本を片手に薪を背負った少年“二宮 金次郎”小学校の頃の記憶にあります。 戦後の貧しい時代に子供と言えども、家のために薪を集め、その傍ら勉学にも勤しむ。 これは戦後、子供の在るべき姿であったように思います。
薪を背負った少年像を、小学校で良く見かけるのは1928年、昭和天皇即位に祝賀の意を表したいと、兵庫県の県会議員「中村 直吉」氏が各地の報徳神社や小学校に寄付をされたのだそうです。
二宮 金次郎は天明7年(1787年)現在の小田原市栢山の裕福な農家に生まれ、安政3年(1856年)栃木県今市市にて70歳で他界されたとの事です。
生まれた頃は裕福でしたが、川の氾濫で田畑を失い、病の父の代わりに酒匂川の堤防工事に、非力な自分にも出来る事とワラジを作り工事の人々に差し出されたようです。
その後、父は14歳の時に死去。 母を助けて良く働き、勉学にも励んだ。がその母も16歳の時に死去。 酒匂川が氾濫し、一家離散。金次郎は伯父「万兵衛」方に身を寄せたようです。
ある夜、明かりを灯して本を読んでいると伯父に怒られたのでした「お前は誰のおかげで、飯を食っているのだ。油がもったいない。」と。 金次郎は空き地に菜種を植え、できた菜種と油を交換して本を読むのですが、また叱られました。「百姓に学問はいらない」と。
それから始まったのが、薪を背負い歩きながら本を読む姿のようです。
25歳になって、伯父の家から独立し、実家の再興に取り掛かり、勤勉と倹約に努め以前のような裕福な家に再興しました。 それを知った小田原藩士「服部家」に財政の建て直しを依頼され着手、これに成功を治めました。 31歳では藩主「大久保 忠真」より、その功績を表彰され、さらに世の人のために尽くそうと決意をしたようです。
35歳の時には、服部家での手腕を見込まれ小田原藩の分家にあたる桜町領(栃木県二宮町)の復興のため、栢山の資産を処分し栃木に移転。
この桜町領を再興する時に、武士の位を授けられ二宮尊徳となりました。
二宮尊徳翁は、ものの見方・考え方として勤労、分度、推譲を多くの人々に勧めました。 勤労とは、徳に報いるために働く。 分度とは、収入の範囲内で支出を定めること。 推譲とは、勤労、分度をして貯めた物を将来のために残したり、人に及ぼしたりすること。
また、『積小為大』・『五常講』を人々に説かれたそうです。 積小為大とは、小を積んで大と為すと言うこと。 そして五常講とは、お金の貸し借りの旋回の過程で「仁」の心をもってそれぞれの分度を守り、多少余裕の有る人から困っている人にお金を推譲し、借りた人は「義」の心を持って正しく返済し、「礼」の心を持って恩に報いるために冥加金を差し出すなど心を配って人に接し、「智」の心を持って借りたお金を運転し、「信」の心を持って約束を守る。
すなわち『仁義礼智信』の「人倫五常の道」を守ろうと教えられたようです。