保土ヶ谷宿は、慶長6年(1601)徳川家康が東海道に宿駅伝馬制度を制定すると、神奈川・藤沢などと共に、幕府公認の宿場として誕生しました。 江戸から約 33Km(8里9丁)で品川・川崎・神奈川に続く4番目の宿場です。 日本橋を起点とした東海道は品川、神奈川と海沿いの道を進み、次第に海から離れ内陸部に入った場所に位置していたのが 『保土ヶ谷宿』 でした。
宿場が担う役割は、荷物の運搬に要する人馬などの継立や旅人の休泊施設の提供、飛脚の業務などがありました。
街道は幕府によってすべての管轄が定められていました。 保土ヶ谷宿は、芝生(しぼう)村追分(現在の西区との境)から、境木(さかいぎ)地蔵(現在の戸塚区との境)まで約5Kmで、追分から北は神奈川宿、境木地蔵より南は戸塚宿の管轄となっていました。
相鉄線 天王町駅を9時 20分出発。
天王町駅前公園の帷子(かたびら)橋跡から香象院~問屋場跡~金沢横丁~御所台の井戸~福聚寺~本陣跡~瀬戸ヶ谷八幡社~一里塚~樹源寺~権太坂~境木地蔵尊~品濃一里塚の順に約7.0Kmを歩いて来ました。
帷子(かたびら)橋跡 保土ヶ谷宿に入って、東海道が帷子川と斜めに交差する所に架けられていた橋が「帷子橋」とのことです。
橋の長さは 15間(27.3m)、幅は3間(5.5m)の板橋でした。 歌川広重は、付近の景観と相まってこれが大変気に入り何枚もの浮世絵を残しているそうです。 天王町駅前には当時を偲ぶモニュメントが残されています。
普賢山 香象(こうぞう)院 ご本尊は不動明王立像だそうです。 保土ヶ谷宿で最大の 寺子屋があり、明治6年(1873)に保土ヶ谷小学校の分校となったとのことです。
仏足石(仏の足裏の形を刻んだ石)や寺名に因んだ象の置物があり、香象とは青色で香気を帯び大海を渡るという象で強力な力を持つといわれています。
旧東海道を歩くと、現在では都市計画により区画整理が行われているので、各所にこの辺りに何々が有りましたという解説板や案内柱で示されています。
金沢横丁の石碑(道標 ) 東海道と分岐して金沢や鎌倉への分岐点を「金沢横丁」と呼んだようです。 金沢を経由して鎌倉に至り、更には江の島を巡って藤沢で再び東海道に合流することになる代表的な物見遊山のコースであったようです。 曲がり角には道案内の石碑が四基並んでいました。
御所台の井戸 この道は旧金沢道(金沢・浦賀往還)、俗称「金沢横丁」と呼ばれる道で古くより鎌倉へ至る道として知られていました。
鎌倉時代、源 頼朝の妻政子が、ここを通りかかった時、この井戸の水を汲んで化粧に使用したと伝えられ「御所台の井戸」と呼ばれています。
無量山 福聚寺 臨済宗建長寺派 開山は南北朝時代(1335年)で、ご本尊は釈迦如来像。
本堂の裏手に十返舎一九の弟子である五返舎半九の供養塔がありました。 半九は江戸時代後期の戯作者で落語の原作『落噺(おとしばなし)仕立て下ろし』などの作品があるそうです。
本陣跡 保土ヶ谷宿の本陣は苅部本陣一ヶ所だけでした。 保土ヶ谷宿が設けられると、苅部清兵衛が幕府より本陣、問屋、名主の役を命ぜられ、以降 明治3年(1870)、本陣の制度が廃止されるまで代々清兵衛を世襲してきました。(現在は軽部姓)
東海道を往来する幕府の役人や参勤交代の大名は、宿場に設置された本陣に宿泊し、本陣が混雑した際は脇本陣に宿泊したようです。 保土ヶ谷には藤屋・水屋・大金子屋の3軒の脇本陣があったそうです。
旅籠 本金子屋跡 本金子屋は、江戸時代に旅籠として栄えました。 明治2年に建て替えられた現在の建物も東海道沿いに建ち、格子戸など旅籠の面影を残しています。
過去に国道1号線が7mほど拡幅される前は、現在の母屋の前に大名門と前庭がありました。 現在、当時の大名門は建物正面の外壁として使われています。 ガイドして下さる平岩さん
復元した一里塚と上方見附モニュメント 平成 19年2月に一里塚と松並木が復元されました。
一里塚は行程の目安として一里ごとに小高く盛り土をして榎を植えたものであり、ここは江戸から8番目の一里塚です。 見附は宿場の門の役目で、京都に近い方を「京方見附」もしくは「上方見附」と言い、上方見附から江戸方見附までは家屋敷が街道沿いに沿って建ち並び「宿内(しゅくうち)」と呼ばれています。
国号一号線の権太坂。 お正月に 箱根駅伝の選手 はここを走ります。
歴史の道 『権太坂』 この辺りは、権太坂と呼ばれる東海道を江戸から西へ向かう旅人が初めて経験するきつい登り坂でした。
日本橋から4番目の宿場であった 保土ヶ谷宿 まではほぼ江戸内湾沿いの平坦地でしたが、宿の西辺りより長く続く険しい登りとなります。
「新編武蔵風土記稿」によれば、保土ヶ谷から登る坂は一番坂、二番坂と二つの坂があったと書かれ、また「その地形十丈(約 30m)余りも高く、屈曲して長き坂なり。故に街道往返の人、この所を難所とす・・・・・」 と書かれるほどに傾斜のきつい大変な急坂で、民家もなく道の左右は鬱蒼として松の老木が立ち並んでいたといいます。
きつい坂を登り切れば、松並木が続き景色も良く富士が 眺められ、目の下に見える神奈川の海は大変美しかったとあります。 旅人にとって印象深い場所になり、浮世絵などにも描かれる保土ヶ谷宿の名所となりました。
境木(さかいぎ)地蔵尊 境木地蔵は丁度、武蔵国と相模国の国境にあり、境木地蔵の手前には昔、国境に立てられたという傍示杭が平成 17年(2005)に復元されました。
この辺りは、境木の立場(休憩所)があった所で、保土ヶ谷からは難所の権太坂を登り切った所、また戸塚側からも品濃坂を登り切った所でしたので見晴しも良く、茶店などもあり、旅人は名物の牡丹餅 を食べながら疲れを癒した所の様です。
境木地蔵尊の創建は江戸時代初期(1659年)江戸からの講中や道中の安全を祈る旅人が多く参拝されたようです。
品濃一里塚 江戸日本橋から9番目となる品濃一里塚です。 こちらの一里塚は、街道の左右につくられ、直径が6間(約 11m)、高さ3間(約 5.5m)で、塚の上には大きな榎が植えられていました。
現在、神奈川県内でほぼ完全な形で残る唯一の一里塚で、県の指定文化財 になっています。
品濃一里塚を下り、全行程 約 7.0Kmを歩き、JR東戸塚駅に到着しました。
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