○森達也『世界を信じるためのメソッド:ぼくらの時代のメディア・リテラシー』(よりみちパン!セ) 理論社 2006.12
「よりみちパン!セ」は、「中学生以上」を対象とする、ヤングアダルト新書。癖のある執筆者陣を揃えた、面白いシリーズである。私が読んだのは、小熊英二さんの『日本という国』だけだが、手抜きのない良書だった。その後も売れ続けているようで、嬉しい。
「メディア・リテラシー」とは、メディアを批判的に読み解く思考力を言う。日本でこの言葉が広まり出したのは、菅谷明子さんの同名の著書(岩波新書 2000)が刊行された頃だろうか。カナダやイギリスでは、1980年代後半から、「メディア・リテラシー」科目が公教育に取り入れられてきたということも、その頃、知った。なるほど、これは大切な能力だ、さすが欧米の公教育は進んでいる、と素直に感心したものだ。
日本の教育現場も対応を考えないとなあ、と他人事のように思っていたら、この5、6年で、なんだか大変なことになってしまった。問題は子どもの教育の範囲を遥かに超えてしまい、メディアに対する批判力のない大人が、うじゃうじゃ現われてきたのだ。30代、40代、いや50代、60代の大人に、もう少し「メディア・リテラシー」というものがあったなら、小泉政権のポピュリズム戦略に惑わされず、まともな政策論議や外交論議が行われていたのではなかろうか。
メディアは、なぜ、どうやって、嘘をつくのか。その「理由」や「手法」を分析的に学習することは大切だ。しかし、根本のところで必要なのは、メディアは人の作るものであること、そして、人には好き嫌いがあるし、人は間違えるし、人は嘘をつく(時には悪意で、時には善意で)という理解であると思う。
ヒトラーが宣伝相ゲッペルスに語ったとされる言葉(74頁、ただし本当にヒトラーがこのように語ったという確証はない)は、あまりに生々しく印象的だったので、以下に抜粋しておきたい。
青少年に、判断や批判力を与える必要はない。彼らには、自動車、オートバイ、美しいスター、刺激的な音楽、流行の服、そして仲間に対する競争意識だけを与えてやればよい...国家や社会、指導者を批判するものに対して、動物的な憎悪を抱かせるようにせよ。少数者や異端者は悪だと思いこませよ...みんなと同じように考えないものは、国家の敵だと思いこませるのだ。
しかし、このように、比較的「悪意」の明らかなメディア操作は、その意図を見抜きやすい。より大きな問題は、人は「善意」で嘘をついたり、間違えたりするという点だ。そうした「善意」のメディアが狙いを定めるのは、我々の心の中にある「悪い人が悪事を為す」という思い込みである。
オウムの信者も北朝鮮の工作員もアルカイダのテロリストも、我々と同じ喜怒哀楽を持つ、普通の人たちである(かもしれない)。しかし、我々はそれを認めたがらない。それを認めることは、「自分の中にも悪事を為す何かが潜んでいると認めることになる」からだ。ここで、著者の語るメディア・リテラシーは、プラグマティックな技術論から、哲学の問題に転化する。それは、たぶん正しい。「メディアは人である」なら、メディアを批判的に捉える能力とは、結局、(自分を含めた)人間の本性を批判的に捉える力なのではないかと思う。
私が、本書をこのように読み解いてしまうのは、森達也さんと姜尚中氏との共著『戦争の世紀を超えて』(講談社 2004)に影響されているところが大きいかもしれないけど。
「よりみちパン!セ」は、「中学生以上」を対象とする、ヤングアダルト新書。癖のある執筆者陣を揃えた、面白いシリーズである。私が読んだのは、小熊英二さんの『日本という国』だけだが、手抜きのない良書だった。その後も売れ続けているようで、嬉しい。
「メディア・リテラシー」とは、メディアを批判的に読み解く思考力を言う。日本でこの言葉が広まり出したのは、菅谷明子さんの同名の著書(岩波新書 2000)が刊行された頃だろうか。カナダやイギリスでは、1980年代後半から、「メディア・リテラシー」科目が公教育に取り入れられてきたということも、その頃、知った。なるほど、これは大切な能力だ、さすが欧米の公教育は進んでいる、と素直に感心したものだ。
日本の教育現場も対応を考えないとなあ、と他人事のように思っていたら、この5、6年で、なんだか大変なことになってしまった。問題は子どもの教育の範囲を遥かに超えてしまい、メディアに対する批判力のない大人が、うじゃうじゃ現われてきたのだ。30代、40代、いや50代、60代の大人に、もう少し「メディア・リテラシー」というものがあったなら、小泉政権のポピュリズム戦略に惑わされず、まともな政策論議や外交論議が行われていたのではなかろうか。
メディアは、なぜ、どうやって、嘘をつくのか。その「理由」や「手法」を分析的に学習することは大切だ。しかし、根本のところで必要なのは、メディアは人の作るものであること、そして、人には好き嫌いがあるし、人は間違えるし、人は嘘をつく(時には悪意で、時には善意で)という理解であると思う。
ヒトラーが宣伝相ゲッペルスに語ったとされる言葉(74頁、ただし本当にヒトラーがこのように語ったという確証はない)は、あまりに生々しく印象的だったので、以下に抜粋しておきたい。
青少年に、判断や批判力を与える必要はない。彼らには、自動車、オートバイ、美しいスター、刺激的な音楽、流行の服、そして仲間に対する競争意識だけを与えてやればよい...国家や社会、指導者を批判するものに対して、動物的な憎悪を抱かせるようにせよ。少数者や異端者は悪だと思いこませよ...みんなと同じように考えないものは、国家の敵だと思いこませるのだ。
しかし、このように、比較的「悪意」の明らかなメディア操作は、その意図を見抜きやすい。より大きな問題は、人は「善意」で嘘をついたり、間違えたりするという点だ。そうした「善意」のメディアが狙いを定めるのは、我々の心の中にある「悪い人が悪事を為す」という思い込みである。
オウムの信者も北朝鮮の工作員もアルカイダのテロリストも、我々と同じ喜怒哀楽を持つ、普通の人たちである(かもしれない)。しかし、我々はそれを認めたがらない。それを認めることは、「自分の中にも悪事を為す何かが潜んでいると認めることになる」からだ。ここで、著者の語るメディア・リテラシーは、プラグマティックな技術論から、哲学の問題に転化する。それは、たぶん正しい。「メディアは人である」なら、メディアを批判的に捉える能力とは、結局、(自分を含めた)人間の本性を批判的に捉える力なのではないかと思う。
私が、本書をこのように読み解いてしまうのは、森達也さんと姜尚中氏との共著『戦争の世紀を超えて』(講談社 2004)に影響されているところが大きいかもしれないけど。