○平川祐弘『日本語で生きる幸福』 河出書房新社 2014.10
今、日本の社会は、グローバリゼーションとやらに前のめりに向かっている。私の勤める職場も、若手から管理職まで、英語の習得は奨励ではなく、もはや義務となってきた。やれやれ。もっと大事なことは他にあるのではないか。私は、外国語の学習自体は嫌いじゃないが、子供の頃から「英語帝国主義」には冷ややかな気持ちで向き合ってきた。そのため、本書のタイトルには強い共感を抱いた。そして、オビの宣伝文句「そもそも、なぜ英語を学習する必要があるのか?」を見たときは、「(全ての日本人が)英語を学習する必要はない」を意味する反語だと信じ、我が意を得たように思って読み始めた。そうしたら、どうも勝手が違った。
歴史上、文化の中心(覇権)は何度か移り変わってきたが、現在の中心はアメリカであり、英語が世界の支配言語として君臨している。日本は文化の周辺国であり、日本語は言語的マイノリティーである。日本人が世界と対峙するには、好むと好まざるとにかかわらず、英語を学ばなければならない。まず、そんなふうに突き放されてしまった。
地球上には中心文化と周辺文化があり、日本はずっと文化の周辺国である。長らく漢文化を摂取してきたが、19世紀に西洋文化に方向転換した(Japan's turn to the West)。この見取り図は、松岡正剛氏や内田樹氏も説いているとおりである。もう少し詳しくいうと、日本は島国であったため、「物は入れても人は入れない」という選択が比較的しやすかった。その結果、外国文化に脅威を感じず、積極的な摂取に努めることができた。その一方、「非日本語人を、意識的に物理的な力を用いて排除するというのではなくて、外国人が大量に入り込んでくるという場面に直面することなしにすんできた」と本書は述べている。
上述のような集合記憶の結果、日本人は、留学を尊重する国民的心性を持っている。最善の文化は海外にある、というのが遣唐使以来の伝統だから、最優秀の学生を派遣して、これを学ばせてきた。明治の国づくりにおいては、あらゆる分野で「洋行」留学生が活躍した。しかし、これはどうやら日本独特の体験らしい。自国の文化が世界一と考える中国では、近代初期の留学生は尊重されず、おおむね二流三流の地位に甘んじなければならなかった。なお、明治期には、西洋に留学した日本人留学生の数よりも、中国・韓国・ベトナムなどから来日した留学生のほうが「桁違い」に多かったという事実も、初めて認識したことなので、書きとめておこう。
これから先、日本人が異文化を受容せずに生きていくことはできない。では「東アジアで異文化の受容を意味あらしめるような人間の理想像」とはどのような人か。著者は、森鴎外を挙げる。なるほどね。鴎外は『鼎軒先生』の中で「時代は二本足の学者を要求する、東西両洋の文化を、一本づつの足で踏まへて立ってゐる学者を要求する」と述べているそうだ。しかし、鴎外の東西両洋の文化の踏まえ方は並大抵のものではない、一世紀にひとり出るかどうか分からない超人的なものだと思うのだが、著者が本書で論じているのは、明治の鴎外に比肩する知的エリートを養成することで、国民がこぞってピジン・イングリッシュ(実用英語)を喋るようになるか否かは、著者の関心の外であるようだ。
そして、できれば第二外国語をものして「三点測量」のできる「多力者」の養成が求められる。第二外国語のひとつとして日本語の古文あるいは漢文を数えてもよい。「三点測量は空間的だけでなく時間的に行なうこともまた有効だと判断するからである」と著者は付け加えている。これは、いまの高等教育が振り捨てて省みない「教養」の重視、と言い換えてもいいのではないかと思う。
本書の「はじめに」には「22世紀の日本列島に住む人々は、はたして何語を話しているだろうか」という設問があり、冗談とも本気ともつかない、5つの可能性が示されている。そして「あとがき」に「改めておうかがいしたい」とあって、再び冒頭の設問を考えさせる形式になっている。実は、本書を読む前と読み終わったあとでは、この設問に対する心持ちが、自分でも意外なほど変わっていた。世界の支配語である英語は学ばなければならない。しかし、日本語やその古典を棄ててはならない。知の巨人たちが描いた大きな三角形には及びもつかないが、私も三点測量を志す気持ちは忘れないでおこう。
今、日本の社会は、グローバリゼーションとやらに前のめりに向かっている。私の勤める職場も、若手から管理職まで、英語の習得は奨励ではなく、もはや義務となってきた。やれやれ。もっと大事なことは他にあるのではないか。私は、外国語の学習自体は嫌いじゃないが、子供の頃から「英語帝国主義」には冷ややかな気持ちで向き合ってきた。そのため、本書のタイトルには強い共感を抱いた。そして、オビの宣伝文句「そもそも、なぜ英語を学習する必要があるのか?」を見たときは、「(全ての日本人が)英語を学習する必要はない」を意味する反語だと信じ、我が意を得たように思って読み始めた。そうしたら、どうも勝手が違った。
歴史上、文化の中心(覇権)は何度か移り変わってきたが、現在の中心はアメリカであり、英語が世界の支配言語として君臨している。日本は文化の周辺国であり、日本語は言語的マイノリティーである。日本人が世界と対峙するには、好むと好まざるとにかかわらず、英語を学ばなければならない。まず、そんなふうに突き放されてしまった。
地球上には中心文化と周辺文化があり、日本はずっと文化の周辺国である。長らく漢文化を摂取してきたが、19世紀に西洋文化に方向転換した(Japan's turn to the West)。この見取り図は、松岡正剛氏や内田樹氏も説いているとおりである。もう少し詳しくいうと、日本は島国であったため、「物は入れても人は入れない」という選択が比較的しやすかった。その結果、外国文化に脅威を感じず、積極的な摂取に努めることができた。その一方、「非日本語人を、意識的に物理的な力を用いて排除するというのではなくて、外国人が大量に入り込んでくるという場面に直面することなしにすんできた」と本書は述べている。
上述のような集合記憶の結果、日本人は、留学を尊重する国民的心性を持っている。最善の文化は海外にある、というのが遣唐使以来の伝統だから、最優秀の学生を派遣して、これを学ばせてきた。明治の国づくりにおいては、あらゆる分野で「洋行」留学生が活躍した。しかし、これはどうやら日本独特の体験らしい。自国の文化が世界一と考える中国では、近代初期の留学生は尊重されず、おおむね二流三流の地位に甘んじなければならなかった。なお、明治期には、西洋に留学した日本人留学生の数よりも、中国・韓国・ベトナムなどから来日した留学生のほうが「桁違い」に多かったという事実も、初めて認識したことなので、書きとめておこう。
これから先、日本人が異文化を受容せずに生きていくことはできない。では「東アジアで異文化の受容を意味あらしめるような人間の理想像」とはどのような人か。著者は、森鴎外を挙げる。なるほどね。鴎外は『鼎軒先生』の中で「時代は二本足の学者を要求する、東西両洋の文化を、一本づつの足で踏まへて立ってゐる学者を要求する」と述べているそうだ。しかし、鴎外の東西両洋の文化の踏まえ方は並大抵のものではない、一世紀にひとり出るかどうか分からない超人的なものだと思うのだが、著者が本書で論じているのは、明治の鴎外に比肩する知的エリートを養成することで、国民がこぞってピジン・イングリッシュ(実用英語)を喋るようになるか否かは、著者の関心の外であるようだ。
そして、できれば第二外国語をものして「三点測量」のできる「多力者」の養成が求められる。第二外国語のひとつとして日本語の古文あるいは漢文を数えてもよい。「三点測量は空間的だけでなく時間的に行なうこともまた有効だと判断するからである」と著者は付け加えている。これは、いまの高等教育が振り捨てて省みない「教養」の重視、と言い換えてもいいのではないかと思う。
本書の「はじめに」には「22世紀の日本列島に住む人々は、はたして何語を話しているだろうか」という設問があり、冗談とも本気ともつかない、5つの可能性が示されている。そして「あとがき」に「改めておうかがいしたい」とあって、再び冒頭の設問を考えさせる形式になっている。実は、本書を読む前と読み終わったあとでは、この設問に対する心持ちが、自分でも意外なほど変わっていた。世界の支配語である英語は学ばなければならない。しかし、日本語やその古典を棄ててはならない。知の巨人たちが描いた大きな三角形には及びもつかないが、私も三点測量を志す気持ちは忘れないでおこう。