江戸から7番目の宿場で、日本橋からは 16里(62.8Km)の所に 『平塚宿』
があります。
江戸から6番目の藤沢宿からは3里 18町(13.7Km)にあり、途中、茅ヶ崎一里塚から間宿(あいのしゅく)南湖を過ぎ、舟渡し の相模川(河口付近は馬入川と言います。)を渡れば、高麗山(こまやま)が近づいてきて間もなく『平塚宿』に入ります。
次の大磯宿までは 27町(2.9Km)と大磯宿に大変近い所に造られました。
当時の旅人は一日平均 10里(約 40Km)を歩いたようです。 所が、これほど近い所に藤沢宿~平塚宿~大磯宿と宿場が造られた理由に、平塚が隣村の中原にあった徳川家康の中原御殿並びに中原代官陣屋から東海道にもっとも近い場所だったからと考えられています。
中原御殿は家康が鷹狩りや江戸と駿府の往来のために築かれました。
江戸時代後期の平塚宿の規模は、問屋場2ヶ所、本陣、脇本陣 各1軒、旅籠 54軒、家屋数 443軒、人口 2,114人で東海道の宿場の中では規模が小さい方であったようです。
平塚の歴史は、地震
、
津波
、富士山の
噴火、空襲など多くの災害を乗り越えてきました。
「湘南ひらつか七夕まつり」
は第二次世界大戦末期の平塚大空襲からの復興を願い始められたとのことです。
その平塚が災害とどの様に向き合ってきたのか❓ その一部も見て来ました。
平塚駅東口を 9時 20分、
出発。 まずは駅から東寄りにある相模川に向かいました。 かつての相模川には 60ヶ所を超える渡船場があったと云われています。
この馬入の渡しもその一つで、旅人は渡船によって馬入川を行き来していたとのことです。
例外的に将軍の上洛、朝鮮通信使の来朝の時は、川に船を横に並べこれを繋いでその上に板を並べた「船橋」を架けて渡河したようです。
平塚八幡宮 古くは鶴峰山八幡宮と言われ、相模国八幡庄の総鎮守です。
馬入村、八幡村、平塚新宿の鎮守でもあり、祭神は八幡大神(応神天皇)、神功皇后(応神天皇の母)、武内宿禰(すくね)の三柱です。 祭神の応神天皇は大陸文化を積極的に取り入れ、その結果、国勢が大いに発展したことから、国家鎮護、文化発展の神とされています。
平安時代後期、武士の台頭と共に武運長久の神として崇拝され、特に源氏が八幡神を氏神としたため全国に信仰が広まったようです。 また、平塚八幡宮は応神天皇とその母を祀っていることから、子宝、安産、子育ての神徳もあるとされています。
建久3年(1192)源頼朝は妻 政子の安産祈願のために神馬(しんめ)を奉納しています。
八幡山の洋館 日露戦争後、日本海軍は無煙火薬国産化の必要性を痛感し、広大な遊休地のあった当時の平塚町にイギリスの三社との合弁による日本火薬製造株式会社を設立しました。
この洋館は、その敷地内にイギリス人技術者の食堂・ホールとして明治 45年(1912)に建築されたものです。
大正8年(1919)日本火薬製造(株)の全施設は日本海軍により買収され海軍火薬廠となり、第二次世界大戦後は旧火薬廠の土地、建物はアメリカ軍により接収、昭和 25年(1950)には横浜ゴム(株)に払い下げられ、平成 16年(2004)横浜ゴム(株)より平塚市が譲り受け、八幡山公園に移築され、平成21年(2009)に一般公開されました。
建物は木造平屋建てで、塔屋のドーム、アーチ状の窓、二方向のベランダ、ドイツ下見板張りの外壁などが特徴です。 平塚市内では唯一の明治時代の洋風建造物で、国の登録有形文化財に登録されています。
『番町皿屋敷』のお菊 皿屋敷伝説のモデルといわれる
「お菊」
のお墓です。 お菊は平塚宿役人 真壁源右衛門の娘で、江戸の旗本 青山主膳方に奉公中、青山家秘伝の唐絵の皿を紛失し、主人に斬り殺されたとされています。
井戸から夜な夜な聞こえる皿を数える うらめしい声。 「いちま~い、にま~い・・・」でおなじみの
『番町皿屋敷』。 大切な絵皿を割ったという濡れ衣を着せられ若くして処刑されてしまった主人公「お菊」のモデルは平塚出身だそうです。
平塚宿の伝承では、その亡骸は長持ち詰めとなって江戸から送られ、馬入の渡しで父親の源右衛門に引き渡されました。 お菊は評判の美人でしたが、源右衛門は変わり果てた娘の姿を見て、
「もの言わぬ 晴れ着姿や すみれ草」
の一句を添えて涙し、祖先の墓の傍らに埋葬したとのことです。
江戸方見附跡
かつて江戸方見附のあった場所に、近年発見された資料や写真をもとに、見附が復元されました。
資料によると盛り土の周りを石垣で固めて、長さ 3.6m、幅 1.5m、高さ 1.6mの台状にしたもので、頂部の盛り土に竹矢来を施した構造物が、東海道の両側に東西に少しずれた形に設置されていたようです。
見附は本来、簡易な防御施設であるとともに、宿場の範囲を視覚的に示す効果を併せ持っていたと考えられています。
本陣跡 平塚宿の本陣 加藤家は代々 加藤七郎兵衛を名乗り、門、玄関付き総欅造りの屋敷は比較的小規模でしたが、本陣としての格式としっかりした構えを備えていました。
本陣とは、公家・大名・幕府のお役人などの宿泊施設です。 14代将軍、徳川家茂は文久3年(1863)と元治2年(1865)の2回、加藤本陣で休憩されたとのことです。
付近には、本陣の補助的な役目をした 脇本陣や人馬の継立と飛脚業務を行った
問屋場、幕府や領主の法令などを記した高札を掲げた
高札場などがあり、この辺りが平塚宿の中心となっていました。
平塚の塚 平塚の地名の由来とされる史跡です。
江戸時代の天保 11年に幕府によって編纂された『新編相模国風土記稿』の中に里人の言い伝えとして、【昔、桓武天皇の三代孫、高見王の娘 政子が東国へ向かう旅の途中、天安元年(857)相模国のこの地で亡くなり、里人が松の大木の根元に塚を築いて弔ったそうです。時を経て塚は風化し平たくなったので里人はそれを
『ひらつか』
と呼んできた。】という一節があり、これが平塚という地名の起こりとなりました。
この事から平塚の歴史の古さが伝わります。
上方見附跡
平塚宿の京側の出入り口であった上方見附の位置は定かではありませんが、この辺りにあったと云われています。
初代 広重によって描かれた東海道五十三次の平塚宿の錦絵も、上方見附からの眺めのものと思われ、変わらぬ高麗山(こまやま) の姿に往時の風情が偲ばれます。
数多くの旅籠が並んでいた頃の夕方ともなると、客引きをする留め女たちが旅人を奪い合う光景が良く見られたそうです。 江戸から京へ急ぐ旅人の袖をつかんでは、前方の高麗山を指して「あの山
を越えないと大磯宿には行けないよ。」と噓を言って、旅人を旅籠に引っ張り込んだそうです。
実際は高麗山を越えずに周りを歩くだけなので、苦は無いのです。 客引きというのは、昔からあったのですね。