見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

多様な模索/世界の大学危機(潮木守一)

2007-03-14 23:01:34 | 読んだもの(書籍)
○潮木守一『世界の大学危機:新しい大学像を求めて』(中公新書) 中央公論新社 2004.9

 1960年から2000年までの40年間に、イギリスの大学生数は16倍、フランスで7倍、ドイツ、アメリカ、日本では4倍に拡大したそうだ。1960年当時、大学就学率は、アメリカ35パーセント、日本12パーセント、フランス7パーセント、イギリスとドイツは4パーセント(!)に過ぎなかった。それが今では、どの国でも、同一年齢層の3分の1から半分が大学に通っているという。

 考えてみると、ものすごい大変貌である。これだけ内実が変わってしまったものを「大学」とか「大学生」とか、過去と同じことばで呼び続けるから、いろいろ問題が起こるのではないかとさえ思われる。

 しかしまた、本書に取り上げられたイギリス、ドイツ、フランス、アメリカの事例は、それぞれ異なる歴史と特徴を備えている。たとえば、評価に基づく補助金の傾斜配分を通じて、納税者へのアカウンタビリティを果たしながら、なお古典的な(全人的な)高等教育の維持に固執するイギリス。平等主義(誰でも希望する大学に入れる。ゆえに卒業した大学の名前はブランドにならない)からの脱却を模索するドイツ。高等教育の大衆化は大学に担わせ、少数のエリート育成は別の機関(グランゼコール)に二分したフランス。そして、ドイツのフンボルト理念(研究する学生)を発展的に受け継ぎ、研究を通じて教育を行う機関「大学院」を発明したアメリカ。

 イギリスとアメリカの大学は訪ねたこともあり、その前後に少し勉強もしたのだが、ドイツ、フランスのシステムは全く知らなかったので、非常に興味深かった。フランスのグランゼコールって面白いなあ。超難関。学生は全て公務員に準じ、給料を貰いながら勉強するのだそうだ。むかしの名前を頑固に守っているので、「鉱山技師学校」(カルロス・ゴーンの母校)なんて、今では鉱山学と何の関係もないというのも面白い。

 (実態はともかく、理念としては)日本でも定着している「研究する学生」というのが、ドイツで生まれた新来の概念であるというのも興味深かった。しかし、過度の研究重視は、研究の細分化、断片化を呼び、知的バランスを欠いた怪物を育てることしかできない、という批判も、アメリカでは、20世紀初めに提出されている。そして、研究中心主義のアンチテーゼとして、もっと対人的な社会訓練を施し、「教養あるジェントルマン」「幅広い知的関心」を育てるべきだ、という主張もある。

 イギリスやアメリカの大学は、大学(あるいはカレッジ)が豊富な自己資産を持ち、その運用で資金を調達できるというのは、日本人から見ると「なぜ?」と問いたくなるのだが、何故もなにも「大学とはそういうもの」だった、ということが納得できる。でも、安定した財政基盤を持ちながら、それが(かつてのイギリスのように)停滞の原因にならない(不断の競争原理が働いている)ところが、アメリカの大学の類を絶したすごさなんだろうな。

 日本は、近代化の開始とともに、英米から、表層の教育システムだけは移植できたけど、その財政基盤は、全く別のかたち(国家予算への依存)を採らざるを得なかった。「国営大学」ベルリン大学の創設とともに幕を開けたドイツの近代もこれに近い。韓国、中国、ベトナム、タイなど、アジア諸国の大学システムも、やっぱり近代化の後発国という点で、日本以上に国家の関与が大きいのだろうか。よく知らないので、知りたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする