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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

お言葉ですが…

2022-04-30 19:09:55 | 読んだ本

高島俊男 1999年 文春文庫版
丸谷才一さんが絶賛するんで、著者の『中国の大盗賊』を読んでみたら、たいそうおもしろかったんで、ほかにもなんか読んでみたくなった。
丸谷さんが薦める、水滸伝に関する本へ行くのがいいんだろうけど、もうすこし軽めなものにしてみたくて、この古本を買い求めた。
とは言いつつも、本書収録のコラムが「週刊文春」で連載になったとき、丸谷さんは、
>わたしは「お言葉ですが…」を毎号欠かさず読むやうにしてゐる。といふよりも、つい読んでしまふ。一般に週刊誌といふのは、あとで、ああ時間を浪費したなあと反省することが多いものだが、(略)彼のあのコラムだけは、さういふことをぜつたい考へなくてすむ。(『双六で東海道』p.288)
と同じように褒めているんで、それに従ったようなものだけど。
単行本は1996年刊行、連載は1995年から1996年くらいの時代の話。
内容は、日本人の言葉づかい文字づかいのなかで、ちょっとおかしいんぢゃないのってのを採りあげる。
たとえば、テレビのレポーターがよくいう「ごらんいただけますでしょうか」、
>意味はもちろんわかる。「見えるか?」ないしは「見えるだろう?」ということだ。
>しかしなんだか変な日本語だなあ。(p18)
疑問をあらわす最後の「か」をとりのぞくと、「ごらんいただけますでしょう」になる。
これは推量の文だから、推量ぢゃない普通の形にすると、「ごらんいただけますです」になる。
「ます」の下に「です」つける必要がないんで、これはおかしい、という風に明快に検討説明してくれる。
ちなみに正しくするには、要らない「です」を取って、「ます」を推量にして、「ごらんいただけましょうか」くらいだが、それでも「ごらん」と「いただく」が被ってるし、推量と疑問を重ねることもないから、「ごらんになれますか」で十分だろうが、という話になる。
私があまり違和感なく使ってたんで意外だったのは、
>おかしなことばが横行するものだ。
>「立ち上げる」(p.123)
というやつ。
>どういう意味であれ、「立ち上げる」ということばは、そのことば自体がおかしい。よじれている。分裂している。
>(略)この「立つ」というのは、自動詞である。(略)
>しかるに「上げる」は他動詞である。(略)
>この「立つ」と「上げる」とがくっつくはずがない。「立つ」とくっつくのは「あがる」である。(略)もし「立ちあがる」という動作を他のものにさせるのなら、「立ちあがらせる」である。(略)
と理路整然と説明したうえで、
>「立ち上げる」ということばを誰が作ったのか知らないが、よほどことばに鈍感な人にちがいない。そんなことばを何とも思わず使っているのも、まあ同程度の人であろう。
とバッサリ、厳しい。
(※書いてて考えた私見。
これ「たちあげ」って名詞に、なんでも動詞にしちゃう「る」をつけた言葉なような気がする。
「たちあげ、なんて言葉があるか」と言われちゃうと弱るけど、90年代後半だったら私の周辺では通じてたと思う。ロケットや花火は「打ち上げ」、システムやプロジェクトは「たちあげ」。雰囲気としては、「起てて・起たせて、上げる」といったとこか、だったらそう言えといわれちゃうと困るが。
あと、対象の事物は、本来というか、理想を言えば、「たちあがる」もの、たちあがるべき、たちあがってほしいもの。電源入れれば、問題なく動くとか。それが、うまいこと、たちあがらない。なので、何かを修正したり増強したり、手を出して、たちあがるようにするのが「たちあげる」になったんぢゃないかと。その強引な力技な感じが、「持ち上げる」とかに似てて、「たちあげる」の語感が違和感なく使っちゃうのかと。)
ところで、こういうコラムを週刊誌のなかで毎号2ページだけ読むとちょうどいいんだけど、それだけを集めて本にすると飽きてしまう、っていう傾向が私にはあるんだが、本書に関してはそんなこと感じなかった。
それは、たぶん、丸谷さんのいう、「第一、文章が生きがよくて、景気がいい。」(『双六で東海道』p.287)とか、「大事なのは、著者の、闊達で生きのいい語り口だ。」(『木星とシャーベット』p.236)とかっていう、文章の上手さにあるんだと思う。
本書の「文庫版のためのあとがき」には、
>わたしはもとより国語学に関しては何ら訓練をうけたことのないしろうとであるから、(略)(p.312)
とあるけれど、著者の日本語論はしっかりとしたもので、
>よく新聞のコラムなどで、『広辞苑』にこうある、と鬼の首をとったように書いている人があるが、あれは滑稽ですね。『広辞苑』に書いてあることは全部正しい、と思いこむのは、盲信というものである。(p.68)
とか、
>わたしは長いこと教師をしていたからおぼえがあるのであるが、こっちが口をすっぱくして「辞書のまちがい!」と言っても、学生というやつは執念深く辞書を信じるんだよね。週刊文春の読者諸賢も、そりゃ『日本国語大辞典』のほうを信じるだろうなあ。むなしいなあ。(p.75)
とか、
>辰濃さんがこれを漢語だと思ったのは、『大漢和辞典』の見かたをごぞんじないからである。辞書の見かたを知らずに辞書を引いたって見当ちがいをやらかすだけだから、やめといたほうがよろしい。(p.131)
とかって、よろしくない辞書の例文なんかはあてにならんという姿勢はあちこちに見える。
その根本には、
>その国語改革は(略)そこでは「これからの日本語」という一側面のみが考慮され、昔の人たちと対話する、というもう一方の大切な側面はほとんどかえりみられることがなかった。(p.68-69)
とか、
>今の自分たちのありよう・考えかただけを、人類の唯一のそれと思っている人を「無知」と言う。「以前はこうではなかったのかもしれない」「他の所ではこうではないのかもしれない」と考えられる人は(たとえ具体的にどうであるかを知らなくても)知性のある人である。(p.164)
とかって、過去から使われてきたものを重要視する、良き保守的な精神があるんぢゃないかと。
(なんか、西部邁さんの言ってた、民主主義ってのは、今生きている人の意見だけで決めていいってことぢゃなく、過去に死んでいった人のつくったものや、これから生まれてくる人に残すものにも責任もつべきものだ、みたいな保守主義を思い出した。)
明治になって西洋から入ってきた事物などに漢語をつくって当てたはいいけど、同じ音で「想像と創造」とか「私立と市立」とか衝突が起きてるのに平気でいることについては、
>これはどうしてかというと、明治以後日本人の言語感覚が変り、文字がことばの実体であって音は影にすぎない、とみなすようになったからである。影である音が衝突しても、実体である文字が区別されておれば気にしない。つまり文字には細心になったが、音には鈍感になったのである。(p.182)
みたいに指摘している。
おもしろいのは、いわゆる「ら抜き」言葉のところで、不快ならハッキリ「いやだ」と言うべきだというんだけど、
>これはことばの問題だけにかぎったことではない。それに、実はたいていのことは偶発的か趨勢的かはその時にはわからないのである。
>特に年寄りは頑固でなくてはならない。いやにものわかりのいい年寄りくらい見苦しいものはない。だいいち存在している意味がない。(p.241)
ってブチあげてるところ、年寄りの存在意義をこう言い切るのは痛快である。
コンテンツは、以下のとおり。
ミズもしたたる美女四人
 ミズもしたたる美女四人
 ごらんいただけますでしょうか
 月にやるせぬわが想い
 新聞社のいじわるばあさん
 大学生らイタされる
 フリンより間男
 漢和辞典はヌエである
 震災語の怪
重いコンダラ
 はだ色は差別色?
 こうづけさん、お久しぶり
 モロハのヤイバ
 美智子さま雅子さま
 日本語は二人称なし
 馬から落ちて落馬して
 重いコンダラ
トンちゃんも歩けば
 お米 おけら おもちゃ……
 どちらがエライ、「君」と「さん」
 トンちゃんも歩けば
 名前の逆転
 立ち上げる
 天声人語のネーミング的研究
 雨のいろいろ
ウメボシの天神さま
 ひとり曠野に去った人
 遺書と遺言
 相撲ことばは日本語の花
 女がしきいをまたげば
 「しな」学入門
 年寄名は歌ことば
 ウメボシの天神さま
みづほの国の元号考
 人間の問題
 ら抜きトカトカ
 人生七十古来稀なり
 人心と民心、どうちがう?
 みづほの国の元号考
 龍竜合戦
 老婆ダメなら老女もダメ
もんじゅマンジュ
 点鬼簿
 もんじゅマンジュ
 見れます出れます食べれます
 ふりがな御無用
 昔観兵、今演習
 台湾いじめ
 「づ」を守る会
あの戦争の名前
 「べし」はどこへ行った
 一年三〇〇六一〇五日?
 禿頭よい分別をさすり出し
 「忍」の一時
 あの戦争の名前
 ジッカイとジュッカイ
 「橋本龍太郎氏」はおかしいよ

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アーチー若気の至り

2022-04-24 18:07:16 | 読んだ本

P・G・ウッドハウス/森村たまき訳 2022年2月 国書刊行会
去年から出始めたウッドハウス名作選なるシリーズの三つ目。
2月ころに新刊出てたの知ってたんだけど、買い行くの延び延びにしてたら、古本が出回ってたんで3月下旬ころそっち買った。
原題「Indiscretions of Archie」は1921年の作品。
主人公アーチボルド・ムームは、イギリスの若紳士、ただしカネも仕事も持ってない。
第一次世界大戦ではフランスで戦った経験があるが、それが終わると一族からアメリカへ行けっていわれて、ニューヨークにやってきた。
そこでホテルの支配人とひどい口論したあと、マイアミの知人のパーティに行くんだが、そこでアメリカ娘と恋におち、電撃結婚してしまう。
妻となった「小柄でほっそりして、黒髪の雲に包まれた、小さな生き生きした顔の持ち主(p.19)」のルシールと、ニューヨークに戻ってきて、紹介された彼女の父親というのが、あのホテルのオーナー、口論した当の相手だったというのが一連の喜劇の幕開け。
アーチー本人が、
>いったい全体、これほどの女の子がどうして自分みたいなバカタレと恋に落ちてくれようがあるんだろう?(p.86)
と自問するくらい、完璧な女性であるルシールと結婚したのは奇跡みたいなもんなんだが、ルシールはアーチーのことを世界一素敵なひととマジで思ってるっぽい、この幸せもの。
それは、たぶん、
>アーチーは――そして間違いなくこの事実が、彼がかくも大きく多様な友人の輪を持つ理由であろう――いつだって自分の悩みを棚上げにし、他人の悲しい身の上話を聞くことができる男だった。(p.130)
とか、
>アーチーは同情心の持ち主で、見知らぬ人ですらごく内々の悩みを気軽に打ち明けてくれたものだ。(p.259)
とかってアーチーの性格のよさに魅力を感じてるんぢゃないかと思われる。
だから、「善かれ悪しかれ、妻は僕を外交向きな男だと思っていて(p.274)」って具合に、ホテルをめぐるトラブル解決の交渉役としてルシールに送り出されたりする、ルシールとしては夫が父親の役に立ってくれることを心底願ってるわけだ。
かくして、義父からはまったく信頼されてないアーチーだけど、ホテル・コスモポリスを住処にして、数々の冒険をこなしていく。
画家のモデルとして水着姿になっていたが、アトリエの外に出た拍子に締め出されて、犯罪者と疑われたり。
プレスエージェントが盗み出した、舞台女優のペットの蛇を預かったり。
義父の持っている小さな陶器像と一対となるべき品を手に入れるべく、妻の宝石を質に入れた資金でオークションに参加したり。
実は犬好きで犬に詳しくて、舞台キャンセルしてきた宿泊客の女優の犬が病気なのをアドバイスしたり。
ニューヨーク・ジャイアンツの勝ちに懸けたはいいが、主戦投手が女友達とケンカしてるときは好投できないと知って真っ青になったり。
ルシールの兄のビル・ブリュースターの恋路がうまくいくように協力してやったり。
どんなややこしいトラブルがあっても、誰にだって、おお、わが友よ、とか呼びかけて仲良くふるまえちゃう人の好さで乗り越えてく、なかなか素敵な若者です。
私としては、爵位をもってる変わり者のイギリスの老紳士たちが出てくる展開のほうが、好みではあるかなと思いますが。


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王様は裸だと言った子供はその後どうなったか

2022-04-23 18:24:27 | 読んだ本

森達也 二〇〇七年 集英社新書
これは、ほこりかぶった箱のなかにしまってあったのを、最近再発見して読み返してみたもののひとつ。
たぶん当時の私は著者の『放送禁止歌』とかおもしろがってたので読んでみたのではないかと。
太宰治の『お伽草紙』に触発(?)されて、古くからの誰もが知る物語をパロディ調に仕立てて、現代社会の問題点をとりあげてみようみたいな企画もの。
バカには見えないって服を着てるつもりの王様を指して、裸だと正直に言いだした子供はどうなったか。
死刑にされるんぢゃないかという父親の心配をよそに、町民たちはこの国がよくなるかもしれないと褒めにくるし、王様の親衛隊の指揮官すら、この子が革命を起こして将来の指導者だと激励しにきたり、ということになるとか。
桃太郎の話はおもしろくて、桃から生まれた桃太郎は成長してジャーナリストになる。
それで鬼が島に取材に行く、鬼の悪事を暴いて世間に伝えるという崇高な意識に支えられて。
なんで鬼たちは退治されなきゃならないのか、
>理由は明らかだ。悪いことをしたからではなく、存在自体が悪なのだ。ジャーナリストはこれを放置しない。過去の悪行を忘れるなどもってのほかだ。被害者の遺族たちは大勢いる。許せない。(p.30)
という調子の正義感にもえて突き進む様子がおかしい。
無関心な近隣住民に、「彼らはテロを画策しているといううわさがありますが」みたいにインタビューして、「不安だ」という回答を得たところの映像と音声だけ採用して放送に流す、「悪いことしてないよ」みたいな答えのところはボツという編集をする、みたいな。
コンテンツは以下のとおり。
第一話 王様は裸だと言った子供はその後どうなったか(仮)
第二話 桃太郎
第三話 仮面ライダー ピラザウルスの復讐
第四話 赤ずきんちゃん
第五話 ミダス王
第六話 瓜子姫
第七話 コウモリ
第八話 美女と野獣
第九話 蜘蛛の糸
第十話 みにくいあひるのこ
第十一話 ふるやのもり
第十二話 幸福の王子
第十三話 ねこのすず
第十四話 ドン・キホーテ
第十五話 泣いた赤鬼

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アリスとシェエラザード

2022-04-17 18:52:42 | 諸星大二郎

諸星大二郎 2022年4月 小学館・BIG COMICS SPECIAL
新刊が3月30日発売だっていうんで、すぐ買った、「諸星大二郎劇場第4集」。
『雨の日はお化けがいるから』『オリオンラジオの夜』『美少女を食べる』につづく第4集なんだが、短編集といっても、主人公たちが同じなんで、シリーズもの。
初出は「ビッグコミック増刊号」で2020年から連載状態らしい。
主人公は、ミス・アリス・ミランダと、ミス・シェエラザード・ホブソンという二人の若いレディ。
このうちミス・ホブソンは、ファーストネームで呼ばれるのを嫌がる、詳しい理由はよくわかんない。
舞台はヴィクトリア朝のロンドン、いいですねえ、人智でははかりしれない怪奇があっても許される時代です。
二人の仕事は「人探し」なんだけど、そこは普通の方法ぢゃなくて、霊媒体質のアリスが、降霊会で霊を呼びだしたりして依頼を解決するという、諸星ワールド、大好きです、こういうの。
たとえば第1話では、ドクターと名乗る男性が、結婚相手を探しているのだが、条件は手というか腕の美しい女性だという依頼を持ち込む。
アリスが候補者をピックアップしてリストをつくって渡して、とりあえず依頼にこたえるんだが。
行方不明の姉をさがしてくれって別の依頼者が現れ、消えた姉はドクターに渡したリストにのせたうちの一人であって、さらに調べるとリストの五人全員が行方不明になっている。
そのうち、ロンドンでは、腕を切りとられた女性の惨殺死体が相次いで見つかるという事件が発生。
行方不明者の妹を呼んで、降霊会をおこなって、被害者たちの霊に腕はどこにあるのか問いただす。
二人の若い女性コンビがなんだかんだ掛け合いながらトラブルにぶつかっていく様子は、お、「栞と紙魚子」みたいかも、って思わされる。
著者あとがきによれば、今後もこのシリーズを描く予定がありそうなので、楽しみにしたい。
第1話 ファーストネームで呼ばないで(「手を愛する男」改題)
第2話 プリマの復讐(「プリマの嘆き」改題)
第3話 眼球泥棒
第4話 海から来た男
第5話 首を捜す幽霊
第6話 紅玉の首飾りの女
第7話 椅子になった男
第8話 スピード大好き!

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バカの壁

2022-04-16 19:17:41 | 読んだ本

養老孟司 2003年 新潮新書
こないだ『ガクモンの壁』って文庫を本棚から再発見したときに、そういやあ『バカの壁』はどうしたっけ、たしか読んだよなー、と気になって、部屋のホコリを舞い上げながら探したら箱のなかにしまってあったのを見つけることができた。
すごいんだよね、これ、2003年4月の発行だけど、私の持ってるのは2003年8月ですでに18刷を重ねている、聞くところによれば、なんでも今では100刷を超えているらしい。
バカの壁ってのは、ひとは自分の脳に入るものしか理解できないんで、学問をしてくと突き当たる壁は自分の脳だ、ってとこから作られた表現らしいんだけど。
そこから発展(?)して、ひとは自分の理解したいようにしかわかろうとしないし、知りたいことしかインプットしようとしない、自分で壁をたてちゃってんぢゃないのって指摘になったようだ。
>バカの壁というのは、ある種、一元論に起因するという面があるわけです。バカにとっては、壁の内側だけが世界で、向こう側が見えない。向こう側が存在しているということすらわかっていなかったりする。(p.194)
とか、
>(略)原理主義が育つ土壌というものがあります。楽をしたくなると、どうしても出来るだけ脳の中の係数を固定化したくなる。aを固定してしまう。それは一元論のほうが楽で、思考停止状況が一番気持ちいいから。(p.198)
とかって、なにか唯一無二の正解があるみたいな考え方の危うさを指摘して、現実はそんな簡単にわかるものばかりぢゃないっていう。
>解剖から学べるのは、自然の材料を使ってどうやって物を考えるかというノウハウです。そこの部分は講義じゃ教えられない。学問というのは、生きているもの、万物流転するものをいかに情報という変わらないものに換えるかという作業です。(p.164)
っていうように、自然に学べ、自然ってのは変わるものってのは解剖学者らしいけど、さらに、人間だって自然なんだから変わるんだ、その前提をおろそかにするな、ってとこに踏み込んで繰り返し説いてくれる。
>ここが現代社会が見落している、つまり「壁」を作ってしまった大きな問題点だと思っています。人間は変わらないという誤った大前提が置かれているという点、そしてそれにあまりに無自覚だという点。(p.68)
みたいに、そういうことかえりみて自分に問うてみないのは、やっぱバカの壁のせいぢゃないかと。
知るということはどういうことなのかについて、
>その後、自分で一年考えて出てきた結論は、「知るということは根本的にはガンの告知だ」ということでした。学生には、「君たちだってガンになることがある。ガンになって、治療法がなくて、あと半年の命だよと言われることがある。そうしたら、あそこで咲いている桜が違って見えるだろう」と話してみます。(略)
>(略)では、桜が変わったのか。そうではない。それは自分が変わったということに過ぎない。知るというのはそういうことなのです。(p.60)
って例えは、なんかいわゆる理系な感じぢゃない、なんて言ったらそれは偏見で私が壁をつくってたってことなんだろうか。
どうでもいいけど、人間は脳が大きくなって、外部からの刺激のインプットだけぢゃなくて、自分の中で脳へ入力を「自給自足して、脳内でグルグル回し」をするようになったっていうんだけど、
>では、このグルグル回しが無意味かといえば、もちろんそんなことはない。人間の身体は、動かさないと退化するシステムなのです。筋肉であれ、胃袋であれ、何であれ、使わなかったら休むというふうになって、どんどん退化していく。当然、脳も同じこと。
>そうすると、これだけ巨大になった脳を維持するためには、無駄に動かすことが必要なのです。(略)
>これを我々は「考える」と言っている。
>役にも立たないけれども、とにかく入出力を繰り返し、グルグル回す。回さないと脳が退化する。(p.80-81)
っていうのが妙におもしろいと思った、無駄に動かさないと退化するって、万物の霊長たる人間の思索は高級なものだみたいなイメージに水をぶっかけてくれてるような感じして。
第一章 「バカの壁」とは何か
第二章 脳の中の係数
第三章 「個性を伸ばせ」という欺瞞
第四章 万物流転、情報不変
第五章 無意識・身体・共同体
第六章 バカの脳
第七章 教育の怪しさ
第八章 一元論を超えて

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