見もの・読みもの日記

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明治維新という革命/愛国・革命・民主(三谷博)

2015-12-01 23:21:26 | 読んだもの(書籍)
○三谷博『愛国・民主・革命』(筑摩選書) 筑摩書房 2013.8

 2011年に世田谷市民大学で行った連続講義の記録に加筆修正したもの。講義の口調が残っているので、読みやすく、頭に入りやすい。愛国・民主・革命の3つのテーマで、それぞれ2回ずつ講義している。

 まず「愛国」。著者は「ある国家を基準として我々と他人を差別する心の習慣」をナショナリズムの第一段階と定義する。そして、「国単位の自他差別意識が庶民まで浸透すること」を以て第二段階とする。日本は、東アジアの中ではいち早く日清戦争を通して第二段階に達した。韓国・中国は出遅れたが、最終的にはきわめて強いナショナリズムが働くようになった。

 著者の専門分野である日本については、いろいろ興味深い指摘があった。神社やお寺の境内で演じられた歌舞伎や浄瑠璃を通じて、日本の各地に上方言葉や江戸言葉が伝わり、「国民の境界」をつくったというのは面白い。守屋毅先生の『村芝居』いつか読もう。本居宣長の思想には「忘れえぬ他者」としての中国の影響が強いというのも納得できる。逆から見て「文明の中心にはナショナリズムが起きにくい」というのも真理だと思う。

 しかし、中国史の解釈には、この章だけではないが、時々首をかしげたくなる部分があった。中国は(近世日本に比べて)集権的だったというけど、そうかなあ。列強による領土の「瓜分」が始まることで、新疆や台湾やモンゴルまで不可分の国土という意識が生まれたというけれど、属国は中国に不可欠のものだけど、やっぱり属国は中国ではないと思うのだ。

 次に「革命」。世界の革命を比較した研究の中に明治維新は登場しない。革命のスタンダードに合わないと考えられているためである。そこで著者は、「復古」をうたった革命が明治維新に限らないことを示し、無血に近い革命があり得ることを、近年のアラブのジャスミン革命を例に示す。明治維新が「無血に近い革命」なのかどうかは疑問。しかし、近代化の過程で日本人が多くの外国人を殺したことに比べれば、日本人どうしで殺し合った数は少ない、という指摘には説得力がある。

 それから人々の社会変革に対する態度「進歩」「保守」「復古」「世治り」を図にプロットしてみる。また、変化理解の方法として、古典的な因果関係のほかに、自然科学で用いられる複雑系やカオス結合系の理論を紹介する。こんなところで、バタフライ効果の説明を聞くとは思わなかったので、とまどいながらも面白かった。

 最後に「民主」。近世日本の大名国家では、「起案」(現場の役人)→「決定」(重臣の会議)→「裁可」(君主が最後のお墨付きを与える)というように決定のプロセスが高度に制度化されていた。手続きの形式化には問題もあったが、のちに西洋から、統治者も被治者もともに縛る「法の支配」という思想が入ってきたとき、「手続きの支配」に慣れていた日本人は、これをすんなり受け入れたのではないか。これには膝を打った。なるほど。他の国なら権力者は法を作って人々を縛っても、自分を例外にするのがしばしばだという。しかし現政権のやりかたを見ると、残念ながら「手続きの専制」という江戸の美風は、もはや風前の灯であると思う。

 最後の章では、日本の明治維新の経験を振り返りながら、どうしたら中国を民主化できるかを論じている。しかし、2015年の今日、ここを読むと、日本の民主主義を支えてきたさまざまなファクターが劣化し、疲労していることを感じずにはいられなかった。明治政府の人々が政治運動家への弾圧を抑制し、言論を重視したのは、彼らの「虚栄心」からだったと著者は説く。文明的な社会をつくり、自分たちの達成を同時代の西洋人や子孫たちに認められたいという「歴史への見栄」が彼らの行動を規制した。それでいうと、今の日本の政治家には、いい加減露悪趣味と開き直りをやめて、もう少し「虚栄心」を取り戻してもらいたいと思う。
コメント (1)
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