○門松秀樹『明治維新と幕臣:「ノンキャリア」の底力』(中公新書) 中央公論新社 2014.11
明治維新は、薩長土肥の志士が中心となって成し遂げた。旧態依然として「遅れている」幕府と、進取の気風に富み、「進んでいる」薩長両藩との間で衝突が起これば、薩長両藩が勝利を収めて明治時代になるのは歴史の必然であった、という漠然としたイメージを持つ人はかなり多いだろう。しかし、…というのが、本書「まえがき」の趣旨である。
私は東京生まれ・東京育ちのせいもあって、幕末史については完全に幕府びいきである。だから、江戸幕府が倒れ、明治政府が樹立されるまでの過程は、「遅れた」江戸幕府が「進んだ」薩長両藩に敗れた、というように単純化できない、というのは、著者に言われるまでもなく、まことにその通りだと考える。私は、明治政府の創業期に、引き続き新政権に登用され、行政実務に従事した中・下級の幕臣たちに光を当てる、という著者の姿勢に強く共感して、期待をもって本書を読み始めた。
ところが、記述は江戸幕府の成立から始まる。幕府の機構とはいかなるものであったかを知るために、その淵源に遡るのは仕方ないことかも知れないと思ったが、これが長い。家康の「出頭人」政治→家光による老中制の確立→吉宗(享保の改革)による「御触書集成」(法令データベース)の整備=江戸幕府の完成という整理は分かりやすかったし、幕府の機構が確立され、今日でいうキャリアパスが定まってくると、将軍と幕臣の間の個人的な関係が薄れ、「将軍ではなく所属する組織に忠誠心が転移していくか、あるいは忠誠心そのものが希薄になっていく」というのも面白い指摘だと思った。今日の組織にも適用できそうな気がする。
今使った「幕臣」というのは「直参」すなわち将軍の直臣(旗本・御家人)を指す。旗本と御家人は「御目見以上」か以下か、つまり将軍に拝謁できるか否かで分けられる(収入でいえば、だいたい知行200石が分岐点だが、例外もある)。武士の給与形態には、石であらわす知行取と俵であらわす蔵米取および扶持米取があるとか、基本的なことが初めて分かって為になった。
また幕臣のさまざまな「ポスト」とその仕事内容、キャリアパスの実態も面白かった。勘定奉行を長官とする勘定所って、財政担当の「勝手方」だけでなく、民政・司法担当の「公事方」も置いていたのね。そりゃあ有能な人材でなければ務まらないだろうなあ。江戸幕府は支出の際の査定が厳密であるため、決算は簡便だったというのも興味深い指摘。
それから、ようやく幕末の政変が急ぎ足に語られ、明治維新に到達するのは、ページ数の半分を過ぎたころである。私が初めて知ったのは、鳥羽伏見の戦い後、新政府が幕臣に帰順をよびかけ、「朝臣(ちょうしん)」という身分を用意したこと。千人を超える幕臣たちがこれに応えて上京してきたという回顧録もあるが、「朝臣」に具体的な職務は用意されなかったようである。なお、江戸においては、「朝臣」に転身した幕臣への風当たりはかなり強かったようだ。
本書において、明治政府による幕臣の継続登用が具体的に記述されているのは、第5章、蝦夷地(北海道)の事例のみである。率直にいうと、これは拍子抜けだった。もう少し各地の事例、特に江戸城勤めだった中下級官僚たちの消息を知ることができると思っていたので。
慶応4年(1868)2月、箱館奉行所には、鳥羽伏見の敗戦の報に続き、徳川宗家は明治政府に恭順することを決定したので、蝦夷地と奉行所を引き渡し、奉行以下は江戸に引き上げるよう命令が下る。同年閏4月、明治政府の箱館府(当初は箱館裁判所)総督・清水谷公考(しみずだに きんなる)が着任する。明治政府の北海道経営というと開拓使の存在があまりにも大きく、箱館府について語られることはきわめて少ない。だが「箱館戦争勃発まで大きな問題も起こさず、北海道を平穏に統治したことはもう少し評価されてもよいはずである」という著者の言葉に賛成する。
箱館戦争の終結後、明治2年(1869)開拓使が設置されると、箱館府職員(多くは箱館奉行所の旧幕臣)は継続的に登用された。本書は、開拓使に登用された旧幕臣を363名と数えている。しかし、明治10年前後には、箱館奉行所関係者が急減する。これは廃藩置県以降、全国から開拓使職員を登用することが可能になったこと、黒田清隆の「開拓使十年計画」の提唱にともない、開拓使の冗員整理が必要となり、明治政府の仕事の流儀に適応できない旧幕臣を切り捨てるという「新旧交代」が進んだものと考えられている。厳しいなあ。
もう少し広汎な事例が知りたかったという恨みはあるが、(暫定的)北海道民のひとりとして、箱館府の歴史を学べたことには感謝したい。
明治維新は、薩長土肥の志士が中心となって成し遂げた。旧態依然として「遅れている」幕府と、進取の気風に富み、「進んでいる」薩長両藩との間で衝突が起これば、薩長両藩が勝利を収めて明治時代になるのは歴史の必然であった、という漠然としたイメージを持つ人はかなり多いだろう。しかし、…というのが、本書「まえがき」の趣旨である。
私は東京生まれ・東京育ちのせいもあって、幕末史については完全に幕府びいきである。だから、江戸幕府が倒れ、明治政府が樹立されるまでの過程は、「遅れた」江戸幕府が「進んだ」薩長両藩に敗れた、というように単純化できない、というのは、著者に言われるまでもなく、まことにその通りだと考える。私は、明治政府の創業期に、引き続き新政権に登用され、行政実務に従事した中・下級の幕臣たちに光を当てる、という著者の姿勢に強く共感して、期待をもって本書を読み始めた。
ところが、記述は江戸幕府の成立から始まる。幕府の機構とはいかなるものであったかを知るために、その淵源に遡るのは仕方ないことかも知れないと思ったが、これが長い。家康の「出頭人」政治→家光による老中制の確立→吉宗(享保の改革)による「御触書集成」(法令データベース)の整備=江戸幕府の完成という整理は分かりやすかったし、幕府の機構が確立され、今日でいうキャリアパスが定まってくると、将軍と幕臣の間の個人的な関係が薄れ、「将軍ではなく所属する組織に忠誠心が転移していくか、あるいは忠誠心そのものが希薄になっていく」というのも面白い指摘だと思った。今日の組織にも適用できそうな気がする。
今使った「幕臣」というのは「直参」すなわち将軍の直臣(旗本・御家人)を指す。旗本と御家人は「御目見以上」か以下か、つまり将軍に拝謁できるか否かで分けられる(収入でいえば、だいたい知行200石が分岐点だが、例外もある)。武士の給与形態には、石であらわす知行取と俵であらわす蔵米取および扶持米取があるとか、基本的なことが初めて分かって為になった。
また幕臣のさまざまな「ポスト」とその仕事内容、キャリアパスの実態も面白かった。勘定奉行を長官とする勘定所って、財政担当の「勝手方」だけでなく、民政・司法担当の「公事方」も置いていたのね。そりゃあ有能な人材でなければ務まらないだろうなあ。江戸幕府は支出の際の査定が厳密であるため、決算は簡便だったというのも興味深い指摘。
それから、ようやく幕末の政変が急ぎ足に語られ、明治維新に到達するのは、ページ数の半分を過ぎたころである。私が初めて知ったのは、鳥羽伏見の戦い後、新政府が幕臣に帰順をよびかけ、「朝臣(ちょうしん)」という身分を用意したこと。千人を超える幕臣たちがこれに応えて上京してきたという回顧録もあるが、「朝臣」に具体的な職務は用意されなかったようである。なお、江戸においては、「朝臣」に転身した幕臣への風当たりはかなり強かったようだ。
本書において、明治政府による幕臣の継続登用が具体的に記述されているのは、第5章、蝦夷地(北海道)の事例のみである。率直にいうと、これは拍子抜けだった。もう少し各地の事例、特に江戸城勤めだった中下級官僚たちの消息を知ることができると思っていたので。
慶応4年(1868)2月、箱館奉行所には、鳥羽伏見の敗戦の報に続き、徳川宗家は明治政府に恭順することを決定したので、蝦夷地と奉行所を引き渡し、奉行以下は江戸に引き上げるよう命令が下る。同年閏4月、明治政府の箱館府(当初は箱館裁判所)総督・清水谷公考(しみずだに きんなる)が着任する。明治政府の北海道経営というと開拓使の存在があまりにも大きく、箱館府について語られることはきわめて少ない。だが「箱館戦争勃発まで大きな問題も起こさず、北海道を平穏に統治したことはもう少し評価されてもよいはずである」という著者の言葉に賛成する。
箱館戦争の終結後、明治2年(1869)開拓使が設置されると、箱館府職員(多くは箱館奉行所の旧幕臣)は継続的に登用された。本書は、開拓使に登用された旧幕臣を363名と数えている。しかし、明治10年前後には、箱館奉行所関係者が急減する。これは廃藩置県以降、全国から開拓使職員を登用することが可能になったこと、黒田清隆の「開拓使十年計画」の提唱にともない、開拓使の冗員整理が必要となり、明治政府の仕事の流儀に適応できない旧幕臣を切り捨てるという「新旧交代」が進んだものと考えられている。厳しいなあ。
もう少し広汎な事例が知りたかったという恨みはあるが、(暫定的)北海道民のひとりとして、箱館府の歴史を学べたことには感謝したい。