見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

胡麻のシフォン・ケーキ

2006-01-17 18:27:09 | なごみ写真帖
昨年、日本橋に開館した三井記念美術館に、初めて行ったときから、瀟洒なミュージアム・カフェがあることには気づいていた。

先週末、このカフェで、胡麻のシフォン・ケーキを賞味。美味でした~!!
しかも大きい。写真の朱の塗皿は、実は、カレー皿くらいあるのです。



次回は、抹茶と生菓子セットで。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お江戸・日本橋絵巻/三井記念美術館

2006-01-16 22:59:05 | 行ったもの(美術館・見仏)
○三井記念美術館 開館記念特別展II『日本橋絵巻』

http://www.mitsui-museum.jp/index2.html

 五街道の出発点「日本橋」を描いた美術品を集めたもの。広重、北斎、国芳らの浮世絵も楽しいが、圧巻は、ベルリン東洋美術館蔵の『熈代勝覧(きだいしょうらん)』、文政2年(1805)頃の成立で、全長12メートルに及ぶ日本橋繁盛絵巻である。

 絵巻は「神田今川橋」に始まる。JR神田駅の東側だ。瀬戸物屋が多い。南に向かってしばらく進むと、十軒店(じゅっけんだな)の雛市に行き当たる。常設の商店もあるが、路上には、むしろ掛けの仮設の人形店がたくさん出ている。桃の花だけを売っている花売りもいる。これは現在の室町三丁目あたりらしい。本町三丁目の入口付近に、瓦版のよみうりらしき姿を発見!

 やがて、大店の呉服店、越後屋(三越本店)が近くなると、気のせいか、身奇麗な着物姿の女性が多くなる。越後屋の先の本屋では、のれんに顔を隠し、店先に腰かけて本を読む、お侍の姿。それから、木や(木工品)、八百屋など、同じ商売の店が固まって並び、室町二丁目に至ると、路上に籠や桶を並べて商う、零細な八百屋、魚屋の商人で大混雑。これが日本橋の橋の上まで続く。

 ざっと数えた限りでは、この絵巻に書肆(本屋)は3軒。ほかに貸本屋かなあ、と疑われる荷物を担いだ行商人もいたが、定かではない。犬はあちこちにいるけど、猫は見つけることができなかった。商家の看板は(モノのかたちでなく)文字で書かれたものが多い。識字率が高かったのかなあ...など、さまざまな視点で楽しむことができる。でも、いま、まぴおんで地名を確認してみると、意外と短い距離なんだな、と思った。

 ちょっと変わった展示品では、日本橋の擬宝珠(ぎぼし)が出ていた。万治元年(1658)銘の入った本物である。町方の橋で、擬宝珠を付けることを許されたのは、日本橋、京橋、新橋だけだったそうだ。私は、これら橋の付く地名が、かつて本当に「橋」だったということを、ほとんど忘れていた。そうだなあ、江戸が東京に変わっても、明治初期まで、物流の中心は水運だったんだよなあ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大部屋の歌仙たち/出光美術館

2006-01-15 23:37:35 | 行ったもの(美術館・見仏)
○出光美術館『古今和歌集1100年記念祭-歌仙の饗宴』

http://www.idemitsu.co.jp/museum/honkantop.html

 例によって、あまり予習もしないで会場に来てしまった。なので、佐竹本三十六歌仙が出るとは聞いていたものの、ずらり、7点も並んだ姿に、えっこんなに!と、すっかり気圧されてしまった。

 佐竹本は、秋田藩主の佐竹家に伝来したもので、明治維新後、海運業者の山本唯三郎が買い取った。しかし、第一次大戦後の不況のあおりで、山本がこれを手放すことになったとき、高額過ぎて、誰も買い手が付かなかった。そこで、三井財閥の創始者にして茶人の益田鈍翁が世話人となり、絵巻を切断して、一片ずつ売り払うことになった。配分は公平を期して、くじ引きで行われたという。

 以上のような経緯を私が初めて知ったのは、1983年に放送されたNHKの番組『絵巻切断~秘宝36歌仙の流転~』を見てのことである。当時、私は大学生だった。懐かしいなあ~(昨年『NHKアーカイブス』で再放送されたらしい)。くじ引きの結果など、詳しいことは下記のサイトを参照。全点画像も付いている。

■佐竹本 三十六歌仙 絵巻(個人サイト)
http://www.cityfujisawa.ne.jp/~tsujido/36kasen/

 切断された絵巻の所有者は、その後も変わり続けているらしい。別のサイトによれば「現在までに歌仙絵を手にした人は160人あまりにのぼる」そうだ。現在の所有者については、下記の情報が比較的新しいのではないかと思う。まことに「流転の絵巻」の名にふさわしいが、それだけに、十枚程度といえども、並んだ姿を見るのは、なんだか嬉しいものだ。

■幻の国宝絵巻~佐竹本三十六歌仙~(個人サイト)
http://niigata.cool.ne.jp/izumi1201/private/36kasen.htm

 さて、この展示会は、「画」の歌仙図と「書」の古筆を同時に楽しむことができる。「書」では、伝紀貫之筆『高野切』が絶品。私は、重文の『高野切・第一種』よりも、重要美術品の『高野切・第三種』のほうが、墨の濃淡に緩急が感じられて好きだ。古筆って、流れる時間を凍結させたような芸術だと思う。

 また、昨年の展覧会『平安の仮名、鎌倉の仮名』にも出ていた、国宝の古筆手鑑『見努世友(みぬよのとも)』にも再会! もちろん、前回とは違う箇所が開けてあり、テーマの「歌仙」にあわせて、「後鳥羽院本三十六歌仙絵」の源順の絵を見ることができる。背を丸め、うつむいて沈思しているところが、学者歌人っぽくていい。私は、いちおう国文学を専攻して和歌史を学んだ経験があるので、紀貫之にしろ、源順にしろ、その人となりが記憶によみがえってきて、なんとなく嬉しく、懐かしくなる。

 「画」では、佐竹本のほか、鎌倉~室町に定着する歌聖・人麻呂像、江戸初期に人間臭い歌仙図で人気を博した岩佐又兵衛(この人は大好き!)、さらに琳派の諸作品を見ることができる。

 めずらしく気に入ったのは、土佐光起・光成・光高の土佐派三代が描いた『人麿・伊勢・小町』の三幅対である(ふだん、土佐派はあまり好まないのに)。顔も姿勢も爺さんっぽい(でも血色はいい)人麻呂が、孫娘のような女房二人を左右に従えている。はじめ、右側の、着物の色が明るくて、より若やいだ雰囲気の女性が小町かと思ったが、よく見ると、左側のうつむき加減で大人びた女性が角盥(つのだらい)で草紙を洗っている。ということは左が小町か。どっちにしても、真ん中の人麻呂は、若い女性に挟まれて幸せそうである。

 歌仙たちは、もともと時代も身分も異なる人々だったから、古い歌仙図は、ひとりひとりを単独で描いていた。岩佐又兵衛には、三十六歌仙を2枚の屏風に分けて、18人ずつ描き込んだものがあるが、まだ歌仙どうしは、微妙な距離感を保っている。それが、伝光琳の画稿になると、歌仙たちは、出番を待つ大部屋の俳優みたいに肩を寄せ合い、目を見交わし、時にはしなだれかかって、とても楽しそうだ。鈴木其一の『三十六歌仙図』は、さらに狭い画面にぎゅうぎゅう詰めになり、あざやかな色彩が、祝祭気分を感じさせる。

 実際の彼らは(閲歴が判明している者たちは)中下級の官人が多くて、官位の上がらないことをいじいじと嘆き続けたり、世をはかなんで出家してしまったり、あまり幸せではなかったように思う。後世、こんな祝祭的なイメージに描かれていると知ったら、本人たちはびっくりするのではなかろうか。でも、こんなふうに古き世の詩人(歌人)に親しみ、尊崇した江戸文化というのは、ありがたいものである。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

晴れやかなお正月/山種美術館

2006-01-14 19:24:47 | 行ったもの(美術館・見仏)
○山種美術館『日本の四季―雪月花―』

http://www.yamatane-museum.or.jp/

 昨年暮れから始まっていた展覧会のはずだが、行ってみたら、富士山とか、干支の犬とか、新春ムードの作品が多い。上記のホームページをよく読んだら、年末に一部展示替えをして、「正月にふさわしい、『吉祥』の画題」を揃えたのだそうだ。なるほどね。

 しかし、いちばん印象に残ったのは、吉祥とはあまり関係のない作品だった。石田武の『月天心』。蕪村の俳句「月天心貧しき町を通りけり」に触発されて描いたものだというが、月光に照らされているのは、法隆寺の夢殿である。八角屋根の頂点に載った宝珠が、青い夜空に浮かんだ白い月と、静かに交信しているようだ。石田武氏は大正11(1922)年生まれ、これは、平成4(1992)年というから、70歳のときの作品である。ほかの芸術ジャンルに比べて、画家(特に日本画家)って、全般に長生きで、しかも晩年になっても創作力が衰えないのは何故なんだろう?

 それから、『松竹梅』の三幅対で、横山大観が「松」、川合玉堂が「竹」、川端龍子が「梅」を描いたものがある。それぞれ、隣の作品との調和を保ちながら目立とうとしている、その遠慮と自己主張の兼ね合いが絶妙で、面白かった。文学で言えば、連句みたいである。個人主義の徹底した西洋の絵画には、こういうのないだろうなあ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京・地霊に守られた町/アースダイバー(中沢新一)

2006-01-13 00:26:12 | 読んだもの(書籍)
○中沢新一『アースダイバー』 講談社 2005.5

 私は京王線の幡ヶ谷・笹塚周辺に住んでいる。表通りを歩いていると気づきにくいが、ちょっと小路を折れると、とんでもない急坂に出くわすことがある。このあたりは、台地と低地が入り組んで、坂の多い、複雑な地形を成しているのだ。

 年末年始、たまたま「2ちゃんねる」の「まちBBS」で「幡ヶ谷・笹塚 PART68」という、ご当地スレッドを読んでいたら、代々幡の火葬場・医療少年院・刑場などの話題から、神田川支流・玉川上水の低湿地について、興味深い投稿があって、「これらの低地に関しては、現在書店で販売されているアースダイバー(中沢新一著)という東京の元来の大地の姿を探る内容の本に付属されている地図ではっきり見ることができます」と書いてあった。興味をそそられて、すぐに書店に買いに走った。

 地質学者の研究によると、東京の地層は、「洪積層」(堅い土)と「沖積層」(砂地)で、できているそうだ。これら2つの地層の分布をていねいに追っていくと、縄文時代、東京はフィヨルドのように海と川が入り組んだ、複雑な地形だったことが分かる。古代人は、ミサキの突端に神を祀り、聖地とした。その記憶は、すっかり風景の変わった今日にも、何らかのかたちで保持されている。

 というわけで、著者は、縄文時代の東京再現地図を片手に、ママチャリで東京を経巡る。風景に対する鋭敏な嗅覚に加えて、文献上に残されたさまざまな伝説、著者独特の文明史的な視点が興味深い。たとえば、崖下の湧水で養殖されている金魚に、繰り返しを拒否する怪物的な生命を見出し(人々が反復する時間を生きていた前近代、怪物的な金魚が愛好された。明治になって、全てがめまぐるしく変化するようになると、自然は紋切り型のパターンで描かれるようになる)、砂州に出現した盛り場・浅草に歴史の無い「アメリカ」を発見し、まるで臨戦態勢のように「森」に隠れ棲む近代の天皇に思いを馳せる。

 四谷怪談のお岩が、実は幸福な武家の主婦であったこと、新宿の起源となった「中野長者」の伝説に大蛇と黄金が刻印されていること、小さな火の精霊「秋葉三尺坊」に守られた秋葉原、新宿歌舞伎町の名前の由来(新宿に歌舞伎座を誘致しようとした)、名古屋の「コーチン芸者」が新橋に住み着いたこと。語られるエピソードは、どれもこれも、果てしない空想をそそられる。別段、「愛・地球博」まで行かなくても、東京にだって、たくさんの地霊や精霊が住んでいるのだ(モリコロよりは、少しこわもてだけど)。

 ところで、本書の印象的なタイトルは、アメリカ先住民の神話から取られたものだという。一神教の天地創造神話では、神様は、まるでコンピュータ・プログラマーのように、天地を設計し、創造する。ところが、アメリカ先住民の神話では、はじめ、世界には陸地がなかった。勇敢な動物たちは、次々に水中に潜り、陸地の材料を探してくる困難な任務に挑んだ。とうとう一羽のカイツブリが水底にたどり着き、水かきの間に一握りの泥を掴んで浮かび上がることに成功した。

 著者は、この神話を「無意識」への遡行に喩える。東京という町は、大昔、「無意識」の底から引き上げられた泥が、あちこちに堆積している。東京を歩くことは「無意識」の痕跡を旅することだ。時には、我々もカイツブリになって、「無意識」から、一握りの泥を掴んで浮かび上がってこよう。そうやって作られる「世界」は、コンピュータプログラミングのように、スマートでも合理的でもないけれど、きっと心優しい姿をしているだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奇跡の古九谷復興/華麗なる吉田屋展

2006-01-12 00:13:32 | 行ったもの(美術館・見仏)
○松屋銀座店『古九谷浪漫-華麗なる吉田屋展』

http://www.city.kaga.ishikawa.jp/yoshidaya/main.html

 ちょうどこのブログを書き始めた頃から、私は焼き物の楽しみに目覚めた。試しに「古九谷」で検索してみたら、いちばん古い記事は、2004年9月、『古九谷―その謎にせまる―』という展覧会の見学記だった。本展と同じく、出光美術館の荒川正明さんが企画をされたものである。

 古九谷とは、江戸前期(17世紀)、九谷および有田で生産された色絵磁器のことを言う。その後、古九谷は徐々に変貌を遂げ、国内各地の色絵磁器の母胎となったが、五彩手や青手の古九谷は、長年、忘れられていた。ところが、加賀・大聖寺の豪商、豊田(吉田屋)伝右衛門は、文政7年(1824)、吉田屋窯を開き、120年の間、忘れられていた青手の古九谷を復興する。いま、2004年の出光美術館の展覧会図録を開けてみると、最終章に、この吉田屋窯のことが、短く取り上げられている。だから、吉田屋という名前は、初めて聞くものではなかった。

 しかし、吉田屋伝右衛門というのは不思議な人物だ。59歳で隠居、72歳のとき、九谷焼の再興を志して、私財を投じて吉田屋窯を開き、76歳で没。その4年後、吉田屋窯は10年にも満たない制作期間を閉じ、廃窯している。青手の釉薬の調合に成功した粟生屋源右衛門、絵師・鍋屋丈助など、天才的な職人との出会いがあったとは言え、72歳でこんな冒険的な事業を起こす活力と決断力を備えていたなんて、すごい!! 自画像を見ると、普通のおじさんなんだけど。こういう老後を過ごすんでなくちゃ、面白くないね。

 よく似た文様の古九谷と吉田屋の焼き物を並べると、やっぱり、古九谷のほうがいい、というのが、正直なところだ。しかし、吉田屋には、版本(画譜)に学んだ山水画や人物画というジャンルがあり、これが新鮮でいい。特に私は山水画が好きだ。青・黄・緑・紫という、独特の色調で描かれた山水楼閣図は、この世ならぬ夢幻の風景を出現させていて、どう見ても見飽きない。鍋屋丈助の描く人物画も魅力的だ。筆の運びが、瀟洒で、闊達で、ああ、文化文政期の絵だなあ~と感じる。

 白や染付の食器に慣れた現代人の目は、青手の古九谷って、ほんとに実用に耐えるのかしら?と疑いたくもなるが、実際に料理を盛って並べた写真があって、面白かった。また、会場には、古九谷の器を洋風にセッテイングしたテーブルも展示されていた。

 それにしても会場は大混雑。もう少し、すいた場内で、ゆっくり見たかったなー。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国民の公共圏/「キング」の時代(佐藤卓己)

2006-01-10 23:09:05 | 読んだもの(書籍)
○佐藤卓己『キングの時代:国民大衆雑誌の公共圏』 岩波書店 2002.9

 日本で初めて100万部を突破した伝説の国民雑誌「キング」の誕生から終刊までを追い、「雑誌王」とも「野間氏(ヤマシ)」とも呼ばれた野間清治と、講談社文化が、大正~昭和の「大衆社会」に果たした役割を検証する。

 私はもちろん「キング」を読んで育った世代ではない。しかし、私と同じ1960年世代の著者が「あとがき」に書いているとおり、「キング」の臆面のない英雄崇拝や熱血感涙調は、「高度経済成長期のテレビの雰囲気によく似ている」ように思える。先だって読んだばかりの永井荷風なら、徹底して嫌悪した、空疎で薄っぺらで、大衆動員的・大量消費的な「近代」の表象。しかし、私はその空疎な「近代」を嫌悪し切ることができない。心のどこかで、安息の匂い、甘い懐かしさを感じてしまう。

 大正13年(1924)12月、「大衆」の登場と、大量印刷時代の幕開けを背景に、大日本雄弁会講談社(講談社の前身)から創刊された雑誌「キング」は、総ルビを付した誌面、なりふりかまわぬ宣伝戦略で、女性、少年、労働者、農民、青年団、軍隊から、帝大生、旧制高校生まで、幅広い読者を獲得した。

 満州事変、日中戦争と続く国民総動員体制下にも、大衆雑誌の黄金時代は続いた。「雑誌報国」を掲げた講談社は、ファシズムに追随したとされるが、実際のところ、野間イズムに特定の政治的な普遍的価値は存在せず、時々の政権を支持しつつ、成功と繁栄と安定を求めるのが「キング」の信条であった。

 しかし、戦局の激化とともに、誌面はファナテッィクな天皇中心主義に覆われ、「おもしろくて為になる(実益娯楽)」を掲げた「キングの精神」は「玉砕」して終戦を迎える。戦後はテレビジョンの普及が、かつての国民雑誌に代わり、雑誌は細分化・習慣化が加速し、昭和32年(1957)「キング」は終刊となる。

 「キング」と講談社文化に対しては、さまざまな批判が存在する。最も単純な図式は、講談社文化=昭和ファシズムと戦争協力に対して、岩波文化=大正デモクラシーと市民社会を対置させるものだ。しかし、岩波がエリートをつくろうとする「教育文化」であるなら、講談社は、庶民のための「教育文化」である。両者は、立身出世主義において通底し、相互に補完しあっていたとも言える。

 デモクラシーは、自覚的な市民が公開の討論によって公論を形成していく「市民的公共性(圏)」を基盤している。しかし、この場合の「市民」とは、財産と教養を有する成人男子であり、女性、労働者、未成年という「大衆」はあらかじめ排除されている。だが、「大衆」も、公論に参加したいという要求を持っている。「キング」の人気を支えたのは、「財産と教養」を条件とした市民(=読書人)的公共性に対する大衆の反逆ではなかったか。「言語と国籍」を条件とする国民的公共性への参加(共感)要求ではなかったか。

 以上が、おおむね、本書の結論であるが、2006年現在の日本社会にも、そのまま重なるような気がした。ナショナリズムは、国籍さえあれば参加(共感)できる、垣根の低い公共圏である。だから、疎外されているという不満を抱く人々は、最終的にここ(大衆=国民的公論形成)に集まってくるのだ。そのとき、「財産と教養」という特権に支えられた市民的公共圏に、最後まで対抗を通すだけの力はあるのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小坪から富士山

2006-01-09 23:10:06 | なごみ写真帖
あ~あ、お正月の付録のような三連休も終わってしまいました。
好調に本が読めて、いい新年だったのにな~。

いや、いい加減、仕事モードでネジをまかないと...



初詣は昨日。今年も逗子の亀岡八幡宮と鎌倉の鶴岡八幡宮のつもりだったが、鎌倉は大混雑のため、”片参り”で帰ってきた。(また行かなくちゃ)
散歩途中の小坪から。富士山がかすかに見えていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2006博物館に初もうで(その2)/東京国立博物館

2006-01-08 21:59:02 | 行ったもの(美術館・見仏)
○東京国立博物館(本館) 特集陳列『江戸の見世物』

http://www.tnm.jp

 以前にもちょっと紹介したが、本館1階のウラ通りで行われている「日本の博物学シリーズ」の一連企画である。「文書(もんじょ)や書籍が中心、たまに絵図が混じるくらいの地味な展示」と書いたのは嘘ではないのだが、今回、いちばん端のガラスケースには、生首の模型らしきものが並んでいて、知らずに通りかかると、ぎょっとする。

 これは、明治時代、二代・三代安本亀八が作った「生人形(いきにんぎょう)」である。それぞれ、「明治時代少女」とか「徳川時代大名隠居」とかいうタイトルが付いていて、なるほどと思う。怖いほどリアルだが、現代のSFXのマスクが、人間の生命力に迫ろうとするのに対して、静かで沈鬱な表情が、人形っぽい。

 反対側のケースには、これに着物を着せて立たせた「徳川時代花見上臈」の生人形が飾られている。鼻と口の造作が小さいので古風な印象を与えるが、潤んだ瞳、ふっくらした頬は、なかなかの美人である。不思議な感じがした。江戸時代の女性といえば、すぐに浮世絵の「顔」を思い浮かべてしまうが、実際には、今の我々と、そんなに違う顔をしていたわけではない。そんな当たり前のことを思って、つくづく眺めた。

 文献資料では、「帝国博物館図書」の印を持つ『古番付貼込帳』が面白い。さまざまな興業広告を折本状に貼り合わせたものである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2006博物館に初もうで/東京国立博物館

2006-01-07 21:15:46 | 行ったもの(美術館・見仏)
○東京国立博物館(本館) 特集陳列『新春企画 博物館に初もうで』その他

http://www.tnm.jp

 遅ればせながら「博物館に初もうで」である。まず、新春特別展示『犬と吉祥の美術』から。毎年、干支にちなんだ美術品を集めて見せるこの企画を、私は楽しみにしている。しかし、サルやトリは、現実的な人間とのかかわりと、神話伝説上のシンボリックな面と、両方が楽しめたが、イヌという動物は、人間の生活に密着しすぎていて、あんまり飛躍がないなあ、と思った。

 それでも円山応挙の描く、むくむくした仔犬は、ほんとにかわいい。展示品『朝顔狗子図杉戸』は、東博の裏庭にある応挙館の杉戸絵(もとは愛知県にある明眼院の障壁画)だそうだ。応挙の「狗子図」は、よほど人気があったらしく、本人も何度も描いているし、さまざまな模倣者が出た。うまく応挙を真似たものもあるが、礒田湖龍斎筆『水仙に群狗』には笑ってしまった。下手なのだ。顔がきもちわるくて変。体つきも「むくむく」はしているけど、仔犬らしい弾力がなくて、しまりがない。でも、よく見ていたら、がきデカとか、ぼのぼのとか、相原コージのかってにシロクマとか、いろんなマンガのキャラクターたちが、一斉に頭の中に浮かんできた。彼ら、「むくむく」した四頭身キャラって、実は応挙の「狗子図」の、遠い末裔なのかもしれない!?

 第2室「吉祥」のコーナーでは、伊藤若冲の『松樹・梅花・孤鶴図』(もうちょっといい題名つけろよー)が見られる。両足を揃えて直立する鶴は「綿棒のよう」って書いてあるけど、箸の先にゆでたまごを刺したみたいである。

 その他では、熱田神宮の蓬莱鏡が印象に残った。神仙思想の影響が濃厚な、古代の銅鏡に比べると、室町時代のものは、図柄が淡白で「モダン」な感じがする。

 それから、平常陳列『日本美術の流れ』を、流して見てまわる。国宝室は、正月のご祝儀か、長谷川等伯の『松林図屏風』が出ている。作品については何も語らないでおくが、今回の会場は、なかなかいいと思う。『松林図屏風』だけを展示した個室、ぎりぎりに落とした照明、20人くらいの観客が、『松林図』をバックに黒い影となって、点々と立ちつくしている姿(もちろん後ろ姿。ときどき、無言で立ち位置を変えたりする)は、それ自体、美しい現代演劇の舞台のようで、しばらく入口の前で見惚れてしまった。

 絵巻ファンとして嬉しかったのは、『北野天神縁起絵巻』の関連品が出ていたこと。同『断簡』は、亡霊となった道真の吐き出した柘榴が、炎となって妻戸に燃え移るという怖いシーン。同じく断簡を2巻に貼り合わせた『甲巻』『乙巻』には、緋の袴、上半身は裸で、髪を振り乱し、天神の託宣を受ける文子(あやこ)が描かれている。これを表紙に使っていたのは、誰の本だったっけなあ~。正月早々、妖しい気分にひたれて、実によい。

■参考:昨年(2005年)の『博物館に初もうで』見学記
http://blog.goo.ne.jp/jchz/d/20050110
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする