足柄城址は、標高759mの足柄峠に小田原北条氏の属城として遺構を残す連郭式の山城であります。
峠の一番高い所が「一の郭(くるわ)」で、そこから北側に「二~五の郭」や土塁、井戸跡、倉屋敷跡、数地点に砦(矢倉)等が存在します。
足柄城築城の目的は、駿河(裾野市)を拠点としていた大森氏が相模への進出の足掛かりとして造ったのではないかといわれています。
二の郭と奥のピークは金時山。
自然地形を利用して、甲斐武田氏との境目の城として、また足柄古道などの監視。
手前は空堀で奥が三の郭
城跡の本丸と木立の間には、玉手ヶ池があり、いかなる日照りがあっても枯れなかったといわれており、また、長い日照り続きの時は、池の水をかき回し雨乞いをすれば、必ず雨が降るので「雨乞い池」とも呼ばれたようです。
後北条時代になって、駿河の今川義元、甲斐の武田信玄などからの侵攻を阻止する意図での重要な城として築造された。
武田信玄は甲斐から駿河進出を図り、幾度となく北条氏と対峙した。特に激しく接近してきたのは 1570年前後である。
豊臣秀吉が全国統一を果たす上で最後まで抵抗した小田原北条氏の支城である。
北条氏は秀吉の攻撃に備え、拠点小田原城を守るに際し、豊臣軍を箱根連山で防御する支城群を整備した。
伊豆韮山城、箱根の山中城(三島市)そしてこの足柄城や河村城(山北町)などである。
この城は 1590(天正18)年 豊臣軍に参加した徳川家臣の井伊直政隊の、小田原城攻めの攻撃を前に山中城の落城の報を受け、その時の将兵 26名は一戦もせずに退去落城したとのことです。