○竹内正浩『地形で読み解く鉄道路線の謎:首都圏編』 JTBパブリッシング 2015.1
首都圏には、さまざまな鉄道路線が走っている。地図で見ると、最短距離を直線で結ぶ路線もあれば、でこぼこと曲がりくねった路線もあり、不自然な急カーブを描くものもある。鉄道のルートが、どうやって決まるかと言えば、もちろん用地の確保(買収)や政治的判断が働く場合もあるが、創生期の鉄道は、何よりも「地形」に左右された。
明治の鉄道は、ほぼ水平地でなければ敷設できず(角度にして2度が限界)、隧道・橋梁の建設も、技術的・予算的制約から、可能な限り、避けなければならなかった。そのことを念頭に置いて、首都圏の標高地形図に落とし込まれた鉄道路線図を見ると、なるほど!と膝を打つところが多い。以前、今尾恵介さんの『東京凸凹地形案内』で、主要道路と地形の関係を知ったときも同じことを思ったが、本書はその鉄道版である。上野から北上する京浜東北線(旧・日本鉄道線)は、西側の(山の手)台地と東側の低地の境目をきれいにトレースして走っている。これは「崕雪頽(がけなだれ)」と呼ばれる急斜面が入会地(共有地)になっていて、買収が容易であったためでもある。
逆に、地形に逆らった路線には、いろいろ苦労があったようだ。品川から渋谷・新宿を経て北上する、現在の山手線「山線」ルート(旧・品川線)は、五反田から目黒にかけての急勾配を平坦化するため、途中に隧道を開削した。池袋~田端ルート(旧・豊島線)にも勾配を緩和する切通しや短いトンネル(道灌山隧道)が設けられた。トンネルに勾配を緩和する目的があるって、考えたことがなかったなあ。渋谷は急坂に囲まれた谷底駅で、かつては市電を通すことができなかったという。へえ~。
鉄道開業当時、芝浦~品川は、海岸線の先に築堤を建設して軌道を敷設したというのは、どこかで聞いたことがあるかもしれないが、当時の地図がリアルにその状況を表現していて、面白かった。海岸線と築堤の間に船溜まりの掘割が残っている。まあ、引き潮のときは広大な砂浜になったらしいけど。そして、現在の地図(空撮写真)でも、品川駅の東側って、造成されたとはいえ、かつては海だったんだなあということがよく分かる。京成電鉄の日暮里~上野間(地下路線)が、地表からわずか3メートル余り、交通を遮断してはならないとか、公園樹木を傷つけてはならないとか、厳しい条件をクリアして開通を果たしたというのも好きなエピソードで、今度、京成線に乗るときは、感慨にふけるとしよう。
私は、東京東部の総武線沿線で生まれ、西部の京王線沿線に引っ越し、一時、埼玉県の東上線沿線や神奈川県の横須賀線沿線に住んでいたこともある。だから、本書に登場する鉄道路線には、かなりの頻度でなじみがあった。小田急線が代々木八幡で描く大カーブとか、軍部の主導で無理やり敷設された横須賀線とか、まぶたに思い浮かんで懐かしかった。
その中で、幼少時代になじんだ風景でありながら、これまで、ほとんど考えたことがなかったのは、荒川放水路の存在である。東京東部は、江戸時代から洪水の頻発地帯で、利根川・荒川水系の治水は、江戸幕府最大の土木事業だった。明治、大正になっても水害は減らず、明治44年、荒川放水路建設が決まり、大正2年に着工、昭和5年に完了する。本書には、明治42年と昭和12年の地図が掲載されているが、地形の変わりっぷりがすごい。立ち退き家屋は1300戸(面積のわりには少ない気がする)。工事で分断される常磐線・総武本線・東武鉄道・京成電気軌道は、ルートの変更を余儀なくされた。一方、道路には不自然な分断の痕跡が今も残っている。私は荒川放水路が貫く江戸川区で、二十歳過ぎまで育ったのだが、初めて聞く話ばかりだった。だいたい「江戸・東京の歴史」を語る本も、残念ながら、荒川の東側は眼中に入っていないことが多い。参考文献にあがっている絹田幸恵著『荒川放水路物語』を読んでみたい。
![](http://ecx.images-amazon.com/images/I/61XUQmrPAOL._SL160_.jpg)
明治の鉄道は、ほぼ水平地でなければ敷設できず(角度にして2度が限界)、隧道・橋梁の建設も、技術的・予算的制約から、可能な限り、避けなければならなかった。そのことを念頭に置いて、首都圏の標高地形図に落とし込まれた鉄道路線図を見ると、なるほど!と膝を打つところが多い。以前、今尾恵介さんの『東京凸凹地形案内』で、主要道路と地形の関係を知ったときも同じことを思ったが、本書はその鉄道版である。上野から北上する京浜東北線(旧・日本鉄道線)は、西側の(山の手)台地と東側の低地の境目をきれいにトレースして走っている。これは「崕雪頽(がけなだれ)」と呼ばれる急斜面が入会地(共有地)になっていて、買収が容易であったためでもある。
逆に、地形に逆らった路線には、いろいろ苦労があったようだ。品川から渋谷・新宿を経て北上する、現在の山手線「山線」ルート(旧・品川線)は、五反田から目黒にかけての急勾配を平坦化するため、途中に隧道を開削した。池袋~田端ルート(旧・豊島線)にも勾配を緩和する切通しや短いトンネル(道灌山隧道)が設けられた。トンネルに勾配を緩和する目的があるって、考えたことがなかったなあ。渋谷は急坂に囲まれた谷底駅で、かつては市電を通すことができなかったという。へえ~。
鉄道開業当時、芝浦~品川は、海岸線の先に築堤を建設して軌道を敷設したというのは、どこかで聞いたことがあるかもしれないが、当時の地図がリアルにその状況を表現していて、面白かった。海岸線と築堤の間に船溜まりの掘割が残っている。まあ、引き潮のときは広大な砂浜になったらしいけど。そして、現在の地図(空撮写真)でも、品川駅の東側って、造成されたとはいえ、かつては海だったんだなあということがよく分かる。京成電鉄の日暮里~上野間(地下路線)が、地表からわずか3メートル余り、交通を遮断してはならないとか、公園樹木を傷つけてはならないとか、厳しい条件をクリアして開通を果たしたというのも好きなエピソードで、今度、京成線に乗るときは、感慨にふけるとしよう。
私は、東京東部の総武線沿線で生まれ、西部の京王線沿線に引っ越し、一時、埼玉県の東上線沿線や神奈川県の横須賀線沿線に住んでいたこともある。だから、本書に登場する鉄道路線には、かなりの頻度でなじみがあった。小田急線が代々木八幡で描く大カーブとか、軍部の主導で無理やり敷設された横須賀線とか、まぶたに思い浮かんで懐かしかった。
その中で、幼少時代になじんだ風景でありながら、これまで、ほとんど考えたことがなかったのは、荒川放水路の存在である。東京東部は、江戸時代から洪水の頻発地帯で、利根川・荒川水系の治水は、江戸幕府最大の土木事業だった。明治、大正になっても水害は減らず、明治44年、荒川放水路建設が決まり、大正2年に着工、昭和5年に完了する。本書には、明治42年と昭和12年の地図が掲載されているが、地形の変わりっぷりがすごい。立ち退き家屋は1300戸(面積のわりには少ない気がする)。工事で分断される常磐線・総武本線・東武鉄道・京成電気軌道は、ルートの変更を余儀なくされた。一方、道路には不自然な分断の痕跡が今も残っている。私は荒川放水路が貫く江戸川区で、二十歳過ぎまで育ったのだが、初めて聞く話ばかりだった。だいたい「江戸・東京の歴史」を語る本も、残念ながら、荒川の東側は眼中に入っていないことが多い。参考文献にあがっている絹田幸恵著『荒川放水路物語』を読んでみたい。