古地図を持ち、江戸の今と昔を感じながら、のんびりウォーキングをして来ました。 スタートは台東区の浅草見附跡。9時半。
江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。 奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれ、また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。 36個所に設けられた見附のひとつ。
ここ神田川に初めて橋がかけられたのは寛永 13年(1636)のことである。 浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたがいつしか「浅草橋」と呼ばれるようになったとのことです。
9時 50分に中央区の「柳橋」へ。
柳橋という町の名は、江戸中期の頃から花街として人に良く知られ、橋のほとりには船宿が数多く並び大変な賑わいであったようです。 幕末・明治以降も花柳界として名高く、夏には両国橋を中心に大川で花火が打ち上げられていました。 柳橋のたもとの情緒ある船宿であり佃煮屋さんでもある『小松屋』さんでは娘さんの三味線で御主人が唄を披露して下さり、何となく花街の歴史を感じることができました。
❝春の夜や 女見返る 柳橋❞
正岡子規によるこの句を始め、柳橋は文人たちに度々とりあげられ、山本周五郎、池波正太郎、藤沢周平などの時代小説を始め、映画やドラマの舞台にもなり、江戸の雰囲気を感じられる数少ない町として、今も人々に親しまれています。
両国広小路跡に 10時 15分着。
江戸の大火は86件ありました。その中の1つである明暦 3年(1657)の大火は江戸市街の大半を焼失し、10万余の死者を出したそうです。 その際に、この辺りで逃げ場を失って焼死する者が多数出た。 このために対岸への避難の便を図り両国橋が架けられた。 隅田川は当時武蔵(埼玉:東京)と下総(千葉)両国の境界をなしていた。 また延焼防止のため橋に向かう沿道一帯を火除け地に指定し空き地とした。
やがてこれが広小路となり、江戸三大広小路の一つとして上野浅草に並び称せられる盛り場に発展した。 町の近代化はめざましく、広小路や両国の名も過去のものとして忘れ去られようとしているが、360年前火除け地が設定され、これが広小路に発展して行った事跡のなかには、先人の英知と努力が偲ばれて誠に意義深いものであります。
その後、V字型の底の細い堀であったという薬研堀を通り薬研堀不動尊を参拝した。
10時 40分、両国橋を渡り墨田区両国三丁目へ。
両国というと国技館のある相撲の町であり、歩く途中で春日野部屋、井筒部屋、時津風部屋を見ることができました。 部屋の前には沢山の自転車が置かれていましたが、さすが力士が乗る自転車らしくサドルが大きいものでした。
またここは多くの方々が知る「忠臣蔵」の歴史の町でもあります。 両国小学校の少し西側 本所松坂町公園、なまこ壁に囲まれた「吉良邸跡」に11時 20分到着。 吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)の屋敷は広大で、東西七十三間(134m)、南北三十五間(63m)で、面積は 2550坪(約8400㎡)だったとされています。
元禄 15年(1702)12月 14日、赤穂の四十七士が討ち入りしたところで『忠臣蔵』として知られるところです。 現在の吉良邸跡として残されている本所松坂町公園は、当時の八十六分の一の大きさに過ぎないとのことです。
吉良邸正門跡 元禄15年12月14日、寅の刻(午前 4時)の七つの鐘を聞いた後、正門から大石内蔵助以下 23名が用意した梯子で邸内に侵入して、内側から門を開け、「浅野内匠家来口上」を玄関前に打ち立てて乱入しました。
赤穂浪士は正門、裏手の二手に分かれて討ち入り、大声を上げながら、百人以上の大勢が討ち入ったように装いました。 これに動揺した吉良家家臣の多くが外に飛び出そうとしました。 しかし、弓の名手、早水藤左衛門らが侍長屋の戸板に向かって次々と矢を射掛けて威嚇し、出口を固められたため、飛び出すこともできず戦闘不能になったといわれています。
吉良邸裏門跡 赤穂浪士討ち入りの際、裏門からは大石主税以下二十四名が門を叩き壊して侵入、寝込みを襲われ半睡状態に近い吉良家の家臣を次々と斬り伏せました。 吉良家にも何人か勇士がいましたが、寝巻き姿では鎖帷子(くさりかたびら)を着込み完全武装の赤穂浪士には到底敵わなかったようです。
広大な屋敷の中で一時間余り続いた討ち入りは、壮絶なものでしたが、吉良家側の死傷者が 38名だったのに対し、赤穂浪士側は 2名が軽い傷を負っただけで済んだようです。
両国公園着 11時 50分。40分休憩し、12時半 回向院に向かいました。
明暦 3年(1657)江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は10万人以上、未曽有の大惨事となりました。 遺体の多くが身元不明、引取り手のない有様でした。 そこで四代将軍「徳川家綱」は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。 有縁・無縁、人・動物に関わらず、生ある全てのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震、関東大震災、東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者、海難事故による溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されているとのことです。
また、回向院では天保 4年(1833)から相撲興行が行われていたことから、明治 42年(1909)に、その境内にドーム型屋根の洋風建築で、収容人数は1万3千人の両国元町常設館という旧国技館が建設されました。 建設費は 28万円(現在の価値では 75億円程度)とのことです。
13時 15分、旧安田庭園に到着。 旧安田庭園は、江戸時代前期に後の常陸笠間藩 5万石の藩主となった本庄因幡守宗資(1629~1699)により大名庭園として築造され、隅田川の水を引き入れた池を配し、潮の干満によって変化する景観を楽しむ、いわゆる池泉回遊式庭園として造られたと伝えられています。
明治時代に入って池田章政侯爵邸とされ、明治 24年に安田財閥の創始者である初代安田善次郎の所有となり、大正 11年には、安田善次郎の遺志により東京市へ寄付されました。 大正 12年の関東大震災により、旧安田庭園も大きな被害に襲われましたが、昭和 2年に両国公会堂(当時:本所公会堂)と合わせて民間篤志家の寄付による都内第 1号の無料公開庭園として開園されました。
平成 8年 3月「東京都指定名勝」に指定されています。
曇りの予定であったのに、日差しが強くなりコンクリートジャングルの中は山と違った暑さで参りました。
両国駅に向かう途中で国技館の中からテレビで見かける顔がこちらを向いていたので、資料館に立ち寄り、歴代力士の懐かしい勇姿を見て来ました。