見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

善意の可能性/チャリティの帝国(金澤周作)

2021-07-16 15:58:24 | 読んだもの(書籍)

〇金澤周作『チャリティの帝国:もうひとつのイギリス近現代史』(岩波新書) 岩波書店 2021.5

 イギリスでは、弱者を救済する活動がきわめて活発で、自然なものとして社会に深く根付いている。それは、たまにイギリス王室関連のニュースに接しているだけの私でも、うすうす感じていたことだ。

 「困っている人に対して何かしたい」「困っている時に何かをしてもらえたら嬉しい」「自分のことではなくとも困っている人が助けられている光景には心が和む」。この3つの気持ちは、チャリティという活動を生み出す普遍的な原動力と言える。だが、チャリティの実態を歴史に沿って見ていくと、この後に続く「ただし」「しかし」という留保の内容が、時代によって少しずつ変化していく。

 古代ギリシア・ローマでは、市民の善行の対象は同じ市民に限られ、善行によって称賛を得ることが美徳と考えられた。中世には、死後の救済を得たいという気持ちを核に、善行の対象は万人(ただし異教徒を除く)に拡大し、キリスト教的チャリティが完成した。近世に入ると、公的な権力の責任による救貧が制度化されるとともに、所属する社会の秩序維持のため、私人主導の多様なチャリティが実践されるようになった。

 近現代のイギリスでは「自助」が称揚され、多くの人が他人に依存しない独立した生を目指した。しかし不況や老齢で自助が破綻した場合は、友愛組合や協同組合による互助・共助がセーフティネットとして機能した。それでもリスクを乗り切れなかった場合、次のセーフティネットがチャリティだった。慈善信託、篤志協会などに加え、長期間にわたり地域共同体で実践されてきた慣習的なチャリティ(落穂拾い、トマシング=聖トマスの日の物乞い)が紹介されているのが興味深い。また、イギリスでは、早い時期から全国規模で公的救貧の制度が整えられたが、人々が公的救貧を忌避し、なんとかチャリティまでのセーフティネットに留まろうとしたというのも特徴的に思える。

 19世紀のチャリティは、驚くほど多様な展開を見せる。貧しい既婚女性の分娩を助ける産科チャリティ(未婚女性は対象外)、ガヴァネス(女性家庭教師)慈恵協会、船乗りの救助や支援を行うライフボート協会、北アフリカのイスラム諸政体で虜囚となったイングランド人の買戻し支援団体。これらは「ヴィクトリア時代的道徳」の反映であり(特に女性に関して)、全般的に「自由主義資本社会にとって有用な人々を救う」ことを目的としていた。

 他方、救済に値しない不良貧民は徹底して排除された。物乞い撲滅協会という団体は無心の手紙(ベギング・レター)の真贋を見抜く活動に力を入れた。有用な弱者には手厚くし、無用な弱者は切り捨てたいという選別への熱意は、いまの日本社会に限ったことではないのだなと思った。

 それから投票チャリティ(寄付者が投票で受給者を選ぶ)など、エンターテイメントとして工夫を凝らした活動が行われていたことも興味深い。チャリティ団体は「悲惨」と「救済」をパッケージ化し、寄付者市場に提供する。広告、プロモーション、マーケティングは大切で、競争に敗れれば退場しなければならない。需要の高い分野には類似の団体が参入してくる。そのダイナミクスは、一般の購買者市場と変わるところがない。現在のクラウドファンディングの源流が分かった気がした。

 この時代、チャリティの活況は国外にも拡大した。確かにイギリスは奴隷貿易の廃止を推進し、キリスト教の宣教とともに医療や教育を植民地等に提供したが、現代の目で見れば、文化帝国主義の批判を免れない。しかし当時の人々は「博愛の帝国」という祖国像をナイーブに信じていた。また著者は、イギリスのチャリティの資金源の問題について、奴隷商人のコルストンと武器製造業者のアームストロングを取り上げる。彼らは同時に際立った慈善家でもあった。

 20世紀に入り、第一次大戦の休戦直後に誕生した「セーブ・ザ・チルドレン」は本格的な国際人道支援の起源に位置づけられる。階級、人種、政治、信仰に関わらず、したがって旧敵国の子どもをも救済しようという運動が、当初猛烈な反対にあったというのは、ここまでのチャリティの歴史を読んでくるとよく分かる。一方で、この運動が、巧みなPR戦略と「帝国としての国際的責任」を強調して成功したことも納得できる。

 20世紀後半、イギリスが「ゆりかごから墓場まで」の福祉国家を標榜する間、チャリティは存在感を失っていた。しかし80年代以降、もはや福祉国家が立ち行かなくなる中で、再びチャリティに対する期待が高まっているという。過去の歴史は、よいことばかりではないけれど、こうした連帯の伝統を持ち、それを時代に合わせて柔軟にアップデートしていけるのはうらやましいと思う。

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休館前のお楽しみ/自然が彩るかたちとこころ(三井記念美術館)

2021-07-14 22:31:02 | 行ったもの(美術館・見仏)

三井記念美術館 コレクション名品展『自然が彩るかたちとこころ-絵画・茶道具・調度品・能装束など-』(2021年7月10日~8月22日)

 同館選りすぐりの名品を、(1)理想化された自然を表す (2)自然をデフォルメして表す (3)銘を通して自然を愛でる (4)素材を活かして自然を表す (5)実在する風景を表す (6)文学(物語や詩歌)のなかの自然を表す (7)自然物を造形化する (8)掌のなかの自然 (9)自然を象徴するかたち、の9つのテーマに基づいて展示。構成は、茶道具、絵画、工芸などジャンル別になっているのだが、キャプションにさりげなく、どのテーマに該当する作品かが示されている。

 茶道具に(3)が多いのは当然だが、光悦作の黒楽茶碗「銘:雨雲」は、無心に眺めても素晴らしいが、銘を意識するとまた格別によい。見る位置によっては、黒雲にきらめく稲妻のような割れ目が内側に走っているのを発見した。志野茶碗「銘:卯花墻」は、今回、展示室3(茶室ふうの展示ケース)に置かれており、どっしりした存在感があった。

 絵画は、酒井抱一筆『秋草に兎図襖』を初めて見たような気がした。戸襖(板襖)で、驟雨に乱れる秋草と、その先に飛び出した目の赤い白兎が描かれている。斜めに走る細かい線が激しい雨脚を表していると思ったが、よく見たら描かれた線ではなく、幅数センチの木材を斜めに並べて、斜めの縞模様をつくっているのだった。おもしろい。

 川端玉章の『東閣観梅・雪山楼閣図』2幅は、いかにも玉章らしい、色彩の美しい、精密で写実的な山水楼閣図だった。若い頃、三井越後屋の奉公人だったというのがおもしろい。同じ玉章でも『京都名所十二月』は、ふんわり柔らかな作風。展示は4幅で、嵐山の渡月橋(三月)と金閣寺(七月)はすぐ分かった。夜の四条(六月)は、言われてみればそうなのだが、いまひとつ画面の中の位置関係が掴めない。修学院の千歳橋(九月)は、画像を検索してみて、初めてこんなかわいい屋根付き橋があることを知った。修学院離宮、行ったことがないので一度は行きたい。

 工芸は、明治・大正・昭和初期に制作された象彦の蒔絵がとてもよかった。『宇治川先陣蒔絵硯箱』は、蓋のオモテに佐々木高綱の武者絵を配しているのだが、敢えて蓋裏を展示する。極細の線の繰り返しで表現された川波の図案がオシャレ。作者名は、ただの「象彦(西村彦兵衛)」表記のものと「八代」「六代」が注記されているものがあった。象彦のホームページを見ると、明治維新のときが四代目(現在、十代目)のようだ。

 高瀬好山の自在置物(伊勢海老!昆虫!)や安藤緑山の染象牙(牙彫)(蜜柑!)も久しぶりに見ることができて嬉しかった。『波に舟彫木彩漆八足卓』は変わった小卓で、表面は青海波文の波間に帆掛け船が漂う様を細かい彫りで表している。日本製か中国製か判断がつかないとのこと。

 なお、同館は本展終了の8月末から2022年4月下旬までリニューアル工事のため休館するという。え~首都圏のごひいき美術館が、いま複数閉まっているので残念。あと、私はここのミュージアムカフェの夏メニュー・冷やし胡麻だれうどんが好きなのだ(当初はごまだれそうめんだった)。来年の夏も食べられますように。

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なつかし三輪の里/国宝 聖林寺十一面観音(東京国立博物館)

2021-07-12 21:03:35 | 行ったもの(美術館・見仏)

東京国立博物館・本館特別5室 特別展『国宝 聖林寺十一面観音-三輪山信仰のみほとけ』(2021年6月22日~9月12日)

 先週、東京が四度目の緊急事態宣言に入ると聞いて慌てた。幸い、美術館や博物館への休業要請はないと分かってほっとしたが、見逃せない展覧会は行けるときに、と思って、日曜の午前中(9:30~12:00)に見てきた。特別5室は大階段裏の大展示室である。入ったときは、朝イチをねらったお客さんで混雑していたが、だんだん空いてきて、ストレスなく参観することができた。

 本展は、奈良・聖林寺の 十一面観音菩薩立像を初めて県外で公開するもの。それ以外の情報はあまりチェックしていなかったが、観音の背後に三輪山の写真と模造の三ツ鳥居を配した会場風景はSNSで画像が回ってきた。仏像に詳しい人たちからは「観音に集中できない」「観音が三輪山の化身・大物主命の本地仏に見えるが、それは誤り」などの批判が出ており、共感していた。なかなか会いに行けない仏様を拝する貴重な機会なのだから、過多な演出は止めてほしい。

 まあしかし、会場に入ると、十一面観音の威厳と魅力に自然と意識が集中して、背景はどうでもよくなった。特におもしろいとは思わないが、さほど邪魔にもならなかった。聖林寺の収蔵庫では何度か拝観しているが、たぶんそれより少し高い位置に据えられており、天井の高い、ひろびろした空間に浮かぶ観音を仰ぎ見るような感じだった。単立ケースなので360度どの角度からも眺められることが今回の売りになっているが、観音本体というより、美しい両手の指先を、さまざまな角度から眺めることができて嬉しかった。私は右斜め横から、水瓶を掲げる指先と、鼻筋の通った横顔と、厚く盛り上がった胸を同時に視界に収める角度が好き(この角度の写真は、残念ながら図録にない)。

 背面にまわって、裙の裾が台座から少し浮いていることに気づいた。左右に垂らした天衣の先が裙の裾の下に入り込むようになっているのもおもしろい。全体としては、棒立ちで表情も硬い観音様なのだが、細かい点に神経が行き届いていて美しいと思う。

 向かって右の壁際に、頭も体も四角い、力の籠った地蔵菩薩立像がいらした。もしや?と思ったら、かつて十一面観音と同様、三輪の大御輪寺に祀られていたもので(図録の解説によれば、神仏分離令により聖林寺に移された後)現在は法隆寺の大宝蔵院に安置されているものである。なお、法隆寺には、聖霊院安置の別の木造地蔵菩薩立像もあり、wiki「法隆寺の仏像」に「服制や印相が共通し、制作年代も同じ頃であるが、本像(聖霊院安置)の方がなで肩である点が異なる」という。『聖徳太子と法隆寺』に出陳されるのは聖霊院安置のほうか!

 このほか、大御輪寺旧蔵仏として展示されていたのは、高い宝冠をかぶった一対の菩薩立像(奈良・正暦寺)。日光菩薩・月光菩薩と呼ばれているが、ともに左肘を曲げ、右腕を垂らすポーズでシンメトリーになっていない。本来一具ではなく、尊名も不明という。けれんのない、堂々とした量感が好みである。玄賓庵の不動明王坐像は写真パネルでの紹介だった(事前予約をすれば拝観できるらしい…見たいな)。それから、険しい顔の大国主大神立像、小さな地蔵菩薩立像、湖州鏡(聖観音菩薩像を毛彫り)、大般若経、杮経など、神と仏が共存した信仰のありかたを示す、興味深い品々が大神神社から出陳されていた。

 図録の写真はどれも大変よい。漆黒の背景とぼろぼろの金箔の輝きが最高である。十一面観音の頭上面のアップも貴重な記録。文章では、奥建夫氏の「三輪山信仰と聖林寺十一面観音菩薩立像」が興味深かった。三輪山の祭祀の発端は、疫病が国中に蔓延したときに大物主があらわれ、オオタタネコ(大直禰子)という人物を探し出し、自らを祀るように求めたので、そのとおりにすると疫病が終息したという出来事であるという。なんだか、いまの我々の状況にぴったりではないか。

 大神神社には何年も(もしかして何十年も)行っていない。何度か訪ねたときは、いつも山の辺の道を北からたどるコースだったので、大御輪寺本堂を社殿とする大直禰子神社(若宮社)は一度も見ていないのではないかと思う。これは見ておかなくては。山の辺は、柿の色づく秋がいいだろうなあ。

 会場を出て、クリアファイル入りの「東博ご出座記念」の限定御朱印をいただき、袈裟をきた女性(たぶん聖林寺のご住職)に日付を入れていただく。聖林寺は観音堂改修の資金を必要としており、昨年のクラウドファンディングには、私もわずかだが参加して、観音様とご縁を結んだつもりになっている。現在、第2弾のクラウドファンディングを実施中であることを付け加えておく。

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若者の下町/特集・深川、清澄白河他(雑誌・散歩の達人)

2021-07-09 20:21:22 | 読んだもの(書籍)

〇『散歩の達人』2021年7月号「深川・清澄白河・門前仲町・森下・木場」 交通新聞社 2021.7

 第一特集が私の住む深川周辺なので買ってみた。都心の大規模書店で見つけて、お!と思ったのだけど、これは地元で買おうと思って、門前仲町の小さな書店で購入した。「"自由"があふれる粋な下町」あるいは「いつも先進的下町へ」「新旧入り交じるユニークタウン」などのキャッチコピーが使われているが、どちらかといえば「旧」よりも「新」に重点を置いた誌面づくりかなと思う。

 東京育ちの私にとって、深川や門前仲町といえば、古きよき下町情緒や江戸情緒と結びついた地名だった。ところが数年前に引っ越してきたら、確かにそうした要素もあるものの、おしゃれなカフェや若者好みのセレクトショップが街のあちこちにあって、古い先入観を壊された。特に清澄白河エリアの発展ぶりは、陣内秀信さんの『水都東京』でも紹介されていたところ。本誌も、登場する人々(主にお店のオーナー)が全般的に若い上に女性が多くて、感慨深い。

 もちろん、写真家・大西みつぐさんの「私の1960s 深川記憶地図」や、深川生まれの俳優・寺島進さんのインタビューなど、昭和の深川への目配りも忘れられてはいない。私は母の実家が森下にあり、物心ついた頃から遊びに来ていたので、こうした記事には古い記憶を揺り覚まされるところがある。

 門前仲町に住んで5年目になるが、掲載されているお店は圧倒的に知らないところが多かった。日々の生活圏から、わずか道一本先に、こんなスポットがあるのかと驚いた情報もあった。この4月から時間に余裕ができたので、遠くも近くも積極的に歩き回ってみたい。

 第二特集は「東京台湾散歩」で、これも本号を購入する決め手になった。2016年からほぼ毎年行っていた台湾旅行は、2020年の正月を最後に途絶し、いまだ再開の目途も立っていない。その一方、現地感あふれる台湾スポットが東京に増えているのは嬉しいことだ。本誌では、魯肉飯や豆花など台湾グルメのお店に加え、新大久保にある台湾媽祖廟(知らなかった)や日本橋の誠品書店も紹介されている。

 あと「東京⇔台北鉄道駅フンイキ比較」は、かなり無理矢理な記事だけど、相当な台湾マニアが書いているのが分かって楽しかった。ああ~日比谷駅=台大医院駅ね(二二八公園と日比谷公園、総統府と国会議事堂のなぞらえが巧い)。水天宮前駅=行天宮駅も好きだ。

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東中野に初訪問/西アジアの土器と鍾馗&天神の絵画(東京黎明アートルーム)

2021-07-08 21:41:33 | 行ったもの(美術館・見仏)

東京黎明アートルーム 『西アジアの土器と鍾馗&天神の絵画』(2021年6月8日~7月20日)

 2015年に開館した新しい美術館である。最近、書画や陶芸など、私の関心に近い展覧会の情報が流れてくるので、探して訪ねてみた。私にはあまり土地勘のない、東中野の住宅街の中にあった。エントランスには、平安時代の木造の持国天・多聞天立像が並んでいて見惚れた。常設なのだろうか。

 展示室は全体の照明を落として、展示物が暗闇に浮かび上がるようなしつらえだった。最初の部屋は西アジア(伝イラン)出土の土器で、紀元前3200年頃の『山羊幾何学彩文台付鉢』がいちばん古い。紀元前3200年頃のイランと言われても、知識がないので全く想像がつかない(調べたら、イラン最古の文明、原エラム期にあたる?)。このほか、紀元前1500年頃までの土器は、かたちも文様も簡素だった。三足土器が多くて、古代中国の青銅器を思わせた。

 紀元前900~800年頃(エラム文化の末期?)の土器になると、人や動物の姿を模した洗練された造形が目立つようになる。『把手付太鼓形土器』は、四足の太鼓(俵みたい)の上に、把手付きのカップのようなものが載っている。夜にちょこちょこ歩き出しそうで可愛かった。また、山羊形やコブ牛形の土器は、なめらかなヒップラインが魅力的である。赤みがかったオレンジ色の土器が多かった。

 次の部屋は仏像特集。平安時代の不動明王坐像は、憤怒と言っても穏やかなお顔。パキスタンの如来立像、アフガニスタンの如来頭部(テラコッタ)など。いちばん印象的だったのは、中国・唐時代(9世紀)の兜跋毘沙門天立像。高い筒型の宝冠、胸の前で交差する瓔珞、ひきしまった腰など、東寺の兜跋毘沙門天立像と瓜二つのように似ている。赤い石(砂岩)から彫り出されていた。

 さらに奥の部屋は絵画で、鍾馗と天神の特集。柴田是真の『束帯天神図』や『円窓鍾馗図』が展示されていた。

 2階にも西アジアの土器、絵画などが少しあり、1室を使って、岡田茂吉という人の書が展示されていた。あとで調べたら、世界救世教の教祖で、美術収集家であり、書家、画家、歌人でもあるとのこと。MOA美術館の創設者として知られ、この東京黎明アートルームは、世界救世教の分派である東京黎明教会の収集品と、岡田本人の書や絵画を展示するためにつくられた施設であるそうだ。しかし言われなければ特に宗教色は感じないのと、岡田の書跡は嫌味がなくて好きなタイプだと思った。また時々来てみたい。

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破壊の物語化/廃仏毀釈(畑中章弘)

2021-07-05 20:58:59 | 読んだもの(書籍)

〇畑中章宏『廃仏毀釈:寺院・仏像破壊の真実』(ちくま新書) 筑摩書房 2021.6

 「廃仏毀釈」というキーワードは、中学校か、もしかしたら小学校の社会科でも習ったかもしれないが、具体的な関心を持つようになったのは、趣味で仏像を見るようになって以来、特に安丸良夫氏の『神々の明治維新』を読んで以来である。

 はじめに本書は、一般に「神仏習合」と言われる、神と仏の共存状態について解説する。神が仏に従うにあたっては三つの考え方がある。(1)神は仏の救済を必要としている。(2)神は仏を守護する存在である。(3)神は仏が衆生救済のため姿を変えて現れたものである。(1)(2)は奈良時代に生まれ、(3)はやや遅れて平安時代に生まれた。神宮寺の初見は藤原武智麻呂が霊亀元年(715)に建てた気比神宮寺であり、天平勝宝元年(749)には宇佐八幡神が東大寺の大仏建立を守護する託宣を下したなどの記事を読むと、「神仏習合」思想が、古くから日本人の宗教観の根本であったことを感じる。中世には「習合」の理論化や体系化が進んだ。近世には、民衆が寺院の檀家制度に組み込まれる一方、修験道が生活に浸透し、人々はこだわりなく神や仏を信仰して各地の霊場を巡拝した。

 本格的な「廃仏毀釈」は、慶応4年(1868)の神仏分離令(神仏判然令)から始まる。本書は、滋賀県の日吉社、薩摩藩、隠岐諸島、長野県の松本藩と笛木藩、奈良、京都、鎌倉、伊勢、諏訪、大阪の住吉大社、四国、吉野、出羽、戸隠、立山、白山、富士山、箱根、伊豆、神奈川県の大山、香川県の金毘羅大権現(金刀比羅宮)、京都山崎の天王山、東京の八王子、京都祇園社(八坂神社)など、各地の事例を具体的に紹介する。安丸氏の『神々の明治維新』や鵜飼秀徳氏の『仏教抹殺』と重なる話もあり、初めて知る話もあった。

 ただし著者は、仏像を土足で蹴ったり弓矢で射たりなどの「暴挙」に関しては「伝聞・伝承に基づく誇張や脚色が少なくないように思われる」という慎重な留保をつけている。実際には、場所を移して守られた仏像・寺宝も多い。廃仏を率先した民衆がいる一方で、偶像を守り続けた人々もいた。廃仏毀釈をめぐる伝承の物語化も「したたかな抵抗」だったかもしれないという疑問を本書は投げかける。

 いまちょうど東博に来ている奈良・聖林寺の十一面観音は、三輪明神の神宮寺「大御輪寺」の本尊だったもので、「路傍にころがしてあった」(和辻哲郎・古寺巡礼)とか「神宮寺の縁の下に捨ててあった」(白洲正子・十一面観音巡礼)と言われているが、「こうした証言は、現在では廃仏毀釈の惨状を伝えるために、脚色されたものだと考えられている」そうだ。聖林寺の当時の住職・大心が三輪流神道の正式な流れを汲んでいた(このことは聖林寺のホームページも記載あり)というのも興味深い。また、大御輪寺で十一面観音の左脇侍だった地蔵菩薩像は法隆寺に移されており、東博で同時開催の『聖徳太子と法隆寺』に来る(前期)地蔵菩薩像がこれではないかと思われる(※補記あり)。なお、興福寺の五重塔が売却されかかった(値段は諸説あり)とか焼き払われる寸前だったというのも「伝承」であるとのこと。面白い話ほど、疑ってかからなければいけないのである。

※本書には、いろいろ興味深い仏像・神像が紹介されている。特に気になったものをメモ。

・福井県越前町の八坂神社の十一面女神坐像…神仏習合を視覚化。

・安倍文殊院の釈迦三尊像…妙楽寺(現・談山神社)の本尊・阿弥陀三尊だったもの。

・談山神社の如意輪観音坐像…同神社に残る唯一の仏像。秘仏で毎年6~7月に公開。

・諏訪市の仏法紹隆寺の普賢菩薩騎象像…諏訪大明神御本地として信仰されていた諏訪大社上社神宮寺の本尊(写真あり、大作!)

・戸隠神社…2003年から式年大祭の期間中に、長野市や千曲市の寺院に分散した仏像を宝光社に集めて「離山仏里帰り拝観」を実施。善光寺の木造勝軍地蔵騎馬像もその一例。

・愛知県設楽町の長江神社の牛頭天王像…2019年発見。「牛頭天王」と「権現」は神仏分離令で槍玉に挙げられ、最も大きな影響を被った。

・愛知県碧南市の海徳寺の阿弥陀如来坐像…伊勢神宮の神宮寺の本尊。海を渡って守られた。

※7/12補記:法隆寺・大宝蔵の地蔵菩薩像(大御輪寺旧蔵)は『国宝 聖林寺十一面観音』展に出陳されており、法隆寺・聖霊院の地蔵菩薩像が『聖徳太子と法隆寺』展に出陳されることを確認。

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2021・眼鏡をつくる&修理

2021-07-04 23:04:26 | 日常生活

 写真上の眼鏡は、私が初めて作った老眼鏡である。遠くが見えないので外出時は使わないが、家に帰るとこれに掛け替える。コロナ禍で在宅の機会が増えたため、一日中これを掛けていることもある。札幌在住時につくったような気がしていたが、ブログで調べたら、ずっと古くて2008年の夏につくったものだった。

 その老眼鏡のフレーム(レンズの周囲)が、先日、ついに割れてしまった。慌てて大手町の富士眼鏡に行って、新しくつくってもらったのが、写真下の赤いフレームの眼鏡である。そうしたら、「古いほうも直しましょうか?」と言われたのでお願いした(無償サービス)。昨日、修理後の眼鏡を受取に行ったら、銀継ぎみたいな手法でフレームがつながっていた。「新しい眼鏡の予備に」と言われたのだが、こうなると慣れたほうをもう少し掛け続けたくなってしまう。かなりボロボロなのだけど。

 ちなみに2019年1月につくった外出用(中近両用)の眼鏡は、4月に片方のレンズに傷をつけてしまい、処置に悩んでいたが、やっと決心して新しいレンズに取り換えることにした。

 今年度からパートタイム労働者でボーナスもないので、こういう不意の出費は痛いのである。なかなか安定的な家計設計ができない…。

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地方美術館の名品/近代日本洋画の名作選展(そごう美術館)

2021-07-03 22:45:58 | 行ったもの(美術館・見仏)

そごう美術館 『近代日本洋画の名作選展:ひろしま美術館コレクション』(2021年5月15日〜7月4日)

 ちょっと気になる展覧会だったので、終了直前に滑り込みで見てきた。公益財団法人ひろしま美術館のコレクション約70点により、明治・大正・昭和の日本洋画の流れを概観する展覧会。私は、趣味の中心は古美術だが、近代絵画にも関心がないわけではない。しかし、なかなか地方の美術館までアンテナを張れていないので、こうして東京近郊で見る機会をつくってもらえたのはありがたいと思う。

 冒頭には黒田清輝の『洋燈と二児童』。薄暗がりの中、オレンジ色のランプが、テーブルに向かう二人の児童(一人はうつ伏せている)の顔と手をあかあかと照らし出している。「外光派」の黒田のイメージを裏切る作品で、作者名を見てちょっと驚いた。もう一枚『白き着物を着せる西洋婦人』は、明るい緑の森を背景にして、いかにも黒田らしい作品。

 浅井忠『農夫帰路』とか山下新太郎『少女』とか、明治の写実絵画はとてもよい。変に物語を与えず、誠実に対象に向き合っている感じが好き。小山正太郎(初めて聞く名前かもしれない)の『牡丹図』は板塀を背景にした紅白の牡丹を、妙にてらてらした油彩画らしい色彩で精密に描き出す。板塀の端にちらりと見える遥かな山の影も含め、秋田蘭画っぽい。和田英作の『薔薇』も、つるつるたサテンのリボンでつくった造花みたいなのだが、嫌いじゃない。私はこのひと、生活感のある人物画や歴史画でしか知らなかったのだが、画像検索してみたら、花をモチーフにした静物画をたくさん描いているのだな。藤島武二の『日の出』は、単純に色の美しさに惹かれた。藤島も調べたら、日の出をモチーフにした作品を繰り返し描いていることが分かった。おもしろい。

 大正期の作品は、個性や主張が強まるけれど、どこかのんびりして牧歌的な雰囲気が好き。前田寛治『赤い帽子』や小出楢重『地球儀のある静物』など。古賀春江『風景』は、単純化された四角い建物がぼんやり溶け出していくようで、絵本の挿絵のような水彩画。一方、安井曾太郎の木炭デッサンにも惹かれる。厚みと重みのある、どっしりした男女の裸体を描いている。『画室』は、フランス留学から帰国後、10年近いスランプの後の作品だという説明が感慨深かった。

 安井がセザンヌの影響を受けたというのは、素人目にも納得できる。須田国太郎はマドリッドを拠点にスペイン美術を学んだというが、『比叡山』はスペインの荒野っぽいと思った。正宗得三郎『厳島』の海と空は南仏の風景のようだった。このほか、児島善三郎『田植』、小林和作『八ヶ岳山中の秋』、小絲源太郎『港』など、色彩が明るく、どこか童心を感じさせる作品が多かったのは、コレクターの趣味かもしれない。全く路線の異なる鴨居玲の作品も複数あってよかった。

 「明治から昭和への裸婦像の変遷」という小特集セクションもあり、満谷国四郎の色っぽい『裸婦』や岡田三郎助の『裸婦』(やっぱり背中の美しさ)を堪能した。ひろしま美術館は、広島銀行が創業100周年の記念事業として、1978年に設立されたものだという。これからは、こういう地方の美術館の常設展示を見て歩くのも悪くないなと思った。

 会場の最後には、そごう美術館のコレクション紹介として、鈴木信太郎『緑の構図』が展示されていた。え~そうなのか。展示施設としてしか意識していなかったので、そごう美術館が独自にコレクションを持っていることを初めて知った。

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五輪のあとさき/東京復興ならず(吉見俊哉)

2021-07-01 20:11:58 | 読んだもの(書籍)

〇吉見俊哉『東京復興ならず:文化首都構想の挫折と戦後日本』(中公新書) 中央公論新社 2021.6

 東京という都市の成り立ちについて、特に戦後の都市計画の中で実現したものとしなかったものを考える。本書は、まず戦争末期、米軍による空襲で焼け野原となった東京に私たちを連れていく。路上にはおびただしい数の焼死体。こんな生々しい「空襲被害写真」が残っていることを私は知らなかった。けれども終戦を境に、あっけらかんと明るい日本の戦後が始まり、「聖戦」に代わる呪文「復興」に人々は熱狂する。そもそも「復興」とは「一度衰えたものが、再び盛んになること」(ルネサンス=文芸復興)であり、「以前よりよくなること」を含意しない。しかし近代日本では、この言葉は「成長し膨張する都市」という都市観に絡めとられ、「もっと良くなる」ための成長・再開発を意味してきた。戦後東京は、成熟としての「復興」をいまだ獲得していないと著者は考える。

 敗戦直後の日本には、現在と異なる「復興」の可能性があった。たとえば「文化国家」ブーム。だが、戦後の知識人たちは、文化を国家から切り離すことに熱心だった(その気持ちは分かる)。国家の側も「経済・技術復興」路線が固まるにつれて「文化」をかえりみなくなり、多くの日本人がこれに追随した。「文化国家」ブームを語る逸話として興味深いのは、憲法第25条の「健康で文化的な最低限度の生活」が、GHQ草案にはなく、日本側の働きかけで入った文言であること(この件、複雑な背景があり、単純に評価できないことは本書を参照)。

 「文化国家」構想と連動し、東京の復興を「文化首都」の建設事業として推し進めようとしたのは、東京都の都市計画課長・石川栄耀である。石川は「帝大と上野」「早稲田と目白台」「三田と芝」「神田」「大岡山」に、ケンブリッジやオックスフォードのような、大学を中心とした文教地区をつくることを構想し、各地区の大学が具体化に取り組んだ。東大では、南原繁総長の下、建築学科の助教授たち(その一人が丹下健三)が中心となり、計画を策定したが、あまりにも大胆かつ理想的すぎて実現に至らなかった。せめてその「何十分の一か」でも実現させようというしぶとさが足りなかったことを著者は惜しんでいる。

 1950年代半ば、東京の都市計画の先導役は、石川栄耀から山田正男に交代する。山田は、石川の文化都市構想を引き継がず、道路中心の「オリンピック都市・東京」の構想に切り替えていった。高度成長に向かう東京にとって現実的な選択と言える。その結果、首都高速道路と新宿副都心の建設と引き換えに、東京は多くの中小河川と水辺の風景、そして都電を失った。もちろん、当時、東京の過密交通の解決は喫緊の課題だったし、石川の文化都市構想を握り潰した上司・安井誠一郎都知事の「今は一人の都民も(食糧不足で)死なさぬことだ」という決意はもっともで、単に懐古的なセンチメンタリズムで批判してよい問題でないことは分かる。

 その後、1970年代末から80年代初めのわずかな間、日本人が再び「文化」や「心の豊かさ」とは何かを考えようとした時期があった。その一例が、1979年の大平正芳首相の施政方針演説である。そのころ、私は高校生から大学生で、大平演説は覚えていないが、世間の風向きが微妙に変わった雰囲気は覚えている。しかし、続く中曽根政権は「たくましい文化」という怪しいキャッチフレーズを掲げ、再び「経済」重視、さらに「文化」の産業化を推進する。なるほど、ここから80年代、企業が「文化(むしろ横文字のカルチャー)」を先導する時代が始まるわけか。

 以後、バブル期もバブル崩壊以後も、日本政府と東京都は「世界都市・東京」を目指して都心や臨海部の開発を強力に進めてきた。彼らが信奉するのは、ビッグイベントの招致によって社会資本の整備が進み、経済成長を生み出すという「お祭りドクトリン」で、その果てに2020年五輪がある。今年(2021年)東京五輪が開催されてもされなくても、東京の「復興」はないだろう。経済的な面でも、まして文化的成熟という意味でも。東京の「文化的焼け野原」状態は今も続いている。著者が提唱する「未来のために過去とのつながりを再生させていく都市」としての東京、局地的に実験的な試みは、いくつか立ち上がっていると思うのだが、もう少し大きな方向転換を、私が生きているうちに見ることができるだろうか。

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