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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

ラブレーの子供たち

2023-08-17 19:00:18 | 四方田犬彦

四方田犬彦 2005年 新潮社
これは今年3月ころに買い求めた古本、だいぶ以前から気になって探してたんだが、ようやく手に入れることができた。
中身どんなこと書いてあるかはよく知らなかったんだけどね、エッセイ集だと思ってた。
冒頭の短いまえがきのところに、
>本書は、過去の書物を読むことと未知の料理を前にすることこそが人生の悦びであると信じる、ひとりの批評家によって書かれた、実験レポートである。(p.6)
とある。
ただ単に、ある作家の書いたものにこんな食べ物が出てくる、みたいに紹介する話ぢゃなくて、作家とかが好きで書き残した料理のレシピなんかを実際に再現して試食するんである。
そりゃすごい、もちろん各章にきれいな写真が載ってくる。
初出は『芸術新潮』で2002年から2003年に「あの人のボナペティ」ってタイトルで連載されたらしいけど、よくそんな企画がでてきたもんだ。
本書のタイトルにラブレーがついてるのは、ラブレーの書いた物語には食べ物がよく出てくるし、後世の芸術家たちも食に対する好奇心あふれるひとが多かったんで、みんなラブレーの子供たちでしょということらしい。
とはいっても、私はあまり食に関する執着ないので、こういうの読んだり見たりしても、あー食ってみてー、みたいにはならないんだけど。
一読しておもしろかったのは、たとえば「イタリア未来派のお国尽しディナー」とかかな、なんせ聞いたことないものだったから。
フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ(1876~1944)って未来派なる組織の芸術家が、料理を芸術にしたもの。
再現された料理は、
>このコースは4皿+デザートから構成されていて、食べながらイタリア国内を北から南へ、さらに地中海を越えて植民地まで一気に旅行ができるという仕かけがなされている。リストランテの舞台装置には厳密な指定があって、まず天井が青いこと。四方のガラスの壁には、アルプスや田園地帯、火山、南の海を描いた未来派の画家の巨大な絵が掲げられていることが、条件である。(略)
>最初に山の風景を描いた壁に照明が投じられ、部屋の温度は溌溂とした早春にセットされなければならない。「アルプスの夢」なる一皿が、ここで供されることになる。(p.32-34)
という調子で、料理を食べるのに照明など含めてパフォーマンスになるというシロモノ、おもしろそうだけど、当然私なんかは食べてみたいとまでは思わない、だってめんどくさそうだもん。
あと「マリー=アントワネットのお菓子」って章も興味深かった。
>貴族の館に抱えられた料理人は、いかに女主人の堂々たる威風にふさわしい豪華なデザートを考案するかということに頭を悩ませ、女主人たちは完成した作品を手に、その美を競いあうことを好んだ。(p.117)
みたいな概説のあとに、たとえばストロベリー・ショートケーキは、
>(略)もとを辿ればルイ14世の愛妾であったラ・ヴァリエール夫人が王の寵愛を得ようとして料理人に命じて作らせた、苺のタンバルが原形であった。もっともこの時点では、苺はケーキの内側に隠されていて、口にしてはじめてその存在がわかるという仕組だった。これがドイツ経由でアメリカに渡り、ショーウィンドウで目立つようにと果物を表に出したおかげで、大衆的な人気を博するようになったというのが、今日の姿である。(p.118)
という歴史があったと示されると、18世紀宮廷文化のもたらした恩恵が19世紀アメリカの資本主義的なものによって現代に広がってんだなー、みたいなこと知ったような気になれる。
なんかそういう小ネタを知っただけで、そこに出ているもの実際に食べてみなくても、なんかトクした気になれちゃう私は安上がりな人間だとも思うけど。
コンテンツは以下のとおり。
ロラン・バルトの天ぷら
武満徹の松茸となめこのパスタ
ラフカディオ・ハーンのクレオール料理
イタリア未来派のお国尽しディナー
立原正秋の韓国風山菜
アンディ・ウォーホルのキャンベルスープ
明治天皇の大昼食
ギュンター・グラスの鰻料理
谷崎潤一郎の柿の葉鮨
ジョージア・オキーフの菜園料理
澁澤龍彦の反対日の丸パン
チャールズ・ディケンズのクリスマス・プディング
『金瓶梅』の蟹料理
マリー=アントワネットのお菓子
魔女のスープ
小津安二郎のカレーすき焼き
マルグリット・デュラスの豚料理
開高健のブーダン・ノワールと豚足
アピキウス 古代ローマの饗宴
斎藤茂吉のミルク鰻丼
ポール・ボウルズのモロッコ料理
イザドラ・ダンカンのキャビア食べ放題
吉本隆明の月島ソース料理
甘党礼賛
四方田犬彦のTVフリカケ

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ドルズ・ハウスの映画館

2023-04-06 18:29:28 | 四方田犬彦

四方田犬彦 1993年 悠思社
これ、こないだ3月の古本まつりに出かけてったとき、探してたわけぢゃないけど、たまたま見つけたんで、即買ったさ。
棚に整然と並んでたんぢゃなくて、台のうえになぜかポンと出てた、それで表紙の絵をみた瞬間に、岡崎京子じゃん!って反応したわけで。
(四方田さんとヲカザキさんの関係については、過去に『ゴダールと女たち』記事コメントで教えていただいたことがある。)
なかみは著者の専門分野である映画のこと、あとがきによれば、1988年から1992年に朝日新聞東京版土曜の折り込み「風」に連載した映画評を集めたもの。
>この書物に集められているエッセイは、いずれもがひどく短いものばかりです。ぼくが普通に書く監督論や作品論が何十枚もする長いものであるとすれば、ここにはそのミニチュアが並んでいるといってもいいでしょう。(略)ドルズ・ハウスのように極小のものがびっしりと集められて、ひとつの匱(はこ)のなかに詰めこまれていると考えてください。ぼくがこの本を『ドルズ・ハウスの映画館』と名付けたのは、そこに理由があります。(p.6-7)
というのがタイトルの由来だそうです。
当然のように、とりあげられている映画は(私なんかの知らないような)ちょっとマニアっぽくて、
>ヨモタさんはアメリカ映画はお嫌いですか、とこのあいだ聞かれました。だってこのコラムではヨーロッパやアジアの映画は登場しても、ハリウッドが出てきたことが一度もないじゃありませんかと。冗談じゃない、とぼく。アメリカにも大好きな監督はいっぱいいますよ。(略)ただぼくは、昨今流行のハリウッド映画の子供っぽさが嫌いなのです。ぼくが観たいのは大人の映画。要するにそれだけ。(p.69)
と本文中でも語られてるとおりのチョイスです。
まあ、私は映画にはくわしくないので、そうやってせっかく上質なものを案内されても、特に観てみなくてはって気にはなかなかならないのだけれども。
一読したなかで興味もったのは、まず「てなもんやコネクション」、
>香港の男の子がひょんな偶然で日本観光旅行の懸賞にあたってしまいます。(略)彼は現金もパスポートもなくし、「浅草花やしき」に迷いこんでしまいます。彼はそこでなんと入場五百万人目のお客さんというわけで、夢の香港旅行ご招待。(p.136)
って、なんか楽しそう。
もうひとつは「テラコッタ・ウォリア(秦俑)」、
>時は紀元前三世紀。(略)はるかな東の国へ向かうのが嫌で、列を離れて逃げだした少女が、宮廷警備の若い武官と恋に陥ります。二人はひょんなことから本物の秘薬を口にしてしまい、以後、二千年にわたって離別と再会のドラマを演じます。(p.138)
っていうのも、ちょっと観てみたい感じする。
あと「マドンナ列伝」として、「6歳 オードリ・ヘプバーン」「8歳 浅丘ルリ子」「13歳 ブリジッド・バルドー」「15歳 吉永小百合」「15歳 アンナ・カリーナ」「17歳 ミア・ファーローとジーン・セバーグ」「17歳 ジェーン・バーキン」「19歳 マリア・シュナイダー」「22歳 グレタ・ガルボ」って、憧れた女優をあげてく章はおもしろかったな、ひとのそういう遍歴を読むのは嫌いぢゃないかも。
コンテンツは以下のとおり、なぜか発表順とか国別、ジャンル別とかぢゃなくて、五十音順に収録されてる。
青い青い海
紅いコーリャン
赤いシュート
赤と黒の接吻
アタラント号
アマチュア
安聖基
イザベル・アジャーニ
インタヴュウのコツ
インドシナ
インド夜想曲
美しすぎて
ウディ・アレンの『重罪と軽罪』
ウルガ
映画館でしちゃいけないこと
王手

革命前夜
数に溺れて
勝新太郎
悲しき酒場のバラード
彼女たちの舞台
狩人
カルテット
希望の樹
客途秋恨
キャロル・ブーケ
キャンディ・マウンテン
霧の中の風景
牯嶺街少年殺人事件
鯨とり
クラウス・キンスキー
桑の葉
ケーブル・ホーグのバラード
傾城之恋
こうのとり、たちずさんで
五月のミル
コックと泥棒、その妻と愛人
サワースィート
サンタ・サングレ――聖なる血
獅子座
シーズンオフ
徐楓
地獄の警備員
自由はパラダイス
シャーロット・ランプリング
上海ブルース
人生は琴の弦のように
ジャン=ポール・ベルモンド
シュガーグラス
12人の優しい日本人
ジュリエット・ビノシェ
真実の瞬間
聖なる酔っぱらいの伝説
存在の耐えられない軽さ
太陽は夜も輝く
誰かがあなたを愛してる
達磨はなぜ東へ行ったのか
菊豆
てなもんやコネクション
テラコッタ・ウォリア(秦俑)
遠い声、静かな暮らし
都会のアリス
ドグラ・マグラ
ドミニク・サンダ
囚われの美女
ナイト・オン・ザ・プラネット
夏目雅子
二十世紀少年読本
バイバイ・モンキー
バスティアンとバスティエンヌ・湖畔にて
バタアシ金魚
薔薇の王国
春来る鬼
春のソナタ
バロック
ピーター・ローレ
ピストルと少年
ふたりのベロニカ
冬の旅
冬物語
フランチェスコ
フリーダ・カーロ
ブリジッド・バルドー
林青霞
ペレ
北京物語
ホワイト・ドッグ
ボヴァリー夫人
ポンヌフの恋人
マイライフ・アズ・ア・ドッグ
マドンナ列伝
真夜中の虹
マリア・シュナイダー
マリリン・モンロー
曼陀羅
右側に気をつけろ
見知らぬ人
溝口健二の美学
メトロポリタン
本木雅弘
ヤーバ
山口百恵
浴室
欲望の翼
ラスト・オブ・イングランド
ラ・ピラート
ラ・ヴィ・ド・ボエーム
リビング・オン・TOKYO・タイム
ルイス・ブニュエル
ルイズ・ブルックス
レネットとミラベル 四つの冒険
恋恋風塵
ロベルト・ロッセリーニ
わんわん物語

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ブルース・リー

2019-10-20 17:49:48 | 四方田犬彦

四方田犬彦 二〇一九年七月 ちくま文庫版
副題は、「李小龍(レイシウルン)の栄光と孤独」。
ちなみにレイシウルンというのは粤(えつ)語で、北京官話とはちがうんだそうだけど、とにかくこの粤語ってボキャブラリーは本書にたくさん出てくるんで、広東語のことだと理解しないと読みにくい。
最近になって、ブルース・リーってのはすごいんだ、「燃えよドラゴン」がなかったら世界における香港映画というかアジア映画のいまはないんだ、みたいな論評に複数個所で触れたもんだから、気になってたところに、この文庫が出たんで、読んでみることにした。
もちろん、私はブルース・リーについては、アチョーってキックやパンチを繰り出す何本かの映画を観たことでしか知らないんで、まずは彼はアメリカ公演とかしてた粤劇の名優を父にもち、それで赤ん坊のころから子役としてたくさんの映画に出てたってことにおどろかされた。
十代では、街で喧嘩ばかりしてたってのは、なんとなく想像つかないでもないが、チャチャチャが好きで踊るのが上手ってのはちょっと意外。
で、誰もが知ってる、私でも知ってる、主演映画ってのは四本。
1971年 『唐山大兄』 The Big Boss 『ドラゴン危機一発』
1972年 『精武門』 Fist of Fury 『ドラゴン怒りの鉄拳』
1972年 『猛龍過江』 The Way of the Dragon 『ドラゴンへの道』
1973年 『龍争虎鬥』 Enter the Dragon 『燃えよドラゴン』
あと、他人が原案とはまったく異なる形でつくっちゃった、1978年『死亡遊戯』Game of Death ってのもあるわけだが、これについては
>この作品が李小龍のフィルモグラフィのなかで、最後の十数分を除いてほとんど意味も価値ももっていない(略)(p.320「李小龍の行動様式」)
とケチョンケチョン。
やっぱ子役時代のことなんかよりは、主演作品についての解説にしか私なんかは関心がないわけだが、
>『唐山大兄』の功夫場面から窺い知ることができるのは、韓英傑と李小龍のコレオグラフをめぐる熾烈な覇権争いが、場面場面においてなされてきたことの痕跡である。京劇出身で、ときにアクロバットをも辞さず、優雅な舞いを披露したり短いショットを巧みに編集して、観客に驚異を体験させようとする韓英傑に対して、李小龍はどこまでも、実際の武道家として長回しに拘泥し、現実に生起するアクションの身体的現前をそのまま映像として記録することにより関心をもっていた。(p.218「『唐山大兄』――移民労働者」)
なんて専門的な解説をされちゃうと、おおっと思うし、どっかで知ったかぶりして使いまわしてしまいそうな気分になる。
功夫を駆使して戦ってる場面を私なんかはカッコええなあぐらいにしか見てないないんだが、
>『唐山大兄』では武闘のほとんどが屋外の開かれた空間でなされていた。『精武門』で舞台となるのはすべてが空間的に限定されたセットであり、それはかなり厳密にコレオグラフを準備しなければならないことを意味している。(略)
>韓英傑による人物配置と転調のぐあいは見事であり、幾何学的な構図をもつとともに豊かな弾力性に満ちていて、次々と表面は変化してゆくものの堅固な構造が見てとれる。(p.229-231「『精武門』――抗日ナショナリズム」)
みたいに「武術指導」ってものの解説されると、そうかあ、ただカメラまわしてりゃ撮れるものが映画ぢゃないよなって、あたりまえのことに気づかされる。
つづく作品では、自分で監督をしたこともあって、それまでの主流というか伝統的というかの演出からはさらに離れる。
>『猛龍過江』では韓英傑と羅維の軛から解放されたことが手伝って、これまで以上に自由にして多様な功夫技を見ることができる。(略)
>また彼は韓英傑風のアクロバットをどこまでも拒絶する。唐龍が天井のシャンデリアを蹴り付けて割るショットが存在しているが、そこで李はきちんと床をカメラに収めている。それはこの超人的な演技がけっしてトランポリンを用いた人工的なものではないことをされげなく物語っていて、京劇の流れを組む装飾的な誇張を排除しようとする姿勢がそこからも窺える。(p.252-253「『猛龍過江』――西欧との対決」)
という調子である、そういえば昔「ほかはみんな早回しだけど、ブルース・リーはちがうぜ」ってブルース・リー好きに教わったような気がするが。
『ドラゴンへの道』は私もいちばん好きなんだけど、この映画のなかでは、
>彼が最終的に理想としてきた截拳道の自由なあり方が、ここにみごとに実現されているといえる。(p.253同)
ということになってるらしく、やっぱブルース・リーのいいとこでてるのかなと思う。
ブルース・リーは自らの功夫を、ひとに教えるだけぢゃなく、本にして残してもいるそうで、『截拳道』という1998年の彼の3冊目の書物にその思想がのってるらしい。
発行が1998年なのは、遺稿を研究者が編纂したからで、もとは1975年に『截拳道への道』というなまえで一度出されたものらしい。
そのなかで、
>武道の究極は確実な型をもたないことであると、李小龍は繰り返し説いている。特定の型が権威として踏襲されたとき、そこに生じるのは頽廃である。(p.170「李小龍の著述活動」)
と説いてるらしく、実は自由なストリートファイティングが目指すところだったんぢゃないかということのようで、やっぱ若いときに街角でリアルファイトしていただけのことはあると妙に感心してしまう。
それはそうと、戦いの場面だけぢゃなくて、
>李小龍のフィルムがいかに中国人としての、また英領植民地に育った香港人としての苦悩に満ちているかという問題に関しては、本書の基調となる重大な主題なので(略)(p.25「李小龍以前と以後」)
とか、
>反体制運動とエスニック集団の異議申し立て運動の象徴としてのブルース・リー。(p.364「李小龍の後に」)
とかって、世界中でいまもブルース・リーが支持されている理由についても論述されてて、なるほどなーと思うんだけど、やっぱ私は映画観るときはむずかしいこと考えたりしないんである。
さ、ひさしぶりに何か観てみるかな、やっぱ『ドラゴンへの道』かな、『燃えよドラゴン』の最初の、Don't think,feel!のとこも好きなんだよな。

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漫画のすごい思想

2017-08-13 17:57:37 | 四方田犬彦
四方田犬彦 2017年6月 潮出版社
6月に出てわりとすぐに買って、先月くらいに読んだ本。
以前はこういうの見つけるの遅かったりしたんだけど、最近の書店ではサブカル系みたいな一角にマンガ関連のもの集められたりしてるんで、ときどきチェックしてれば探し当てることは簡単になった気がする。
「あとがき」にいわく、
>本書は『日本の漫画への感謝』(潮出版社)の続編にあたり、著者が一九六八年に十五歳を迎えたときから現在までに読みふけった日本の漫画について記したエッセイ集である。
ということで、前著がおもしろかった私としては、読むっきゃないのである。
ただ、まえがきにあたる巻頭の言が「一九六八年にはじまる」と題されてるとおり、私よりは世代が上なので、リアルタイムで読んでない、あるいはまったく読んだことない作家・作品ばかりだとどうかな、という一抹の不安はあったのだが、でも帯に、永井豪とか岡崎京子の名前が挙がっていれば、そりゃそんな間違いはないのである。
ヲカザキについては、本文のなかで、
>本書を終えるにあたって、わたしは岡崎京子を最後に取り上げ、彼女の作品のすばらしさを改めて書き記しておこうと思う。(p.307)
という言い方をしているように、やっぱ著者にとっても特別な存在なんだろうと思う。
六十年代からの作家列伝のトリをヲカザキに飾らせるってことは、やっぱ歴史的重要人物ったら大げさか、偉大なマンガ家って認識があるからなんだろう。賛成!
コンテンツは以下のとおり。
・杉浦茂への回帰 佐々木マキ
・花と山姥 林静一
・生という病い 岡田史子
・なぜに陽気な胸の中 つりたくにこ
・海辺の惨劇 つげ義春
・見てはいけない母親 滝田ゆう
・生の摩滅 楠勝平
・宇宙とは遊戯である タイガー立石
・お座敷と野次馬 赤瀬川原平
・自己解体を索めて 宮谷一彦
・鳥籠の鳥の挫折 樋口太郎
・絵師の来歴 上村一夫
・忘れられた人々 池上遼一
・孤児と狂女 勝又進
・裸でごめんなさい 永井豪
・姉の眼差し 妹の眼差し 樹村みのり
・治癒する者 手塚治虫
・漫画における大衆 バロン吉元
・プロという宿命 ビッグ錠
・白土三平の影武者 小山春夫
・乱気流に呑まれて 淀川さんぽ
・牧歌の変奏 ますむらひろし
・美少女のいけない夢想 村祖俊一
・多元倒錯の悦び 宮西計三
・至福の幼年期の後に 大島弓子
・炭鉱町と水のフォークロア 畑中純
・怪物たちが怖いので…… 高橋葉介
・天狗の黒 黒田硫黄
・オシャレな廃棄物 岡崎京子
・漫画と文学
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先生とわたし

2016-09-13 20:06:11 | 四方田犬彦
四方田犬彦 平成22年 新潮文庫版
四方田犬彦の、えーと、なんだろ、カバー裏表紙によれば「評論」だけど。
1990年に亡くなった、英文学者で東大名誉教授、由良君美(ゆらきみよし)の話。
東京大学教養学部文科三類に入学した著者が、二年に進級した1973年に「メルヘンの論理」という全学共通ゼミに参加したときから、その師弟関係は始まる。
当時助教授だった由良氏は、なんせすごい博学で、あらゆる書物を読破してるとしか思えない存在で、その議論は多岐にわたって飛躍するとみせて、実に理路整然としてたらしい。
その独特の雰囲気に魅かれて集まった学生のせいで、
>こうして由良ゼミは、けっして多人数でないが、東大のなかでどこか正統的な教養に不満を抱いていたり、専攻という狭い枠のなかに思考を閉じ込めることを肯じない学生たちを吸い上げる不思議な役割をもつことになった(p.90)
っていう知の場所が出来上がってったそうな。
>すべて教育には顕教と密教の、二つの側面があるといわれるが、金曜日第5時間目のゼミはまだまだ、たかが顕教に過ぎなかった。実はその後に密教の部分が控えていたのである。(p.34)
といって、ゼミの後に個人研究室に学生が訪ねていってからのやりとりが描かれているが、そういうのってとてもいいなあとは思う。
私なんかは、義務のような発表や討論の時間が終われば、同級のみんなと遊び行っちゃうだけだったからねえ。
で、本書は、ざっと5章からなるんだけど、(1)先生との出会いとそのゼミの内容、(2)先生の業績をはじめとする年代記、(3)先生の出自、特に哲学者である父との関係、(4)先生と著者の決裂、(5)著者の考える「教育」とか「師弟」とかについて、って感じの構成になってる。
厚い信頼関係があったようだったのに、やがて弟子のほうから訣別を決意せざるをえなくなるんで、けっこう悲劇的な話ではある。
どっちにも言い分あるだろうし、当事者にしかわかんない機微一杯ある関係だろうから、なんともそれ以上の感想はないねえ。
ところで、あちこちで触れられてるけど、この由良先生の読書量はハンパぢゃなくて、
>彼はもっぱら読むことの愉しみのために読み、読書の範囲を決して限定しなかった(p.167)
ってあるように、いろんなもの読んで、自分のアタマのなかではそれが整理されてたらしい。
んー、本書読むまで残念ながら私はその存在を全く知らなかったんだけど、このひとの著書をなにか読んでみようか、いま考えてる。



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