見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

戦争と探偵小説家/乱歩と正史(内田隆三)

2017-08-28 23:58:50 | 読んだもの(書籍)
〇内田隆三『乱歩と正史:人はなぜ死の夢を見るのか』(講談社選書メチエ) 講談社 2017.7

 江戸川乱歩(1894-1965)と横溝正史(1902-1981)という二人の作家を軸にして、日本における本格探偵小説の創造の過程を明らかにする。この創造の過程は、第一次世界大戦後の乱歩による創作探偵小説の試みのあと、戦争の試練を経て、第二次大戦後の正史の試みに引き継がれる、というのが本書の冒頭に示される見取り図である。

 分量的には乱歩に関する記述のほうが多い。著者は、どちらかといえば乱歩のほうが好きなんだな、ということはなんとなく感じた。著者は乱歩の数多い作品群を(1)「二銭銅貨」「D坂の殺人事件」などの純探偵小説(本格物)、(2)「魔術師」「吸血鬼」などの猟奇的な冒険譚、(3)「怪人二十面相」「少年探偵団」シリーズなどの少年物、に分類している。乱歩の作家活動は、ほぼこの順番に展開する。1920年代に「二銭銅貨」でデビューを飾った乱歩は、探偵小説特有の「論理的な面白さ」を、はじめて日本の生活空間に構築した。なお、文体的に、宇野浩二の影響が強いという指摘は面白い。

 しかし、論理的なトリック中心の探偵小説に行き詰った乱歩は、休筆=放浪期を経て、「淫獣」「芋虫」「押絵と旅する男」の作家として帰還する。そこでは、情痴と純粋さが共存し、実存の不安が揺らめいている。先を急ぐと、30年代前半に乱歩は再び休筆する。「如何にしても探偵小説的情熱を呼び起こし得ず」という深刻な気力減退の中、乱歩は「怪人二十面相」によって復帰する。怪人二十面相は快盗ルパンのイメージを借用しながら、ルパンにはない怪奇性、異人性を持ち、明智探偵に負け続ける「負性」を背負い、そもそも実体がない、という分析が非常に面白かった。

 1940年代、戦争が厳しくなると、乱歩は地域の翼賛壮年団の事務長をつとめるなど、すすんで国策に協力した。反時局的な文庫本の刊行を自主規制し、執筆意欲を失って、蔵の中で「貼雑帖」の整理に時間を費やしていた。その頃、横溝正史も「鬼火」の削除を命じられ、探偵小説を取り上げられて捕物帳への転換を果たす。しかし、その捕物帳も駄目となって、岡山の疎開先で戦争から「距離」を取って日々を過ごす。50代の乱歩に運命への諦観が感じられるに対し、40代前半の正史には、まだ生きることへの強い執着が感じられる。「生きることは書くことであり、書くとは〈本格〉物を書くことであると見切ったゆえの生への執着である」という著者の断言が尊い。

 そして敗戦の直後に「本陣殺人事件」「蝶々殺人事件」「獄門島」等々、怒涛のように横溝の傑作が生まれていく。1930年代の探偵小説を代表する乱歩は、犯罪者「個人」の心理を如何に描くかを重視するが、横溝作品では、多くの場合、真の悪念は「個人」ではなく、集団あるいは習俗の論理の中にある。犯罪の動機は、個人の利害よりも死者の遺志に誘導されている。それは「死者を悼む人々が膨大な数にのぼった時代の感受性のようにも思える」と著者はいう。しかし、21世紀を生きる私たちも、なぜか今なお横溝の「死者に誘導される犯罪」の物語に惹かれるのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする