〇大倉集古館 企画展・大倉組商会設立150周年『偉人たちの邂逅-近現代の書と言葉』(2023年11月15日~2024年1月14日)
明治6(1873)年の大倉組商会設立から150年を数えた本年、創設者・大倉喜八郎と、嗣子・喜七郎による書の作品とともに、事業や文雅の場で交流した日中の偉人たちによる作品を展示する。この秋、根津美術館の『北宋書画精華』には、色とりどりの料紙を貼り継いだ『古今和歌集序』が出ていたし、東博の『やまと絵』第4期(記事は書いていない)では、久しぶりの『随身庭騎絵巻』を見た。所蔵の名品を惜し気もなく他館に貸し出しているわりには、自館の展示がずいぶん地味で苦笑したが、歴史好きには興味深かった。
1階は中国関係でまとめている。冒頭には黄色い縦長の料紙に七言の書。署名はなく、右肩に朱角印。温和でバランスのとれた書だと思った。宣統帝溥儀の書で、3幅対の寿聯の一部だという。1924年10月、喜八郎の誕生日に寄せられたものだが、同じ月に北京政変が起こり、溥儀は紫禁城を追い出されている。翌年、天津の日本租界で庇護を受けていた溥儀に喜八郎は会っているという。溥儀に仕え、のちに満州国の国務院総理となる鄭孝胥の『使日雑詩』は、訪日時の詩を記したもの。神戸、箱根などの文字が見える。「観血池地獄」というのは別府だった。
粛親王善耆(ぜんき)は、その場で思い出せなかったが、そうか、川島芳子の父親なのか。喀喇沁王(貢桑諾爾布、グルサンノルブ)の名前は知らなかったが、内モンゴルで最初の近代女子学校を設立した人物だという。日本で下田歌子に会って女子教育の重要性を認識したとか、彼の設立した女子学堂で鳥居龍蔵夫人が教師をしていたとか、日中近代史の緊密な関係が感じられて、いろいろ面白い。
会場で目を引いたのは、文字を縫い付けた(?)畳1枚くらいの垂れ幕。葬儀会場に掲げる「弔旗」というもので、1928年、大倉邸で執り行われた喜八郎の告別式に掲げられた。張作霖が贈ったものは紺地に茶色の文字で「鶴馭興悲」とあり、喜八郎の号、鶴彦を詠み込んでいる。弔旗の色合いは地味だが、同色の文様が織り出された豪華な生地(たぶん絹)だった。蒋介石が贈ったものは深緑色で「普天同吊」とある。展示は2点だけだったが、図録解説によれば、徐世昌、段祺瑞からも弔旗を贈られている。告別式当日の写真も残っていて、とても興味深かった。よくぞ貴重な近代史資料を今日に伝えてくれた!
私は、徐世昌という人物を、むかし『走向共和』という中国ドラマで覚えて以来、ずっと好きなのだが、大倉集古館の入口の扁額が彼の書だということを初めて知った。やや癖の強い字で、あまり巧いとは思わないが、交流の軌跡がこうして残されているのは嬉しい。
2階は、喜八郎が好んで蒐集した琳派の書画、光悦の『詩書巻』(ピンク色の木蓮が描かれた、華やかな料紙)など。伊藤博文の『於日露交渉所感詩』と、それに和した金子堅太郎の詩は、ずいぶんむかしにも見たことがある。私は、明治の政治家では伊藤公も好きで、関連書をいくつか読んだけれど、残念ながらこの詩に言及した書は見たことがない。渋沢栄一、勝海舟の書もあったが、この時代の日本の政治家・実業家は、ちゃんと漢文が書けたのに、その伝統を失ってしまったのは、残念だなあと思った。
明治の人々も、習わずして漢文が書けたり、書が巧みだったわけではない。喜八郎の息子・喜七郎は、書道家の松本芳翠の指導を受けていた。本展には、喜七郎が『仙石原』と題した漢文(漢詩だったかな)を揮毫した軸に、松本芳翠が朱筆で直しを入れたものが出ていた。分かりやすくて、納得できる直しだった。やはり公けに揮毫が求められる政治家や財界人は、こういう修練を怠らないでほしい。