見もの・読みもの日記

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貧民・娼妓・女工/東京の下層社会(紀田順一郎)

2016-05-26 23:03:07 | 読んだもの(書籍)
○紀田順一郎『東京の下層社会』(ちくま学芸文庫) 筑摩書房 2000.3

 明治初期から昭和戦前にかけての都市層の実態を探り、そこから焙り出しにされる日本の社会福祉思想の特異な性格や政策面での限界を究明しようとしたもの。実態の記述は、著者の紀田順一郎先生(1935-)が直接、見聞したものではなく、同時代のルポルタージュに拠っている。前半はスラム街の貧民を描き、後半は私娼や女工など女性に焦点をあてている。

 前半では、浮浪者を装って万年町に潜入した「国民新聞」の記者・松原岩五郎による『最暗黒之東京』(1893/明治26)と、同じ頃、明治東京の三大スラムといわれた下谷万年町・芝新網町・四谷鮫ヶ橋を中心に、関西に足をのばして大阪名護町の大スラム街までを観察し、「日本」紙上に貧民街ルポを連載した桜田文吾による『貧天地饑寒窟探検記』(1893/明治26)が最も頻繁に参照されている。

 貧民街の風景はとにかく凄まじい。汚水は氾濫し、鼠の死骸や腐った魚が散乱する。大正末期でも無灯火は当たり前で、窓もなかった。日光が入らないため結核菌が蔓延する。それでも人々は、せめて長屋に入ろうとする。長屋にも入れない「宿屋住まい」は「責任も義理も人情もない人間をさした」というのが面白い。家を構えて一人前という観念は、けっこう根強く現代人にも流れている気がする。

 スラム住宅が不衛生に陥る原因は、環境的要因(洗濯場や流し場がないこと)や職業的理由(多忙、汚れ仕事)もあるが、それよりも住民がスラムを「早く脱出したい仮住まい」と考えている点にあるのではないか。現代の公営住宅や高級マンションでも、しばしば共用部分が汚されるのは、この「流民の伝統」によるのではないか、という考察は、家を構えたことのない自分の内心を見透かされたようで、非常に納得できた。なお、民俗学で「家」と「小屋」を分けるポイントは、そこに神を祀っているか否かだそうだ。明治中期までの貧民は仏壇をつるしていたというから、まだ「家」の意識があったのだろう。

 つい余談に深入りしてしまったが、住環境の話はまだ心穏やかに読んでいられる。めまいがするのは貧民の食生活で、彼らのために残飯屋という商いがあった。仕入れ先は士官学校や寄宿舎など。パン屑や残った弁当はまだしも、下水道から流れてくる飯粒を金網で掬って、さすがに食用にはならないので、養鶏場に売りに行ったという話も出てくる。

 大正時代、大阪の小学校で残飯さえも買えない家庭の子供がいると分かったことから、欠食児童に朝飯(芋粥)を給与することも行われている。これらを過去の出来事として読むことができず、妙に今日的な問題とリンクしてしまうのが悲しいところだ。日本において救貧政策が進展しないのは「日本人の意識の奥深いところにある貧者に対する倫理的な蔑視」が原因ではないか、という指摘には深く考えさせられる。貧者に援助の手を差し伸べることが、かえってその独立心をそぎ、有害であるという考え方が、「おどろくなかれ新憲法の成立直前にいたるまで」貧窮者対策や福祉政策に力を入れないための口実として生き続けた、と著者が書いたのは1988年のことらしいが(本編は雑誌「新潮45」に連載)、本当に「おどろくなかれ」なのは、こうした観念が21世紀の今日も生き残っていることである。

 後半は、娼妓の実態を語るにあたり、森光子という女性が、群馬県のたぶん商家に生まれ、19歳で新吉原の妓楼に売られ、娼妓として1年あまり辛酸をなめ、ついに死を賭して脱出し(一面識もなかった柳原白蓮のもとに駆け込む)、のちに発表した告発手記『光明に芽ぐむ日』(1925/大正14)を参照している。とにかく腹立たしい場面の連続で、娼妓は「商売」なんだから同情や救済は必要ない、みたいなことを言える人は、彼女の境遇に身を置くことができるのか、じっくり読んでみればいいと思う。

 しかし娼妓のほうがマシかもしれない、と思ったのが女工の実態。農商務省の調査記録『職工事情』(1903/明治36年調査)には、これが日本の「近代」なのか?と目を疑うような光景が記録されている。強制労働、搾取、虐待、性的暴行は日常茶飯事。最近、日本の近代は(日本の近世も)素晴らしいものだったと思いたい人が多いようだが、まずこれらの貴重な記録に目を通し、著者の批判的考察に耳を傾けてほしい。

紀田順一郎のホームページ「書斎の四季」
「私の旧刊」に本書に関するコメント「私の著書のなかでも、最も息の長い売れ行きを示しています」とあり。

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