行き先不明人の時刻表2

何も考えずに、でも何かを求めて、鉄道の旅を続けています。今夜もmoonligh-expressが発車の時間を迎えます。

河合継之助、「峠」を越えて只見の地で眠る

2022年10月05日 | 旅行記・まち歩き
只見川の源流は尾瀬ということになるので群馬県、しかし只見川という名の下では新潟県魚沼市ということになる。ただ、奥会津というイメージからすると終点は只見町。只見町は金山町から下流域にかけての東北電力施設から、電源開発(J-POWER)の縄張りとなる。
その
J-POWERの看板ダムである「田子倉ダム」と「田子倉湖」は只見町の観光資源ともなっているし、只見ダムのすぐ脇にはJ-POWERの只見展示館、そのほかにも只見町のブナセンターやミュージアム・資料館などもとても興味深い施設が観光客を引き寄せている。
そんな中で、私が立ち寄ったのは「只見町河合継之助記念館」。ご承知のとおり越後長岡藩の家老で、北越戊辰戦争で重傷を負い、会津藩を頼って亡命する際に、ここ只見町が終焉の地になったことから、記念館が建てられているのだ。(写真下:記念館の入り口と内部の様子。)



河合継之助は1827年長岡城下の中堅武士の長男として生まれる。武芸のほかにも儒学・哲学などを学び、江戸遊学時には佐久間象山など、また西方遊学では備中(岡山県西部)・松山では山田方谷などに師事している。
子どものころからの気性の荒さはあったが郡奉行から町奉行、そして家老へと出世。藩政改革を成し遂げていき財力を蓄えたのち、黒船来襲を目の当たりにしてきている継之助は、軍備を増強しなければ国を守れないと考えていた矢先に戊辰戦争に巻き込まれていく。
内戦をしている場合ではないと思いから新政府軍との「小千谷談判」に臨む継之助だったが交渉は決裂。一旦明け渡した城を奪回するなど長岡藩は持ちこたえたものの陥落。継之助はじめ城下の者たちは「八十里峠」を超えて会津に向かう。これが「八十里 腰抜け武士の 越す峠」であり、映画「峠」のことである。



さて、会津只見は同盟関係にあった長岡藩から約一週間のうちに2万5000人ともいわれる、いわゆる避難民を受け入れることになる。全戸300軒余りの寒村は、想像を絶する大混乱を引き起こしながらも、負傷した継之助をはじめ多くの市民をも受け入れることになる。新政府軍が会津を攻めることは当然として、長岡藩が盾になってくれていることを村人も分かっていたからだろう。
ただここにも悲劇が。当時代官で食糧調達の任にあった丹羽族(にわやから)は、継之助に面会した後、十分な食糧を確保できなかったことから責任を取って自害する。その死を知った村人は僅かな貯えを差し出し、引揚者の窮地を救ったという歴史もある(写真上のパネル写真、もう一方の写真は当時最新鋭・日本で初めて使用されたガトリング砲の複製。)。
只見に入って12日目、膝を撃ち抜かれた傷が悪化した継之助は、藩士・外山脩造(後にアサヒビール創始者、阪神電鉄社長など財界人として活躍)などに看取られて、只見町塩沢で亡くなった。享年42歳。(写真下:継之助終焉の地を告げる石碑と、館内に移設・設置された終焉の間(只見町塩沢の医師・矢沢宗益宅)、いずれもダム湖の下が実際に亡くなった地である。)



まあ、新潟県人として、長岡の英雄を熱くもてなし、丁重に葬り、そして記念館まで作って終焉の地を守り続けてくれている只見の人々。混乱や悲劇を招きながらもその遺徳を偲んでいることに感銘する限りだ。
実は長岡市にも「河合継之助記念館」があって、こちらは本家本元といえるし、何かにつけ展示も本物というリアリティーがあるのだが、只見町の記念館は実に立派で、展示物も継之助の生い立ちや個性、能力が歴史に疎い私にも理解できるものが多かった。
映画「峠」は見ていないのだが、先に会津若松城に移った主君に長岡城下での戦いを報告するため、峠を越すところに継之助の信念の強さを、そして主君・牧野忠恭(ただゆき)は幕府侍医・松本良順を若松から差し向ける。その峠に強く美しい主従関係を感じることができるのが只見の地でもある。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東北電力初の本格的な水力発電のPR施設「みお里」

2022年10月03日 | 旅行記・まち歩き


只見川のダムや只見線の鉄道遺産を追いかける奥会津の旅も金山(かねやま)町に入った。人口は2,189人。これまで紹介した中で、隣の三島町に次いで人口は少ない(三島町は1,668人、ともに総務省統計局「統計でみる市区町村のすがた2022」資料。)
前回紹介した沼沢湖があり、温泉や蕎麦などを観光資源としているが、実は伊南川発電所や第二沼沢発電所も金山町。只見川本流にも上田ダム・発電所、本名ダム・発電所などがあり。これらは全て東北電力の施設である(町域の最上流部の滝ダムは電源開発(J-POWER)の施設。)
只見川の電源開発と水力発電の中心地というべき金山町だが、そこに東北電力が館内では最大、本格的な水力発電のPRと奥会津の魅力を紹介するため、2020年に「東北電力奥会津水力館・みお里MIORI®」というミュージアムを国道252号沿い、「道の駅・奥会津かねやま」の隣接地に開設している。



水力シアターホールを中心に、只見川の発電施設をマップ、ディスプレイで紹介する水力スクエアなどにより、水力発電の仕組みや只見川の電源開発の歴史を紹介している。そのほかにも再生可能エネルギーについても学べるという、時代を捉えた展示もある。(写真上)
ただそれだけではない。ギャラリーが凄い!水源、川、水力発電施設、灯りをテーマにした作家が描いたアートが、白を基調とした広々としたギャラリーに展示されている。室内上部に取り付けられているステンドグラスにもダムや会津の自然が描かれている。(写真下)
そのほかにも、奥会津の魅力や片岡鶴太郎氏による奥会津の逸品を書き起こした絵画・エッセイの展示、発表会や展示会などに使用できる貸しスペース(企画展示室)、四季折々の景色が楽しめるラウンジなども備える。しかも入場料は無料である。奥会津に行く機会があったならぜひ立ち寄ってほしい。



一角のそれほど広いスペースではないものの白洲次郎氏を紹介するコーナーが私にとっては印象的だ。只見川の電源開発を語る上で欠かせない人物で、東北電力の初代会長。東北発展に尽力し、戦後日本の電力にとっても重要なカギとなった人物である。(写真下:白洲氏を紹介するパネル。)
というのも、戦後の吉田茂の側近として活躍、留学経験を生かしてGHQとの交渉や、貿易庁長官なども歴任。サンフランシスコ講和会議(1951年)に顧問として参加し、その後も外務省顧問なども務め、政界入りを望む声もあったともいう。
ただ白洲は実業家としての道を選び、只見川流域の電源開発に力を注ぎ、水利権を東京電力から東北電力に切り替えたことにより、東北電力と東北地方の発展に寄与したのである。なかなかイケメンでダンディな装いの中に鋭い眼光がまた印象的だ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瓦テラス、うなぎのぼり神社にあやかれるか!

2022年09月21日 | 旅行記・まち歩き


先日紹介した「わくわくHills」同様、以前からチェックしていた場所がある。阿賀野市安田地区に行った際には立ち寄ってみたかった場所「瓦テラス」だ。わくわくHillsの近く、製麺工場を挟んだ至近にあり、お昼ご飯でもと思って行ってみた。
安田地区は「安田瓦」という一大生産地。還元焼成粘土瓦という焼き瓦で江戸時代からの歴史あるもので、雪国の厳しい気候に耐えうる断熱性、耐寒性に優れている瓦だといわれる。確かに、瓦テラスの付近には瓦工場が並び、ここは「やすだ瓦ロード」と呼ばれている場所だ。
そんな一角に瓦テラスはドーンと存在感のある平屋の長い切妻屋根に、12,000枚の安田瓦が並ぶ造り。それがとてもおしゃれでスマートな外観である。2018年の夏、地域の魅力発信と活性化を図ろうとオープンした施設である。(写真上:瓦テラスの駐車場入り口付近からの全景と、施設の裏手から見ることができる見事な瓦葺の屋根。)



中央には通路、その左側がレストランになっていて、右側がショップとカフェスペース。前面にテラス席があって、建物裏にもウッドデッキ。後ろから見ると圧巻の瓦が使われていることがよく分かる。
施設のロゴマークには、地域の特産品などがデザインされているようだが、新潟酪農発祥の地という場所にあって乳牛が描かれているものの、それ以上にうなぎ(鰻)の存在が大きく見える。何でもウナギをこの地で養殖しているという。
確かに、レストランのメニューは「うなぎ」を使用したものが多い。というか、うなぎか牛肉(「あがの姫牛」というブランド)に限られる。建物の裏手には、「うなぎのぼり神社」という縁起の良さそうな神社があって、クラウドファンディングを活用して建てられたものもある。まさしく瓦とうなぎのPR館なのだ。(写真上:前面のテラス席とショップ・カフェの内観。)



この地でうなぎの養殖がされているとは知らなかったが、瓦テラスを知ったのはうなぎ料理を提供していることがきっかけ。なお調べていくと、特産品開発を目指して私財を投じうなぎの養殖に情熱を注いだ人がいたとの情報に接することになる。
それが隣に工場を構える県内では名の知れた製麺会社「めんつう」の創業者で元会長・羽田一司氏。養殖を開始したばかりの2016年に志半ば亡くなったのだが、めんつうの現社長や地域の方々がより遺志が引き継がれて、土用の丑の日には1万匹以上を出荷するまでになった。
さあ、地域もこの施設を中心にうなぎのぼりとなるのかどうか?故人となった羽田氏は瓦の上の空からどのように見ているか?今後の瓦とうなぎの動向も確かめていきたいと思う。(写真上:うなぎの存在感がる瓦型のロゴマークと、施設裏手にあるうなぎのぼり神社。QRコードによるスマートおみくじも引ける。写真下:この日いただいたうな重は星3つかな?と、うなぎのぼり神社のおみくじで引き当てた小吉で、うなぎに見立てたチョコバナナがのったパフェを無料でいただいた。)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「かがやき福祉会」のかがやく子どもための屋内遊技場

2022年09月19日 | 旅行記・まち歩き


近くで孫が遊べるところを探す。新潟は冬が大変との一般的見方があるが、夏も暑いのでじいさんばあさんのことを考えると、互いに安全で快適な屋内の遊び場を探すことに。ネットがあるから簡単に探せる時代だ。
以前から気になっていた場所は、近隣の阿賀野市にあった。「わくわくHills(ヒルズ)」。地元の社会福祉法人「かがやき福祉会」が運営する屋内型の運動遊戯施設。子どもの成長には「遊び」が大事という観点から、2015年(平成27年)に設置された。
特別養護老人ホームにこども園、障碍者の就業支援施設などが一体となっているが、ここは以前は県立安田高校(2007年閉校)があった場所で、その跡地を利用している。学校の体育館やグランドは、全ての施設の運動施設として活用され、小体育館を子どもの遊び場にしている。



この施設は、ボーネルンドという玩具メーカーと提携。子どもの遊び道具として積み木や木琴など同メーカーが開発した本物志向のものを使用している。施設のプロデュースもボーネルンドが手掛けており、「KID-O-KID(キドキド)」や「ボーネルンドあそびのせかい」などの同社が展開する取り組みの一つ。
各地から注目を集める取り組みだが、その提携先は創業以来、全国で3万か所を超えている。公共施設やショッピングモール、病院などに併設、公園などの屋外施設など運営・設置形態は様々だが、ここでは社会福祉法人が子どもや高齢者までという一貫した地域連携の福祉的観点から設置されている。
幼児用のベビーガーデンから「ごっこ遊び」ができるスペース、ボールプール、クライミングウォール、エアトラックという空気の反発を利用したトランポリン型の遊具はインパクトがある。お邪魔した日は休日で、赤ちゃん(6か月以上)から小学生(12歳まで)、そしてその親(必ず同伴)が大勢楽しんでいた。



コロナ禍ということもあり、入場制限などを設ける場合もあるとのことだが、一般入場料500円で90分の利用が可能。子ども二人に両親と祖父母と6人家族で入場しようとすると、「これ以上混雑すると大人は2人(子ども1人に付き添いの大人1名)までの制限がある」と告げられる。
何せ大人は入場無料。そりゃ仕方ないことだと思いながら、そそくさとじいさんは施設を出て周辺を散策する。すると隣接地には体育館などもあって、入場料を支払えばこちらも自由に走り回ったりすることが可能。お弁当の持ち込みをして飲食会場としても利用可能だそうである。
まあ、いくら有料施設とはいえ一人500円。1,000円だと利用者には厳しいし、運営する側とすれば、やはり平日の利用が課題のようだ。保育園や学校などの団体の受け入れもやっているようだが、遠足の雨天時の代替施設としては有効!こどもの「かがやき」のため頑張ってほしい。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千歳川で「熊出没注意」に脅され、支笏湖で「支笏湖ブルー」に癒され

2022年09月09日 | 旅行記・まち歩き


北海道の復路は、苫小牧港からのフェリーとなるため、少し早めに小樽を出て千歳川(写真上)を遡ることにする。ここには近代化産業遺産で、土木学会選奨土木遺産でもある「王子製紙水力発電施設群」がある。ここまで来て、これを見ないわけにはいかない!
製紙業には広大な工場用地は必要であり、それが現・王子製紙苫小牧工場。用地のほかにもきれいで大量の水、そして電力、パルプの原料となる木材、そして輸送のための良港が必要。それが北海道のこの地であったのだ。
電力に絞った話になるが、古いものでは1910年(明治43年)の」発電送電開始(千歳川第一発電所)。堰堤、水路、放水路、発電所と、日本の近代化に欠かせない電気供給を支笏湖から千歳川に流れ込む豊富で落差のある水流を生かしてもとめたのである。



発電施設を建設するために敷設された「王子軽便鉄道(通称「山線」)の廃線跡(現・遊歩道、サイクリングロード)とぴったりと沿って千歳川を上流の支笏湖方面に標高を上げていく。道央自動車道千歳インターから30分程、千歳川第一発電所入口へ到着。
なんと!事前調査で見学できるという話しだったのに、開放時間が15:00まで。僅かに5分、本当にタッチの差で間に合わなかった。悔しくて周辺をウロウロするが、北海道土産によく登場する「熊出没注意」の看板が目に留まる。商売柄、クマ鈴は持ち歩いているのだが、ヒグマはちょっと引いてしまう(写真上)。
仕方ない。これが、よく言う「忘れ物」ということになるのだが、北海道にきての忘れ物は痛い!簡単に取りに行けませんからねー。気を取り直して、更に支笏湖を目指すことにする。



千歳川は、この支笏湖から流れ出る唯一の川。正確には湖対岸の谷間から流れ込む川も千歳川だから、川の途中に湖があるということになる。
容易に想像できるが支笏湖は4万年前の大噴火により形成されたカルデラ湖。後から恵庭岳や風不死岳(ふっぷしだけ)が噴出したことにより、円形ではなく少しいびつな形になっている。水深363メートルは田沢湖に次いで国内第二位の推進を誇る。
とにかく透明度が高く、環境省の湖沼水質調査で日本一ともされている(調査年により順位は変動)。とにかく透き通った青さは「支笏湖ブルー」とも呼ばれ、湖畔や千歳川ではボート、カヌー、サップなどの多くの人がアクティビティを楽しむ光景が見られた。なんとも贅沢なロケーションだ(写真上)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「道の駅・あがの」は、まだプレオープンの状態

2022年09月02日 | 旅行記・まち歩き
以前、県内の道の駅を紹介する記事をアップした。すべての道の駅を走破したわけではないのだが、独断で「たがみ」「庭園の郷ほない」「長岡花火館」を県内ベスト3としたものだ。これらは比較的新しく設置された道の駅だ。
またまた近場で新しい道の駅がオープンしたという情報を得て、早速我が社の女性陣に連れられて見に行くことになる。阿賀野市が整備計画を打ち出し、パブリックコメントなどを募集しながら、この8月5日にオープンした「道の駅・あがの」。
設置場所は国道49号沿いで、建設が進む「水原バイパス」との新潟よりの合流地点。新横雲橋の東詰で、橋で阿賀野川を渡れば新潟市江南区という場所にある。立地条件としては目立ついい場所である。



訪れたのは平日の午後という時間帯。国道の交差点からの取り付け道路に入るのだが、クルマがびっしり止まっているのが見える。駐車場に進むが、なになに駐車場はまだ整備中ということで、予定の半分程度の完成度のようで、少し窮屈に感じるが駐車場所は確保できた。
施設がこじんまりとしているからなのか、やはり満員状態。オープン後2週間ほど経っているのだが、ザワザワ、バタバタ感は「道の駅・ふくしま」を見たときのようで落ち着かない。オープン当初三日間で1万5000人が来場したというから、その時はかなり息苦しい感じにもなったのではと想像する。
施設内は物販コーナーにはお土産や農産品が並ぶ。まあ、これはどこの道の駅にもあること。ただ「パルシステム」という生協がテナントとして入っていて、会員向けの商品受け渡し拠点として一角を抑えているが、これがよく分からない。



そんな中で、「あがの酪農カフェ」のソフトクリームと、「あがのおいしい調理室」のメンチカツは気になる存在。特にソフトクリームは、酪農発祥の地として売り出している阿賀野市ならではの味になっている。これは美味しいので、ぜひ食べていただきたい!
メンチも米粉を使っていて衣がサクサク。揚げたて熱々をいただければ美味しいのかもしれないが、晩飯のおかずにとお持ち帰りしたため、ホッと感が失われたか?これは私のミス。
そのほか、外に遊具が置いてあったり、冬場や雨天でも楽しめるように室内にもキッズスペースなどがあるのもいい。これだけを目当てに来る人も中にいるようで、単に行きかう人だけのサービス提供に限らず、交流拠点としての下地は整備されているように感じる。



ただ、肝心な駐車場が半分程度の完成率で、利用客のサービスの上では欠かせないフードコートは遅れて10月にオープン?夏休み期間のオープン時にこだわった割には交流広場(バーベキューなども楽しめるようになるのだというが…)も未完成というので、何が売りになるのか今の時点では想像がつかない。
調べてみると、昨年から「来夏オープン」を打ち出していたこともあって、何とかお盆前の帰省シーズンに間に合わせようとしたのだろうが、なんか見切り発車にも思えてくる。フードコートのメニューなどであっと驚く仕掛けでもあるのだろうか?
前述のカフェや調理室は指定管理者である運営会社の直営とのこと。フードコートは直営かどうかは分からないが、この部分がオープンできていないということは間違いなく準備不足かトラブルがあったのかもしれない。今後の運営に期待したいところだが、さてどうなるだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

県外からの移住者によって「KITAMAE」に運び込まれた

2022年08月30日 | 旅行記・まち歩き


このところ職場の女性陣と近場のショップやカフェなどを巡る機会が増えている。なんかプラプラしているみたいだけど、列記としたこれも仕事の一環だ。
気になる店構え、ちょっと変な品揃え、あまり見たことのない映えるスイーツなど、あまりジャンルは問わないのであるが、「面白い!」を探して当てのないプチ旅行でもある。
そんな中で、新潟市にある「KITAMAE(きたまえ)」に立ち寄ることができた。新潟産にこだわったショップで、私たち新潟県民になじみのある土産品のほか、その地域に住む地元の人じゃないとなかなか分からないレアな品まで取り揃えるという、地域色を前面に打ち出した店だ。



KITAMAEは新潟市街地にある「DEKKY(デッキー)401」という複合商業施設。スーパーマーケットや映画館、フードコートなどがあり、新潟の方なら「トイザらス」があるのでご存じ方も多いだろう。
その施設の2階にKITAMAEはテナントとして入る。2階の半分は屋上駐車場になっており、クルマを停めて2階からの入り口から昼とすぐの場所なので、好立地かもしれない。
この店は「新潟直販計画」というこれまでサイトで販売していたものが、昨年9月、初めて実店舗を設けたということで話題になっていたそうだが、私は知らなかった。多分、それまでにもデッキーには出入りしていたはずなのに。



お土産品にはお菓子、海産物、お米、生鮮品などの食料品あり、お酒あり、燕・三条の金属製品や雑貨・アクセサリーなど、新潟自慢の品々が並んでいるが、中には聞いたことのない地域限定の銘柄もある。
上越市の「笹団子パン」、十日町市の「焼きかりんとう」、糸魚川市の「ノムリン(贅沢たまごプリン=パウチタイプの飲むプリン?)」など、まあ私の住んでるところからはかなりの距離がある町なので、知らないことも多いんだな!
何と、私が佐渡から自慢げに買って帰る土産品なども豊富に取り揃えているので、ここに来ると佐渡に行ってきたというプレミア感は全く否定されることになってしまう。



店内はイートインのスペースもしっかり確保されている。新潟米を使ったおにぎりや食材を使った総菜・弁当、また長岡市の「ガンジー牛乳」を使用したアイスなどを提供するカフェスペースもあった。
とにかく普通の土産品だけでなく、新潟を知り尽くし、アンテナを磨いて地域に入ったバイヤーが、お気に入りの品や地域に愛され続けている品を厳選して取り寄せているに違いない。
実はこの新潟直販計画(以前は「直送計画」)は、「クーネルワーク」という会社が運営するが、設立僅か10年の会社(2016年、直送計画とクフー(web制作会社)が合併)で、県外出身のフリーランスが始めたそうだ。県外からの移住者だからその魅力に気づき、発信しようと考えたのだろうな。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥州の難関一の宮、二度目の訪問で御朱印をゲット!

2022年08月28日 | 旅行記・まち歩き
既に先月の話になるのだが、仙台に出張した帰り道、仙台の会議で一緒になった盟友会社の社長である後輩であり親分でもある友人が、福島に用事があるというので、まあ郡山経由で新潟に戻ればいいと思いアテンドを買って出た。
この時、二人の共通の忘れ物を思い出した。以前、二人で会津・磐城の神社巡りをしたとき、それまで順調に御朱印をもらうことができていたが、4社を巡るうちどうしても宮司が不在の神社があったことを思い出し、このついでに再訪することを思い立った。
全国一の宮めぐりは平成30年から初めて、集めた御朱印は旧国(越後とか、岩代・磐城とか)一の宮のまだ半分にも満たない(「全国一の宮巡拝会」加盟102社)。親分との地方めぐりも度々あるが、やはりコロナの影響もあってこのところ進んでいない状況だ。



一度空振りに終わっている神社は、福島県の棚倉まちにある「馬場都々古別神社(ばば・つつこわけじんじゃ)=都都古和氣神社ともいう)」。陸奥の国にが4社の一の宮を称する神社があって、とりわけ磐城には近場に3つの神社が固まっており、分祀されてものがそれぞれ一の宮を名乗っているともいわれる。
神社に続く階段の前の鳥居を見上げ「そうだ、ここだ!」と2年前のことを思い出す。うっそうとした林の中にあって、神秘的な雰囲気はあるのだが境内はあまり整備が行き届いていない、というより社殿に手書きの説明書きなどが雑然とした感じを抱かせる。この日も社務所には人はいない。
以前お邪魔したときも同じたたずまいだったが、今回は予め電話で宮司の在宅を確認しているので、階段の登り口にある宮司の自宅なる場所を訪ねることになっているので大丈夫!



前日、親分が神社に電話を入れてくれたが、この時が大変。会議が始まろうとしているのに、30分以上も会議室前の廊下で話し込んでいる。ただ単にアポを入れるだけなのに、なかなかの長電話になってしまった。焦る親分。
そういえば、以前訪問したときに、ネットでチェックしたことがあったが、なかなか話好きなのかユニークなのか長時間の滞在を覚悟しなければならないとの書き込みがあったことを思い出した。そんな話をしていると、ちょっと恐る恐るの訪問となった。
コロナの感染を恐れているのか、ドアノブを触らないでと注文を付けたり、玄関から半分だけ身を乗り出したりして、お盆を差し出す宮司。御朱印を押すページを開いて、お盆の上に置くように言われた。



5分ほどして無事御朱印をいただくことができた。が、やはりそれからの話が長かった。「あと1分だけ、話をして大丈夫ですか?」と言われ、1分くらいなら断る理由もなく話を聞くことになるが、5分経過し、10分は経過したという感じか。
親分と二人で玄関前に直立不動。やぶ蚊があちこちにまとわりついて、これがまた大変。それでも前日の電話からすれば10分程度で済んだのだから、電話してくれた親分の功労ともいえる。
この一の宮めぐりの中で、最大の難関は富山・立山にある「雄山神社」の峰本社(標高3003メートル)といわれるが、精神的に忍耐も必要な馬場都々古別神社もかなりの難関であるようだ。とても緊張した一日だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

良寛と鈴木文臺・長善館が信濃川と越後平野を光らせた

2022年08月14日 | 旅行記・まち歩き
またまた長善館。良寛も長善館の門下生も、大河津分水に深くかかわりを持っていたというのは前回触れたとおりなのだが、良寛(1758-1831年)と高橋竹之介(1842-1909年)ではいささか年代が違い過ぎる。だが、意外なところに接点があった。
長善館の初代館長の鈴木文臺(ぶんたい)は、1796年、燕市(旧吉田町)粟生津の医師の次男として生まれる。幼少のころから父から漢文・漢詩を教えられ素読していていたという。とにかく勉強家で優秀な子どもだったそうだ。
14歳になった時に近くの庄屋・解良(けら)家でさらに勉学に励み、しばらくして指導する立場となり論語などの講義をしていたところ、近隣を回っていた良寛の目に留まったそうだ。良寛58歳、文臺18歳の頃。それ以来良寛との交流も深くなったという。(写真下:長善館史料館と外観と、館内展示の鈴木文臺はじめ歴代の館主・先生を紹介したパネル。)



良寛は、文臺に学問を習得するため東京に行くことを勧め、解良家の経済的な支援も得たことにより上京(この時はまだ文化12年だから上京とはいわない?江戸に行く?)。亀田鵬斎の講義を受けることになるが、その後ほとんどは独学で勉学に励んだそうだ。
22歳で帰省し、いわゆる寺子屋での講義をほうぼうから頼まれ教えるかたわら、たくさんの書物を読み学問の幅を広げるとともに、漢文の翻訳や解説書づくりなどもしていた。
そして1833年、38歳の時に「長善館」を開設。その教育方針は「人の長所を伸ばし、短所を補う」というもの。文臺は門下生の個性を伸ばす教育を実践していたようだ。現代ではなかなかそういう教育は実践されてないように思えるが、理想は一緒なんだよね。(写真下:多くの著名人を輩出したことを紹介するパネル。大河津分水の実現に大きく貢献した人が多い。)



この教育方針だが、「決して多くを望まず、強く説法するのではなく、その生活は質素で、利他の心をもって人々の気持ちに寄り添う」、正に良寛の姿が、鈴木文臺に大きな影響を与えたのではないか?平日のただ一人の入館者(私)に、長善館の受付の女性が熱心に話してくれる。
その精神は、鈴木家3代4人の先生に渡って受け継がれて、「北越治水策」の高橋竹之介をはじめ多くの優秀な門下生を世に輩出した。国会議員が7人も。その中で、大竹貫一、萩野左門、小柳卯三郎などは大河津分水の実現に大きく貢献したほか、新潟県内の治水事業にも力を入れたという。
つまり、良寛にはじまり、交流のあった鈴木文臺が長善館を開設しその長善館の門下生の高橋竹之介や大竹寛一により大河津分水が実現、そして越後平野は一大穀倉地帯となり、新潟県を豊かにした。なぜか、「豊かな流れの信濃は光り~」って歌を思い出す。知らない人の方が多くなっていますかね?(写真下:展示物には、関屋分水や加治川放水路なども記載された高橋竹之介の「北越治水策」が。一番奥には、良寛と鈴木文臺の像もある。)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

100歳を迎える大河津分水と良寛・長善館とのつながりは?

2022年08月13日 | 旅行記・まち歩き


大河津分水が通水100周年を迎える。通水記念日が8月25日ということで、それを間近にして大河津資料館を訪ねてみた。
館内でも100周年の記念イベントがいろいろと紹介されている。何かネタになりそうなイベント、あらたな発見につながりそうなイベントを探すが、その中で気になったのが「6館リレー展」。6つの資料館・博物館で大河津分水に関する企画展を開催するというものだ。
ただ、その中で気になるのが「分水良寛史料館」と「長善館史料館」。良寛は名前はしているものの、大河津分水とどんな接点があるのか?長善館は名前すら聞いたことがなかった。あまり期待をしないで、スタンプを集めることを目的に向かってみることにした。



分水良寛史料館(写真上)は分水の市街地にひっそりと建つ。お昼時ということなのか、来館者は自分だけ。広い資料室一室に良寛の書などが並べられている。良寛はご承知のとおり新潟・出雲崎出身の僧侶。出家して岡山・円通寺の国仙和尚のもとで修行後、越後に戻り旧分水町(現・燕市)国上寺の五合庵に住み着く。
そう、ここは今では大河津分水を見渡せる場所でもあり、大河津分水開削以前の良寛は、周辺を回りながら人々を親しく交流していたというが、特に毎年のように信濃川の洪水に悩まされる農民に心を寄せいたというのである。 以前「円上寺隧道」について紹介した。
晩年は島崎川の近く(旧和島村、現・長岡市)に住んだこともあり、大河津分水や円上寺隧道の先駆けとなった「須走川間歩(その後、間歩(隧道)の崩落により、あまり機能しなかった)」の完成を、農民とともに喜んだ歌なども残している。



長善館史料館(写真上)は、粟生津(旧吉田町、現・燕市)の集落内のひっそりとした場所にある。ナビとかがないとなかなかたどり着けない場所にある。駐車場からだと、旧館が先に見えてくるので、立派な史料館はさらにその奥に静かにたたずむという感じ。
長善館とは幕末から明治期の私塾。北越の最高私学と言われ、1,000人以上の門下生は勤王の志士、漢学者、医学者、政治家、文人、教育者、実業家など、揺れ動く幕末時代から明治維新などの場面で指導的人物を多数輩出したことから、「越後の松下村塾」と言われた。
その門下生に高橋竹之介がいた。信濃川の横田切れ(洪水、1896年)をきっかけに「北越治水策」を当時の有力政治家山形有朋・松方正義に提出。これがきっかけとなり、信濃川分水の必要性が広く説かれていくことになる。大河津分水の生みの親みたいな人を輩出した私塾なのでした。勉強不足でゴメン!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正真正銘・日本一の落差を誇る称名滝(常願寺川物語③)

2022年08月10日 | 旅行記・まち歩き


今回紹介するのは、常願寺川水系の中でも「国内最大級」というあいまいな表記ではなく、間違いなく日本一のもの。それは「称名(しょうみよう)滝」で、四段の滝で形成され、その落差350メートル(m)というもの。
日本三大名瀑というと日光・華厳の滝、茨城・袋田の滝、熊野・那智の滝ということになるのだが、この中でも落差が一番大きい那智の滝でさえ133mだから、称名滝からすると「比べてもらっちゃ困る」というレベル。
立山の主峰・雄山、最高峰・大汝山(3015m)や弥陀ヶ原、室堂平などのアルペンルートの台地北側の降雪を含む年間6000ミリもの水を集めるといわれる常願寺川支流の称名川にある。



県道6号「富山立山公園線」で常願寺川上流へ、対岸に千寿ケ原を見ながら直進すると、すでに右手の川は称名川。立山有料道路の柱台料金所を過ぎると「国立公園・立山(中部山岳国立公園)に入る。
上流に向かい右手には「悪城の壁」という何とも奇妙な断崖絶壁がそびえ、谷底の道路は空が小さくなって暗くなり、寂しいというより恐怖感さえ感じる場所を走る。
途中、その壁の奥まった場所にある割れ目から、白く噴き出てくるものが見えてくる。滝だ。だたクルマで行けるのはレストハウスのある称名平までで、ここから滝までは1200mの道を歩かなければならない。



道は舗装されており、歩きやすいが上り坂。30分ほどは歩いたろうか、対岸の滝見台やそこへ渡るための橋、その他前に何やら建物が確認できるが、付近は水煙でおおわれている様子だ。
滝のすぐ下の橋を渡り滝見台にとりつくのだが、橋の付近は水しぶきで覆われているため、ここぞとばかりに持参したカメラ用レインコートを装着するが、それが写りこんでうまく撮影できない。
水しぶきが気にしながら見上げると、もの凄い迫力でこれまた怖くなるほど。もちろん滝つぼに落ちる音も地響きを伴うもので、この暑い時期には豪快・爽快と感じる方も多いかもしれない。



実はこの滝は、アルペンルートの台地を削りながら10万年をかけて今の位置にあるとか。10万年前は、以前紹介した本宮堰堤のあたり(富山市小見)にあって、1年間に10センチずつ浸食を続けていったそうだ。
計り知れない水量が火山によって堆積した土を削り取り、悪城の壁のような深い谷をつくりながら水源部に向かって後退していったとのこと。四段の滝も五段に進化中との調査報告も。もの凄い時間をかけるながら地球が生きていることを見てとれる場所でもあるのだ。
なお、称名滝の右手に見える細い滝は「ハンノキ滝」で、落差は500mと実は称名滝よりも高いのだが、年間を通して水が落ちていないことから正式には認められていない。まあ、ここに来て、日本一と隠れ日本一の二つ見れたのだから、ラッキー!
(道はこの滝まで。滝の上流部にも険しい渓谷が形成されているとのこと。なかなか人を寄せ付けない場所とのことである。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三条市は「水害の街」、万が一の備えを怠らない街だ

2022年07月05日 | 旅行記・まち歩き


三条は古くから「水害の町」というように紹介した。江戸時代に水害に苦しむ農民に和釘づくりを推奨したことで金属加工の町に進化し、その金属加工がアウトドア用品の世界的メーカーを生み出すことにつながり、そのメーカーは災害に備えてキャンプ生活を推進する。
それも、守門岳を源とする五十嵐川の存在がある。福島県境・八十里越付近は毎年のように記録的な降水量を記録し、五十嵐川はそれを急流を作って三条市を目指す。そして、下流域に入ってゆっくりと流れを変える信濃川がそれを受け止める。
三条・下田地域にとって母なる川である五十嵐川であるが、暴れ川でもある。また三条の市街地で合流する信濃川は、以前にも触れたとおり大河津分水の下流では低地を流れ、大雨にもなると他の川からの流入も当然ある訳で、なかなか通常の機能を果たせなくなることもある。(写真上:上流・大谷地付近と三条市街を流れる五十嵐川)



その水害の町・三条では、災害に備えて「三条水防学習館」、その周辺を国土交通省北陸地方整備局信濃川下流河川事務所が「三条防災ステーション」を設置している(写真上)。信濃川の河川敷や堤防外を利用したもので、災害対応の車両置き場や資材置き場、ヘリポート、水防活動スペースなどが設けられている。この広大な土地は三条競馬場の跡地ですよね?
というのも学習館の展示でも紹介しているが、三条では2004年(平成16年)、2011年(平成23年)の夏(いづれも7月)に大規模な水害が発生し、甚大な被害を及ぼした。(写真下:防災学習館の展示パネル)
2004年には、五十嵐川が決壊し、市街地が浸水し、三条市では死者9名、被害棟数1万棟を超える被害。そう、信濃川支流で上流にある刈谷田川の決壊は、長い期間田んぼを水が覆いつくし、新幹線は湖の上を走っていた記憶が蘇る。
また2011年の水害は、降り始めからの雨量が3日間で985ミリで土砂災害も加わる被害が出る。そう、これは新潟福島豪雨と言われ、福島県内の只見線の橋梁をいくつも流し現在も復旧作業が続いているというものだ。



そのような過去の災害を忘れずに、水防と災害に向き合う姿勢を見せて整備された水防学習館と防災ステーションだが、河川敷にはやはりキャンプ場のような「交流広場」が整備されている。
河川敷という場所で、しかも信濃川を挟んで対岸には五十嵐川が合流しているという位置からして、水害時の避難所としての機能というよりは、先に紹介したアウトドア用品のメーカーと同様、市民に避難時の練習と備えの場所として提供されているような気がする。
五十嵐川も、堤防の強化や川幅の拡幅、遊水池の整備などその備えを強化しているが、万が一の時は早めの避難とそのための備えが重要!暑い夏がやってくると、新潟ではまた災害への警戒をしなければならない。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三条のアウトドア用品二大企業は、単に製品を作るだけではない

2022年07月02日 | 旅行記・まち歩き
佐渡を少しばかり離れて(まだネタはありますし、今月もお邪魔する予定があります。)、次なる興味深いまちを紹介することにする。それは新潟県三条市。
おのずと知れた金属加工の町で、町の中には「◯◯製作所」「△△工業」「◇◇金属」などの看板が立ち並んでいる。水害の多い地域なので、江戸時代農民を救済するため「和釘(わくぎ)」づくりを広めたのがものづくりの伝統を今に伝えたという。
コロナ禍の中、そんな金属加工の町で注目を集めているのがアウトドアの製品。金属加工の技が、キャンプで使う道具をいつしかちょっとした気分で作り始めたものの、昨今の事情も追い風となってさらに注目を浴びることになっている。



まず紹介するのは「キャプテンスタッグ(CAPTAIN STAG)」。ご承知の方も多い人気のアウトドア、レジャー用品のブランドだ。これは三条に本社を置く「パール金属」のブランドで、設立は2012年(平成24年)と新しい。
パール金属自体は1967年設立で、当初はキッチン・リビング用品を製造する中から、アウトドア製品の売り上げが好調で、海外からの引き合いも強くなったことからキャプテンスタッグを独自ブランドとして立ち上げた。
独自の開発力で、同一メーカーとしての品揃えでは、会社のホームページでも自負しているし、更に「サイクル用品、カヌー用品、ガーデン用品、ヘルス用品をラインナップに加え、更なる飛躍を試みる」と、進化を遂げていることも強調する。



キャプテンスタッグの強みは企画力のほかに販売力。海外への販売は海外事業部のほかに別にパール通商という会社を立ち上げているが、地元・三条をはじめ「WEST」というアウトドア用品を扱う店を県内4店舗で直営展開。
確かに所狭しと興味深いアイテムが揃っている。ここでWESTの偉いところは、自社製品であるキャプテンスタッグのブランドにこだわっていないというところ。国内外のあらゆるメーカーの製品が店頭に並んでいるのである。
そのキャプテンスタッグがキャンプ場を名勝・八木鼻の真下に開設。自社製品のレンタルなどでユーザー情報を得る場所としての機能のほか、災害の多い地だけに防災意識を高める場所として活用したいとのこと。知る人ぞ知るキャンプ場になっているとか。



そのキャプテンスタッグと双璧と言われるのが「スノーピーク(Snow Peak)」だ。これまた世界的なブランドになっている。こちらは1958年(昭和33年)の金物問屋が出発点。山好きの創業者が、自分の好きなものを作ろうと立ち上げた。
スノーピークは商標名。その登録は1963年とかなり早い。以来、このブランドを大切にしながら商品開発を進め、現会長である山井太氏が社長に就任した1996年、正式に会社名をスノーピークとした。ここからの国内外での事業拡大が凄い。
アメリカ、ヨーロッパ、オセアニアと次々に製品の輸出を開始。国内でもありとあらゆるショッピングモールなどに出店。全国各地の自治体や企業、大学などと包括的連携協定を締結し、地方創生や協働にも一役買っている超アグレッシブな会社だ。



スノーピークは、三条市中野原という実は山の中にある。ここには、「HEADQUARTERS Campfield」という広大なキャンプ場がある。以前ゴルフ場立った場所なんですかね?そこに本社・工場を移したのは2011年。
ここには本社のほか、博物館、ショップなどを集約。別棟の温浴施設&レストランのある「FIELD SUITE SPA」は、かの隈研吾氏の設計。オリジナルの箱型宿泊施設なども併設し、複合施設としてもにわかに注目の場所になった。
そんなブームを巻き起こしているアウトドアライフの提案についても、日本各地のキャンプ場やゴルフ場、屋外エリアで展開していることから、ますます注目度がアップ!新潟・三条の二大企業が世界のアウトドアをけん引しているのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐渡味紀行(その16・番外編)涼しい佐渡で最も涼しい場所「ドンデン山荘」

2022年07月01日 | 旅行記・まち歩き


6月中の記録的に最も早い梅雨明け。そして、6月末からは全国各地で猛暑に見舞われるのも異例中の異例。そのまま7月に突入したという感じで、暑さが続く中、精力的にブログネタを求めて歩き回っている。
天気予報など見ると、佐渡は本土より3~4度気温が低いようだ。そんな中でも先に佐渡へ行ったときに、そりゃ涼しい場所を見つけたので紹介したい。
実はここへは「味紀行」のネタで美味いものを目当てに行ったのだが、そりゃマニアックなところへ来たしまったという感じ?標高も高い、眺望も素晴らしく、美味しいものもある。ただ、行くまでの道がかなり狭くて急カーブ続き。スリルを味わうことでも涼しさを感じる場所である。



目的地は「ドンデン山荘」。標高が890メートルの地。県土木部管理のダムを紹介したときの記事のとおり、佐渡の大佐渡山地は1000メートルを超える山もあって、ここもその一角にあり、登山のベースキャンプイ的な場所でもある。
実際、山小屋として食事や宿泊などもできる場所なのであるが、以前紹介した大佐渡スカイラインにある白雲台と同様、佐渡が一望できる眺望がすばらしいこともあって、観光に訪れる人も多い。
しかしながら、写真の通り、この日は下から山の方を見ても雲がかかり、ようやくたどり着いたかと思って山荘のデッキに立つが、湧き上がってくる雲に遮られて外科医を確認することは困難な状況だった。



晴れていれば(いや、この日も下界は晴れていたんだけどー)、両津湾から加茂湖、国中平野、真野湾、そして小佐渡の山々の向こうには、本土・越後を取り囲む山々まで見渡せるという。
そんな青い海や青い空を一望できることから、この山荘の名物となったのが下の写真の青い「ドンデンカレー」と青い「ソーダ水」。これが奇妙な(?)色合いであることから「インスタ映えする」と話題になっていた。それを味紀行に掲載したかったのだ。
海や空の青もそうだが、登山道にはアオネバ十字路というのがあったり、シラネアオイなどの「アオ」の文字や、登山道に咲く多くの花々が青や薄紫というのもこのカレーやドリンクの色を生み出したのではないだろうか?(まったくの自分勝手な仮説)



食事を含めて、付近を散策すだけでも十分な時間を費やすことになる。ただ、気になるのは下界の眺望だが、雲の流れを注目しながら見えそうで見えない!何ともフラストレーションを溜めてしまう時間を繰り返す。
帰り道は、下り。のぼりよりも運転に注意が必要。雲の中をしばらく走ることになるが、間もなくして前方の眺望が開けてきた。まだ、標高の高いうちに晴れてくれたので絶景とスリルを楽しみながら降りてくることができた。
この道で外海府・高千方面へ横断することも可能。人気のトレッキングの愛好者も注目の地で、我々が決死の覚悟で走った道は一応県道「ドンデン線」だが、行こうという方は十分注意して安全運転で!



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アクアイグニス仙台、超積極的な復興事業にあっぱれ!

2022年06月25日 | 旅行記・まち歩き


今週、つい先日も仙台に行って2週間で4回目。前回ご紹介した米坂線を使ってはいいた三回目に訪れた場所、「アクアイグニス仙台」を紹介しておきたい。
仙台東部の沿岸は、ご承知のとおり3.11東日本大震災で津波の被害が甚大だった場所。実は、防災のため住民に集団移転を促し、市が買い取った土地(集団移転跡地)を魅力的な場所にすることを目的に安く貸し出そうとする復興のための制度があった。
何とかこの地を再生させたいとの思いを抱いたのが、地元で建設業を営む深松組の深松努氏。震災前に、すぐ近くの海岸で防波堤の工事も行っていた会社の社長が、地域建設業のネットワークを活かして既に三重県で実績のある「アクアイグニス」の誘致・建設に踏み切ったものだ。



さて、アクアイグニスとは?アクアイグニス(三重の公式ホームページから)は、「訪れる人々の心を癒す、食と人が交わる極上の休日空間」とある。仙台は全国で5番目のアクアイグニスとなるが、そのコンセプトは同じである。
「癒し」と「食」をテーマにした、複合温泉リゾート施設。温泉を使用した温浴施設を中心に、地元の食材を生かした和洋食のレストランなどが入る。温泉は地下1,000メートルから汲み上げ、休憩所はライブラリーカフェ。高級感漂うリラクゼーションもある。
食事は、全国から有名シェフを招集し、和食・笠庵(笠原将弘シェフ)、イタリアン・グリーチネ(日高良実シェフ)、スィーツ・コンフィチュール アッシュ&ル ショコラ ドゥ アッシュ(辻口博啓シェフ)と各店が別棟で並ぶ。ベーカリーやコーヒーショップ、マルシェなどもある。



このアクアイグニス仙台は、深松組・アクアイグニス、福田商会の三社が合同で出資し、運営会社の「仙台reborn株式会社」を設立。震災の被害が甚大だったこの地に、復興のシンボルとして作るという強い意志のものと建設に至った経緯がある。
「地域への思いと愛着を新しい形で表現し、愛される事業になれば」と深松社長は現地を案内しながら説明してくれた。SDGsの達成や、熱交換やその効率を求めてエネルギー問題にも挑み、地域の環境課題解決や地域雇用の創出にも力を入れているという。
正に、この事業全体をとおして、持続可能な地域の未来を創造する場所になることを目指している。総工費36億円。地銀や商工中金のシンジケートローン、他の融資もあったというが、国・県から3億3500万円の補助金を調達できたことも大きい。この資金の捻出についても、多くの方々の復興への思いも感じさせる。



しかしながら、予期せぬコロナの襲撃は津波と同じく甚大で、地域社会ばかりでなく日本経済をも飲み込んでいる。そこに世界情勢の不安定も取りざたされて、円安や物価高などの不安材料を抱える中の船出になったアクアイグニス仙台。
それでも、「復興を支えてくれた方への感謝」、「賑わいの創出」、「地域との連携」、「未来への新たな姿を発信」、「自然エネルギーの活用」と、今後の展開にはまだまだやることがたくさんあるのだとか。
これまでも、復興支援ということで度々東北各地を訪れてきたが、アクアイグニス仙台のその後を確認しながら、各地の応援をしていきたいとの思いを強くした次第である。超積極的な復興事業に、あっぱれ!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする