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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

マドンナ

2021-06-27 18:32:32 | マンガ

くじらいいく子 2000年 中公文庫コミック版・第一部全7巻
んー、この「『マドンナ』どうする」問題は、ずっとあったんですよ、私のなかに、それこそこんなブログ始めるずーっと前から。
そも『マドンナ』は昭和のおわりくらいのころだったか「スピリッツ」で連載してたマンガで、リアルタイムで読んでたんだが。
読みだしたのはたぶん途中からで、連載開始したあたりのことは知らなかったはずで、後追いでコミックス買い集めはじめた、持ってる第1巻が1990年の第8刷なんで、そのころだ。
そんで、第7巻「狼たちが目を覚ます」まで持ってんだけど、なぜかそこで買うの止まっちゃって、そのまま。
なぜだか理由は自分にもよくわからん、つまんなくなったんぢゃなくて物語自体は逆にそのへんから俄然面白くなってきたところだから、まあ、なにかほかに興味が移ってしまったんだろう。
(徐々に同時進行のマンガとか読まなくなってったころだから、完結したらまとめて買やぁいーじゃん、とか考えたことは想像できる。)
で、たぶん10年以上は経ってからだろうな、あー、そーいやー、これ全部揃えたいな、せっかくだし、とか思ったころには書店ではとんと見かけなくなっていて、古本屋でも見つけられなくなってた。(あまり本気で探していなかったので、ホントに無かったかはなんとも言えん。)
そういうわけで、ずっと喉の奥に引っ掛かってたようなとこあったんだが、文庫でも出てるって知って、ぽちぽち一冊また一冊と古本見つけては買って、七冊そろったのは去年の5月くらいのことだったか。
さ、そろったんで通しで読みますか、って読んでみたら、最後「第一部 完」だって、これで全部ぢゃなかったんだ、不覚。
調べてみたら、元のコミックスは全22巻だっていうし、文庫7冊で収まるはずはないか、よくみたら文庫の第1巻のカバーとかには「全16巻」って文字入ってるし。
でも、文庫第7巻のカバーには「第一部全7巻」って文字あって、どうも調べるかぎりでは、その後の第二部の文庫配本は無いっぽい。
というわけで、どーする、やっぱビッグコミックス22巻集めるのを目標にするかー、って中途半端に悩める状態で、現在に至る。
まあ文庫7巻のおわりのとこで、ひとつ区切りにはなってるんで、どうしようもなく続き読みたい状態ではないけれども。
さて、ストーリーのほうはというと、古典なんでおなじみだろうが、主人公の土門真子が女子大新卒で都立牛鍋工業高校の英語教師、ワルい生徒が多い2年D組の担任になるっつーとこから始まる。
いきがかりでラグビー部の顧問になるんだが、もともといわゆる腰掛けのつもりで教師になったんで、学生んときからの知り合いの澤田さんって男性と結婚できるんだったら、それで教師やめようとか思うものの、デートの約束あるときなんかに限り、生徒が問題起こしててそこ駆けつけるために待ち合わせすっぽかす、とかそんな展開ばっかりで、そういうのがメインテーマかとさえ思えちゃう。
そうなんだよね、最初のほうはあまりおもしろいとは思わないんだ、ひさしぶりに読み返してみても。
笑っちゃったことに、文庫第2巻の271ページにして、部外の生徒のセリフに「いったい いつんなったら マトモな練習 始めんだよ、らぐびー部ってのはよっ!」ってのがあるんだけど、そのわきに「読者だって言ってっぞ!!」って書いてある、連載第32話なんだけど、まだその時点でラグビーらしきことはたいしてやってないんだよね、15人部員集めんのにも苦労してるぐらいだし。
それが俄然おもしろくなるのは、シロウトの真子ぢゃどうにもなんないし、真子のプライベートにも配慮しようという校長のツテで新しいコーチが就任するあたりからなんである。
実に、文庫第4巻の終盤、連載第67話あたりからというスロースタートで、ようやくラグビーが話の中心になってくるわけで。
コーチに招聘された、一見やくざ屋さんにしか見えない、不破明は、“幻のナンバー8”と呼ばれた人物で、練習ったって「走れ」としか言わないんだけど、ひたすら走り続けることで牛鍋工ラグビー部は強くなってく。
極東工業高校時代に不破の元チームメイトで、元日本代表ロック、いまは焼鳥屋の大将の花八木も、フォワード陣に頼まれて指導をするが、ひたすらビール瓶ケース運びをさせるだけなんだけど、都大会が始まるころにはフォワードは力をつけていたことになる。
という感じで、少年マンガありがちの、役に立つのかよ的特訓がいつしか本番の試合で花咲かすという展開なんだが、それがなんとも気持ちよくて、好きだなあ、このマンガ。
勝ち進んでくうちに、いままで誰にも期待されてなかったと思ってた生徒たちに、親たちが応援にくるとか、そういうのがけっこういいんであって、ラグビーの技術とかの細かいことはどうでもいい。(あ、ちなみに当時のトライは4点で、読んでて懐かしかったりして。)
そんで、ラグビーの試合描写のなかではナンバー8の大林なんかが中心人物になるんだけど、そこでスポ根とかヒーローものに流れちゃうんぢゃなくて、どうして生徒たちが頑張れるかっていうと、顧問の教師・真子がいるからだ、ってとこに常に立ち戻るのが、読んでて安定感あって、ある種の爽快な感じをおぼえるのがいい。
第1巻 炎のティーチャー
第2巻 コマンド・マコ
第3巻 タックルしたい!
第4巻 嵐のワントライ
第5巻 狼たちが目を覚ます
第6巻 ペースを取り戻せ!
第7巻 走れ!うしなべ

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日本人は思想したか

2021-06-26 18:38:03 | 中沢新一

吉本隆明・梅原猛・中沢新一 平成十一年 新潮文庫版
ことし2月だったか、街の古本屋で見かけて買ってみた、読んだの最近。
むずかしいテーマのような気もしたが、鼎談だというので、わかんない言葉とか少ないだろうと思ってのチャレンジなんだが、脚注もいっぱいついてたりして、読むのに苦労はしなかった、ほんとに意味理解できてるかは自信ないけど。
冒頭で、「日本の思想とはいったい何なのだろうか」ということを語るに、「いま」いろんなもののサイクルが終わっていくので、いい時期ぢゃないかみたいに中沢さんが言ってんだけど、それは初出「新潮」の平成6年くらいのこと。
最初は国家とか近代とか言われてもなんか漠然としてわからんなあと思ってたんだけど、文学がからんでくる話はおもしろい。
和歌の発生についての考察で、異質なものが出会ったときに第三のものとして短歌の「喩」が発生するってのもおもしろいけど、なんで七五調なのかということについて、梅原さんが万葉集より前の「記紀」の歌謡では韻律は一概に定まっていないとして、
>そういうふうに考えると、律令社会の成立ということと、七五調の歌の成立というのはつながっているんじゃないかという気はしますね。だからやはり、五言絶句とか七言絶句とかいう、中国の詩を意識したのではないでしょうか。(p.162)
みたいに言っている。
梅原さんの立てるいろんな説は興味深くて、『古事記』は歴史書ぢゃなくて、歴史を題材にした歌物語ではないか、ってのは刺激的で、さらに原作者は柿本人麿だって言われるとすごいなと思う。
もともと「日本神話には(藤原)不比等の政治哲学によってつくられたフィクションが多い」と考えてたらしいが、『古事記』には歌が多いので、人麿とかそれより前からの伝承が引き継がれている物語なんではないかと。
それに比べて、歌をほとんどカットして編集されてる『日本書紀』については、政治的色彩が強くて、
>だからね、神話のところがいちばん政治的なんです。天照と元明をイコールにしている。そして、持統から文武へ、元明から聖武へという、祖母から孫への皇位継承を絶対化しよう、そういう思想があるんですよ。(p.181-182)
と言ってくれてるところでは、目からうろこが落ちた気がした、そうだったのか。
さて、時代が下がってくうちに、非政治の文学がいつ成立したか、という議論になるんだが、これについても梅原さんが明快な論を展開していて、
>私はやっぱり『古今集』だと思うんです。『古今集』の序文、真名序に、政治の価値はひとときだ、いま栄えている人も死ねばすぐ忘れられていく。それに対して文学は千古の価値がある、ということが書かれている。人麿も和歌の聖というふうにそこでとらえている。そこが面白い問題で、『万葉集』で「万葉」、つまり永遠ということは政治的な圧力で死んだ人間がむしろ永遠だ、反政治の文学が永遠だと。ところが『古今集』の序文で言っていることは、もう政治はやめる、これは価値が少ない、文学そのものが永遠だ、ということになっている。(略)紀貫之がそういうことを考えた背景には紀氏の政治的敗北がある。紀氏はもう文学で生きるよりしょうがないという気持ちがあるんです。(p.195)
と言っている、学校の国語の授業の文学史もこういうこと教えてくれればいいのにとマジ思った。
ほかに文学については吉本さんが『源氏物語』について、文化として日本には春夏秋冬があるんだと初めてきちっと言ったのは『源氏物語』だという、現実の日本列島は南のほうは常夏的で、北のほうは秋と冬だけみたいなのに、
>つまり光源氏が花散里夫人をこっちの冬の庭のところに置いてとか、夏の庭のところに置いてとか、庭を四つに区切って、春の庭には自分がいてとか、そういう区切り方をしちゃう。庭を全部、四季の花で代わりばんこに移るようにつくるみたいな。だから桂離宮の原形なんでしょうけれども、そういうのを『源氏物語』が初めてつくってるわけです。四季感をつくっちゃってるということが僕はものすごく重要な感じがするんです。(p.198-199)
なんていうふうに言って、四季の世界をつくったのは偉大だとしている、だからってそれ以外は文化から外されたような気がするのは不服だとも言ってるけど。
もっと時代が下がっての、仏教と音楽的芸術の話のとこでは、中沢新一さんが浄土教は日本のプロテスタントだとたとえて、
>浄土教自体がもともと音楽的ですよね。(略)比叡山でやっていた声明はメロディーですよね。きれいなメロディーでやっていたのが、浄土教になるとリズムになっちゃう。
>(略)なぜドイツ音楽が発達したかといったら、それはプロテスタントが視覚美術を否定したからですね。ドイツ人は視覚芸術を封殺されてしまったので、全エネルギーを音楽に向けていった。そしてその中から、バッハが生まれベートーヴェンが生まれた。これがプロテスタントだとしたら、日本でもちょうど同じことが起こったんじゃないでしょうか。(p258)
って調子で、やっぱ学校の授業では教えてくんないような視点をみせてくれて、音楽に合わせた語りって文化ができてくときの仏教の重要性に気づかされる。面白い本だ。
コンテンツは以下のとおり。
1 日本人の「思想」の土台
 「日本思想」という言葉の意味
 ヘーゲル的な国家間への抵抗
 アイヌ・沖縄・本土を繋ぐもの
 近代主義の限界点
 技術の本質と自然
 この世とあの世から見る目
 日本語という遺伝子
2 日本人の「思想」の形成
 ギリシャ思想と日本思想のはじまり
 行基の重要な役割
 「天つ罪」と「国つ罪」
 「十七条憲法」の背景
 「山の仏教」の精神
 国家も文字もつくらない文化
 稲作は城壁をつくる思想に似合わない
 本居宣長の国学について
 古代の怨霊を見失った近世合理主義
3 歌と物語による「思想」
 和歌の発生について
 『古事記』は歌物語
 国家神話のつくり方
 ファルス『竹取物語』
 非政治的文学はいつ成立したか
 『源氏物語』の四季感が桂離宮の美学
 「幽玄」の持続と解体
 『今昔物語』以降の無定形な世界
4 地下水脈からの日本宗教
 「毛坊主」の系譜
 親鸞は聖徳太子の生まれ変わりか
 死んで甦る「思想」の展開
 法然のデカルト的思考
 多神教と一神教の起源
 縄文的な宗教心と踊りや芸能
 正統派仏教と日本思想としての仏教の臨界点
 怨霊鎮魂も日本人の宗教
5 「近代の超克」から「現代の超克」へ
 京都学派による哲学の誕生
 「近代の超克」の影響力
 自己愛と分裂性パラノイア
 人間中心主義の限界
 柳田・折口の対立点
 超近代小説の可能性
 危ないところで生きる

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ドキュメント 戦争広告代理店

2021-06-20 18:54:40 | 読んだ本

高木徹 2005年 講談社文庫版
米原万里さんの書評で、「二一世紀もっとも恐ろしい武器となるのは情報である、という真実を雄弁に裏付ける本」と紹介されていて、興味もったんで、読んでみた本。
結論からいうと、いや、これ、すっごいおもしろかったわ。単行本は2002年刊行らしいけど、とっくに読んどけばよかった。
サブタイトルは「情報操作とボスニア紛争」で、なかみは1992年に始まったボスニア紛争をとりあげたもの、著者はNHKのディレクターとしてドキュメンタリー番組をつくったひとだそうだ。
ボスニア紛争ってのは、もとのユーゴスラビア連邦からボスニア・ヘルツェゴビナが独立したところ、セルビアと対立関係になって、ボスニアの首都サラエボとかで市民が巻き添えで流血おびただしい民族間の戦いになったことだが。
私も本書読むまでなんも詳しいことは知らなかったんだけど、なんとなく、セルビアが残虐な悪いひとで、ボスニアが被害者って図式だとは思ってたんだけど、そのイメージは当時アメリカのPR会社の活動によってつくられたものだった、ってのが本書のテーマ。
>(略)冷戦後の世界で起きるさまざまな問題や紛争では、当事者がどのような人たちで、悪いのがどちらなのか、よくわからないことが多い。誘導の仕方次第で、国際世論はどちらの側にも傾く可能性がある。そのために、世論の支持を敵側に渡さず、味方にひきつける優れたPR戦略がきわめて重要になっているのだ。(p.17)
ということなんだが、いや、二十年近くそういうことを知らずに生きてきたのははずかしい。
主要登場人物のひとりは、ボスニアの外務大臣であるハリス・シライジッチ、当時46歳だけどもっと若くみえる男。
ボスニア政府は、この紛争を「国際化」することを国の政策として決めていて、軍事力では圧倒的に優位なセルビアに対抗するために、力のある西側先進国など国際社会を味方につけようとしていたんで、シライジッチ外相はアメリカを訪れて国務長官と面談したりした。
だけど、アメリカはすぐに乗り出すわけではない、軍事介入すればアメリカ兵の若者が命をかけることになるんだし、議会とおして予算だってつけなきゃいけないし、そんなこと簡単に国民の支持が得られない、だいたいユーゴスラビアなんて石油が出るわけぢゃないからアメリカの国益とは関係ない。
で、国務長官と報道官は、メディアを動かして世論を味方につけなよってアドバイスする、そんなこと考えたこともなかったボスニアの外相は驚く。
そんなときに仲介する人権活動家があったりして、アメリカの大手PR企業のルーダー・フィン社の幹部ジム・ハーフと会う。
ふつうのPR企業は民間企業を相手にするんだけど、ジム・ハーフは外国の政府をクライアントにして国益追及に係るPRを担当することが得意で、すでにボスニアの隣のクロアチアと契約して、クロアチア独立は正当でありセルビア人はひどい連中だっていうアピール活動をしてた。
かくしてボスニアとも契約したハーフのルーダー・フィン社は、情報活動をじゃんじゃんやりだす、外相のメディア向け会見をセッティングしたり、ボスニアのニュースをマスコミ向けに流したり(メールなかった時代なんでファックス送り付ける)、政府や議会に味方つくるためにはたらきかけたり、いろいろやる。
当然のことだけど、ウソついたり捏造したりはしないんだけどね、事実であってもどっち側の立場から見せるかで受け手の印象は操作できる。
シライジッチ外相の振り付けも怠らない、視聴者やメディア取材担当者に訴えかけるにはどう話したらいいかなど徹底的に指導するんだが、この若き外相がハンサムなうえ、知的な感じして、英語も堪能なんで、あっという間に悲劇のヒーロー役を演じるのが板についてくる。
そんなこんなしてると、ボスニアが地球上のどこにあるのか知らなかった人たちのあいだにも、サラエボでは悲劇が起きている、その悪の根源はセルビア人だ、って情報が浸透していく。
それで満足しないのが、このPR企業のジム・ハーフのすごいとこで、それだけぢゃ人々は慣れてしまって、どこか別の場所で紛争が起きたらそっちに関心は移っちゃうだろう、と分析する。
そこで持ち出してきたのが、「人々の心の奥底に触れるキャッチコピー」である、「民族浄化(ethnic cleansing)」。
>ハーフは言う。
>「私たちの仕事は、一言で言えば“メッセージのマーケティング”です。(略)ボスニア・ヘルツェゴビナ政府との仕事では、セルビアのミロシェビッチ大統領がいかに残虐な行為に及んでいるのか、それがマーケティングすべきメッセージでした」
>マーケティングには、効果的なキャッチコピーがつきものだ。それが「民族浄化」だった。(p.113)
ということで、この言葉はメディアの間で急速に広まり、そのインパクトの強さはすごいことになった。
この言葉を使うことで、ボスニア紛争は世界の他の地域の似たような事象と違うと認識され、ホントは複雑な事態なのにセルビア人が悪いっていう単純な構図をつくりあげた。
さらに、そのとき注意深かったのは、第二次大戦のナチス・ドイツによる「ホロコースト」って言葉をあえて避けたという戦術をとったことで、へたに「ホロコースト」を持ち出すと、かえってユダヤ系の反発を呼ぶおそれがあるから、「民族浄化」で感情を刺激してその記憶だけを呼び起こしたってのがポイントである。
かくして、「民族浄化」というフレーズが毎日のようにとりあげられるようになると、ボスニアへの関心が高まったんで、政府や議員にも解決に関わっていくように掛け合うことが可能になってきたんだが、政治家に対しては、「正義」とか「自由」とか「民主主義」とか、そういうののため立ち上がるのがアメリカでしょ、みたいなアプローチをとっていく。
民族紛争は世界各地で起きていて、苦しんでる子供たちはどこにもいるはずなんだけど、
>ハーフは言う。
>「競争の激しいマーケットで、顧客のメッセージをライバルに打ち勝って伝えてゆく。それはどんなクライアントの仕事でも同じです。ボスニア紛争の場合、伝えるべき相手はアメリカの外交政策を決める立場にある権力者たちでした。アフリカのエリトリアには、そこがいくら悲惨な状況でも世界はあまり注意を払いませんでしたね。それにはそれなりの理由があるのです」(p.152-153)
ってPR競争の重要性を知ってる人物がプロデュースしてるボスニアが優先度を増していくことになる、へたに「他の地域も大変だよ」なんて言うと「『民族浄化』を放置していいのか」とか責められかねない。
で、とうとうフィンランドで欧州安全保障協力会議ってのがあった機会に、本会議の前にボスニアの大統領とアメリカの当時の父ブッシュ大統領の首脳会談が行われたんだけど、このときアメリカのPR会社のジム・ハーフは、自身をボスニア政府代表団の正式メンバーとして登録して、会談にも同席させろと要求して、実現させている。
さらに、1992年9月のユーゴスラビアを国連から追放する決議案が採択された国連総会では、ボスニアの大統領の演説の原稿を作成し、ボスニアは多民族国家であって民族共存の社会を守るべきであるというアピールをさせているんだが、この演説はユーゴスラビアの母国語ぢゃなくて、アメリカの視聴者向けに下手でもいいから英語でやらせたっていうんだから、すごい。
かくしてクライアントのために情報戦で勝ったんだけど、ボスニア政府から受け取ったカネはわずか9万ドルだったらしい、ただしこの件の収支よりも、会社の評判が高まったことに価値はあるからいいってことみたいだが。
これ読んで思うのは、2002年の著者あとがきにもあるように、日本ではPR戦略が未成熟だって課題なんだけど。
もっとショックなのは、2005年の文庫版あとがきに、
>(略)ハーフは、中国では政財界のさまざまな有力者と面会し、彼らがいまや資本主義者のように語ることに驚き、圧倒された。そして多くの熱心なオファーを得て興奮していると熱っぽく語った。(p.392)
って、すでに当時、このPRエキスパートが中国の案件に燃えていたってことかな、やれやれ、遅れをとってるねえ。
そもそも1992年ボスニア紛争にとりかかったときも、ルーダー・フィン社からメディアなどに向けた「ボスニアファクス通信」の送付リストには、
>しかし、日本の主要メディアの名前は一つもない。(略)日本語でニュースを流す日本のメディアは、ハーフにとって、国際世論への影響力という意味では眼中になかったのだろう。(p.72)
ってことだったし、しかたないかねえ、くだらない情報の飛び交ってる量だけは多いんだけどね、この国は。
章立ては以下のとおり。
序章 勝利の果実
第一章 国務省が与えたヒント
第二章 PRプロフェッショナル
第三章 失敗
第四章 情報の拡大再生産
第五章 シライジッチ外相改造計画
第六章 民族浄化
第七章 国務省の策謀
第八章 大統領と大統領候補
第九章 逆襲
第十章 強制収容所
第十一章 凶弾
第十二章 邪魔者の除去
第十三章 「シアター」
第十四章 追放
終章 決裂

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Best of The Rc Succession 1981-1990

2021-06-19 19:09:54 | 忌野清志郎

RCサクセション 1990年 東芝EMI
すこし前に、RCのベスト盤のひとつをここに出したんだけど、実はこれと2枚で1組である。
RCサクセション活動20周年の後半の10年分という選曲である、アルバムでゆーと『BLUE』から『I LIKE YOU』まで。
『不思議』のB面の『甘いシル』とか珍しいのも入っているが。
それしにても、いきなり『多摩蘭坂』とか、いいねえ、うん、『多摩蘭坂』は、いい。
あとは、やっぱ『海辺のワインディング・ロード』
BABY もう ぼくの目は
今までのようには見えない
BABY もう 二度と
ぼくの目には見えない
って、いつ聴いても、グッとくるものがある。
「二度と」の歌い方がキヨシロー独自のとこあるんだよなー、「に、どッとー」みたいな微妙なちっちゃい「ッ」が入るリズム。
1.多摩蘭坂
2.チャンスは今夜
3.よそ者
4.SUMMER TOUR
5.つ・き・あ・い・た・い
6.ハイウェイのお月様
7.Oh! Baby
8.ドカドカうるさいR&Rバンド
9.不思議
10.甘いシル
11.自由
12.すべてはALRIGHT(YA BABY)
13.海辺のワインディング・ロード(UTOPIA RE-MIX VERSION)
14.山のふもとで犬と暮している(UTOPIR RE-MIX VERSION)
15.SHELTER OF LOVE ツル・ツル
16.シークレット・エージェント・マン
17.I LIKE YOU

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図書館の外は嵐

2021-06-13 18:39:44 | 穂村弘

穂村弘 二〇二一年一月 文藝春秋
サブタイトルは「穂村弘の読書日記」で、「週刊文春」に「私の読書日記」として連載しているのの2017年7月から2020年7月のをまとめたらしい。
書店で見かけて、買ってみようとしたのは2月だったかな、例によって最近になってやっと読んだ。
本の紹介とかされちゃうと、また読まなきゃいけないって思ってしまうもの増えて危険かなとも思ったんだが、目次パラっと見たら諸星大二郎の『BOX』とりあげたりしてるんで、ついつい買ってしまった。
ちなみに『BOX』最終第三巻を読んだ穂村さんは、
>結末を読んで感動した。さすがは諸星大二郎。(略)隠されたテーマとは、人間のアイデンティティだった。それに触発されて、自分の中で考えが走り出す。(p.40)
と、いろいろ考えさせられて読んだ者を遠くに運ぶという作品の力をほめたたえてる。
各章で複数の本をとりあげているので、けっこう数多く紹介されていて、ほとんど読んだことないものばかりだったけど、今回はそれほど読んでみよっとリストアップする必要を感じたものはなかった。
なかで気になったのは、電車出発までの数分で「初めての旅先には初めての作家がいい」と咄嗟に選んだという、佐藤究の『QJKJQ』。
>ところが、これが大当たり。(略)これ、最高のやつじゃないか。(p.88)
って勧めかたがいい。
で、そのあとに、面白い本を読むと、いったん顔をあげて辺りを見回すくせがあるんで、このときもそうしたんだけど、
>この前そうなったのは、ザミャーチンの『われら』の冒頭付近を読んだ時だった。
なんて、サラって書いてあったりして、それがまた気になってしまったりした。
コンテンツは以下のとおり。
「わたしたち」と「ぼくら」
奇蹟の新作たち
異形の「生活の知恵」
最高の告白
アイデンティティの謎
「いい感じ」の作家
不可思議の理由
「気絶人形」たちの歌
ほんとうの夏休み
追い越された未来
鏡の中のなぞなぞ
つげ義春の魔力
世界を更新する眼
蟻の街見たし
「二二んが四」を超えて
アウトサイダーの輝き
多佳子と三鬼と清張
メタの鍵を持つ作家
大島弓子の単行本未収録作品など
少女たちの声
誰かが誰かを捜す物語
「クラムボン」の仲間たち

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