平成 23年 3月 11日(金)14時 46分
三陸沖 深さ 24Km マグニチュード 9.0 東日本大震災発生。
神奈川県でもビックリする様な揺れに身の危険を感じました。
当初「地震だ
」と思いましたが、その後に徐々に流されるテレビ報道で、この世のものかと思われる
悲惨な状況を目の当たりにして
「エッ
嘘だろ~
」と涙があふれました。
震災から 7年、復興の町で地元の方々と触れ合い、まだまだ復興の最中ですが地元の方に迷惑が掛からないよう「二宮町災害ボランティアネットワーク」
の皆さんと宮城県(南三陸町・女川町・石巻市・名取市)を歩いて
来ました。
現在幾つかの震災遺構として残されていますが、これに対しても地元の方々には「家族を亡くし二度と思い出したくない。」から撤去して欲しいとか「危険だ。」
などといった意見に、これは「教訓として残すべきだ。」など地元の方々の葛藤の末に処分するのは簡単だが、震災の有ったことも忘れ去られてしまうから、決して忘れないために残すという決断をされました。
あれだけの規模で大震災の痕跡をとどめた震災遺構を、保存し伝承していこうと決まり立地条件を考慮し幾つかの建物が保存されるようになりました。 それを基に想定外では済まされず、少しでも災害を最小限に抑えられるよう、この地震を教訓とすることが、残された者に与えられた宿題であります。
東北自動車道から三陸 自動車道に入り志津川 ICを 13時 50分に降り、
南三陸さんさん商店街
に立ち寄りました。 飲食
、鮮魚
、雑貨など 28店舗が軒を連ねる商店街。
その中に佐良(さりょう)スタジオという写真屋さんで「南三陸の記憶」のテーマで写真展示があり、ご自分で撮影された佐藤信一様に震災当時から、これまでの歩みを解説して頂きました。
また、「高台に避難して下さい」と南三陸町防災対策庁舎から町民に何度も呼び掛けた町職員
「遠藤未希」さんは防災無線で 30分ほど呼びかけ、もう危険という所で屋上に避難したが、津波の去った後には遠藤さんの姿はなかった。
16時、商店街から 10分ほどの高台に建つ南三陸町志津川中学校に登り、復興風景を俯瞰しました。
以前の地盤に 10mの土盛りをし、町が再開発されていますが一般住宅は右手の
高台に住宅街が作られていました。
漁師さんも住まいは山手です。
町の区画や道路も新しくカーナビは使えず、移動に苦慮しました。
16時 35分、南三陸「ホテル観洋」
に向かいホテルの語り部バスに乗り換え、ガイドの阿部様に案内して頂きました。 こちらのホテルも津波に襲われましたが倒壊はせず、震災直後から電気・水・道路などライフラインが絶たれ孤立状態の中、二次避難所として 600名の地元の皆さんとコミュニティーを作った活動をされました。
16時 45分、戸倉(とぐら)公民館へ。
ここは元、戸倉中学校で建物に大きな被害はありませんでしたが建物に津波の襲った高さ 22.6mの表示に驚きました。
ガラスに張られた赤の線が津波到達ライン
とのことです。
高台なので見下ろすと海面は遠くはるか低いのです。
こちらでは先生も生徒も祖父・祖母から明治 29年 6月 15日の「明治三陸大津波」の話を聞きいており「津波が来たら山へ逃げろ
」と生徒・先生・地元の皆さん全員が助かりました。
海に近く、地震発生の3分後に津波に襲われ、時計は 14時 49分
で止まったままです。 3分で皆さんが避難できたのは、日頃の避難訓練の賜物です。
間違えない人間はいません。でも人間は反省をします。
想定外の発生事象の反省点は後世に伝えなくてはならない重要さを勉強させて頂きました。
17時 15分、残された防災対策庁舎に一番近い献花台の場所に立ちました。
整備される前は建物の近くまで行けたようですが 10mの土盛りが進み、ここまで来ないと建物全容を見ることはできません。
沢山の方々が献花されていました。
17時半、民間震災遺構である高野会館へ。
こちらは JR
志津川駅に近く、南三陸町の冠婚葬祭用として利用された建物です。 海岸より 200m、3月11日には高齢者芸能発表会が開催されていましたが、「津波が来るぞ
」と出席者の皆さんを屋上へ避難させ、一部 4階の建物に約 40分後、高さ 15mの津波が直撃。
屋上が約 30cm浸水したが 327人と犬 2匹が助かったそうです。
建物所有者である
(株)阿部長商店
では、震災の風化を防ぐことと津波の経験や教訓を語り継ぐ場として保存を決められました。
テレビ画面で見た恐ろしい映像が再燃し、平穏でその場にいながら津波に飲まれる自分を想像した。 この様に残して頂き、見たこと、聞いたことから自分なりに対策をしておくことの重要さを改めて感じました。