先日、とある会報を読んでいましたら、以前お世話になったドクターが高校ラグビーの常勝高校でラグビーをしていた話を書いていました。
そうしたら、お父さんも戦前の中国大陸の医科大学でラグビーをしていた話が掲載されていました。
その中で、旅順工科大と対戦した話しが出ていました。
旅順工科大、私が学生時代の最後の年に所属した研究室の教授がやはり旅順工科大でラグビーをやっていた事を思い出しました。
私自身、同学年よりも休学していたためか遅れて入った研究室でしたが、年齢の違いを配慮してか、一年間好きなことをやって、ちゃんと卒業しろよと諭して入室を許されました。
同室のI君と、実験室を1部屋預かり、破格の扱いで一年間は夢中で勉強しました。
卒論は、今で言う8ビットのCPUを使った温度制御というようなものでした。
ほとんどは、同室のI君と、別研究室のK君とで、就職試験の勉強をしていました。
そのK先生は、ご存命ならば、白寿に届くご年齢だと思います。
卒業してから、先生のご自宅に伺いましたら、その蔵書の量に驚きました。
ほとんど、蔵書の中で埋もれて生活しているような感じでした。
その時も、蔵書に埋もれながら、美味しいビールをいただいたことを思い出します。
旅順工科大に入学した頃に、大陸の奥から入学した同級生は、生まれて初めて海を見て感激した話しや、満州鉄道の大きな蒸気機関車の話し、そして何よりも、大陸に沈んでいく夕日の美しさを話していただいた事を覚えています。
私が落第生でなく、もう少し優秀な学生ならば先生に迷惑をかけなかった事が唯一の心残りです。