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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

ふんわり、じわじわ/パンの漫画(堀道広)

2015-01-15 21:51:08 | 読んだもの(書籍)
○堀道広『パンの漫画』 ガイドワークス 2014.6

 「パンにまつわるものごと」を焼き上げた、だいたいふんわりと、時々ハードなパンのような漫画集、というのが、本書のオビ(というか、表紙の一部)に印刷されたコピーである。正月に帰省した折、吉祥寺のパルコブックセンターで見つけて、軽い気持ちで立ち読みしたら、じわじわ愛おしくなって買ってしまい、札幌に持ち帰った。札幌の書店でも売っていたかなあ。あまり記憶にない。

 やっぱり、こういうヘンな本が目につくのは、パルコブックセンターみたいなヘンな書店(褒めている)ならでは。と思って、ネットで検索してみたら、昨年6月、吉祥寺パルコブックセンターで、著者が「パンの漫画」の発刊記念イベントをやっていた。会場のお客さんにお題をもらっての「即興漫画ライブ」が可笑しい。爆笑ではないが、くすっと笑って、じわじわ来るタイプ。本書の中身もだいたいこんな感じである。

 基本は4コマ漫画で、たびたび登場するキャラクターが何人かいる。たとえば、著者がモデル?と思われるパン好きの漫画家とその奥さん。パンは好きだけど、クロワッサンが上手に切れないほど不器用で、外国語のパンの名前は苦手だし、量り売りの高級なパン屋さんでは値段を気にしてドキドキする。そのいじましさが微笑ましい。私は、見た目ハードボイルドなパン好きの警部(相棒は中町刑事)が好き。

 漫画の余白に書き込まれたコメント(パンの研究所「パンラボ」の池田浩明さんが書いているらしい)もかなり好きだ。ノリ突っ込みのようなコメントもあれば、写真入りで実在のパン屋や商品を紹介しているものもある。すごく気になった豆知識をひとつ紹介すると「静岡県西部では葬式の香典返しとして『お平パン』を出す」。本当でしょうか。興味深い。
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東京に山あり谷あり/地形で読み解く鉄道路線の謎:首都圏編(竹内正浩)

2015-01-14 22:02:03 | 読んだもの(書籍)
○竹内正浩『地形で読み解く鉄道路線の謎:首都圏編』 JTBパブリッシング 2015.1

 首都圏には、さまざまな鉄道路線が走っている。地図で見ると、最短距離を直線で結ぶ路線もあれば、でこぼこと曲がりくねった路線もあり、不自然な急カーブを描くものもある。鉄道のルートが、どうやって決まるかと言えば、もちろん用地の確保(買収)や政治的判断が働く場合もあるが、創生期の鉄道は、何よりも「地形」に左右された。

 明治の鉄道は、ほぼ水平地でなければ敷設できず(角度にして2度が限界)、隧道・橋梁の建設も、技術的・予算的制約から、可能な限り、避けなければならなかった。そのことを念頭に置いて、首都圏の標高地形図に落とし込まれた鉄道路線図を見ると、なるほど!と膝を打つところが多い。以前、今尾恵介さんの『東京凸凹地形案内』で、主要道路と地形の関係を知ったときも同じことを思ったが、本書はその鉄道版である。上野から北上する京浜東北線(旧・日本鉄道線)は、西側の(山の手)台地と東側の低地の境目をきれいにトレースして走っている。これは「崕雪頽(がけなだれ)」と呼ばれる急斜面が入会地(共有地)になっていて、買収が容易であったためでもある。

 逆に、地形に逆らった路線には、いろいろ苦労があったようだ。品川から渋谷・新宿を経て北上する、現在の山手線「山線」ルート(旧・品川線)は、五反田から目黒にかけての急勾配を平坦化するため、途中に隧道を開削した。池袋~田端ルート(旧・豊島線)にも勾配を緩和する切通しや短いトンネル(道灌山隧道)が設けられた。トンネルに勾配を緩和する目的があるって、考えたことがなかったなあ。渋谷は急坂に囲まれた谷底駅で、かつては市電を通すことができなかったという。へえ~。

 鉄道開業当時、芝浦~品川は、海岸線の先に築堤を建設して軌道を敷設したというのは、どこかで聞いたことがあるかもしれないが、当時の地図がリアルにその状況を表現していて、面白かった。海岸線と築堤の間に船溜まりの掘割が残っている。まあ、引き潮のときは広大な砂浜になったらしいけど。そして、現在の地図(空撮写真)でも、品川駅の東側って、造成されたとはいえ、かつては海だったんだなあということがよく分かる。京成電鉄の日暮里~上野間(地下路線)が、地表からわずか3メートル余り、交通を遮断してはならないとか、公園樹木を傷つけてはならないとか、厳しい条件をクリアして開通を果たしたというのも好きなエピソードで、今度、京成線に乗るときは、感慨にふけるとしよう。

 私は、東京東部の総武線沿線で生まれ、西部の京王線沿線に引っ越し、一時、埼玉県の東上線沿線や神奈川県の横須賀線沿線に住んでいたこともある。だから、本書に登場する鉄道路線には、かなりの頻度でなじみがあった。小田急線が代々木八幡で描く大カーブとか、軍部の主導で無理やり敷設された横須賀線とか、まぶたに思い浮かんで懐かしかった。

 その中で、幼少時代になじんだ風景でありながら、これまで、ほとんど考えたことがなかったのは、荒川放水路の存在である。東京東部は、江戸時代から洪水の頻発地帯で、利根川・荒川水系の治水は、江戸幕府最大の土木事業だった。明治、大正になっても水害は減らず、明治44年、荒川放水路建設が決まり、大正2年に着工、昭和5年に完了する。本書には、明治42年と昭和12年の地図が掲載されているが、地形の変わりっぷりがすごい。立ち退き家屋は1300戸(面積のわりには少ない気がする)。工事で分断される常磐線・総武本線・東武鉄道・京成電気軌道は、ルートの変更を余儀なくされた。一方、道路には不自然な分断の痕跡が今も残っている。私は荒川放水路が貫く江戸川区で、二十歳過ぎまで育ったのだが、初めて聞く話ばかりだった。だいたい「江戸・東京の歴史」を語る本も、残念ながら、荒川の東側は眼中に入っていないことが多い。参考文献にあがっている絹田幸恵著『荒川放水路物語』を読んでみたい。
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初春は雅楽から/伶楽舎・雅楽コンサート

2015-01-13 21:26:59 | 行ったもの2(講演・公演)
札幌コンサートホール(Kitara)主催 『ニューイヤーコンサート 雅楽』(1月12日、14:00~)(出演:伶楽舎

 中島公園にある札幌コンサートホール「Kitara」まで、雪を踏み分けて、雅楽コンサートを聴きに行った。演目は、第1部が管弦「双調音取(そうじょうのねとり)」「入破(じゅは)」「胡飲酒破(こんじゅのは)」、舞楽「五常楽急(ごしょうらくのきゅう)」。第2部が、敦煌琵琶譜による復曲で「琵琶独奏(傾杯楽より)」「急胡相聞(きゅうこそうもん)」「風香調調子(ふうこうちょうちょうし)」「傾杯楽(けいはいらく)」「伊州(いしゅう)」「急曲子(きゅうきょくし)」。

 冒頭の管弦は、舞台上に11名の楽人。前列が、右から鞨鼓、太鼓、鉦鼓。中列が、琵琶、筝。後列が、笙、篳篥、龍笛(各2名)の編成だった。私は、舞台の真横にあたる2階席で、打楽器のみなさんの手元を覗き込むような位置だったのが面白かった。特に太鼓は、ふだん正面からだと演奏者の姿がほとんど見えないので、なるほど右手の撥は太鼓の中心を強く打ち、左手の撥は太鼓の端を弱く打つのか、というようなことが初めて分かった。

 曲の合間に、鞨鼓の演奏者の宮丸直子さんが、楽器や楽曲について解説をしてくれた。今年の演目の「双調」は、双調(ソ)を主音とする音階で、陰陽五行説では、季節は春、方角は東を表すとのこと。毎年、新春コンサートは「双調」の曲を選ぶのかと思ったら、そういうわけではなく、順繰りに変えるので、今年は非常にいい巡りあわせなのだそうだ。あ、橋本治の『双調平家物語』も「春」の意味を込めていたのだろうか?

 舞楽は「五常楽」より序破急の「急」。左方舞で二人の舞人が舞った。品のいい薄紫色の蛮絵装束。両袖、胸、前垂、背中などに向かい獅子が描かれている(位置によって、色が異なる)。冠は巻纓に緌(おいかけ)で、武官らしい雄々しさが際立つ。蛮絵装束というのも、衛府の官人の制服「蛮絵袍」から来ているのだそうだ。ワイルド系の若い男子を愛でるのに格好の舞である。

 第2部は、国立劇場が長年にわたって復元した正倉院楽器のための合奏曲として、芝祐靖氏が敦煌琵琶譜から復元した作品を演奏。横笛、 阮咸、磁鼓、方響、排簫、竽(う)、大篳篥など、珍しい楽器がたくさん登場した。平等院鳳凰堂の飛天が演奏していた楽器だなあ、と思い出すものもあり、「正倉院には美しい絵の描かれたものが残っています」(阮咸)とか「バラバラのパーツしか残っていません」(排簫)等の解説も、毎年行っている正倉院展の記憶がよみがえって面白かった。

 どの曲も唐代のインターナショナルな賑わいを思わせて楽しかったが、琵琶独奏がいちばん気に入った。「琵琶」という楽器の存在を知った当時は、ギターのように変化に富んだメロディが奏でられるものと思っていたので、初めて演奏を聴いたときは、あまりにぶっきらぼうで、音を叩きつけるだけなので、少しがっかりしてしまった。けれど、聞き馴れるにつれて、だんだん、その孤高の響きに魅せられるようになってきた。とことん歌う楽器もいいけれど、歌いすぎない楽器もいい。やっぱり明石の上ですね。白居易の「琵琶行」の悲哀も、琵琶でなければなりません。
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古びない認識/支那論(内藤湖南)

2015-01-12 01:12:12 | 読んだもの(書籍)
○内藤湖南『支那論』(文春学藝ライブラリー) 文藝春秋 2013.10

 内藤湖南(1866-1934)は、ジャーナリストから京都帝国大学教授に転身した東洋史学者で、私の大好きな大学者のひとりである。本書は『支那論』と『新支那論』の二編から成る。大正3(1914)年に刊行された『支那論』は、当時の激動する支那(中国)情勢に対し、上古以来の歴史を踏まえ、政治制度、領土・外交、地方自治、財政など、多角的な分析を試みたもの。連続講演をもとにしているので、論の立て方に精密でないところもあるが、素人にも読みやすく、頭に入りやすい。この「付録」として、明治44(1911)~大正2(1913)年に行われた講演(つまり、時期的には『支那論』に先んずる)の速記録が数編、収められている。次に『新支那論』は大正13(1924)年刊行。冒頭に「去年の支那の排日問題は頗る激烈で」とあり、日本と支那の両国関係にかかわる発言が多い。

 いま読んでも非常に面白い『支那論』であるが、現代の読者のためには、はじめに少しでも当時の支那情勢の解説があるほうがよかったと思う。本書と並行する支那情勢は以下のとおりで、まさに大変動の時代であった。『支那論』付録の講演には和暦の講演年月しか付記されていないので、明治44年って西暦何年?支那の事変って?あ、辛亥革命?!でもまだ清朝は滅亡していないのか?など、いろいろ混乱し、悩みながら読んだ。

1911年10月 武昌起義、辛亥革命の幕開け
1912年1月 中華民国成立、孫文が臨時大総統に就任
1912年2月 宣統帝退位(清朝滅亡)、袁世凱が第二代臨時大総統に就任
1914年6月 第一次世界大戦勃発
1915年1月 日本、袁世凱政権に21ヶ条の要求
1916年6月 袁世凱死去
1919年5月 五四運動
1919年10月 孫文、中国国民党結成
1921年7月 毛沢東ら、中国共産党結成
1924年1月 第一次国共合作

 著者は『支那論』の序文で「この書は支那人に代わって支那のために考えた」と述べている。この発言は、歴史学者としての該博な知識を裏付けとしているが、著者は支那のいいところも悪いところも冷徹に見定め、一切の理想化を排し、むしろ列国が支那を甘やかすことの弊害をとがめている。たとえば『支那論』では政治上の徳義を論じ、「今日の支那は、列国に甘やかされておるので、正義の観念も発達せず、したがって共和政体の成功も危ぶまれる」という。具体的には、共和国(民主主義)の根本義に反して、国会を閉鎖したり、議員を捕縛したりする行為があったときは、列国はこれを指導する(内政干渉である)義務がある、というのである。

 これは、支那だけを劣等国扱いした批判ではない。著者は日本の政治状況にも、同様に厳しい目を向ける。欧米諸国のように立憲政治、民主主義で訓練された人民および政治家は「軽々しく歴史ある主義方針を変えるようなことはせぬだけの徳義をもっておるけれど(支那はもちろん)日本でもまだ国民にこの訓練が深くないという原因からして、しばしば政策が機会主義に陥る傾きがある」。何か、いまの日本の政治に対する批判を読んでいるような気がした。

 著者は、機会主義者の袁世凱が嫌いで、一時代前の李鴻章や曽国藩、張之洞を評価している。彼らは根本において真面目に国の改革を志していた。今日の(というのは『新支那論』の時代)支那政治家は、政治を「競技」(勝ち負けのある遊びごと)同然に心得ているという。この批判も、いまの日本にそのまま通じそうで、耳が痛い。著者が繰り返し賞揚しているのは李鴻章で、同国人の非難を浴びても、なすべきことをなした胆力を高く評価している。日本の政治家では伊藤博文。伊藤公は「政治上の徳義として、一旦立てた方針を枉げるべきものではないということについては、確かな信念のあった人」と評されている。李鴻章ファンで伊藤公ファンである私としては、とても嬉しい。

 中国が、意外と「輿論=評判」重視の国であることや、一種の地方自治が発達していることから、これを基礎にした立憲制度が育っていくのではないか、というのは納得のいく分析であった。黄宗羲(1610-1695)の『明夷待訪録』というのは面白いな。中国にもこういう先駆的・萌芽的な民主主義の思想があったと初めて知った。

 あと東洋文化の中心が支那から日本に移りつつある(ように見える)ことについて、古来、支那においては、一地域で文化が開け、爛熟して衰えると、別の未開発地域に文化の中心が移動することが繰り返されてきたのだから、「もし何らかの事情で、日本が支那と政治上一つの国家を形成していたならば、日本に文化の中心が移って、日本人が支那の政治上社会上に活躍しても、支那人は格別不思議な現象としては見ないはずなのである」という指摘には、にやにやしてしまった。日本のナショナリストは怒るだろうけど、本来の中華思想とはそういうものだと思う。

 本書を読んで、この時代を扱った中華ドラマ『走向共和』が久しぶりに見たくなり、Youtubeで初回を見てしまった。全部(59話)ネットに上がっているか分からないが、続きを探しながら、見られるところまで見てみよう。
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東京の味/立ち食いそば図鑑(マイウェイ出版)

2015-01-09 22:05:37 | 読んだもの(書籍)
○本橋隆司企画編集『立ち食いそば図鑑:ディープ東京編』(Myway Mook) マイウェイ出版 2014.12

 年末に東京に帰省して、神保町の書店街をぶらぶらしているときに見つけた。何もこんな本を東京で買わなくても…と思いながら買ってしまった。札幌で暮らし始めて、1年9ヶ月になるが、なかなか美味しいと思えるそば屋に巡り合わない。そばは北海道の特産品のひとつだから、もちろん名店はあるのだろうけど、お店を選んでそばを食べに行くなんで、江戸っ子の性に合わない。手近のお店でさっと食べて、美味しかったらまた行くけど、何度通っても店の名前なんて覚えてない、っていうくらいがちょうどいいと思う。

 それと、私が好きなのは、東京そばの「そばつゆ」の味なのだ。そばの挽き方・打ち方にこだわりはない。安くて早い、機械打ちで十分である。本書の写真を眺めると、東京のそばは、どこでも醤油そのものみたいな濃い色のつゆに浸かっている。そばの上には揚げ物。普通に座って食べるそば屋では、山菜とか鴨南蛮とかのメニューもいいが、立ち食いそばには、やっぱり掻き揚げだろう。5分かそこらでお腹がいっぱいになって、ちゃんとしばらく腹持ちがする。…という私の嗜好を狙い撃ちするような写真が、本書の表紙を飾っている。高円寺の「江戸丸」の掻き揚げそばらしい。眺めているだけで、狂おしいほど、唾が湧いてくる。山田順子さんも『江戸グルメ誕生』に書いていたが、「甘くてしょっぱい」は、江戸っ子のソウルフードならぬソウルテイストなのだ。そして、出汁はカツオに限る。

 本書には40軒の立ち食いそば屋(椅子席のある店もあるが、基本はカウンター)が紹介されている。私が入ったことがあるのは2軒だけだった(お茶の水と府中)。前にも書いたように、わざわざお店を探して、立ち食いそばを食べに行くことはしないが、比較的行くことの多いエリアのお店は、記憶の隅にとどめておこう。

 ああ、それにしても、そばのことを考えると、強い東京ホームシックになる…。
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一兆円敷地総掘り計画/雑誌・なごみ「探検!東京国立博物館」

2015-01-08 21:41:20 | 読んだもの(書籍)
○雑誌『なごみ』2014年10月号「大特集・藤森照信×山口晃と行く 探検!東京国立博物館」 淡交社 2014.10

 東京国立博物館の『博物館に初もうで』を見に行ったついでに、ミュージアムショップの書籍コーナーをひやかしていて、この雑誌を見つけた。ああ、アレだ、『日本建築集中講義』(淡交社、2013)というタイトルで、既に単行本が1冊出ているシリーズだということは、すぐに了解した。待っていれば、やがて次の単行本が出るんだろうなあ、と思いながら、買ってしまった。

 実は、この号で二人が見てまわるのは建築だけではない。まず、冒頭から40ページ以上が「美術編」で、茶室「転合庵」で、学芸企画部長・伊藤嘉章さんを亭主役に、館蔵の茶道具を見せてもらう。展示ケース、照明デザイン、保存修復の専門家の話を聞き、館長室、副館長室も訪問する。

 さらに後半に10ページほど「建築編」があって、本館と表慶館を中心に見どころを紹介。私は、2009年に藤森先生が語る『上野の博物館・美術館建築について』という講演会を聞いたことがあるので、懐かしく思い出しながら読んだ。そうそう、平成館は「見るべきところなし」とアッサリ切っていたなあ。山口さんもイラストエッセイで「この建物をホメている人を見たことがない」「入口ホールの『ホテルの宴会場』っぽさがいけないのかなあ…」と、さりげなくキツイことをおっしゃっている。東洋館に対する「ミドル昭和なニクい造り!」というのも言い得て妙。

 それにしても、この「建築編」の写真は美しい! 写っているのがオジサン二人なのが残念なくらい。記事のキャプション、「撮影 川本聖哉」のお名前を書きとめておこう。表慶館入口の階段に、長大な一本石が使われているというのは、気づいたことがなかった。

 「美術編」には、二人が選んだ「勝手にトーハクセレクション20選」という記事もある。藤森先生のセレクションは「乱暴力」があふれていて、実にいいなー。『茶糸威野郎頭形兜(ちゃいとおどしやろうがしらなりかぶと)』は、昨秋、東博で見た見た。「ねじりはちまきで戦場に行くって『お祭りじゃないんだから』って(笑)」っていうコメントが最高。『古染付笹蟹文砂金袋花入(こそめつけささがにもんさきんぶくろはないれ)』の「竹に登る蟹を誰かが見ているっていう、訳の分からない図柄が大胆だよねえ」にも、よく言ってくれました!と共感しながら笑った。山口晃さんは、『青磁輪花碗 銘・馬蝗絆』とか、伝・毛松筆『猿図』など、正統派。この性格の違いが、鑑賞の合間に東博のソファで休息する二人の姿勢(39頁)にそのまま反映しているようで可笑しい。

 いま、東博の館長は、元文部科学事務次官の銭谷真美氏で、副館長は島谷弘幸氏なんだな。銭谷さんには何の恨みもないが、やっぱり日本を代表する博物館の長は、博物館学(運営あるいは資料学)の専門家であってほしいと私は思う。

 藤森先生いわく、土器や土偶に始まる五千年の日本美術を一望するには、今の展示面積では、圧倒的に足りない。今の面積の最低五倍は必要だろう。いや、これは大風呂敷に聞こえるかもしれないけど、中国の省級博物館には(感覚的に)そのくらいの規模のものがある。一兆円あれば敷地を総掘りして、ルーブルに対抗して、西洋美術に対抗する東洋美術の展示ができるんじゃないか。未来に責任を果たす、いい提案だ。一時しのぎの「クールジャパン」戦略より、こっちのほうがずっと投資価値があると思うなあ。
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今年はヒツジ年/2015博物館に初もうで(東京国立博物館)

2015-01-08 00:05:13 | 行ったもの(美術館・見仏)
 今年も1月2日に東京国立博物館の吉例『博物館に初もうで』に出かけた。ホームページによると、今年で12年目。「申」から始まった干支も今年の「未」でひと回りしたそうだ。もちろん私は12年間、皆勤である。参観者は年々増えているのではないかと思う。年間を通じて、本館(平常展)にいちばん人が多いのは、正月松の内ではないかな。

■本館・特別1室 『博物館に初もうで~ひつじと吉祥~』(2015年1月2日~1月12日)

 12年目でようやく出番のまわってきたヒツジ。洋の東西を問わず、人類とかかわりが深く、「吉祥」イメージとの結びつきも強い。でもヤギとヒツジって、あまり区別されていなかったような気がする。

 ヒツジと関係ないが、これは!と思ったのは、中国・元代の『寿星図』。あまり同館で見た記憶がない。曲がった杖、黒い帽子、地味な濃茶色の衣の、鼻の大きい(でも胡人ではない?)長髯の男性が描かれている。隣りに、伝・雪舟筆『梅下寿老図』が並んでいて、こちらは髭や眉の白い老人の姿に置き換えられているものの、中国絵画の『寿星図』を本にしたことが明らかであった。

■本館 新春特別公開(2014年1月2日~1月13日)など

 11室(彫刻)は、吉祥天・弁財天・毘沙門天など、天部の彫刻が揃って、それとなく目出度さを演出。文化庁所蔵の大黒天立像(室町時代・快兼作)がめずらしかった。まるまるした顔と体型、大きな袋に打ち出の小槌。ほぼ近世の「福神」の要素を備えながら、どこか「武人」の威圧感を残している。もとはセゾン美術館が所有していたものらしい。

 12室(漆工)は、栃木・輪王寺蔵『住江蒔絵手箱』に見とれた。蒔絵と言っても、金銀を使わない(目立たない)漆工が好き。赤い鳥居が可愛らしかった。18室(近代の美術)は、従来、絵画と彫刻だけだったのが、最近、工芸(木工・金工・陶芸等)も置かれるようになって、面白いと思っていたら、今回は書道作品も混じるようになった。何でもありなところが、日本の近代の曙っぽい。島崎柳塢筆『美音』が、古い日本の家族の姿を伝えていた。

 2階へ。1室(日本美術のあけぼの-縄文・弥生・古墳)は、埴輪『猪』(大阪府藤井寺市出土、大阪府立近つ飛鳥博物館蔵)が目立っていたが、なぜヒツジ年にイノシシ? 2室(国宝室)は『松林図屏風』で、例によって大混雑だったので、流し見で通り抜け。3室(宮廷の美術-平安~室町)は「『源氏物語』の美術」の特集だったのか。室町時代の『源氏物語図扇面』6種が珍しかった。

 7室(屏風と襖絵-安土桃山~江戸)はよかったなあ。狩野永祥筆『雪景山水図屏風』と伊藤若冲筆『松梅群鶏図屏風』と池大雅筆『西湖春景銭塘観潮図屏風』という、個性的な3点。特に永祥(1810-1886)と大雅の、風景の「掴み取り方」の自由さに興奮した。

■東洋館・8室 『中国の絵画 吉祥のかたち』(2015年1月2日~1月25日)

 東洋館(アジアギャラリー)はいつものように8室(中国の絵画と書跡)から。清末、広東を中心に、西洋への輸出やお土産用に作られた「トレードペインティング」(貿易絵画)が面白かった。確か、長崎や江戸にも同様の絵画があるはず。風景がきっちり描かれている割には生気が感じられない(人間を描くことに関心が薄い)ものが多く、どこか幻想絵画の趣きがあって引かれる。「貿易港の賑わいを描いた華やかな本作も正月にふさわしく」という解説は、ややこじつけ気味。

 書跡は、米芾(べいふつ)の臨書の軸を見つけて、上手いなあ、筆者は誰?とよく見たら、康熙帝だったので笑ってしまった。料紙も上々で、華やか。隣りに「どうだ巧いだろう」と言いたげな乾隆帝の書もあった。おめでたくて、何より。この二人の書、欲しいなあ。
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日本とイスラエル/こんにちは、ユダヤ人です(ロジャー・パルバース、四方田犬彦)

2015-01-07 21:14:18 | 読んだもの(書籍)
○ロジャー・パルバース、四方田犬彦『こんにちは、ユダヤ人です』(河出ブックス) 河出書房新社 2014.10

 私がユダヤ人について知っていることはきわめて少ないが、四方田犬彦さんがイスラエル滞在について書いた本(『心は転がる石のように』2004)が面白かったことを思い出して、本書を読んでみることにした。第1章はユダヤ人(アメリカ生まれ、オーストラリア国籍、日本在住歴50年)のパルバースさんの家族史。第2章は、イスラエル国家の歴史。第3章は、ハリウッドのユダヤ人を中心に。第4章は、三人のユダヤ人、マルクス、シェーンベルグ、フロイトについて語る。

 ユダヤ人とイスラエルについて、実にたくさんのことを学んだので、第2章を中心に、時系列順に整理しておく。まず国家を持たなかった、したがって他の国に侵入して暴力をふるうことはなかった二千年のユダヤ人の歴史があり、オスマン帝国(文中ではオットマン帝国)のもと、ユダヤ人もアラブ人も仲良く一緒に暮らしていた時代があった。19世紀の民族主義のひとつとして、政治的シオニズムが起こり、最初はウガンダに建国予定で(!)ブラジルやアルゼンチンも候補だった。西洋的・無神論的なシオニズムの信奉者は、古臭いユダヤ教を嫌っていたのに、最後は「しかたなく」「偶然」パレスチナに建国することになった(ああ、なんという不幸な巡りあわせ)。

 イスラエルは、ユダヤ教の伝統を断ち切り、完全な世俗国家として誕生した。それゆえ、ユダヤ教徒はイスラエルを悪魔の発明と考えている(ううむ、ユダヤ人=イスラエル人が等号では結べないことは、なんとなく理解していたけど、そこまで深い文化的断絶があるとは知らなかった)。不自然な建国ゆえに、1948年からずっと戦争状態を続けてきたイスラエルでは、「フッパ」(厚かましい、荒っぽい、恥知らず)な性格が増幅されていく。ユダヤ人は、世界の歴史における一番の犠牲者であったのだから、こうして強い国家をつくらなければならない、という考え方が、1960年頃から強まる。被害者意識とセットになった、強さへの願望。今の日本社会にも似ている。

 四方田さんは、イスラエルと日本の相似点を、以下のように語る。両国はユーラシア大陸の極西と極東にるアメリカの同盟国で、周りの国々から嫌われて孤立している。両国とも国内に民族差別がある。イスラエル国内には「イスラエルアラブ」と呼ばれる人々が住んでいるが、子供のときからヘブライ語を教えられ、さまざまなハラスメントにさらされ、教育上でも言語の上でも公然と差別が行われている。彼らの存在は、日本における在日韓国人とよく似ている。

 80年代になると、イスラエルのユダヤ人は少子化が進行し、兵役を終えた若者は海外に出て行って、イスラエルに戻ってこない。イスラエルという国は、もうユダヤ人国家として成り立たなくなってしまうという説もあるほど。近年、中国人、タイ人など、アジア系の労働力が大量に流入しているという(へえ~思ってもみなかった)。

 本書は対談本なので、以上のような話題は、全くランダムに現れる。パルバースさんの家族や血縁者、四方田さんがイスラエルで会った学生、あるいはアメリカの映画俳優やコメディアンなど、どれも具体的な人物の顔を伴って、生々しい語りが続く。そして、他の国でありながら、日本との類似性に、考えさせられる点が多い。

 第2章に述べられた、イスラエル国の現状は、げんなりするものだった。パルバースさんが「それは非ユダヤ的です」という気持ちは分かる。私が、いまの日本の反知性的で不寛容な人々(彼らは自分たちこそが「日本」だと思っている)を見ていて「それは非日本的だ」とつぶやきたくなるようなものだろう。

 パルバースさんは、「ユダヤ人」とは、ひとことで言うならアウトサイダー(異邦人)だという。弱者、社会に適応しない人、大変な目に遭っている人たちの悔しさ、悩みを皆に語ろうとする者。自分の苦しみのプリズムを通して、相手の悲しみを考える者。「いつまでも自己憐憫の気持ちになって、一番ひどい目に遭ったのは自分だと言い続けるのは、ぼくは逆にユダヤ人じゃないと思います」というのはいい言葉だ。残念ながら、日本人のマジョリティに、こういう資質はないな。でも、井上ひさしや宮沢賢治が、かなりユダヤ的だという指摘には共感した。
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史料研究者のとっておき/日本史の森をゆく(東京大学史料編纂所)

2015-01-06 00:10:38 | 読んだもの(書籍)
○東京大学史料編纂所編『日本史の森をゆく:史料が語るとっておきの42話』(中公新書) 中央公論新社 2014.12

 東京大学には、学部・研究科(大学院)のほかに「附置研究所」と呼ばれる組織がある。史料編纂所は「研究所」と名乗ってこそいないけれど、この「附置研究所」のひとつである。というより、書店あるいは歴史好きの人間の印象で言えば、『大日本史料』『大日本古記録』という史料集を営々と(←この古めかしい形容詞がぴったり!)編纂し、刊行し続けている組織である。

 本書は、史料編纂所に所属する42名の研究者が、それぞれの専門分野から、とっておきのトピックについて執筆した短編エッセイ(5ページ)のアンソロジーである。どこからお読みいただいても結構、というのが、所長の久留島典子先生のお言葉であるが、内容は「文書を読む、ということ」「海を越えて」「雲の上にも諸事ありき」「武芸ばかりが道にはあらず」「村の声、町の声を聞く」という四つの章に分類されている。

 個人的には、「海を越えて」(対外交流史)の章がいちばん面白かった。冒頭は田島公氏の「鳥羽宝蔵の『波斯国剣』」。鳥羽宝蔵とは、鳥羽上皇が建てた勝光明院の宝蔵のことだが、ここに「波斯(ペルシャ)国剣」と注記される「剣一柄」が収蔵されていたというのである。ええ~!! 著者は、杉本直治郎氏の説により、真如親王(高丘親王)が長安で入手し、帰国する日本人僧に託した剣(ペルシャ起源で、スキタイ人が好んだ両刃の短刀)ではないかと推測する。同時期、仁和寺宝蔵には、インド製の杖剣も伝えられており、「平安時代の天皇家の宝蔵は、実に国際色豊かであった」という結びの文が放つ香気にあてられ、うっとりした。

 須田牧子氏の「杭州へのあこがれ、虚構の詩作」は、明に向かった日本の朝貢使節団が、杭州観光にどれだけ執着していたかを物語る。歌詠みにおける「歌枕」の伝統と比較しているのは、達見。なお、サラリと流されていた「日本の朝貢使節団同士が喧嘩して寧波の町を焼失させた、1523年の寧波の乱」という事件を私は知らなくて、え?と本文を二度見してしまった。受けた教育の所為だけにはできないが、近世以前の日本が、周辺地域とどのような「対外交流」を持っていたかという点は、私の学生時代、あまり重視されていなかったように思う。

 だからこそ、この「海を越えて」の章に収められたエッセイは、どれも面白かった。「16世紀末のリスボン市内の教会記録で、日本人の婚姻登録が少なくとも四件以上確認されている」とか、16世紀の大友宗麟が所有したフランキ砲が大阪城に保管されており、幕末に蝦夷地防衛のため持ち出したところ、ロシア艦に奪われ、最近、ロシア国立軍事史博物館で200年ぶりに「発見」されたなど、この国と世界の歴史が、何か従来と違った顔で立ち現れてくる感じがして、わくわくと心躍った。

 ほかの章から印象に残ったエッセイを紹介すると、源頼朝と岩窟(洞窟)のかかわりの深さに着目し、その背景に「中世の日本に広く存在した洞窟に対する信仰があった」と考える一篇。ほんとかなあ。また、中世の薬師寺の寺僧には、唐招提寺に出向する者がいて、薬師寺は唐招提寺の運営に一定の影響力を持っていた。へええ。唐招提寺には、黒衣僧(遁世僧)と白衣僧(官僧)がいて、薬師寺の白衣僧(官僧)は地域社会の検断権(治安警察権)を握っていたが、罪を得てに落とされた人々を保護・救済することは黒衣僧(遁世僧)の役目だった。この件、興味深いので、もう少し詳しく知りたい。著者の及川亘さん、早く一般向けの本を書いてくれないかな。待っている。
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2014-15年末年始・食べたもの

2015-01-04 19:55:18 | 日常生活
本日、東京から札幌に戻ってきた。東京が寒かったので、札幌の室内の暖かさがうれしい(灯油ストーブ~LOVE)。

昨年は、一度「水抜き」からの復旧に失敗して、風呂釜を壊した苦い経験があるので、慎重に対処。たぶん大丈夫だと思う。

東京では、29日に横浜で友人と火鍋ディナー。30日は別の友人とエスニックランチ。むかし住んでいたマンションの近所で、いつも気になりながら、入る機会のなかったお店(ここ)。



デザートのケーキは大きくて、「お二人で一個でもいいかもしれません」と言われているのに、二人で二つ頼んで半分ずつ分け合った。



おまけ。新宿ルミネにいつの間にかオープンしていた春水堂。タピオカミルクティー発祥の店(ほんとか?)といわれる台湾のお店。香菜のたっぷり乗った五香湯麺が美味で幸せ。これから、東京に行くたびに通ってしまいそうだ。



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