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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

あもくん

2015-04-29 19:25:25 | 諸星大二郎
諸星大二郎 2015年3月 角川書店
きのうにひきつづき、諸星大二郎の新刊。
こっちのほうが、ちょっとだけ早く出たんだけど。
いずれにせよ、ひと月のあいだに、諸星大二郎の新刊がふたつも読めるなんて、とても幸せだ。
この「あもくん」については、以前に『コミック幽』ってアンソロジーで読んだことがある(『覗く人』までかな)んだが、これだけがまとまって単行本化されるとは思ってなかった。
一篇あたりは6ページか8ページの短いもの。そして、なかみは怪談。
ごくざっくり言っちゃうと、基本的には、いるはずのないものがいて、それが見えないはずなのに見えてしまう、というタイプの話。
見えなきゃいいのに見えてしまうのは、主人公である父と子に共通の素質みたい。
息子のほうが「あもくん」なんだが、本名は守(まもる)である。
なんで「あもくん」ってなったかってのは、そのもののタイトルがついてる「あもくん」の章を読むとわかる。
こいつはなかなかよくできた不気味な話。
コンテンツは以下のとおり。
「ことろの森」
「あもくん」
「呼び声」
「ドアを閉める」
「猫ドア」
「手形」
「深夜番組」
「帰り道」
「啓蟄」
「雲の横顔」
「雨」
「覗く人」
「幽霊見物」
「茜空の女」
「また、あもくん」
「エンガチョ切った!」
「見下ろす女」
「彼女」
「鳥居の先」
あと、「ゆびさき怪談」と「ベッドサイドストーリー」って、掌サイズのテキストがいくつか載せられている。こういうのもいいね。
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西遊妖猿伝 西域篇6だ!

2015-04-28 19:59:05 | 諸星大二郎
諸星大二郎 2015年4月 講談社
というわけで、毎回言っておるが、これだけが楽しみだ、これの完結を見ずに死にたくない、って私が思ってる、西遊妖猿伝の、新刊。
先週23日に発売になったんで、その日に買って、いろいろあって(飲み会とか仕事とか出張とか乗馬とかいろいろあって)読めなくて、きょう読んだ。
ってのは、これは片手間に読むもんぢゃない、気合い入れて集中して読まなきゃいけないもんだから、私にとっては。さあ読むぞって状態が整うまでうかつに開けない。
前刊からは約一年ぶりか、その5巻を読んでウォーミングアップしてから読んだ、今回も。
単行本化のペースが上がったのかと思ったら、どうもそうぢゃなくて、「石人原の章」が完結して、キリいいんで本にまとめたっぽい。
すなわち、
・第34回 一雄 往きて突厥に独り挑み 三騎 並びて胡兵を迎え撃つ
・第35回 三英雄 突厥を急襲し 石人原に悟空 大いに戦う
・第36回 三雄 闇中に突厥と戦い 鹿力 妖術にて悟空を惑わす
・第37回 悟空 鹿を逐いて祭場に臨み 胡娘 箭を射て結界を破る
の四章からなってんだが、ちょっと分量が少ないっていえば少ない。
その代わりというか、補ってあまりあることには、巻末にスピンオフ作品の
・「西遊妖猿伝奇聞 逆旅奇談」前後編
が収録されてる。こりゃあいい。

って、帯の後ろ表紙側を見ると。
「『西遊妖猿伝 西域篇』は月刊モーニングtwoで2015年秋連載再開予定!」って書いてある。
ひええ、このあとの展開って、いわゆる「構想中」かいー?
それでもなんでもいいや、私は、付いていくー!
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むずかしいと思った馬が、実はすごい馬だったりして

2015-04-27 19:18:57 | 馬が好き
乗馬にいく。
26度まで上がるって予報、夏日だ、今シーズン初めて半袖でいく。日焼け止めもしてく、練習はインドアだけどね。
きょうの馬は、ジョニークエスト、初めてだ。

名前はどっかで聞いたことがある、たしか相当いい馬のはずだぞ、いいのかな私なんかが乗って。
(そこで詳しく調べると人間がビビるかもしれないので、知らんふりして先入観なしでいく。)
それはそうと、なんだろう、この馬、サラブレッドぢゃないのは確かだけど。
馬房の名札んとこを見にいくと、セルフランセだって。なんだっけ、セルフランセって?
(※注 セル・フランセ種 分類:乗馬 体高:152-163cm 原産地:フランス。1965年、アングロ・ノルマンを基礎に品種として成立した。アングロ・ノルマンはノルマンにサラブレッド、ノーフォーク・ロードスターを交配して作りだされた品種。毛色はさまざまだが、ふつうは栗毛、鹿毛。頸は長く、たくましい肩に乗っている。胸は深く、胴回りは太い。馬格は用途に応じて変異に富む。総合馬術用馬として特に優れているが、馬場馬術、障害飛越競技にも広く用いられている他、競馬にも用いられる。
…困ったときは、競走馬総合研究所HPの馬の品種事典を見ましょう→http://uma.equinst.go.jp/jiten/equus/index.html

ウラホリしてブラシかけて、さて馬装すっかと辺りを見るんだけど、足あてが見つからん。
そのへんにある名前の書いてないの適当につけちゃおうかと思ったんだが適当なのが無い。
先生に聞くと、「肢巻です」というお答え。こんなの巻くのひさしぶりだな、できるかなと不安になったけど、巻いてあるのを適当にクリンクリン上から下へまた上へやると、なんとなくそれらしくハマる。

鞍もハミもつけて、さて写真撮るかと手を放すと、くるっと後ろ向いて馬房んなか帰りそうになる。おやおやこいつは油断できないぞ。(←すでに油断してからでは遅い。)

馬装してるあいだは、なんかコチョコチョ動いてるような印象が多かったんだけど、乗るときはべつに何でもなくおとなしい感じ。
馬場へ行こうと歩ってくと、たしか先週この馬に乗ってたとおぼしき人を見つけたので、初めてなんだけど、どんな馬でしょうと聞いてみる。
なになに? 何ごとにも物怖じしなくて乗ってて安心? 速歩も駈歩も絶品の乗り心地? 超いい馬ぢゃないですか。ん?ちょっとだけ重たいかも?まあがんばってみましょう。
馬場に入ると他のひとはスタンバイ済っぽいので、あわてて部班柵のなかに入れてもらって、ウォーミングアップしようと思ったら、あっという間に隊列ができあがってしまった、やばいぞ、これ。

いわゆる「重いかも」って馬に乗ったときは、始まる前に脚への反応をみて、前に出たらとにかくホメたおして約束事をつくるのが私の定跡なんだけど、それやってるヒマがなかった、困ったなあ。
とはいえ、縦隊の2番手なので、気楽に前についてきゃいいやと割り切る。
速歩スタート、軽速歩だけど、おお、たしかにフワフワっとしていい感じだ。
ちなみに終わったあと、「速歩、フワトロ」って絶賛しといたら、さっき聞いたひとも、そうでしょと同意してくれた。
ぢゃあ今日は2課目っぽいことしましょう、ということになって、三湾曲とか、斜線上や長蹄跡で中間速歩っぽくするとかを繰り返す。

ウォーミングアップ不足がたたって、最初はうまく動かせてなかったんだけど、そのうち反応がよくなってきて、歩度を伸ばすのは問題ない。
けど、このあとの駈歩でもそうなるんだが、繰り返し「引っ張ったままにならない!」と言われちゃう。
油断するとコンタクトが失われそうな感じがして、極力手綱を短く持って何とかしようとしてたんだけど。
あと、三湾曲どころか、ふつうの輪乗りでも、なんか馬が外向いちゃう。内向けようとするんだけど、うまくいかない。蹄跡の隅角なんか、ほんと顔そっぽ向きながら肩は内の経済コースに入ってきそうになってる、あれれ。

駈歩する。これまたフワンフワンして気持ちいい。まるで馬のほうから吸いついてきてくれるかのような感じ、楽しい、なるべく力抜いて楽しむ。
うん、まるで鞍下ゼッケンが柔軟剤のCMのタオル並のフンワカ感をもつ素材でできてるかのようだ。
それでもときどき脚で励まさないと前進する勢いが物足りない感じするのでドンと使うんだが、脚使うと「脚が短く」なってしまう、脚長くしたまま圧したいんだけど。それでもあんでも、とりあえず、発進したときとか脚に反応して歩度伸ばしたときはホメる。

駈歩でも長蹄跡で歩度を伸ばしたりする、自分のカラダで駈歩のリズムつくるように意識する。まるでブランコこいでるときのように、自分が動くと馬が動く、ような気がする。詰めるときは逆に自分の振幅をそうするようにする。
見てる先生にも「いいですよ」と一応言われたので、そんな間違ってないとは思う。駈歩うまく動かせなくて、上でジタバタ身体揺すってたときとは、身体の使い方が違うと自分でもわかる。
さて、ほかの馬は乗り替わるひともいて、部班第2ラウンド。こんどは先頭にされちゃう。
多めの人数だから、意識して引っ張るようにペースを速めにしようかとしたんだけど、ちょっと速過ぎるようなので抑える。そのとき、ただ手綱でブレーキかけるんぢゃなくて、軽速歩のリズムをゆっくりできないかとか試す。
速歩でも駈歩でもさっきと同じような運動繰り返す。そして、繰り返し「引っ張ったままにしない」と「馬が外向いてる」を指摘されちゃう、ダメだなあ。
どうでもいいけど、さっきまで二番手で先頭の馬を後ろからあおってたんだが、今度は先頭に立ったら後ろの馬に突っつかれる破目になってやんの、因果応報だなあ。
そんなこんなで練習終了。

「難しい馬ですが、よかったでしょう」と言ってくれた先生に、こともあろうに私というやつは、「外の手綱で回れそうな気がしません」と正直に言ってしまう。だって、そうなんだもん、隅角でも輪乗りでも。
そしたら、「私も乗ってましたが、130センチ飛ぶ馬ですよ、全日本も勝った」と、いい馬であることを明かされる。知らない私がどうかしてんだけどね。
でもダメだよぉ、そんないい馬に私を乗せちゃ。繊細なタッチが必要な馬は乗れないんだから、私のようながさつ者は。
(へたなドライバーがフェラーリ乗るとクラッチをミスるのと同じようなもの?とか私はよく言う。乗ったことないけどフェラーリ。)
しかし、私はこの馬で障害は飛べそうにないな、回転ができないもん。(障害は回転がすべて。)
馬場から引き上げたら、前肢を冷やしてから手入れ。汗かいたし、気温も高いから、当然丸洗い。

ところが、顔とか耳のあたりをいじってから、ちょっと汗コキ探しに隣りの洗い場まで行ってたら、あらら、無口が外れて裸馬状態。
やばい、放馬するか、隣の馬にケンカ売ったりするか、と思った次の瞬間、クルリと回転して、さっさと馬房のなかへ、お目当ての乾草へ、馬まっしぐら。
担当者も近くにいてくれて助けてもらったんだけど、無口頭絡のノド革というか顔の下通るやつを左の頬んとこでちゃんと金具止めてなかったのが敗因。なんでも無口自体も長さゆるいときあると、サッと外しちゃうんだそうだ。
しかし、無口の金具はずしたまんまにしとくと抜けるぞとは、よく聞くことだし、子どもたちなんかにも言うことなんだけど、ホントにやる馬見たのは初めてだ。
(私は子どもの手前もあってという環境にいたせいか、わりとマメに止めるほうだと自分では思ってたんだけど、ホント今日は油断だった。)
もー、敷料で、せっかく洗った蹄がー、とかボヤキながら、肢だけやり直し。自分が悪い、自分が。
いつもよりちょっとだけ時間かかっちゃったけど、どうにか終わったとこで、リンゴやると喜んで食った。

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知のモラル

2015-04-24 07:40:08 | 読んだ本
小林康夫/船曳建夫[編] 1996年 東京大学出版会
前回からモラルつながり、というほどのもんでもないが。
『知の技法』『知の論理』につづく三部作の完結編。
前二作は、それぞれ大学の新入生と三年生を対象としていたけど、これは大学を出ていこうとしてる人、大学の外にいる人が読者として想定されている。
>(略)大学の外の現場と学問的な知とはどのように係わるのか? 知の責任とは何か?(略)
みたいなことを考えるためのもの。
初めて読んだ当時の記憶はもはや無いんだけど、今回読み返してみると、意外とおもしろかった。
(この場合のおもしろいは、刺激的って意味に近いかな。)
>(略)他人を批判していると、自分はそんな誤りはしない全能の人間のように思えてきてしまうことは、よくあります。戦前の学者たちも、江戸時代の学者などをさかんに批判し、自分たちはそれを乗りこえたと簡単に思っていたようです。(略)(p.80)
とか
>科学というものは、非常に裾野の広い積み重ねの上に成り立っているので、その最上段の部分を、下の段を抜きにして説明するというのは、不可能に近い至難の技です。(略)しかし、科学のその分野に通じていない人びとの中には、ピラミッドの全体は知りたくもなく、自分がおもしろいと思うことだけを知りたい人びとがたくさんいます。(略)(p.174)
とか
>学問は、そのどんな領域も、以下のようにして作られます。
>(1)その学問領域が扱う対象を限定します。それによって対象集合が定まりますが、これをコレクションと呼びます。
>(2)選んだ対象集合の要素間の関係から単純な基本原則を導出します。これを法則と言います。
>(3)法則と矛盾せずに生起し得る現象についての体系を記述、これが理論体系です。(p.214)
とかってあたりの言説が、なんだか妙に改めて成程なぁと思ったりするツボにはまるものがあった。
コンテンツは以下のとおり。
第I部 知のモラルを問うために
第II部 モラルの地平
「「知」の賢慮に向けて」
「国際法と公正」
「マジック・ミラーの盲点」
「神話をこわす知」
第III部 モラルの現場
「社会的公正への道」
「「学校的なもの」を問う」
「〈美〉について」
「エチカとエートス」
第IV部 人間の場所
「種と個のあいだ」
「「奇妙なサル」に見る互恵性」
「危機のモラル」
「コレクションとアブダクション」
第V部 モラルの希望
「真理からフィクションへ」
「大学と菩提心」
「「魂の自然な祈り」」
結び
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それをお金で買いますか

2015-04-22 07:52:49 | 読んだ本
マイケル・サンデル/鬼澤忍訳 2014年 ハヤカワ・ノンフィクション文庫版
最近読んだ本、年明けぐらいに買ったんだっけか、サブタイトルは「市場主義の限界」。
なんとなく気にかかって手に取ってみただけなんだけど、読んだらけっこうおもしろかった。
タイトルから私が勝手に受けた印象は、「それをわざわざお金だして買いますか→今の時代ならタダで手に入れることができるでしょう、カネ出すなんてムダムダ」って感じだったんだけど、内容は逆も逆。
なんでも値段つけていいってもんぢゃない、それカネで買えたりしちゃダメでしょ、っていう話。原題は「WHAT MONEY CAN'T BUY」。
刑務所で清潔で静かな独房に入ることができる料金が一晩82ドル。
一人で車に乗っていても相乗り用の車線を走っていい権利がたとえば8ドル。
絶滅の危機に瀕したクロサイをハンターが撃っていい権利が15万ドル。
頭髪を剃って額に消せる入れ墨で広告を入れると777ドル。
製薬会社のクスリのテストの臨床試験で人間モルモットになると7500ドル。
というように、なんでもカネ払えば買えるし、売ればカネもらえる世の中になってるんだけど、ちょっと待てという話だ。
>ときとして、大切にすべき非市場的価値が、市場価値に締め出されてしまうこともあるのだ。(略)お金で買うことが許されるものと許されないものを決めるには、社会・市民生活のさまざまな領域を律すべき価値は何かを決めなけれなならない。(略)(p.22~23)
ということで、極端なこといえば、人身売買とかしちゃダメでしょ、それぢゃ大昔の奴隷制の世界と一緒じゃん、気づけよってことだ。
政治や行政に関わることでカネ出した人だけ有利になったら、それは腐敗だという。
腐敗ってのはワイロのやりとりが悪いってだけぢゃなく、
>(略)ある善や社会的慣行を腐敗させるとは、それを侮辱すること、それを評価するのにふさわしい方法よりも低級な方法で扱うことなのだ。(略)(p.56)
という思想の問題なんだという、そりゃそうだ。票を金で売り買いするのがダメなのは、法律で禁じてるからぢゃなくて、議会や選挙に対する侮辱なんだ、けっこう現代人はそのこと忘れてるような気がする。
ほかにも、地球温暖化について「排出量取引」って、他国にカネを払って自国の分にあたる温室効果ガス削減をやってもらうって手法があるらしいんだけど、それって総量の規制としては有効かもしれないが、規範としては問題でしょ、
>つまり、自然は経済的余裕のある人のためのゴミ捨て場だという姿勢だ。(p.114)
とダメ出ししてる。二酸化炭素ガンガン出してる立場にいると、意外と気づかないよね。
でも、世の中がカネさえ出せば何でも解決してるかっていうと、そうぢゃない例もあるそうで。
イスラエルの保育所で、子どもを迎えに来るのに所定の時刻に遅れたら罰金という制度をつくったら、かえって遅れてくる親が増えたとか。
スイスの小さな村が核廃棄物処理場の候補地になったとき、住民の約過半数が受け入れもやむなしという意見だったのに、処理場を建設したあかつきには補償金を出すと言ったら、かえって反対が増えたとか。
高校生に寄付金集めの活動をさせるとき、寄付の重要性を熱心に説明されただけのグループよりも、加えて寄付金集めてきたら歩合で報酬出すと言われたグループのほうが成果が低かったとか。(p.174)
人間の行動は、ぜんぶカネで左右されるほど、単純ぢゃないということらしい。
どうでもいいけど、なんかしたらカネとかを余計に与えたりする「インセンティブ」ってものについて、
>インセンティブの話題は現代の経済学に深く浸透しており、この学問を定義するまでになっている。(略)(p.127)
と認めてはいるものの、
>(略)経済学的思考においてインセンティブの言語が発展したのは、最近のことだ。「インセンティブ」という言葉は、アダム・スミスをはじめとする古典派経済学者の著作には登場しない。(略)(同)
という指摘もしている。1990年代まではさほど目立つこともなかったのに、2000年代に入って急増したらしい。
それはまったく気づいてなかった、もっとも最初っからアダム・スミスなんかは読んだことないけど。
序章 市場と道徳
第1章 行列に割り込む
第2章 インセンティブ
第3章 いかにして市場は道徳を締め出すか
第4章 生と死を扱う市場
第5章 命名権
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