見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

箱館府から開拓使へ/明治維新と幕臣(門松秀樹)

2015-01-03 21:11:12 | 読んだもの(書籍)
○門松秀樹『明治維新と幕臣:「ノンキャリア」の底力』(中公新書) 中央公論新社 2014.11

 明治維新は、薩長土肥の志士が中心となって成し遂げた。旧態依然として「遅れている」幕府と、進取の気風に富み、「進んでいる」薩長両藩との間で衝突が起これば、薩長両藩が勝利を収めて明治時代になるのは歴史の必然であった、という漠然としたイメージを持つ人はかなり多いだろう。しかし、…というのが、本書「まえがき」の趣旨である。

 私は東京生まれ・東京育ちのせいもあって、幕末史については完全に幕府びいきである。だから、江戸幕府が倒れ、明治政府が樹立されるまでの過程は、「遅れた」江戸幕府が「進んだ」薩長両藩に敗れた、というように単純化できない、というのは、著者に言われるまでもなく、まことにその通りだと考える。私は、明治政府の創業期に、引き続き新政権に登用され、行政実務に従事した中・下級の幕臣たちに光を当てる、という著者の姿勢に強く共感して、期待をもって本書を読み始めた。

 ところが、記述は江戸幕府の成立から始まる。幕府の機構とはいかなるものであったかを知るために、その淵源に遡るのは仕方ないことかも知れないと思ったが、これが長い。家康の「出頭人」政治→家光による老中制の確立→吉宗(享保の改革)による「御触書集成」(法令データベース)の整備=江戸幕府の完成という整理は分かりやすかったし、幕府の機構が確立され、今日でいうキャリアパスが定まってくると、将軍と幕臣の間の個人的な関係が薄れ、「将軍ではなく所属する組織に忠誠心が転移していくか、あるいは忠誠心そのものが希薄になっていく」というのも面白い指摘だと思った。今日の組織にも適用できそうな気がする。

 今使った「幕臣」というのは「直参」すなわち将軍の直臣(旗本・御家人)を指す。旗本と御家人は「御目見以上」か以下か、つまり将軍に拝謁できるか否かで分けられる(収入でいえば、だいたい知行200石が分岐点だが、例外もある)。武士の給与形態には、石であらわす知行取と俵であらわす蔵米取および扶持米取があるとか、基本的なことが初めて分かって為になった。

 また幕臣のさまざまな「ポスト」とその仕事内容、キャリアパスの実態も面白かった。勘定奉行を長官とする勘定所って、財政担当の「勝手方」だけでなく、民政・司法担当の「公事方」も置いていたのね。そりゃあ有能な人材でなければ務まらないだろうなあ。江戸幕府は支出の際の査定が厳密であるため、決算は簡便だったというのも興味深い指摘。

 それから、ようやく幕末の政変が急ぎ足に語られ、明治維新に到達するのは、ページ数の半分を過ぎたころである。私が初めて知ったのは、鳥羽伏見の戦い後、新政府が幕臣に帰順をよびかけ、「朝臣(ちょうしん)」という身分を用意したこと。千人を超える幕臣たちがこれに応えて上京してきたという回顧録もあるが、「朝臣」に具体的な職務は用意されなかったようである。なお、江戸においては、「朝臣」に転身した幕臣への風当たりはかなり強かったようだ。

 本書において、明治政府による幕臣の継続登用が具体的に記述されているのは、第5章、蝦夷地(北海道)の事例のみである。率直にいうと、これは拍子抜けだった。もう少し各地の事例、特に江戸城勤めだった中下級官僚たちの消息を知ることができると思っていたので。

 慶応4年(1868)2月、箱館奉行所には、鳥羽伏見の敗戦の報に続き、徳川宗家は明治政府に恭順することを決定したので、蝦夷地と奉行所を引き渡し、奉行以下は江戸に引き上げるよう命令が下る。同年閏4月、明治政府の箱館府(当初は箱館裁判所)総督・清水谷公考(しみずだに きんなる)が着任する。明治政府の北海道経営というと開拓使の存在があまりにも大きく、箱館府について語られることはきわめて少ない。だが「箱館戦争勃発まで大きな問題も起こさず、北海道を平穏に統治したことはもう少し評価されてもよいはずである」という著者の言葉に賛成する。

 箱館戦争の終結後、明治2年(1869)開拓使が設置されると、箱館府職員(多くは箱館奉行所の旧幕臣)は継続的に登用された。本書は、開拓使に登用された旧幕臣を363名と数えている。しかし、明治10年前後には、箱館奉行所関係者が急減する。これは廃藩置県以降、全国から開拓使職員を登用することが可能になったこと、黒田清隆の「開拓使十年計画」の提唱にともない、開拓使の冗員整理が必要となり、明治政府の仕事の流儀に適応できない旧幕臣を切り捨てるという「新旧交代」が進んだものと考えられている。厳しいなあ。

 もう少し広汎な事例が知りたかったという恨みはあるが、(暫定的)北海道民のひとりとして、箱館府の歴史を学べたことには感謝したい。
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ねらわれた日本/勝海舟と幕末外交(上垣外憲一)

2015-01-02 21:24:34 | 読んだもの(書籍)
○上垣外憲一『勝海舟と幕末外交:イギリス・ロシアの脅威に抗して』(中公新書) 中央公論新社 2014.12

 一昨年から北海道で暮らすことになって、自然と日露関係史を考える機会が増えた。その結果、自分にこの方面の知識が乏しいことを実感するようになった。

 で、本書のオビの「ロシアが対馬を分捕りに来た!」という宣伝コピーを見て、え、そんな事件あったの?と驚いた。文久元年2月(1861年3月)、ロシア艦が船体修理を名目に対馬に入り込み、兵舎めいたものを建てて居座りを決め込んだというもので、本書では「ポサドニック号事件」と呼ばれている(Wikiは「ロシア軍艦対馬占領事件」とし、関連書籍として『坂の上の雲』をあげる)。

 本書の主人公、勝海舟(1823-1899)は『氷川清話』で、自分がこの一件を収めた顛末を生き生きと語っている。にもかかわらず、一部の歴史家はこれを「法螺話」と受け止めているそうで、Wikiの記述にも、勝海舟の名前は一切登場しない。著者によれば、この19世紀半ばから後半という時代は「秘密外交」の最盛期であって、外交の表と裏に違いがあった。また、明治維新後になっても各方面に差し障りが多いとして沈黙を守った人々が多かった。そうした制約のもと、限られた史料に大胆な推論を加えて、勝海舟の外交手腕を描き出したのが本書である。

 勝海舟が外交にかかわった始まりは、嘉永7年(1854)のディアナ号事件。ロシア提督プチャーチンの旗艦が安政大地震で損傷し、修理のため下田港から戸田に向かう途中、駿河湾に沈没してしまう。プチャーチンは事故にもめげず、交渉を進め、安政元年(1855)、日露和親条約を締結する。オランダ語の読める若手官僚であった勝海舟は、安部正弘、大久保一翁らの引き立てを受け、諮問を受けることもあったと思われるが、まだ表舞台には現れない。

 安政5年(1858)、暴風で損傷したロシア軍艦アスコルド号から、長崎での修理を認めてほしいという申し入れがあった。クリミア戦争(英仏×露)の直後であったから、断ればロシアも怖いが、受け入れれば英仏の反応も怖い。困惑する幕閣に泣きつかれて、交渉の任に当たった勝海舟はロシアに有力な人脈を得る。

 そして、アロー戦争(1858年)が起こり、ロシアから東シベリア総督ムラヴィヨフが9隻の艦隊を率いて江戸湾に現れる(1859年)。うーむ、蝦夷地(北海道)は危なかったんだな。アロー戦争によって、ロシアは北緯43度以北の清国領を獲得したが、札幌はちょうど北緯43度線上にあるという。ムラヴィヨフは、少なくとも樺太全島の領有を要求したものと著者は見ている。

 興味深いのは、「日本政府が蝦夷地をしっかり確保しなければ、英米が取ってしまうだろう。そのときは自分たちが先手を打って取ってしまう」というロシアの主張(恫喝?)が伝聞として残っていることだ。ずっと後年、日本が、ロシアの南進を防ぐという理由で朝鮮を併合したのとそっくりの理屈である。実際、アメリカは鯨の好漁場として北海道近海を重要視しており(まだ石油の生産は無に等しく、照明用の油としては鯨油が最も良質だった。なるほど!)、アメリカ領事ハリスは、ムラヴィヨフに強硬な申し入れを思いとどまるよう働きかけたと考えられている。

 また、対馬も狙われていた。1959年(安政6年)にはイギリス軍艦アクティオン号が突然、対馬に現れ、湾内を測量するなどして立ち去る。朝鮮に野心を持つフランスは、幕府との秘密交渉で対馬租借を要求していた(横井小楠の証言あり)と著者は考える。『氷川清話』によれば、当時のロシア軍人の言葉として、フランスはまもなく地中海を掘り抜いて(スエズ運河!)支那への海路が自由になるから、日本近海への往来が増え、対馬を占領するようになるのは必然、と語られている。

 世界(西洋)の動きが、さざ波のように伝わって、日本の運命を変えていく様子が、ベールを剥ぐように見えてくる。当時の日本って、本当に危なかったんだなあ、ということをしみじみ(寒々と)感じた。日本が生き残るには、どこかの国の庇護を求めなければならない。では、頼れる友好国はどこか? 幕閣には、親米、親露、親英など、さまざまな立場があったが、最終的に井伊直弼が「アメリカ一辺倒」に舵を切った。思えば、日本の百年(以上)の進路を決めた選択とも言える。

 勝海舟は、英露のパワーポリティクスを巧妙に利用し、ロシア軍艦を対馬から追い払って、ポサドニック号事件を収めた。著者が注目するのは、のちに勝海舟が「外交の極意は、誠心誠意にあるのだ」と語っている点である。対馬のことを英露が争うのは、日本の不利益ばかりでなく、世界戦争の脅威を増すことである。あなたも我々も世界平和のためにともに働くべきではないか、というのが勝海舟の「誠意」、別の言葉で言えば「大義」であった。智謀に長けた勝海舟だからこそ、智謀の限界も知っていたということではないかと思う。
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2015年元旦と私的電子書籍元年?

2015-01-01 13:33:15 | 見たもの(Webサイト・TV)
「群書類従」も電子化、2014年の国内電子書籍は専門書が充実の傾向 (INTERNET Watch 2014/12/26)

 明けましておめでとうございます。

 この数年(十数年?)正月三が日は実家で過ごしている。私も含めて、年ごとに家族が老いて行くことを除けば、ずっと変わり映えのしない正月だが、変化がないことは幸いと感じるようになってきた。

 さて、今年の投稿は、気になっている話題から。この年末年始、電子書籍リーダーを買おうかどうしようか、かなり本気で迷っている。最初のきっかけは、↓このニュース。

Amazon.co.jp、国会図書館のパブリックドメイン古書をKindleで販売(ITmedia 2014/10/29)

 「国立国会図書館が所蔵し、『近代デジタルライブラリー』で公開しているパブリックドメインの古書のKindle版の販売がAmazon.co.jpでスタートした」というもの。無料ではなく、1点50~100円の「販売」なので、「血税を投じたデータにタダ乗り?」という批判の声もある。しかし国会図書館のサイトでは、これまでどおり無料公開されているので、Kindleで読めるという利便性に100円なら、私は払ってもいい。そろそろ新刊書を追いかける読書生活から隠居して、電子書籍リーダーで古書だけ読んで暮らすのもいいなあと思う次第である。

 その後、冒頭の記事にある『群書類従』電子化のニュースも知った。こちらは利用料150万円(税抜き)というから、個人購入は考えられないが、嬉しいニュースである。『群書類従』は、もちろん日本の歴史・文化を知るための調べものツールだが、座右にあれば、むしろ読みものとして楽しめると思う。

 普通の新刊書も、気をつけていると、冊子と電子書籍を同時発売するものが増えてきた。思えば、電子書籍元年と言われて、もう何回目の正月だろう。当初は漫画やライトノベルばかりで、大人向けのコンテンツが一向に増える気配がなく、全く食指が動かなかったが、そろそろ試してみてもいいタイミングかもしれない。

 年の暮れに久しぶりに神保町の書店街に行った。書棚をゆっくり眺めていると、おやこんな本が、という発見があり、適当に開いたページで、買うべきか否かを品定めするのはスリリングで楽しい。これはこれで、リアル書店とリアル書物のいいところである。ついでなので、年末に読んだ浦沢直樹さんのインタビュー記事をここに挙げておく。

「読者がお金を払わなければ、"あるべき関係性"が結べない」―漫画家・浦沢直樹さんインタビュー(The Huffington Post 2014/12/30)

 「僕は作品を1回も電子書籍化したことがない」って、そうだったのか、浦沢さん! 本は買って読むものと頑固に決めている私は、標題の主張に全面的に同感する。それから「漫画って見開きで読む形態なので、それがキープできない媒体では、見てほしくないんですよ」という意見も、小さいようで、実は大きな問題を提起していると思う。

 でも、本の選び方は、これから大きく変わっていきそうな気がする。あと数年後、神保町の大型書店は、まだ生き残っているだろうか。
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