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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

復讐の女神

2024-06-28 19:13:45 | 読んだ本
フレドリック・ブラウン/小西宏訳 1964年 創元推理文庫
前に『まっ白な嘘』を読んで、おもしろいとおもったフレドリック・ブラウン、世のひとたちから見たら何をいまさらと言われちゃうんだろうが、もうひとつ読んでみたくて、ことし4月ころ買い求めた古本の文庫。
この文庫では「フレドリック・ブラウン短編集2」ってことになってますが、原題「THE SHAGGY DOG AND OTHER MURDERS」は1963年だという。
収録作は以下のとおり。

「復讐の女神 Nothing Sinister」
>誰しも適度に健全で、法律に従った生活を営んでいるものは、本気で自分が殺人事件にまきこまれるとは考えないものだ。復讐の女神(ネメシス)というのは誰かほかのやつを尾行している女のことで、彼女はその人間のあとを追ったあげく、どこかでそいつに追いつく。(p.8)
永久埋葬用柩製造会社のための広告コピーをつくる仕事にとりくんでたカールは、なぜか命を狙われて危険な目にあった。

「毛むくじゃらの犬 The Shaggy Dog Murders」
>ピーター・キッドは、あの毛むくじゃらの犬にはなんとなく、うさんくさいところがあると、すぐに考えてみるべきだった。その動物をひと目見た時から、彼はゴタゴタにまきこまれてしまったのだ。(p.32)
私立探偵開業初日のピーターのところへ持ち込まれた事件は、首輪に「わがはいは殺された男の犬なり」と手紙がつけられた犬の持ち主探しだった。

「生命保険と火災保険 Life and Fire」
>ヘンリー・スミス氏は玄関のベルを鳴らした。それから玄関のドアにはめてあるガラスに写った自分の姿をしげしげと眺めた。(p.72)
保険会社の外交員スミス氏が勧誘のために訪れた家は、犯罪者たちのアジトだったが、拉致監禁されても彼は保険のセールストークをはじめる。

「すりの名人 Teacup Trouble」
>あっしが知りたいのは、こういうことなんです。あっしは懐中電灯の球くらいの大きさのダイヤモンドのついたネクタイピンを手に入れましてね。(略)
>どうやってそいつを手に入れたか、ですって? そうですねえ、いうなればグブスティンさん、紅茶茶碗があっしにくれたんですよ。(p.96-97)
巾着切りのウィルスンと呼ばれる男がエレベーターのなかでたまたま会った、天使みたいな目をした若い男、そいつはこともあろうにウィルスンから気づく間もなく札入れとタバコ入れをスリとっていた。

「名優 Good Night, Good Night」
>目の前のカウンターは、ぬれてべとべとしていた。サー・チャールズ・ハノーバー・グレシャムは、一段高くなって乾いているカウンターの縁に、気をつけてそっと腕を載せ、それまで水たまりでぬれないようにして読んでいた折りたたんだ「ステージクラフト」誌を手にかざした。(p.117)
飲んだくれてばかりいる売れない役者チャールズは、新しい芝居を書いた旧知の作者のところへ配役に手をまわせとはたらきかける、自信あるのはゆすりのネタをもっているからだ。

「猛犬にご注意 Beware of the Dog」
>殺意の種子がワイリー・ヒューズの心に植えつけられたのは、じいさんが金庫を開けるのを、はじめて目撃した時だった。(p.138)
株券の集金人ワイリーは、ひとり暮らしのアースキンじいさんのところへ強盗に入りたいが、じいさんが番犬に飼っている猛犬をどうにかする必要があった、なみの犬の残忍さをはるかに越えた、敵意をひそませる黒い犬、獰猛にしておくために常に半分飢えさせられている恐ろしいやつ。

「不良少年 Little Boy Lost」
>ドアをノックする音がした。お婆は繕っていた靴下を、ひざの上の裁縫かごの中にもどし、裁縫かごをテーブルの上に移すと立ち上がろうとした。(p.147)
マードック夫人の息子のエディは17歳になっていたが、おばあちゃんから見ればまだ小さい子ども。しかし、地元の悪い連中に誘われて、もうすぐ正規のギャングのメンバーになろうとするところだった、なにやら悪事のために夜に外出しようとするので止めるが、彼は当然いうことをきかない。

「姿なき殺人者 Whistler's Murder」
>家の屋根はたいらで、高さ三フィートの胸壁がその周囲をとりまいている。その胸壁のうしろの屋根に、紺サージの上着を着た大男が立ってスミス氏を見おろしていた。一陣の風が、さっと大男の上着をひるがえしたので、その男がショルダー・ホルスターに回転拳銃をつっているのが、スミス氏の目に映った。(p.162)
保険会社のスミス氏がウォルター・ベリー氏の邸を訪ねると、ベリー氏のおじが昨夜殺されたと応対に出た保安官が言った。三日前に脅迫の手紙がきていたこともあり、犯行の行われた夜にも屋敷の上に二人の私立探偵が見張りをしていて、怪しい者が近づくのは見ていないという。

「黒猫の謎 Satan One-and-a-Half」
>すでに一週間ほど、一人きりでいるのだが、今にも絶叫したくなっているんだ。作曲するつもりでいたピアノ協奏曲の音符一つ書いていない。出だしの二、三小節は頭に浮かんでいたのだが、弾いてみると、まるでガーシュインに似た、怪しげな音が出るしまつ。(p.186)
仕事のために世間の知り合いから逃れようと町はずれのちっぽけな家を借りて独りでとじこもっていたブライアン・マレー。あるとき玄関のベルが鳴ったので驚いてドアをあけると、そこには誰もいない、ベル鳴らしてから逃げて隠れるような場所もない。ドアのところにいたのは黒猫だが、そいつは勝手に家に入って、廊下を歩いて居間に向かったかとおもうと安楽椅子にあがりこんで丸くなっていた。

「象と道化師 Tell'Em, Pagliaccio!」
>ウィリアムスじいさんはテントを出ると、怪物(フリーク)ショーの囲いの杭にもたれて中通りを眺めわたした。大部分の店の正面は暗くて、乗り物は全部閉鎖してあった。(p.219)
元は道化のウィリアムスじいさんはいまはカーニバルの象つかいになっていて、メスの象のリルも相当の高齢になっていてショーをするよりも荷役ばかりの仕事、それでもパレードには参加するが、背中に乗る役の男の象の扱いがわるいのでときどきつむじを曲げるのが親方からは問題視されている。

「踊るサンドイッチ The Case of the Dancing Sandwiches」
>それはほかの仕事と同じように、べつに変わったところはなかった。しかしトム・アンダースには気に入らなかった。何もその仕事に厄介な点があるからではない。楽な仕事だったし、百ドルが即金で手にはいるのだ。(p.257)
ごくありきたりの刑事で33歳のピーター・コールは、共通の友人の紹介でと電話をかけてきたスーザン・ベイリーの相談に乗った。スーザンの婚約者のカール・ディクソンは三ヵ月前の殺人事件で詐欺師を殺した犯人として終身刑になったが、彼がやったのではないと証明したい。事件の前には酔いつぶれていて、目を覚ますと被害者と同じ車内にいたのだが、カールがおぼえていた『アンシン・アンド・ビック』なんて店はどこにもないとして供述はとりあげられなかった。
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町山智浩のアメリカ流れ者

2024-06-21 18:22:01 | 読んだ本
町山智浩・著 TBSラジオ「たまむすび」・編 2018年 スモール出版
これは5月の古本まつりで見つけて、適度に安かったんで買ったもの。
新刊出てたの当時書店で見かけて、町山さんの著書を読みはじめてたころで、どうしよっか、まあ文庫になってからでいっか、とか思ったのをおぼえてる、表紙の絵が特徴的だったんで。
なかみは映画のことなんだけど、TBSラジオの番組内での映画コラムコーナーで話したことをまとめて本にした、っていうちょっと毛色の変わったもの。
巻末の放送リストによると、そのコーナー始めたのは2012年からってことで、わりと新しめの作品がとりあげられてるけど、例によって町山さんは昔の映画とかにも触れながら解説してくれるのがいいですね。
私が観たこと(って劇場行かなくてテレビでだけど)ある作品は数本ってとこだけど、知らないやつでもおもしろく読めます、今回は、これはすぐ観てみたい、とまで思うのはなかったけどね。
ラジオ番組は聴いたことないんだけど、ほかの出演者とのやりとりを除いた形に編集してるってわりには、なんの違和感もなく普通の映画評論ってか解説ってか紹介って感じで読めます。
ただ、ムック調の本とかもそうだし、なんかポップなつくりの本にたまにあるんだけど、本文のフォントをところどころ変えてて、文字の大きさがあちこち変わってんだけど、これは非常に読みにくい、ふつうに活字組んでくれてればいいのにな、とは思う。(新刊を書店で開いてパラパラ見たときに購入しなかったのは、それも理由。)
コンテンツは以下のとおり。
多様性のあるアメリカ、人類の未来 スター・トレック BEYOND
ミュータントに託して描かれる差別との闘い X-MEN:フューチャー&パスト
タランティーノが暴くアメリカの暗い歴史 ジャンゴ 繋がれざる者
政治とは交渉と妥協である リンカーン
“良い戦争”などあり得ない フューリー
PTSDで壊れゆくアメリカ軍人 アメリカン・スナイパー
市井の人から見た戦争の脅威 この世界の片隅に
ゾンビに託して描かれる虚構と現実 ワールド・ウォーZ
外国に無関心なアメリカ人 マイケル・ムーアの世界侵略のススメ
ドラマでわかるアメリカのドラッグ事情 ブレイキング・バッド
ネット上に蔓延する女性嫌悪 ゴーストバスターズ
口先だけでのし上がった実在の詐欺師 ウルフ・オブ・ウォールストリート
イギリス人から見たアメリカ人の姿 キングスマン
ディカプリオが見せたアカデミー賞への執念 レヴェナント:蘇えりし者
映画を観ることは「人の心」を知ること ムーンライト
受け継がれるアメリカン・ドリーム クリード チャンプを継ぐ男
独裁者になった革命家 スティーブ・ジョブズ
映画とサントラの深い関係 オデッセイ
アメリカ製コメディーの「翻訳」 『テッド』シリーズ
掟破りの政治ドラマ ハウス・オブ・カード 野望の階段
ハリウッド超大作と中国資本の関係 トランスフォーマー/ロストエイジ
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大野晋の日本語相談

2024-06-12 19:00:35 | 読んだ本
大野晋 1995年 朝日文庫版
これは今年5月の古本まつりんときに均一棚で見つけて買ったもの、この「日本語相談」は、丸谷才一版大岡信版井上ひさし版と持ってるんだが、これでとうとうコンプリートしてしまった。
(実は、手に取ろうとしたときに、あれれ、持ってなかったのは大野晋だっけ大岡信だっけと一瞬あやふやだったんだけど。)
(どうでもいいけど、ほかのは「朝日文芸文庫」って書いてあるんだけど、これは「朝日文庫」だ、どうして? 1999年の第2刷だから何か変わったのか。)
初出はほかのといっしょで1986年から1992年にかけての「週刊朝日」連載で、読者からの質問に答える形なんだけど、本書には「東京都・野坂昭如」という読者からの質問がシレっと載ってたりしておもしろい。
ちなみに質問内容は、外出時にばったり妻と会ったとき「今日は」とあいさつしたら、他人行儀だとか妻の友人に笑われてしまった、「こういうとき、何といえばよろしいのでしょうか。歴史的にみて、外で思いがけず連れ合いに出くわした時、いかが挨拶していたものか、御教示賜わらば幸甚です。」(p.251)というもの。
これに対する回答が、古代から日本は通い婚で男が女の家に夜に行った、室町時代から嫁入り婚になってからは女は家のなかをとりしきることになった、戦前までこれが続いたんで、「外で思いがけず連れ合いに出くわす」というシチュエーションは歴史的になかった、よってそのようなときの挨拶の言葉もなかった、っていうんだけど、なるほどだ。
そういうのにかぎらず、大野晋さんの回答は、よく歴史的なこと知ってたうえでのことなんで感心する、まず自分の感覚でもって説明済ましちゃおうってことはない。
言葉のつかいかたなどについて質問には、出典をもちだしてきて答える。
古いものでは、万葉集にこういうのがあるとか、源氏物語にこういう例が、枕草子にはこのような箇所があるとか、って実例を示す。
近代以降では、森鷗外、夏目漱石、芥川龍之介、志賀直哉、太宰治といったところが、作品のなかで実際にそういう言葉を使ったかどうかを具体的に示す。
(どうでもいいが、「~みたい」ってのを鷗外、芥川、志賀はほとんど使わず、漱石はわりと使ってたとかおもしろい。)
やっぱ、このあたりが辞書を編纂するひとなんだろうな、という気がする、言葉の意味ってのは辞書つくるひとが決めることぢゃなく、実際の例文を集めてるなかで見せることだってのは、『博士と狂人』とか読んだときに学んだ、説明するのに都合のいいような例文を勝手に自分で作って提示するんぢゃダメなんだよね。
それにしても、単にこの単語をどう使うとかって話ぢゃなくて、日本語の文法の根本的なとこ解説してる項目があると、それはとても勉強になる。
たとえば、バスを待ってて、バスがやってくると、「バスが来た」と言う、まだ到着してないんだから「バスが来る」と言いそうなものだが何故、って話。
これは「時」をとらえることについて、人がそれぞれの言語でどのような「型」を成立させているか、っつー深遠なテーマにつながってる。言語によって微妙にちがうので、英語の現在完了とか教わっても日本の中学生はピンとこないようだとか。

>さてこういう、過去のこと、動作の進行の具合などについて、日本の古典語は六つの「型」を持っていました。
>(1)キ 過去にあったと、よく覚えている確かなこと。「恋ひつつをり
>(2)ケリ 気がついてみると、そうだなと思うこと。「遊男(ひやびを)に我はありけり
>(3)リ 今も状態がそのまま続いていること。「梅の花咲けを見れば」
>(4)ツ 作為的な動作が進んで完了したこと。「花たちばなを土に散らし
>(5)ヌ 自然的な作用や状態が成立・完了したこと。「物思ひ痩せ
>(6)タリ(これは広く、下二段活用、上二段活用、上一段活用などにもつくものでした) (イ)今も状態がそのまま続いていること。「妹が見し髪、乱れたりとも」 (ロ)その動作・作用が完了した結果が残っていること。「庭もはだらに、み雪降りたり
>『万葉集』も『源氏物語』も『平家物語』も、この区別を保っていたのですが、室町時代の戦乱と下克上という社会変革によって、古典語の文法体系は大混乱におち、その結果、江戸時代に入って、社会に秩序が回復したとき、(1)と(2)の区別は失われて共に消え、(3)は(6)に吸収されました。(略)
>(4)と(5)とは他動詞につくか、自動詞につくかで分かれていましたが、両方とも消えました。その結果室町の末には、(6)だけが生き残ったのです。というのは、(6)は(4)のツの活用形のテと(3)のもととなったアリとが融合した言葉なので(略)、(3)と(4)の意味を兼ねています。
>だからこれ一つでいろいろの場合に間に合うのでした。従って当時の言語の教養の乏しい人びとは、もっぱら(6)を愛用して、タリ一つで万事間に合わせたのです。
>その結果、過去や完了を表すには、江戸時代以後、タリの子孫のタがひとり幅をきかすに至りました。ですから、タを単に過去の助動詞と思い込んではいけません。タは(3)と(4)の意味を引き受けていますから、完了とか、確定とかの意味を含んでいるのです。(p.353-354)

という、すさまじき解説を経て、「バスが来た」ってえのは、バス待ってた人が車両が視界に入ったことを確認して安心、喜ぶ気持ちを表してるんだという、そうか、そうなんだ。
ほかに係り結びの解説においても、
>係り結びには次の三種があります。
>(1)ハ・モの係り……終止形で結ぶ。
>(2)ゾ・ナム・ヤ・カの係り……連体形で結ぶ。
>(3)コソの係り……已然形で結ぶ。
>(略)世間では(2)(3)だけを誤って係り結びといいます。
>つまり(2)と(3)の文末が変形するという点だけが強調されていますが、(1)(2)(3)の助詞は実は、他のノ・ガ・ヲ・ニ・ダケ……などの助詞とは本質的に違った役目をになうのです。(略)
>英語では主語―述語によって文が成り立つといいます。ところが、日本語の文を成り立たせ、文の性質を決定する役目は、(1)(2)(3)の助詞が果たします。これは英語とはちがったシステムなのです。(p-157-158)
というような説明から、係り結びってのは、断定とか疑問を表すゾとかカを文末におかずに倒置して、強い断定とか強い疑問を表すようにしたものなんだと、ってことで質問者の「文中で文末を決めてしまう言い方するのはどうして」ってのに答えてます。
なかでも英語とはちがって、日本語の文の性質決めるのは助詞だ、ってのは学校の国語の授業ぢゃたぶん教えてくれなかった、すげえ大事なことで、とかく古文なんかで、どれが主語でどれが述語で目的語はどれなんだみたいに考えちゃうのは見当違いだったって気がする、だって主語なんて書いてるとはかぎらないんだもん(笑)、それよか、この助詞とか助動詞みれば、誰から見た誰の動作かわかるでしょ、とかってふうに教えてほしかったな。
あー、なんか『日本語で一番大事なもの』を読み返さなきゃならなくなってきた気がする。
「秋も深まってきました」っていうけど、どうして春も秋もっていうわけぢゃないのに「秋が」ぢゃないのか、とかね、助詞のはたらきは大事。
そのあたりを、そーゆーもんだよ慣用表現なんだしとか言わず、「モ」と「ガ」や「ハ」の違いをあげて、真っ向から文法のことわりとして説明してくれる本書を、読むことができたのは、幸せだといっても大げさぢゃあない。

細かいことはともかく、本書では二つほど私が大きな感銘を受けたQ&Aがありました。
ひとつは、学校で古文を学ぶんだけど、現代の言葉と意味がちがう場合もあるし、昔つかってた言葉はそんなに重要なんだろうか、勉強する意味あるのかって問い。
>現代だけを見て生きていくのではなくて、ためしに、過去を振り返ってみましょう。
>人間が文字を獲得したのは、何百万年の人間の歴史の全く終わりのほう、つまり現代に近接した、ごく短い時間、わずか数千年のことであるのがわかります。
>ですから人間は、文字など読んだこともなく、書いたこともなく、一生を生きて終わった人々のほうが、はるかにはるかに多かったのです。
>ところがこの、文字など全く知らない人々も、みな言葉によって神に祈り、恋の歌を歌い、集まっては英雄の物語を聴いて生きてきました。人間は本来的に、そうしたことを求めて生きる存在のようです。
>長い長い人類の時間の経過の後で、文字を発明した人が現れました。それが正確な伝達に役立つことに気づいて、人々はそれを学び、自分たちの言葉を書く歓びと大切さを知りました。(略)
>(略)単に現代日本語が使える人間であるというだけでなく、全日本語の分かる人間、現代日本語の基礎となり、日本人の心の記録、物語の歴史を書きとめてきた、立派な古典日本語も分かる人間。若い人々をそこへ行かせたい。そういう考えで古文・漢文の時間が高等学校に置かれているのだろうと思います。(略)
>(略)これらのもの、日本人が産み出した言語的な遺産が理解できる豊かな心の人間になるように、それらの言葉を学ぶこと。それが古文・漢文の時間なのです。(p.73-76)

もうひとつは、日本語の文法はなんのために学ぶのか、学んでどう生かせというのか、動詞の活用とか教わっても、こんなこと知らなくても日本語は話せると思うって問い。
>世界には現在、自分の名前も書けない、一字も読めない、足し算も全くできない人が十億人ぐらいはいるようです。その人たちも毎日言葉を話して生活しています。話すだけのことなら人間は大人になるにつれてできるようになります。文法なんか学ばなくても日本語は話せるわけです。(略)
>文法とは、言葉の持つ仕組みを見つけ出して、その一つ一つの項目を文章にしたものです。人々が反射的に、無自覚的に使っている日本語の仕組みを明らかにして、自覚的に使っていくようにしようと学習するのが日本語の文法です。(略)
>「昔、うちの庭に桜の木があった」といえば過去のこと。しかし探し物が「あった!」と叫べばそれは現在のこと。どうして同じ「あった」を過去にも現在にも使うのか。
>こうした文法のことにあなたはお答えになれるでしょうか。
>実はこの(略)例の背後には、日本人の物のとらえ方、表現の仕方についての大きい問題がひそんでいます。文法とは本来、そういうところに入っていって、言葉の世界を明るくしようとするものなのです。(略)
>私は何年間か日本語を勉強して来ましたが、日本語の学問には発音のこと、単語のこと、方言、古文、いろいろあります。その中で文法の研究をしているときに感じることがあります。それは、日本語の文法というものは、実に整然としているな。この整然たる文法に従って言語を使う基礎となっている日本人の頭というか心というか、むつかしくいえば理性は、根底で実にしっかりと秩序立っているな、ということです。それを見ると、「日本人」と「日本語」について、ある信頼と安心を私はいだきます。(p.45-48)

うーん、中学、高校んときの俺に教えてやりたい。
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よくわからないけど、あきらかにすごい人

2024-06-05 18:57:11 | 穂村弘
穂村弘 2023年 毎日文庫
これは5月くらいに買った、わりと新しめの文庫、すぐに読んでみた。
穂村弘さんによる対談集なんだけど、2019年に『あの人に会いに 穂村弘対談集』ってタイトルで単行本が出てたんだそうだ、まちがって古本で単行本買ったりしないようにしないとね。
ややこしいことに、『辞書のほん』(PR誌?)に掲載してたときは『穂村弘の、よくわからないけど、あきらかにすごい人』ってタイトルだったらしい、単行本にしたあと文庫にするとき元に戻したってことか、まあ、このほうがたしかにいいタイトルなんぢゃないかとは思う。
対談相手は穂村さんのいわば憧れの人ってことになる、創作活動をするいろんなひとに、どうしたらそんな素晴らしいもの作ることできるんですかってあたりを聞きにいく、っていう楽しそうな企画。
私のよく知らないひとが多いんだけど、まあスゴイものを作るひとの話なんだから、読んでておもしろい、一回あたりの分量がちょっと少ないように思えてそこが物足りないくらい。
写真家・荒木経惟さんの回とか、とにかくおもしろい、なんせ自分のこと天才と自認してっから、その発言がちょっとふつうぢゃない。
自分の才能を確信してても、そのこと証明できない人いっぱいいるけど、ほかの人となにが違うのかと問われて、
>生まれつき、としか言えないかもね。(p.76)
とか、カッコいいっす、続けて、
>ダメなやつがいくら撮ってもダメなんだよ。撮る人の人間性を写真がバラしちゃうんだ。(p.77)
とか言い切るのも、うらっかえせば自分はスゲエって言ってるってことだよね。
撮影のときに被写体とどう向き合うか問われると、
>愛しい気持ちをぶつけてくんだよ。(p.78)
って答えるまでは、ふつうの写真家でも言いそうだけど、更問として、ぢゃあ建物とかに対して自分のなかの愛情ってどう見つけるのかって訊かれて、
>そこにアタシの才能が溢れ出ちゃってるんだよ(笑)。(p.79)
って答えちゃうんだから、天才なんだからしょうがないというか。
でも、1972年に電通を辞めたころについて触れたときに、
>あのころはまだ、心の中が舗装されてない時代だったよ。(p.84)
って、さらっと言ってるあたりに、なにかのヒントがありそうな気がする。
谷川俊太郎さんのインスピレーションに関する話も興味深いものあった。
インスピレーションって、空から降ってくるとかって(雷に打たれるとか?)イメージのほうが一般的っぽいんだけど、谷川さんは「下から来る」んだという。
どういう体感なのかと問われて、
>植物が土のなかに根をはりめぐらせ、養分を吸い上げるイメージです。日本語という土壌に根を下ろしているという感覚が、ぼくには常にあります。日本語はすごく豊かですよね。長い歴史もある。その土壌に根を下ろして、そこから言葉を吸い上げて、ある種のフィルターによって言葉を選ぶ。そして葉っぱができたり花が咲いたりするように詩作品ができてくる。(p.17)
って答える、すごくいい表現です、下から来るものは尽きることがないから信頼できる、とも言われると、そっかー地に足つけて生きてかなきゃって気にさせられる。
ちなみに、別の人との回で穂村さんは、
>たとえば、将棋って二人でやるゲームですけど、自分と相手だけじゃなくて、その対局を見ている神様がいるっていう感覚があると思うんです。(略)
>それと同じようなことが、短歌にもある。五七五七七という枠にはまる究極の一首があるはずだっていう感覚です。その一首を書けたときに拍手の音が聞こえてきて空が割れて「ついにその歌を書いたんだね」って神様が降りてくるようなイメージですよね。(p.132)
みたいなこと言ってるんで、やっぱどっか上から降りてくるイメージもってるのかなって思わされた。
あと、高野文子さんのマンガって、私にとって読むの難しいかもって気がしてたんだけど、穂村さんが本書の対談で、通常のマンガの暗黙のルールとちがうものあって、「なんだか作品から攻撃されているような」というと、
>攻撃してたんですよ。マンガは、攻撃しなきゃだめだと思ってやってたんです。(略)
>よし、どこから斬りつけてやろうか、って考えて描いてたんですから(笑)。(p.142)
って作者ご本人が答えてるんで、あー、そうだったのね、と思った。ふむふむ。
コンテンツは以下のとおり。
谷川俊太郎 詩人
 言葉の土壌に根を下ろす
宇野亞喜良 イラストレーター
 謎と悦楽と
横尾忠則 美術家
 インスピレーションの大海
荒木経惟 写真家
 カメラの詩人
萩尾望都 漫画家
 マンガの女神
佐藤雅彦 映像作家
 「神様のものさし」を探す
高野文子 漫画家
 創作と自意識
甲本ヒロト ミュージシャン
 ロックンロールというなにか
吉田戦車 漫画家
 不条理とまっとうさ
解説のような、あとがきのような、ふむふむ対談
名久井直子 ブックデザイナー
 憧れってなんだろう
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