行き先不明人の時刻表2

何も考えずに、でも何かを求めて、鉄道の旅を続けています。今夜もmoonligh-expressが発車の時間を迎えます。

野村克也氏の訃報に触れて思う

2020年03月14日 | スポーツ・スポーツ観戦


野村克也氏が先月亡くなった。一野球人としてだけでなく、日本のプロ野球の在り方を変えた選手であり監督であった野村氏について、哀悼の意を込めてその功績に触れておきたい。(以後、敬称略)

野村克也という選手を目の当たりにしたのは、すでに野村がプレーイングマネージャーであった頃の神宮球場。ハッキリいつのこととは覚えていないが、その時代からすると自分は小学生の高学年か中学生のころだと思う。
千葉・松戸の親戚の家に数日滞在することになって、「せっかくの機会なのでプロ野球でも見てきたら?」と伯母に背中を押され、同い年の従兄弟と出かけたことを覚えている。南海対ロッテのダブルヘッダー。なぜか東京球場ではなく神宮球場。スタンドはガラガラであって、安い席から自由にネット裏の一等席に移動しても問題ない状況だった。(小学生の頃、地元新潟での大洋対ヤクルトを見たのが初めてのプロ野球観戦で、この日が二度目。)

野村は苦労人と言われる。父親が戦死し、子どものころから生活が苦しい家庭状況で、高校時代は無名の選手。
鶴岡一人に見いだされ南海に入団したものの、すぐに戦力外通告。当時、捕手のトレードや故障が相次ぎ、首の皮一枚で南海に残ることになり、苦労の末にレギュラー捕手を勝ち取り、戦後初の三冠王に輝く。中西太や山内和弘、あの張本勲のいた時代にですよ。

ただ、パ・リーグ自体に人気がなかったので、それほど騒ぎにはならなかった。川上哲治を擁する読売ジャイアンツの人気は当時から凄いものがあり、王、長嶋の出現で、ご承知のとおり「巨人・大鵬・玉子焼き」の言葉も流行した。
本塁打王9回、打点王7回、実力的には王や長島に勝るとも劣らない成績。打数や打席数では歴代1位なんだけど、打点や本塁打、安打数などでは2位。名選手には間違いないのだが、人気薄のパ・リーグということもあり、存在感は認められていたものの、不遇の選手時代でもあった。

その後、プレーイングマネージャーになってからの野球人生がまた素晴らしい。というか、物語や伝説に満ちた野球の神様になっていく。
あの時の神宮球場でも、「ほら、野村がしゃべっているぞ!」従兄弟の解説。言葉こそ聞き取れないが、確か野村がバッターなのか誰なのか話しかけている様子。心理戦にも長けていた。これが「ささやき戦術」。泥臭い戦法だが、バッターボックスの打者を相手をかく乱させるその内容は、バッターの私生活の話に及んだり、時には脅しの時もあったとか。
「クイックモーション」を編み出したもの野村。捕手であることから盗塁阻止のために投手の投法改良を訴えて、現在にも通用している投球術だ。投手の「クローザー」の制度も、江夏を擁して野村が取り入れた戦法だ。(写真上:ニュース番組から、右が野村プレーイングマネージャーと抑え投手を確立した江夏投手。)

それでも南海とヤクルトの監督としてリーグ優勝5回、ID野球を駆使しヤクルトを3回の日本一に導いた。南海時代は外国人選手との確執続出、阪神や楽天の時代はフロント批判など、話題も豊富な監督でもあった。
まあ、監督や解説者としても新しいスタイルを提唱したことはご存じのとおりで、沙知代夫人との仲睦まじい(?)姿は、スタジアムを後にしてからも話題を振りまいていましたよね。

さて50年近く遡り、またまたあの日の神宮球場。この日の先発は江本。門田や江夏とともに、南海と野村監督の黄金時代を築いた「三悪人」の筆頭格。沙知代さんはこのころはまだ愛人。その愛人が先発投手起用を口にしていたという話もあるが、この日はどうだったか?勝敗すら記憶にないけど。

ともあれ、偉大な昭和の野球人の一人が旅発った。時代の流れを感じながら、近代野球の礎を気づいた野村にありがとうと言って、神宮の森を後にしたい。

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