見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

見どころは中国絵画/ボストン美術館の至宝展(東京都美術館)

2017-08-14 21:19:59 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京都美術館 特別展『ボストン美術館の至宝展-東西の名品、珠玉のコレクション』(2017年7月20日~10月9日)

 ボストンには2回、行ったことがある。もちろんボストン美術館を訪ねたが、特に印象に残る作品には会えなかった。まあ常設展はこんなものか、と思った。それよりは、2012年、東博で行われた『ボストン美術館 日本美術の至宝』展の興奮のほうが記憶に残っている。今回は、前宣伝がゴッホなど西洋美術推しなので、東洋美術は来ないのかな?と思っていた。特設サイトを覗いてみたら、歌麿、一蝶、それに蕭白の『風仙図屏風』も来ると分かったので、見に行くことにした。

 会場に入ると、まず古代エジプト美術。王の肖像の頭部など、彫刻が中心。ふだんあまり見ないので珍しい。どことなく南アジア(カンボジアなど)の仏像に似ていると感じる。メロン型のビーズ(でかい)の首飾など、装飾品や工芸品も面白かった。

 続いて中国美術。実は、中国美術が来ていることを認識していなかったので、人だかりの後ろから何気なく覗いたケースに、徽宗皇帝の『五色鸚鵡図巻』を見つけたときは、死ぬほど驚いた(私、日本国内にある『桃鳩図』も見たことないのに…)。解説によれば「徽宗の手によることが最も確実視されている作例のひとつ」だそうだ。巻子の前半には題詩(七言律詩)があり、後半に五色鸚鵡の絵が描かれている。ほぼ白に近い薄桃色の花の枝、題詩によれば杏らしいが、そこに頭は黒く、顔から胸にかけては赤く、体は草餅みたいな薄緑色の小鳥が止まっている。優美、たおやか。なんという女子力の高さよ。なお、図録の解説にある「ズグロゴシキインコ」で検索すると、もう少し南国風の小鳥の画像が現れる。しかし私は、絵以上に前半の題詩(御筆)に目が釘付けになってしまった。痩金体の書の美しさ。書法は繊細だが、文字は大ぶりで堂々としている。全部で10行もある徽宗の書を見たことは、あまりなかったと思う。

 それから、団扇型の絹本墨画淡彩(山水図)が2件。馬遠筆『柳岸遠山図』と夏珪筆『風雨舟行図』である。ひえ~よくぞ南宋絵画を持って来てくれました。次に羅漢図が2件。『施財貧者図』と『観舎利光図』で、どちらも「五百羅漢図のうち」と注記が添えられているのを見て思い出した。もと京都・大徳寺が所蔵していた五百羅漢図100幅の一部である。前者は貧者たちの描き方に容赦がなくリアル、後者は蝙蝠の羽根をつけた小鬼のようなものが飛んでいて面白い。中国絵画の最後は陳容筆『九龍図巻』。あ、東博の中国絵画室で時々見る『五龍図巻』の画家かな、と思ったら当たっていた(ちなみに今年3月、藤田美術館が売却した『六龍図』も陳容の作品だ)。『九龍図巻』の龍は、四本足(手足)の描き方に躍動感とリアリティがある。たぶん応挙はこういう中国絵画を学んだのだろうなあ。

 中国絵画にすっかり圧倒されたまま、日本絵画に進む。蕪村、司馬江漢、歌麿、抱一など、ほぼ江戸絵画のみのセレクション。個人的に最大の見ものは蕭白の『風仙図屏風』。六曲屏風の左半分に、天から真黒な渦巻きが下りてくる。写真図版では気づきにくかったけど、けっこう墨がむらむらで、斑点のような墨の跡もあって、ウナギかナマズの体のようだ。中央に剣を構える道士。アメコミみたい、というより武侠ドラマの登場人物みたいだと思う(周伯通とか洪七公とか)。画面の右側では、黒服の男と白服の男が強風にあおられて転げている。その後景では、白いウサギと黒いウサギが草むらに伏せている。白いウサギのびっくり顔がかわいい。疾風怒涛のつむじ風の衝撃を表すような背景(ぎざぎざ線の岩、樹木)の描き方が斬新。

 蕭白はもう1点『飲中八仙図』も来ていた。展覧会的に推しは、英一蝶の『涅槃図』。まあきれいだし面白いし、近年修復でよみがえった意義があるけど、背景に海(?)が描かれていることをのぞけば、よくある涅槃図だと思う。むしろ私が気になったのは、鳥居派による芝居の絵看板。宝暦8年(1758)江戸の中村座で上演された「錦木栄小町」という芝居だそうだ。色もかたちも単純化されているが、登場人物の衣装には、これを演じる役者の定紋が入っており、よくできた「広告」芸術である。知られる中では最も古い現存例とのこと。

 このあとは、ヨーロッパ美術(特にフランス絵画)とアメリカ絵画、最後に現代美術と版画・写真が続く。東洋美術を見た直後に、油彩の近代風景画を見ると、空の青、野山の緑の美しさに目が打ちのめされるような感覚を味わう。どうしてこんな絵具があり得たのだろう。私は油彩画ばかり見ていると飽きるのだけど、このくらいの量を見るのはちょうどいい。モネの『睡蓮』も1枚だけだと尊さが身に沁みるようである。花瓶の盛り花を描いたクールベとルノワールの作品があって、クールベはクールベらしく、ルノワールはルノワールらしいので、ちょっと面白かった。
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深川八幡祭り2017

2017-08-13 23:46:35 | なごみ写真帖
「深川の八幡さま」とも呼ばれる富岡八幡宮の例大祭(深川八幡祭り、2017年8月11日~15日)が行われている。今年は三年に一度の本祭りで、今日は丸一日かけて「各町神輿連合渡御」が行われた。

朝、とりあえず八幡宮に行ってみようと永代通りに出てみると、門前仲町の交差点から東は全面交通止めになっていて、各町の神輿が待機している。今年は大神輿が53基だという。あれ?神輿の一覧表(番付みたいな)には55番まであったのに、と思って、よく見ると4番と42番は欠番だった。なるほど。町内ごとに異なるデザインの半纏を着たかつぎ手が、神輿1基につき数十人から百人くらい待機している。朝早いこともあって、私のような普段着の見物客は少ない。これは見る祭りではなく、参加する祭りなのだなと感じた。

神輿は八幡宮の西側から順番に進んでくる。八幡宮の鳥居前で90度向きを変えて、神職にお祓いを受け、ついでにくるりと回ったり、激しく上下動したり、デモンストレーションしてから、東(木場)の方向へ進んでいく。



次にどの町内の神輿が来るのか、巡行の順番を記したチラシやパンフレットを見ればいいのだが、あいにく持っていない。こういうときは、神輿の一覧表をプリントした公式Tシャツを着ている人がちらほらいるので、そっと視線を送る。このTシャツ、背中にプリントされているので、本人のためにはならないが、周囲の人間には大変ありがたい。

↓私の町内会(永代二丁目南)の神輿。深緑色の半纏がめずらしく、オシャレなのだ。



西に進んで最初の交差点で「富二(富岡二丁目)のおもてなし」の看板を掲げた壇上から、容赦なく水が浴びせられる。深川八幡祭りは、別名を「水かけ祭り」とも呼ばれるのだ。



BGMは主に太鼓だが、お囃子も出ていた。少人数なのに笛の音がよく通っていた。そしてテンポがすごく速い。



神輿の出発を半分くらい見届けたところで、いったん家に戻り、小休止。神輿は大門通りを北上し、深川資料館通り~清州通りを経て清州橋を渡り、再び永代橋を戻ってくるので、12時頃、橋の様子を見に出かけた。先頭の神輿が現れた頃は大混雑だったが、何しろ50余基もあるので、次第に人も減り、ゆっくり見物することができた。

橋の前後には消防庁の職員が待ち構えていて、威勢よく水をかけてくれる。これは西の橋詰(新川側)。





橋の上は風が通って涼しかった。大勢で足を踏み鳴らすと、心なしか橋が揺れる気がする。永代橋は、江戸時代に、この深川八幡祭りの人出に耐え切れず、崩落した歴史があるが、まあ今の橋は大丈夫だろう。



永代二南の神輿は、先頭に車椅子に乗ったおじいちゃんがいて、介添えの人は、神輿におじいちゃんの顔を向け、後ろに車椅子を引きながら、そろそろと進んでいた。あと、この集団は女性が多くて、二つに割った竹(?)をカチカチ鳴らして、賑やかにリズムを取っていた。



永代通りに戻った神輿は、再び八幡宮の鳥居の前まで行き、神職に水をかけてもらう。そのあとも、意気軒高と東へ進んでいくので、もう1周するのか?と目を疑ったが、練り歩きながらそれぞれの町に戻るらしい。私も家に戻って涼んでいると、午後4時頃、町内の神輿が帰ってきた。ご苦労様でした。

おまけ:総代の半纏は、背中に八幡宮のハトが八の字を描く。かわいい。



提灯。「八幡宮」の文字が楷書のものと行書(草書?)のものがある。我が家の近所は後者が多い。



しかし、こんな広範囲の町を束ねたお祭りが成立するって、東京も捨てたものじゃないねえ。楽しかった。
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信仰の場の復元/祈りのかたち(出光美術館)

2017-08-11 14:44:05 | 行ったもの(美術館・見仏)
出光美術館 『祈りのかたち-仏教美術入門』(2017年7月25日~9月3日)

 仏画を中心とする出光コレクションの中から代表的な仏教美術作品を厳選し、信仰と荘厳の諸相を示す展覧会。同館としては、珍しいテーマ設定のような気がする。

 冒頭には奈良時代の『絵因果経』。瞑想する釈迦のまわりを悪鬼たちが取り囲む場面が展示されることが多いが、今回、その少し前の場面も開いていて、三人の美魔女が邪魔をしようと近づくが、次の場面で腰のまがった老婆になって去っていくのが可笑しかった。あとで図録を眺めていたら、釈迦を取り囲む悪鬼についての記述がとても詳しく「諸獣頭或一身多頭或面各一目」というぐあいに「或(あるいは)」で、さまざまな異類の姿かたちが挙げられている。「大腹長身」とか「頭在胸前」なんてのもある。経文って、こんなファンタジックな内容もあるのか。そして、それなりに経文の内容を踏まえた絵が添えられている。これは漢文の読めるお坊さんが絵を描いたのかなあ、それとも絵師の創作のために、漢文をやまとことばに翻訳して語り聞かせたのかなあ、などと想像した。

 それから、小さくて美しい金銅仏がたくさん出ていた。多くは古代中国(西晋~北魏~隋唐)のもので、朝鮮・統一新羅時代のものや日本の白鳳時代の水瓶を抱いた観音菩薩像もあり、中国・明代の青銅観音菩薩もめずらしかった。出光に金銅仏コレクションがあることをあまり意識していなかったので、非常に新鮮だった。ときどき見せてほしい。

 西晋時代の『青磁神亭壺』は、壺の上に人や動物の姿を盛り盛りに飾りつけたもの。特に中央部にうず高く盛り上がっているのは、木の葉かと思ったら鳥の群れだった。注目は壺の側面で、蟹やナマズや鳥・けものに混じって、仏坐像が貼り付けられている。当時の人々の仏教・仏像に対する考え方があらわれている、という解説がとても興味深かった。ちょっと諸星大二郎的な古代世界。

 本展の見どころのひとつは、旧・内山永久寺真言堂の障子絵『真言八祖行状図』8幅の、配置復元展示である。真言八祖は(1)龍猛(2)龍智(3)金剛智(4)不空(5)善無畏(6)一行(7)恵果(8)空海であるが、お堂の「東」側=胎蔵界曼荼羅の背後に、左から(5)善無畏(6)一行(7)恵果(8)空海が並んで「春」の景を示し、「西」側=金剛界曼荼羅の背後に、左から(4)不空(3)金剛智(2)龍智(1)龍猛が並んで「秋」の景を示した、と考える。会場には、左から《秋》(4)不空(3)金剛智(2)龍智(1)龍猛、《春》(5)善無畏(6)一行(7)恵果(8)空海の順に一列に並んでいた。もちろん観客は右から左へ進んでいく。うーん、興味ある試みだと思うが、これが正解なのかどうかはよく分からない。

 また『十王地獄図』(鎌倉~南北朝)双福についても、従来の展示とは左右を入れ替え、中央に地蔵菩薩立像を置くという配置が試みられており、面白かった。これ、刀葉林地獄といって、樹上の美女を追いかけて傷だらけになる哀れな男性は多くの地獄図に描かれているのだが、対幅に樹上のイケメンに目のくらんだ女性もちゃんと描かれているのが珍しい。また、十王のそばに白面朱唇のお小姓みたいな侍者(いちおう一人前の官服を着ている)がついていているのもあまり見たことがない。画面を覆いつくす赤は血と炎の色で、地獄の鬼も赤色をしているのを見ていると、当時の人々にとって「赤備え」の軍団がどれだけ禍々しかったか、分かるような気がした。

 ほかにも仏画の名品が多数。個人的には、南北朝時代の金身の十一面観音菩薩図、唇の赤い地蔵菩薩来迎図が好み。美麗すぎてある種の残酷さを感じる。室町時代の羅漢図、禅宗の頂相もいい。臨済義玄はいつ見ても怖い顔で、いつでも殴りかかる準備をしているように見える。最後は仙厓の禅画で少し和む。
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門前仲町グルメ散歩:イタリアンで暑気払い

2017-08-10 22:17:21 | 食べたもの(銘菓・名産)
我が家の近所まで来てくれた友人と暑気払いディナー。お店は、ネットで見つけた『びす寅』。裏通りの小さなお店だったけど、よく流行っていて、マスターと、アルバイトだというお姉さんが、できぱき働いて回していた。気取らない家庭料理ふうで、でも美味しさはプロの味。

前菜盛り合わせ


イワシのサラダ


牡蠣のグラタン


骨付き羊肉のロースト?


また食べに行きたいけど、なかなか近所まで来てくれる友人が少ないので、次はいつになるだろうか。
ほかにも入ってみたいお店があるし。

明日からの夏季休暇は、遠出をしないで過ごす予定。
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『おんな城主直虎』を応援する/戦国!井伊直虎から直政へ(江戸東京博物館)

2017-08-08 23:27:07 | 行ったもの(美術館・見仏)
江戸東京博物館 2017年NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」特別展『戦国!井伊直虎から直政へ』(2017年7月4日〜8月6日)

 大河ドラマ『おんな城主直虎』を、とても楽しく見ている。ときどき胃が痛くなるような楽しさだが、それもまたよい。正直、始まる前は、ほとんど史料がなく、実像も明らかでない女性を主人公にして、大河ドラマが成立するのだろうかと不安に思っていたが、全く杞憂だった。脚本の森下佳子さん、さすがだ。

 私の場合、大河ドラマを見る習慣がついたのは2007年の『風林火山』からで、同時に大河ドラマ連携展示とでもいうべきイベントがあることを知って、毎年、楽しみにするようになった。ただ『直虎』周辺に関しては基本知識がなく、ドラマを見て初めて知る人物や事件が多いので、なるべく物語が進んでから展示を見に行こうと決めていた。そして、とうとう東京展の最終日となった8月6日(日)に見てきた。

 冒頭は今川家セクションで、今川氏親の木像、寿桂尼朱印状、今川家式目(今川仮名目録、写本)、太原雪斎の頂相および木像など。かつて『風林火山』で今川家に興味を持ち、今川家の菩提寺である臨済寺(静岡市)や太原雪斎が住職をしていた清見寺(静岡市)を訪ねて、ゆかりの寺宝を拝したいと思ったが、実現しないまま、時が過ぎていた。ようやく念願が叶ってありがたい。織田、武田関連の品もあり、『武田二十四将図』では、やっぱり山本勘助の姿を探す。武田勝頼奉納の箏(富士山本宮浅間大社)をしみじみ眺める(悲運の武将を思って、しみじみする品が多い)。四角い赤地の布にムカデを描いた『百足旗指物』は武田らしくてテンションが高まる。武田家臣山本家伝来、ただし、江戸時代の品という。「直虎時代の絵画」では『富士三保松原図屏風』『帝鑑図・咸陽宮図屏風』など、静岡県立美術館(行ったことがない)の名品を見ることができた。後者は、高橋是清の旧蔵品だそうだ。

 続いて直虎と井伊谷のセクション。ここは大河ドラマの効果を実感する。少なくとも私は、井伊直盛とか井伊直平と聞いても、『直虎』を知らなければ、何も気持ちが動かなかったと思う。それが、ドラマの効果は絶大で、演じた俳優さんの顔が浮かび、懐かしく慕わしく感じられる。亀之丞(井伊直親)が井伊谷に帰るに際して奉納したと伝える『青葉の笛』(浜松・寺野六所神社)にも感激した。伝承は歴史の一部。こういう展示もあっていいものだと思う。龍潭寺所蔵の井伊直親木像は撮影OKコーナーにあって、若い女子が「直親とツーショット撮りたい」と嬉しそうだった。私は、昊天さんと傑山さんの頂相が嬉しかった。南渓和尚の頂相は展示期間が短くて、見られなかったのが残念。

・井伊直盛木像


・井伊直親木像


・傑山宗俊印可状(部分)※全て所蔵は井伊谷・龍潭寺


 そして、特別大事に展示されていたのが『井伊直虎・関口氏経連署状』(浜松・蜂前神社/浜松市博物館保管)。これが直虎の名と花押が記された唯一の書状であることは、いちおう知っていたので、じっくり眺めた。なお、この日の夜が『直虎』第31回「虎松の首」の放送日で、ドラマの中で直虎が、現存古文書そっくりの連署状に花押を記す場面があったのは、制作陣に「分かってるね!」と拍手を送りたい。このほか、井伊谷徳政令関係の古文書も複数あり、小野但馬守政次や瀬戸方久の名前を見ることができた。小野但馬守政次は「小但」、井伊の次郎法師は「井次」とか、省略形が多用されているのが面白かった。全文翻刻と現代語訳を、ありがとう!!

 そのあとは、徳川家康と四天王(酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、そして井伊直政)、さらに直政による彦根藩創設への道程が紹介されている。『直虎』がどこまでを描くのか分からないが、本当はドラマを見てから展示を見たかった。『長久手合戦図屏風』や『関ケ原合戦図屏風』は、類例を何度か見ているはずだが、誰に感情移入するかで、ずいぶん違った風景が見えるように思う。本多忠勝の『黒糸威胴丸具足』(数珠を巻き付けたもの)は、何を考えていたんだか呆れるほどスゴイ。彦根藩井伊家二代直孝の所用の『朱漆塗紺糸威縫延腰取二枚胴具足』は、典型的な「井伊の赤備え」で、兜の側面に金箔押しの長大な天衝を立てる。直政所用の兜と同じ様式で、その姿から「赤鬼」と呼ばれたというが…これじゃ歩けないだろ、と思った。現在は紺糸を用いているが、元来は黒糸だったとのこと。ふーむ、どっちがカッコいいかな。

 なお、図録を見たら、同型の「赤備え」の甲冑は複数伝来している。直政所用と伝える一具は、東京展には出ていなかったので、静岡展か彦根展には出るのだろう。赤地に金で井桁を描いた井伊の旗印『朱地井桁紋金箔押旗印』も、東京展には関ケ原の戦いで用いたと伝わるものが展示されていたが、ほかにも複数あるそうだ。あと、東京展には出ていないのだが『井伊家歴代画像』(歴代当主大集合の図)見たいなあ。久しぶりに彦根城に行こうかなあ。図録には、井伊家ゆかりの名所案内(浜松、彦根)もあって、旅心を誘われる。

 ドラマは視聴率が伸び悩んでいるそうだが、変な方向転換やテコ入れをせず、現在のテイストを最後まで貫いてほしいと思っている。私はここまで大満足である。『風林火山』『平清盛』『真田丸』に続く、4本目の完走大河にたぶんなると思う。
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民俗学は今も可能か/21世紀の民俗学(畑中章宏)

2017-08-07 21:16:36 | 読んだもの(書籍)
〇畑中章宏『21世紀の民俗学』 KADOKAWA 2017.7

 21世紀に起きた(起きている)事象について、民俗学の切り口から語ったもの。著者の名前には、どこかで見覚えがあったが、思い出せないまま、読み終えた。雑誌(というかウェブマガジン?)「WIRED.jp」に連載されていた原稿だというのは、読みながら知った。本書の直前に読んだ諸星大二郎『暗黒神話』の感想を書こうと思って自分のブログを開いたら、『諸星大二郎「暗黒神話」と古代史の旅』(平凡社 太陽の地図帖、2014)に著者の畑中章宏氏の名前を見つけた。そうか、この本で出会っていたのか、と思わぬ偶然に少し驚いた。

 私は、昔から民俗学という学問が好きだった。柳田国男や折口信夫はもちろん、1980年代には、宮田登とか赤坂憲雄とか小松和彦とか、歴史的・伝統的な事柄だけでなく、同時代の社会現象を民俗学的な手法でとらえなおす試みに強い共感を持っていた。著者の言葉を借りれば、私はこんなふうに感じていたのだ。「全く新しいと思われていることが古いものに依存していたり、古くさいと思われていたことが新しい流行のなかに見つかる。民俗学の方法を用いることで、時代に左右されない本質を探すことができる」と。

 著者は序文で「感情」の重視を言い、東日本大震災について語り始める。震災後、社会学者や土木工学者による分析を目にするたび、数字が伝える情報は貴重だけれども、「感情に踏み込んだ論評があまりにも少なすぎると感じた」という。これも分かる。私は、80年代にどっぷり民俗学に浸かって以降、20年ぐらい民俗学から離れていた。ところが、東日本大震災後にさまざまな震災本を読んだ中で、いちばん腑に落ちたのは赤坂憲雄さんの『ゴジラとナウシカ』だった。事実や現実だけが「リアル」ではないということを、あの大災害は、思い出させてくれたような気がする。 

 とはいえ、本書は、はじめから終わりまで、そのような鎮魂ムードが前面に出ているわけではない。21世紀の日常生活の中心と周縁から、さまざまな事象が取り上げられる。たとえば、自撮り棒、アニメ聖地巡礼、ホメオパシー、宇宙葬、無音盆踊り、ポケモンGOなど。自撮り棒に「幻のもうひとり」の存在を見出して、ザシキワラシにつなげたり、「一つ目一本足」の妖怪を思い出すのは秀逸。宗教施設の本質を見失ったアニメファンの聖地巡礼を嘆くのは、意外とおじさん発想だった。第二のアメリカ国歌といわれるポール・サイモンの「アメリカのうた」を考え、奈良の「きな粉雑煮」を語り、踏車(ふみぐるま)やテグスなどのテクノロジーがもたらした生活の変化に思いを馳せたりする。

 繰り返し、立ち返るのは「死者」の問題である。マンションなどの、いわゆる事故物件に関連して、むかし隅田川河畔(日本橋中洲)に住んでいたことを振り返り、墨田川は、関東大震災、東京大空襲、それ以前の江戸時代の大火や地震で多くの人々が身を投じた、由緒正しい「事故物件」であると述べる。死者の記憶を持たない土地など、ほとんどないのである。死者の政治参加のため「河童に選挙権を!」という主張は、どこかで聞いた覚えがあったが、20世紀のはじめに柳田国男が同様の主張をしていたとは知らなかった。

 最終章の「大震災の『失せ物』」は少し特異な文章で、ああ、これは書き下ろし原稿だなと読みながら考えていた。ひとことで言えば、21世紀の民俗学は可能か、どのようにして可能か、という問題を、民俗学の歴史を遡りながら考えている。1987年、アエラムックの1冊として『民俗学が分かる。』が刊行された。私は読んでいないが、同書の巻頭に「民俗学への誘い」を書いたという宮田登さんの名前はよく記憶している。80年代に私はその著作を貪るように読んだ。一度だけ、西武池袋のコミュニティカレッジで、直にお話を聞く機会もあった。でも宮田先生は63歳で(若い!)急逝してしまった。著者の「わたしにとって宮田は、柳田以降、最も民俗学者らしい民俗学者で」あったという回想にしみじみ共感した。

 それから、渋沢敬三、宮本常一、赤松啓介、南方熊楠などに加え、「考現学」の今和次郎、「風俗学」「生活学」の多田道太郎、「社会学」の見田宗介、「歴史学」の色川大吉などの業績が丁寧に語られている。でも、やっぱり始原の柳田に尽きる。「歴史の過程」を明らかにするのが民俗学の本意であるとか、「歴史は他人の家の事蹟を説くものだ、という考えを止めなければならない」(当事者意識の重要性)などの柳田の言葉は、今も私たちに強く呼びかけている。
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選ばれた少年/暗黒神話(諸星大二郎)

2017-08-06 23:45:33 | 読んだもの(書籍)
〇諸星大二郎『暗黒神話』 集英社 2017.3

 2014年に刊行された『諸星大二郎「暗黒神話」と古代史の旅』(平凡社 太陽の地図帖)の感想にも書いたが、私はかなり古くからの諸星ファンであるにもかかわらず、代表作「暗黒神話」を読んでいなかった。意識的に避けていたわけではないので、偶然としか言いようがない。しかし、同書を読んで、これはどうしても『暗黒神話』を読まなければと思い立ったのだが、なかなか探し出すことができなかった。そして、とうとう「完全版」を名乗る本書を手に入れた。

 購入した後、すぐに読んでしまうのが勿体なくて、1ヶ月ほど寝かしていたのだが、この週末、ついに読んだ。すごいねえ。ある意味、思ったとおりであり、ある種、想像を超えた物語だった。東京の武蔵野に住む少年・武(たけし)は、ひとりで長野県茅野市尖石考古館を訪ね、縄文土器に見入っていると、自称歴史学者の竹内という老人に声をかけられる。武の父親は、かつて蓼科(諏訪)の山中で何者かに殺され、幼い武は右肩に傷を負った。13年後、武の父の死の真相をめぐって、さまざまな人々が武の前に出現する。

 物語は、諏訪-出雲-(熊本)-国東-飛鳥-奈良-京都-焼津、そして武蔵野(東京)へと展開する。クマソの後裔を自認する菊池一族の当主・菊池彦は、選ばれし者(アートマン)の強大な力を得ようと画策するが、ムサシの古代人の後裔である武は、八つの聖痕を得てアートマンとなり、時空の彼方でブラフマン即ちスサノオと対面する。いま『古代史の旅』の読書メモを読み返して、なるほど原作とは、こういう対応であったのかということをあらためて確認している。原作を知らないまま「キーワードは馬(なの?)」などと考えていたが、なるほど、こういうことだったのか、と納得した。

 本作には実在の遺跡や寺院が多数、効果的に登場するが、国東半島の施餓鬼寺はフィクションのようだ。ただ施餓鬼会を行うお寺はあるらしい。施餓鬼寺の馬頭観音菩薩坐像のモデルは、福井の中山寺の馬頭観音かなあ。顔は、渡岸寺の十一面観音の背面にある暴悪大笑面を混ぜているようだ。つくづく馬頭観音は謎が多いし、魅力的だと思う。また、人々を悪鬼と守るため、比叡山の慈空阿闍梨と慈海上人が法力で戦うことには、すごくリアリティを感じてしまった。今なお、そのような活動が行われていても、私はあまり驚かない。

 仏教と神道と、そのどちらでもない土俗的・古代的な信仰や神話が混然と混じり合い、それなのに、何かとても純粋なものを感じさせる寓話である。初出は1977-78年で、本書には2014年に『画楽.mag』に連載された「完全版」をベースにさらに加筆したものが収録されている。もちろん武の服装など時代を感じる要素はあるけれど、物語の骨格は全く古びていなくて、たぶん50年後、100年後にも新しい読者を魅了する物語ではないかと思う。特にこの国に生まれた読者を。
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大河ドラマ原作を読む/風林火山(井上靖)

2017-08-05 23:13:44 | 読んだもの(書籍)
〇井上靖『風林火山』(新潮文庫) 新潮社 2005改版

 井上靖の歴史小説は、中学生の頃にずいぶん読んだ。『敦煌』『青き狼』のような中国ものや『額田女王』のような古代史ものが好きだったが、戦国時代には興味がなかったので、本作は読まなかったと思う。

 その後、2007年に大森寿美男さんの脚本でNHKの大河ドラマになった。当時の私は、大河ドラマにも時代劇にも全く興味がなくて、ふうん風林火山、武田信玄の話ね、という程度の認識だった。それが、4月頃だと思う、たまたまテレビをつけていたら、穏やかならぬ展開の時代劇をやっていて、誰が誰やら分からぬままに最後まで見てしまった。それが『風林火山』第16回「運命の出会い」で、第1話からYou Tubeで追っかけ視聴し、生まれて初めて大河ドラマを「完走」する体験をした。視聴率的にはあまり振るわない作品だったが、その後、時代劇チャンネルなどで繰り返し放映され、今年は4月からNHK BSプレミアムで再放送中である。SNS(本放送当時はなかった)に熱い感想が流れてくるのが、懐かしくて嬉しい。

 そんなわけで、あらためてこの原作本を読んでみた。そして、よくこんな小説を大河ドラマにしようと考えたなあと驚いてしまった。主人公の山本勘助にはカッコよさや爽やかさは微塵もない。小説冒頭に登場する勘助は、浪人の身で既に五十歳に近く、今川家に仕官を申し出ているが、いまだ叶えられない状態である。浪人仲間の青木大膳(架空キャラ、ドラマにも登場)から見た勘助を描いているのが秀逸で、不気味で信用がおけず、才気はあるのかもしれないが、人の蔑みや憎しみを掻き立てる存在であることが示される。これに比べれば、ドラマ内で内野聖陽さんが演じた勘助は、ずいぶん魅力的に描き変えられている。

 勘助は板垣信方に取り入り、武田晴信(信玄)への仕官に成功する。晴信は勘助を暖かく迎え入れ、幼い頃から蔑視の中で育ち、地上のあらゆる人物が嫌いだった勘助は、この若い武将に初めて好感を持つ。なお、晴信が勘助を重用した背景として、父信虎に疎まれ、不遇な少年時代をおくったため、妙に異相人や逆境にある武士の肩を持つ性癖があった、という説明があり、腑に落ちた気がした、

 晴信の諏訪攻めに参加した勘助は、諏訪頼重の娘・由布姫に出会い、その不可思議な魅力にとらわれて命を救う。以後の勘助は、晴信という大将を愛し、その側室となった由布姫を愛し、その間にできた四郎勝頼を愛して、晴信とともに戦い続ける。由布姫の死に接して以降は、勘助にとって勝頼の存在が由布姫と一体化する。勝頼の初陣を夢見ながら、ついに川中島の乱戦の中で果てる。

 ドラマ放映時は、由布姫(柴本幸)が不評を呼んだことを記憶している。私は嫌いではなかったが、戦国の女性らしくない性格づけだなあと思っていた。今回、姫の性格づけや行動は(「自刃なんて嫌」「せめて私一人は生きていたい」というセリフも)ほぼ原作どおりであることが分かった。親の仇である晴信を憎みながら愛してしまい、ひとりで諏訪から甲斐に戻ろうとして勘助を慌てさせるエピソードも原作にある。由布姫に忠誠を誓う勘助が、晴信の第二の側室、於琴姫を亡き者にしようとするところも。

 要するにドラマでは、男女関係の機微を中心としたパートは、あたかも視聴者獲得のために後付けされたように見られていたが、全て原作どおりだったのだ。むしろ、板垣信方と甘利虎泰の壮絶な戦死とか、長尾影虎(謙信)の脅威とか、今川・北条との駆け引きなど「戦国」らしいパートが全て脚本の創作だったことに、いまさらだが驚いてしまった。

 小説では、五十歳過ぎまで人を愛することと無縁であった勘助が、十五歳の由布姫に畏敬とも忠誠ともつかない愛情を持ち、そのわがままに翻弄されることに喜びを見出す。これは小説としては面白いが、大河ドラマの軸に置くには難しい関係だと思う。たぶん「気持ちわるい」などの反発が起きるだろう。大河ドラマでは、まず勘助と由布姫にそれほどの年齢差を感じさせないビジュアル(配役)になっているし、由布姫に出会う前の勘助にミツというヒロインを設定して、勘助が異相人ではあるが平凡な人間であることを示し、感情移入しやすくしている。

 それでもなお、原作の、異相人として(つまり尋常の幸福をあきらめた人間として)生きた山本勘助の面影はドラマにも生かされており、このドラマの魅力のひとつになっていると思う。
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2017年7月@関西:源信(奈良博)+東大寺俊乗堂、大湯屋公開

2017-08-03 21:58:03 | 行ったもの(美術館・見仏)
奈良国立博物館 1000年忌特別展『源信:地獄・極楽への扉』(2017年7月15日~9月3日)

 恵心僧都源信(942-1017)の千年忌を記念する特別展。はじめにその生涯をたどる。源信が現在の奈良県香芝市の生まれで、生誕の地に阿日寺(あにちじ)という寺院があることを初めて知る。阿日寺所蔵の源信坐像(江戸時代)が展示されていたが、このひとはあまり特徴のない顔立ちだなあと感じる。類例の少ない『恵心僧都絵伝』(江戸時代)は興味深かった。高雄寺の観音菩薩立像(平安時代)は、源信の母が子授けを祈願したと伝えられ、丸顔で優しい面差しである。

 源信は9歳で比叡山の慈恵大師良源に入門し、得度して横川の恵心院で暮らす。こわもての個性的な面相の僧侶の像があると思ったら、慈恵大師だった。あとのほうに慶滋保胤(出家して寂心)や増賀上人に関わる文物もあって、学生時代、中世文学の演習で、こうした出家者たちの逸話を学んだことを懐かしく思い出した。前半は文書資料が多くて地味だが、国宝『一遍聖絵』巻七を見ることができたのは眼福(7/30まで)。

 第1展示室の後半から「『往生要集』と六道絵の世界」が始まる。まず目を奪われるのは、滋賀・聖衆来迎寺の『六道絵』15幅(鎌倉時代)。過去に大津歴博の特別展で一度だけ見たと思っていたが、確認したら12幅だけ(3幅は摸本、写真)だった。15幅揃いは初体験か! 八大地獄が4幅しかないので、まだ他にあるのかな?と思ったが、「閻魔庁1、地獄4、人道4、餓鬼1、畜生1、阿修羅1、天人1、念仏による救済2」という15幅構成だった。描線も彩色も細部までよく残っている。会場の入口と出口に、たぶんこの作品の高精細写真が使われていたが、地獄の鬼が等身大になるくらいまで拡大しても迫力が損なわれないのがすごい。

 ふと背後の一角にあやしい雰囲気を感じて、吸い寄せられるように近づいてみると、地獄絵を集めたコーナーだった。東博所蔵の『地獄絵』が4場面全て開いている。これ、よく読むと「仏道修行者に酒を飲ませた者」「水で薄めた酒を売った者」「旅人に酒を飲ませて盗みをはたらいた者」など、全て酒にまつわる罪を犯した者が堕ちる地獄なのだ。『沙門地獄草紙』断簡は3点。そして『辟邪絵』は5点が並ぶ。壮観!! 後期展示の『病草紙』『餓鬼草紙』も気になる。第1展示室(東新館)の最後には、東大寺の閻魔王坐像が睨みを効かせていた(もとは念仏堂にあったというが、今はふだんどこにあるのだろう)。

 続いて西新館は「来迎と極楽の風景」がテーマ。最初の部屋は彫刻中心で、京都・即成院の二十五菩薩坐像から3躯、平等院鳳凰堂の雲中供養菩薩像1躯、当麻寺の練供養で使われる菩薩面などが展示されていた。次室は仏図が主。地獄絵に比べて極楽や来迎の図は面白くないという思い込みがあったが、そんなことはないということを認識した。特に来迎図は個性や変化があって面白い。私も年を取ったら、毎日、来迎図を眺めて暮らしたいと思った。

東大寺 特別公開『俊乗堂』『大湯屋』(2017年7月1日~31日)

 通常年2日(7/5、12/16)のみ公開している俊乗堂を開扉し、鎌倉時代の浴場である大湯屋を初公開するというので行ってみた。俊乗堂は、以前、一度だけ入ったことがある。というか、俊乗坊重源上人坐像は、近年、さまざまな展覧会で「出開帳」されていて、席の暖まる暇がなさそうである。堂内には、重源上人坐像を中央に、左奥には愛染明王坐像、右奥には快慶の銘を持つ阿弥陀如来立像。重源上人坐像は、すごく高い壇に乗った、小さな厨子(扉は開放されている)に収まっていた。扉が閉まったらひどく窮屈そうで、これは出開帳に連れ出してあげたくなるなあと思った。行基堂と念仏堂の間にある建物で御朱印をもらう。俊乗堂関連だけで、重源上人・阿弥陀如来・愛染明王の3種あるというので、全ていただくことにした。

 俊乗堂の脇に「→大湯屋」という案内板が出ていて、ここから大湯屋方面に下りる道があることを初めて知った。が、久しぶりの東大寺なので、三月堂と二月堂に寄っていく。三月堂は人が少なくて静かだった。2011~2013年の修理工事に伴い、諸像の一部が東大寺ミュージアムに移動してから、すでに4年になる。混雑していた空間がひろびろして、不空羂索観音の巨体に似つかわしくなった。過去の自分のブログを見たら「不空羂索観音と日光・月光菩薩は、私の記憶の中ですっかり一体化している」なんて書いているけど、今回、私は日光・月光の存在を最後まで思い出さなかった。人間の記憶なんてこんなものか。なお、床が簀子敷きになっていたけど、以前からそうだったかしら。夏仕様なのかな?

 二月堂を経由し、大湯屋へ。私は大湯屋の前の田んぼの風景が好きだ。実は「二月堂供田」と呼ばれ、修二会のお供え用の餅をつくるための餅米を栽培しているのだそうだ。大湯屋は、ちゃんと板張りの床があって、靴を脱いであがると、中央に板壁に仕切られた(窓あり)一区画があり、中に赤金色に輝く丸い「鉄湯船」が鎮座している。入口の反対側に土間(釜場)があるようだったが、そこは下りられなかった。鉄湯船には、建久8年(1197)に南無阿弥陀仏(重源の号)のために豊後権守(草部是助)が鋳造したとの銘があるという説明だったが、判読できなかった。草部是助って誰?と思ったが、調べたら、大仏復興に協力した鋳物師の一人であるそうだ。

JRおでかけネット:ちょこっと関西歴史たび「世界遺産 東大寺」
 上記は東大寺の公式サイトからリンクしているページだが、今回の特別公開以外にも、8~9月に気になる企画が用意されているのを見つけてしまった。境内ガイドウォークに参加すると、二月堂の内陣に入れるのか…。それって、かなり魅力的である。
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2017年7月@関西:京博すいぞくかん、他

2017-08-02 20:46:37 | 行ったもの(美術館・見仏)
高麗美術館 『福を運ぶ朝鮮王朝のとりたち』(2017年7月27日~12月5日)

 週末の京都。東京にまさる暑さに辟易して、冷房の効いた美術館・博物館を渡り歩いて過ごすことにした。高麗美術館では、2017年の干支である酉(トリ)にちなむ展覧会を見る。トリにちなんだ朝鮮工芸といえば、婚礼道具でもあるペアの木雁を思い出す。もちろん会場にも展示されていた。『刺繍花鳥図屏風』は鳥の羽色のグラデーションが丁寧に表現されているのに、岩の凹凸の色分けが大胆で、現代アートみたいで面白かった。民画の花鳥図は驚くほどゆるいが、文人の水墨画は巧みである。日本の水墨画とあまり見分けがつかない。

京都市考古資料館 特別展示『極楽浄土への想い-鳥羽法皇と鳥羽離宮金剛心院跡-』(2017年7月15日~11月26日)

 平成28年度に「鳥羽離宮金剛心院跡出土品」が京都市指定有形文化財となったことを記念する展覧会。資料館1階の特別展示コーナーという、そんなに広くないスペースで「入場無料」の展示だが、バラエティ豊かな出土品の数々が並び、充実した内容だった。鳥羽離宮は平安時代末期、白河上皇によって造営が開始され、代々の上皇による院政の舞台となった。はじめに壁を取り巻く写真パネルの列から眺めていく。鳥羽離宮の発掘調査は1960年代に始まり、現在までに150回を超えるという説明に驚く。1970年代後半の鳥羽地域の航空写真があったが、のどかな田畑の中に不似合いに巨大なインターチェンジが鎮座している。こんもりした茂みは天皇陵と城南宮。住宅は少ない。鳥羽離宮跡は、すでに公園として整備されている。私は、数年前にこの一帯を歩いたことがあり、平安時代の復元図と大きく異なるのはもちろんだが、1970年代と比べても、今ではすっかり風景が変わってしまったことを感じた。(※懐かしいので、2013年の記事

 発掘風景では、池の跡に有磯ふうの石組が見つかり、今も水脈が生きていて、湧き水でいっぱいになっている写真が興味深かった。金剛心院・釈迦殿の基壇は、20cm前後の石を平坦に敷きつめ、土を重ねるという作業を10回ほど繰り返している様子が、写真からよく分かる。すごい! 見つかった地鎮の壺(猿投窯の灰釉陶器)も展示されていた。ちなみに現在、この一帯は、壮観なほどのラブホテル街で、発掘現場の記録写真にあやしい看板が写り込んでいるのにちょっと笑ってしまった。展示の出土品であるが、皿は土師器、青磁、白磁のほか、漆器(黒地に赤文、赤地に黒文)もあった。漆器の扇の骨も。木製のサイコロ(目は穴を穿っている)、独楽、将棋のコマは今と同じ五角形をしている。瓦は播磨産、山城産、讃岐産など産地が分かるらしい。墨文字の書かれた杮経、経石、陰陽道ふうの呪符もあった。金色の輝きを残す『鴛鴦文八双金具』は、ひときわ目立つように別置されているが、かえって見逃しやすいので忘れないように。2階の常設展示も久しぶりに寄ってみた。土器のかけらや屋根瓦(平安時代?)に触れるコーナーなどがあって楽しい。地味にスゴイ資料館である。

京都国立博物館 特集展示・京都水族館連携企画『京博すいぞくかん-どんなおさかないるのかな?』(2017年7月25日~9月3日)

 「見どころ」の説明に「京博はじめての子ども向け展示」とあるのを読んで、へえ、そうだったか、と思った。京博は2011年に『百獣の楽園-美術にすむ動物たち-』という展覧会をやっていて、オトナも子どもも楽しめる、素晴らしい内容だった。今回はその水中生物版を期待して見に行った。2階の5部屋が全て会場になっており、「おさかな」(伝説の生き物を含む)を表現したり、材料とした工芸や書画が展示されている。京都水族館の下村実館長による種名の鑑定とコメントが面白い。

 斉白石筆『紅蓮遊漁図』には、大きな口が目立つ変な顔の小魚が描かれているが、これは「カワヒラ」といって中国の多くの歴史書に出てくる魚で、5000年前頃までは日本にもいたが、今はいないのだそうだ。中国の古辞書『玉篇』には「魚へん+合」という漢字の説明に、六本足でトリの尻尾があってコウコウ鳴く魚とあり、下村館長は「ホウボウ」ではないかと推測する。グーグー鳴くのだそうだ。コイについては分からないことが多く、(元来、日本のコイと中国のコイは違ったが)現在、日本でよく見られるのは中国から持ち込まれた種類だという。専門家の話は面白いなあ。

 海幸・山幸の物語を描いた『彦火々出見尊絵巻』には、漁猟の収穫物としてエイやアオウミガメの甲羅が描かれている。また、いじわるな兄の海幸彦に向かって、山幸彦(彦火火出見尊)が「しほみつの玉」を用いると、水柱が立ち上がって海幸彦を飲み込んでしまい、「しほひの玉」を振ると水が引いて、着衣も乱れ、ボーゼンとした海幸彦が現れる。マンガのようで、大笑いした。このほか、『百獣の楽園』展にも出ていた『篆隷文体』や、元信印『琴高仙人図』(コイがデカい)、円山応挙筆『龍門図』3幅(3幅並ぶのは珍しい)などを楽しんだ。
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