絞ったものである。”大学出版会もの”らしく、いくぶん専門知識を要求された前著に比べると、文体は平易で読みやすい。だが、本書のテーマ設定は、ややアクロバティックかもしれない。著者は、漢文は日本文化の基盤だから、東アジアの共通文化だから、漢文の素養を大切にしようという類の、耳に慣れた物言いをしない。むしろ、現代日本語が「捨てたはずの」漢文脈とは何か、「それを捨てた私たちとは何であったのか」という問題にこだわる。さらに言えば、東アジアの諸国は、いずれも漢文脈を外部化する作業を通じて、地域の固有性や多様性を獲得したのではないか、と著者は考える。
この問題設定が、凡百の「漢文」論と異なる、本書の眼目なのだが――本のオビの「漢文だから表せる物の見方、感じ方」っていうのは、著者の意図に対して、誤読スレスレのような気がする。
ともかく、本文中に引かれた幕末・明治人のエピソードには、興味深いものが多い。頼山陽の『日本外史』が光緒元年(1875)に中国広東で出版され、「その文章は古えの風格がある」と称されているとか。中村真一郎の外祖母は明治初年生まれで「文字通り無学な田舎の一老媼」に過ぎなかったが、『日本外史』を暗誦できたとか。徳富蘆花の自伝的小説によれば、明治10年代の学生には『佳人之奇遇』の漢詩を暗記し、吟唱する者が多かったとか。
明治初年には、漢文学習の素材として艶史の類がよく読まれた。具体的には「情史抄」(原本は馮夢龍の「情史」)や「燕山外史」などである。こんなこと、一般の近代文学史では誰も教えてくれない!
漢文脈の正統――士大夫的感覚においては、小説はあくまで私的世界のものだった。とすれば、公人として陸軍軍医総監までつとめた鴎外が書いた「舞姫」を、才子佳人小説の系譜のもとに読むことは、あながち間違いではないかのかも知れない。
福沢諭吉、中村敬宇ら、洋学者における漢文脈。森春濤、大沼枕山ら、今は忘れられた明治漢詩壇における漢文脈。いずれも興味深い問題を含んでいる。そして、鴎外、荷風――彼らは、継承するにしろ反発するにしろ、「士大夫」的な漢文脈の素養に対して自己の位置を定めた。これに対して、商家生まれの谷崎は、士大夫的な感覚から相対的に自由であり、漢文脈、あるいは支那を「素材」として如何ようにも操ることができた。一方、漱石の系譜に連なる芥川は「経世意識」を強く持つがゆえに、「私は支那を愛さない」と言うのである。この対比、面白い。