只見川の源流は尾瀬ということになるので群馬県、しかし只見川という名の下では新潟県魚沼市ということになる。ただ、奥会津というイメージからすると終点は只見町。只見町は金山町から下流域にかけての東北電力施設から、電源開発(J-POWER)の縄張りとなる。
その
J-POWERの看板ダムである「田子倉ダム」と「田子倉湖」は只見町の観光資源ともなっているし、只見ダムのすぐ脇にはJ-POWERの只見展示館、そのほかにも只見町のブナセンターやミュージアム・資料館などもとても興味深い施設が観光客を引き寄せている。
そんな中で、私が立ち寄ったのは「只見町河合継之助記念館」。ご承知のとおり越後長岡藩の家老で、北越戊辰戦争で重傷を負い、会津藩を頼って亡命する際に、ここ只見町が終焉の地になったことから、記念館が建てられているのだ。(写真下:記念館の入り口と内部の様子。)
河合継之助は1827年長岡城下の中堅武士の長男として生まれる。武芸のほかにも儒学・哲学などを学び、江戸遊学時には佐久間象山など、また西方遊学では備中(岡山県西部)・松山では山田方谷などに師事している。
子どものころからの気性の荒さはあったが郡奉行から町奉行、そして家老へと出世。藩政改革を成し遂げていき財力を蓄えたのち、黒船来襲を目の当たりにしてきている継之助は、軍備を増強しなければ国を守れないと考えていた矢先に戊辰戦争に巻き込まれていく。
内戦をしている場合ではないと思いから新政府軍との「小千谷談判」に臨む継之助だったが交渉は決裂。一旦明け渡した城を奪回するなど長岡藩は持ちこたえたものの陥落。継之助はじめ城下の者たちは「八十里峠」を超えて会津に向かう。これが「八十里 腰抜け武士の 越す峠」であり、映画「峠」のことである。
さて、会津只見は同盟関係にあった長岡藩から約一週間のうちに2万5000人ともいわれる、いわゆる避難民を受け入れることになる。全戸300軒余りの寒村は、想像を絶する大混乱を引き起こしながらも、負傷した継之助をはじめ多くの市民をも受け入れることになる。新政府軍が会津を攻めることは当然として、長岡藩が盾になってくれていることを村人も分かっていたからだろう。
ただここにも悲劇が。当時代官で食糧調達の任にあった丹羽族(にわやから)は、継之助に面会した後、十分な食糧を確保できなかったことから責任を取って自害する。その死を知った村人は僅かな貯えを差し出し、引揚者の窮地を救ったという歴史もある(写真上のパネル写真、もう一方の写真は当時最新鋭・日本で初めて使用されたガトリング砲の複製。)。
只見に入って12日目、膝を撃ち抜かれた傷が悪化した継之助は、藩士・外山脩造(後にアサヒビール創始者、阪神電鉄社長など財界人として活躍)などに看取られて、只見町塩沢で亡くなった。享年42歳。(写真下:継之助終焉の地を告げる石碑と、館内に移設・設置された終焉の間(只見町塩沢の医師・矢沢宗益宅)、いずれもダム湖の下が実際に亡くなった地である。)
まあ、新潟県人として、長岡の英雄を熱くもてなし、丁重に葬り、そして記念館まで作って終焉の地を守り続けてくれている只見の人々。混乱や悲劇を招きながらもその遺徳を偲んでいることに感銘する限りだ。
実は長岡市にも「河合継之助記念館」があって、こちらは本家本元といえるし、何かにつけ展示も本物というリアリティーがあるのだが、只見町の記念館は実に立派で、展示物も継之助の生い立ちや個性、能力が歴史に疎い私にも理解できるものが多かった。
映画「峠」は見ていないのだが、先に会津若松城に移った主君に長岡城下での戦いを報告するため、峠を越すところに継之助の信念の強さを、そして主君・牧野忠恭(ただゆき)は幕府侍医・松本良順を若松から差し向ける。その峠に強く美しい主従関係を感じることができるのが只見の地でもある。
その
J-POWERの看板ダムである「田子倉ダム」と「田子倉湖」は只見町の観光資源ともなっているし、只見ダムのすぐ脇にはJ-POWERの只見展示館、そのほかにも只見町のブナセンターやミュージアム・資料館などもとても興味深い施設が観光客を引き寄せている。
そんな中で、私が立ち寄ったのは「只見町河合継之助記念館」。ご承知のとおり越後長岡藩の家老で、北越戊辰戦争で重傷を負い、会津藩を頼って亡命する際に、ここ只見町が終焉の地になったことから、記念館が建てられているのだ。(写真下:記念館の入り口と内部の様子。)
河合継之助は1827年長岡城下の中堅武士の長男として生まれる。武芸のほかにも儒学・哲学などを学び、江戸遊学時には佐久間象山など、また西方遊学では備中(岡山県西部)・松山では山田方谷などに師事している。
子どものころからの気性の荒さはあったが郡奉行から町奉行、そして家老へと出世。藩政改革を成し遂げていき財力を蓄えたのち、黒船来襲を目の当たりにしてきている継之助は、軍備を増強しなければ国を守れないと考えていた矢先に戊辰戦争に巻き込まれていく。
内戦をしている場合ではないと思いから新政府軍との「小千谷談判」に臨む継之助だったが交渉は決裂。一旦明け渡した城を奪回するなど長岡藩は持ちこたえたものの陥落。継之助はじめ城下の者たちは「八十里峠」を超えて会津に向かう。これが「八十里 腰抜け武士の 越す峠」であり、映画「峠」のことである。
さて、会津只見は同盟関係にあった長岡藩から約一週間のうちに2万5000人ともいわれる、いわゆる避難民を受け入れることになる。全戸300軒余りの寒村は、想像を絶する大混乱を引き起こしながらも、負傷した継之助をはじめ多くの市民をも受け入れることになる。新政府軍が会津を攻めることは当然として、長岡藩が盾になってくれていることを村人も分かっていたからだろう。
ただここにも悲劇が。当時代官で食糧調達の任にあった丹羽族(にわやから)は、継之助に面会した後、十分な食糧を確保できなかったことから責任を取って自害する。その死を知った村人は僅かな貯えを差し出し、引揚者の窮地を救ったという歴史もある(写真上のパネル写真、もう一方の写真は当時最新鋭・日本で初めて使用されたガトリング砲の複製。)。
只見に入って12日目、膝を撃ち抜かれた傷が悪化した継之助は、藩士・外山脩造(後にアサヒビール創始者、阪神電鉄社長など財界人として活躍)などに看取られて、只見町塩沢で亡くなった。享年42歳。(写真下:継之助終焉の地を告げる石碑と、館内に移設・設置された終焉の間(只見町塩沢の医師・矢沢宗益宅)、いずれもダム湖の下が実際に亡くなった地である。)
まあ、新潟県人として、長岡の英雄を熱くもてなし、丁重に葬り、そして記念館まで作って終焉の地を守り続けてくれている只見の人々。混乱や悲劇を招きながらもその遺徳を偲んでいることに感銘する限りだ。
実は長岡市にも「河合継之助記念館」があって、こちらは本家本元といえるし、何かにつけ展示も本物というリアリティーがあるのだが、只見町の記念館は実に立派で、展示物も継之助の生い立ちや個性、能力が歴史に疎い私にも理解できるものが多かった。
映画「峠」は見ていないのだが、先に会津若松城に移った主君に長岡城下での戦いを報告するため、峠を越すところに継之助の信念の強さを、そして主君・牧野忠恭(ただゆき)は幕府侍医・松本良順を若松から差し向ける。その峠に強く美しい主従関係を感じることができるのが只見の地でもある。