見もの・読みもの日記

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馬・鉄・道の覇者/モンゴル帝国誕生(白石典之)

2017-08-01 21:44:53 | 読んだもの(書籍)
〇白石典之『モンゴル帝国誕生:チンギス・カンの都を掘る』(講談社選書メチエ) 講談社 2017.6

 考古学の手法によって、チンギス・カンとモンゴル帝国の実像に迫る試み。本題に入る前に、考古学とはマニアックで閉鎖的な学問ではなく、文理のさまざまな研究分野のハブとなる、客観的で協調的な学問である、という解説がある。そんなものかなあ?と思って、あまり共感しなかったが、本書を読み終えてこのページを開くと、あらためて納得がいく。

 著者のアプローチは実に多様だ。はじめにチンギス・カンが活躍した当時のモンゴル高原の気候を推定する。これには樹木年輪による古気候復元法が用いられる。チンギス勃興の頃は、寒冷期の極であり、同時に厳しい乾燥期でもあった。おそらく草原は大きなダメージを受け、遊牧民の生活にも影響があったはずだ。その中で、チンギスはヘルレン川上流というベストチョイスの冬営地を手に入れ、バヤン・オーラン山の南麓に進出した。確かに遊牧民にとって、よい宿営地を得られるかどうかは、実は定住民以上に切実な問題なのだなと思った。

 著者はチンギスの強みを「馬」「鉄」「道」に見出す。モンゴル人と馬の深い結びつきの紹介は面白い。チンギスの騎馬軍団の主力はモウコ種だったという。体高が低いので乗りやすく安定性があり、持久力と耐寒性に優れる。著者は現代のモンゴルでの体験や、南宋の使者の見聞記『黒韃事略』の記述を縦横に織り交ぜながら、チンギスの騎馬軍団のイメージを描き出していく。著者はチンギスの強みを、馬具や鎧の改良による軽騎兵化、機動力の発揮にあると考える。契丹(遼)、宋、金は重騎兵だったというのが面白い。そうか、楊家将の宋軍は重騎兵なのかあ。

 また、チンギスは鉄資源の入手に大きな関心を払い、金からインゴット(鉄の塊、のべ棒)というかたちで鉄資源を入手した。これは運搬に便利で、鉄鉱石や砂鉄のように精錬炉が要らないので、簡単な鍛冶炉があれば、移動生活の中でも鉄器を生産することができた。なんと頭のいい! モンゴル軍が鉄器(武器)を自給自足しながら遠征したという話は、宮崎市定氏の『中国史』でも読んで、とても印象的だったものだ。金との交易というと、工芸品や贅沢品が目当てだったようなイメージを持つが、鉄こそ最高の宝だったのだな。さらに、鉄資源の入手先を金だけに依存していては安全保障上の問題があるため、キルギスを攻略する。古くは漢人に謙謙州(ケムケムジュート)と呼ばれた鉄、銅の産地。現在、考古学的な調査が進行中だそうで楽しみである。

 チンギスは西夏にも侵攻している。史料には、ラクダの獲得が目的だったとあるそうだが、著者は、宋人が「天下第一鉄」と賞賛した西夏の鉄とその工人が狙いだったと考える。こうして鉄資源の多元的な調達経路を確保したチンギスは、ついに金と断交する。なるほど~。ドラマ『射雕英雄伝』が思い出されて感慨深い。なお、敦煌の安西楡林窟には西夏の鍛冶の様子を描いた壁画があるそうで、本書に図版が掲載されている。二人の工人が台上の鉄を打っている図。敦煌壁画も、日本の絵巻資料などと同じで、見る人の視点によって、いろいろな情報を提供してくれるのだな。

 最後に道(交通インフラ)。モンゴル高原統一を完了したチンギスは、アウラガに首都を定める(歴史教科書とは異なるが、著者はここを最初の首都と考える)。一般のゲルの三倍以上の方形の宮殿や、日干しレンガの建物がひしめきあっていた遺構が発掘されている。ここは寒冷期の滞在地で、チンギスはふつうの遊牧民と同様、后妃や役人、奴隷などを連れて、大集団で季節移動をしたと考えられている。ゲル車の移動には、古来の幹線道の整備が必要だった。チンギスは新たな道路の開削にも力を入れ、息子たちをアルタイ山脈方面に遣わして西方への進出ルートを開拓しただけでなく、兵站システムを整備した。でも彼らにとって、休息や食料の補給を考慮しながら移動することは、草原生活の基本中の基本であって、今さら「兵站」なんて言葉で呼ぶほどのことではなかったのではないか。

 対外戦争が本格化し、支配地域が広がると、各地に生産拠点(工房群や耕作地)と駅站が設けられ、駅伝制が整備された。網の目のように張り巡らされた駅伝路は、軍事、交易、情報伝達でモンゴル帝国を支えた。その様子は近年の考古学調査で明らかになってきたという。こうした研究調査の成果が、「征服者」モンゴル帝国のイメージをどのように変えてくれるのか、私はとても楽しみである。
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