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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

風の歌を聴け

2015-10-29 20:36:04 | 村上春樹
村上春樹 昭和57年 講談社文庫版
持ってるのは、昭和59年7月の8刷。でも読んだのは、昭和61年になってからぢゃないかな、というのが私の記憶なんだけど。
いわずと知れた、村上春樹のデビュー作。1979年発表、群像新人賞受賞作。
なんで一番古いのを、これまで採りあげてなかったかな、まあ最新刊の話題の直後に、デビュー作を並べとくってのも面白いかもと思ったので、今回ひっぱりだしてきた。
前回の『職業としての小説家』にも、デビュー作書いた当時のことは詳しく語られているけど、1978年春の神宮球場でヤクルトのヒルトン選手がツーベースを打ったときに、天啓にうたれたかのように、村上さんが「小説を書こう」と思い立ったというのは、これまで他のものでも書かれていたと思う、有名な話。
小説のなかみは、「僕」が語る、「1970年の8月8日にに始まり、(略)8月26日に終る」短い夏のあいだの話。
東京の大学から、おそらく阪神間のどっかと思われる町に帰省した「僕」は、当時21歳。
(読み返すまで、年齢とか、そういう細かいこと忘れてた。)
3年くらい前からの友人である「鼠」と、「ジェイズ・バー」でビールばっか飲んでる。
サラサラとページをめくりながら、小説というにはアッというまに読めてしまう。当時、日本の小説に、そういうの無かったような気がする。
つづく三部作の「ピンボール」や「羊をめぐる」に比べると、私はそれほどこれがおもしろいとは思わないんだけど。
でも、いろんなフレーズは長く記憶に残ってるし、影響を受けてるなとは思う。今回読み返してもそう思った。
なかに出てくる女の子に訊かれて「僕」が答える、
>「何故人は死ぬの?」
>「進化してるからさ。個体は進化のエネルギーに耐えることができないから世代交代する。(略)」
というところは、なぜかずっと記憶に残ってるフレーズ。
あと、主人公の「僕」が「鼠」に言う、
>みんな同じさ
というセリフとか、ラジオN・E・BのDJがリスナーの手紙を読んだ後に一瞬だけマジになって言う、
>僕は・君たちが・好きだ。
とかって箇所は、いまでも好きだっていうか、読むとこれ初めて読んだころのことを鮮明に思い出す。

※11月3日付記
なんか、これについて書いたら、もうこのブログを終わらせるときも近いような気がしてきた。
所有してる本で、書いてないで残されてるものも、かなり少ないしね。
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職業としての小説家

2015-10-28 20:23:03 | 村上春樹
村上春樹 2015年9月 スイッチ・パブリッシング
つい最近でた、エッセイ集。
小説を書くことについて自らの考えをまとめて語ったもの、ということになるか。
読みやすい感じがするのは、全般的に語り口調だってことがひとつの要因になっているとみて、まちがいなさそう。
ほんと、なにか講演をやったのかと、初出を確かめてしまった。(もちろん(?)違った。)
「MONKEY」という刊行物に連載していたものらしい。
スイッチ・パブリッシングって出版元の名前も、私は聞いたことなかったんだけど、MONKEYは翻訳でおなじみの柴田元幸さんが起ち上げた文芸誌らしい。巻末にバックナンバーの宣伝があったんだけど、なんだか読みたくなってきた。
それはそうと。
本書を一読したところの感想は、とても丁寧な書きものだなって印象を、まずもった。
それは語り口だけぢゃなくて、あちこちに、断定しない、あるいは留保する、違ってたら悪いんだけど、みたいな村上さんの口ぶりがみられるからぢゃないかと思う。
それは、本書で村上さんが言おうとしていることが、何度も繰り返されてるように、「個人的」なとか、「実感」というところに根ざしてるからで、「こうすればベストセラーは書けるぅー! (だから(騙されたと思って)この本、買えぇー)」みたいなのとは無縁というか対極というか、だからぢゃないかと。
第一回 小説家は寛容な人種なのか
第二回 小説家になった頃
第三回 文学賞について
第四回 オリジナリティーについて
第五回 さて、何を書けばいいのか?
第六回 時間を味方につける―長編小説を書くこと
第七回 どこまでも個人的でフィジカルな営み
第八回 学校について
第九回 どんな人物を登場させようか?
第十回 誰のために書くのか?
第十一回 海外へ出て行く。新しいフロンティア
第十二回 物語のあるところ・河合隼雄先生の思い出
というコンテンツのいくつかの字面をみると、なんか小説の書き方読本のようにも見えなくもないけど、そういうハウツー本ではない。
っていうより、もっと何ていうか、生き方みたいなものの指南書っていったほうが近いような気がする。
自由に生きる、あるいは、強く生きる、ってことのためにはどうしたらいいのか、とか、そういう問題意識をもってるひとのほうが、文章うまくなりてーって人よりは役に立つのでは?
それでもなんでも、デビュー直後のころ、今後どうやって小説家としてやっていくかを考えてるときに、
>そしてどういう小説を自分が描きたいか、その概略は最初からかなりはっきりしていました。「今はまだうまく書けないけれど、先になって実力がついてきたら、本当はこういう小説が書きたいんだ」という、あるべき姿が頭の中にありました。そのイメージがいつも空の真上に、北極星みたいに光って浮んでいかわけです。(略)(p.97)
みたいに進むべき道が見えていたと語ってるところなんかは、とても興味深い。
デビュー作書いたあとに北極星がみえる、それを才能というんぢゃないかと。
>いずれにせよ、小説を書くときに重宝するのは、そういう具体的細部の豊富なコレクションです。僕の経験から言って、スマートでコンパクトな判断や、ロジカルな結論づけみたいなものは、小説を書く人間にとってそんなに役には立ちません。(略)(p.116)
みたいな見解も、とてもおもしろい。アタマが良くて、器用なひとなら(たとえ本業が違う仕事であっても?)、おっと言わせる小説をひとつふたつ書くことはできるけど、そういうひとは長く小説家であることはない、というようなことがあるのも、そのへんの物事の捉え方・考え方の違いからきてるらしい。
とりあえず、まだ一回しか読んでないけど、たいへん気に入った本だとはいえます。(繰り返し読むかどうかは、わかんない。)

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動いてるようで動いてない、だからウケられない

2015-10-26 18:43:26 | 馬が好き
乗馬にいく。
週末に木枯らし1号(そんな用語、ホントにあったっけ?)吹いて、今朝はこの秋一番(っていうか最初でしょ?)の冷え込みだっていうけど、最高気温は20度くらいになるらしい、かまわず先週と同じカッコで出かけてく。
私の乗馬のときの温度感覚は寒冷地仕様でできあがってるし、どうせ乗ってればムダな力をつかって熱くなるのだ。

さあ、シャツの腕まくりして、きょう乗る馬はマイネルミレニアム、なかなか手ごわいよ。
二鞍目に乗るひとは今年から始めたひとなので、なにごとも経験なので、馬装をたいがいやってもらう。
そしたらまたがって馬場へ。なかなか元気よく歩いてくれそう。
手綱伸ばしたまま常歩、止まりそうになるとポンと脚、動いたらホメる。
隅角で内側の脚を当てて真っ直ぐコーナーの奥までいってくれたらホメる。
そいぢゃ列になって。って、一番後ろにいたはずだったのに、みんなクルクルと回るもんだから、いつの間にか先頭に立たされた。
軽速歩スタート、なんかいまいちな感じがするので、バンバン動かそうとする。
あらら、でも、忙しくなっちゃうだけだ、そうぢゃなくてストライドを伸ばしたいんだがな。
先週の練習の教訓思い出す、まず馬を前に出す、それからしっかり座る、そして拳を安定させること。
馬が活発に自分から動いてる状態にしないことには何も始まらない、前に出てないのに手でどうこうしないように。
ときどき斜めに手前を替え、ときどき輪乗り。
もっとコンタクトを、もっと求めていい、馬を丸くして、と何度も言われるが。
馬がホントに前に出ていないって感じる、開き手綱なんか使うと、勢いが落ちるし、図形がおかしくなるし、そもそもの前進気勢が足りてない、バンバンと脚。
俗にいう、クチ強い・クチ硬いって状態が、改善できない。
ふだんだったら強引に手指を使うんだけど、前に出てないのにやらないって今日は決めてるので、まず動かすこと優先。
動かそう動かそうとバシバシやってると、ちゃんと座れない。前出てない、座れない、拳安定しない、悪循環。

伸ばしたときに、一応スピードはアップするんだけど、「そこでコンタクト、外れない」って何度も言われる。ウケてる感ないから、ホントの歩度伸ばすになってない。
んぢゃ、輪乗りで駈歩。発進は簡単なんだけど、そのあとの前進がもの足りない。
一応駈歩ではあるけれど、もっと踏み込んで動いてってほしいんだけどね。簡単にいうと、この駈歩では障害に向かう気にならない、そんな弱さ。
内側の脚、ドンと使ってみるが、反応いまいち。一回ムチ使ったら、うるせーって感じでハネた、危ない危ない、ムチは見せるだけで十分、この馬。
蹄跡行進して、長蹄跡では歩度伸ばしてみる、すこしは伸びてるんだけど、やっぱそこでウケてる感がない。歩度詰めるときは、脚使ってから詰める、そうしないと止まっちゃうだけ。
馬ケロッとしてるように見えるが、人間息ハーハーしてしまってるとこで、おしまい。

最後まで前に出てる感じがなかった。ホントに前に出てないから、回転に入ろうとするときや、歩度を詰めようとするときに、止まるようになってしまう。
乗り替わった二人目のひとに、持ってるだけでいい、脚を無視したら見せれば反応するから、とムチを貸す。
終わったあとの感想は、「この馬に乗って、いままでで一番動いた」だって、あれれ、私はあんなに苦労したのに。

手入れのあと、リンゴやったら、ろくに食わないので、しかたなくニンジンに切り替える。
余ったリンゴは隣の馬房から身を乗り出してくる栄燐ちゃんにやっちゃう。
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犬たちの肖像

2015-10-22 21:33:52 | 四方田犬彦
四方田犬彦 2015年6月 集英社
書店で買ったのは7月ころだったかな、最近ようやく読んだ本。
四方田犬彦のエッセイ集、帯によれば「古今東西文学エッセイ集」。
タイトルのとおり、古来、いろんな文学とか映画とかで、犬がどのように描かれてきたか、っていうのがテーマ。
著者のほかのエッセイもそうだけど、書物がいっぱい紹介されてると、すごい刺激的で、私なんかはほとんど読んだことないものばっかだけど、いつか読んでみようかなという気になる。(実行するかはわからないが。)
知ってたのはシートンと里見八犬伝くらいで、『オデュッセイア』とか『マハーバーラタ』については概要もろくすっぽ知らないでいたのは、教養が無くて情けないなあという気がする。
あと、いろいろ例を挙げられてみると、犬の視点で人間世界を描いたって文学作品は思ったより多いんだな、って感想をもった。一度やったらネタとしては終わり、ってわけぢゃないんだ、こういうの。
とりあえず一度読んでみたなかで、おもしろかったのは、「犬をどう名付けるか」という章で、レヴィ=ストロースの『野生の思考』を紹介してるところ。
>(略)名前は名付けられた対象を語る以上に、それを名付けた側の人間のことを物語る。こうした事態から導き出されるのは、その犬の名が何であるかではなく、誰がその犬をそう呼んでいるのかという問いである。
とか、
>(略)構造人類学とは(略)人間が無意識的に過ごしている日常生活の根底にある構造を、冷静な距離のもとに抽出してみせるところから出発する学問なのである。
とか言って、
>犬とは隠喩的名前をもった換喩的人類なのである。
なんて結論に至る。ちょっとむずかしいが、楽しい。
あー、犬、飼ってみたいなー。
コンテンツは以下のとおり。
00 ハーマン・メルヴィルを讃えて
01 乞食の帰還 ホメロス
02 二人の動物物語作家 シートンとロンドン
03 孤独の友だち ブニュエルとセリーヌ
04 犬、人を襲う 鏡花、多喜二、ギャリ
05 四つん這いになる ドヌーヴと金石範
06 犬婿入り 『後漢書』と馬琴
07 冥府より来りて グラス
08 犬を人間にできるか ステープルドンとブルガーコフ
09 犬をどう名付けるか
10 密談ピカレスク セルバンテスとホフマン
11 犬族から遠く離れて パニッツァとカフカ
12 東西名犬対決 『タンタン』と『のらくろ』
13 復員兵という名の野良犬 吉岡実と北村太郎
14 犬の眼でモノを見る ジョイス、原將人、岡部道男、森山大道
15 文学的ジャンルとしての、犬の追悼
16 犬は人なり 谷崎純一郎と川端康成
17 愛犬と闘犬 江藤淳と川上宗薫
18 法(ダールマ)としての犬
あとがき
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トパーズ

2015-10-21 20:17:37 | 読んだ本
村上龍 1988年 角川書店
あるだけ読み返してる村上龍の小説。
1998年10月5日発行だけど、私の持ってるのは同年11月5日で既に4版を重ねている、けっこうすごいね。
短編小説集っていうか、連作って言ったがいいんだろうか、登場人物は同じかどうかよくわかんないけど、それぞれの話に直接のつながりはなさそうだけど、まあ似たような雰囲気でできている物語の集まり。
主人公になるのは女性で、“ママさん”に命じられて仕事することになるホテルの部屋へ派遣されて、バッグに入ってる道具がそこらへんへブチまけちゃったら恥ずかしくなる代物で、プレイの最中には「お前にはもう人格はないんだ」とか言われて、無理やりいろんな言葉を口に出して言うことを強要されたりして、あとはとにかくネバネバ・ベトベトって、そういう感じのお仕事をする、うら若き女性たちの語る物語。
文体がね、たぶんこれ用に開発したんだと思うんだけど、たとえば、
>あなたもねとあたしは言ってあたしは泣きながらタクシーに乗りそのタクシーの運転手があたしの曲がった鼻を見てボクシングでもやってたんですかと聞いたので口論になりあたしは座席から身を乗り出して運転手の首をしめて車は左へ滑り不忍通りのガードレールをこすって駐車中のトラックに衝突し運転手は頭を割ってあたしは左側頭部を打ち右の眼球が左に寄ってしまった。(「鼻の曲がった女」p.62)
みたいな感じのばっかで、これでも短いほうの文なんだけど、句読点とかなしで、たぶん若い女性の思考の流れのままにって意図だと思うけど、長々と情景とか感情とかを続けて書きつけてくスタイルが、だんだんとエスカレートしてく一方で、書いてく側は面白いだろって思ってんだろうけど、私にはちょっとツイていけないというか、辟易しちゃうようなとこがある。
まあ、そういう手法もありかと思うけど、桃尻語訳とか(←実際にぜんぶ読んだことないけど)に比べたら、そんなに成功してる感じはしない、私には。
うーん、ひさしぶりに読み返したけど、コインロッカー・ベイビーズで衝撃受けて、愛と幻想のファシズムで突き動かされて、ずっと追っかけるように読んでったけど、このへんでヤーメたってなったのかもしれない、私にとっての村上龍って。その後ちょっと離れてったもんな、たぶん。
収録作のタイトルはつぎのとおり。
「トパーズ」
「公園」
「受話器」
「鼻の曲がった女」
「紋白蝶」
「ペンライト」
「子守り歌」
「サムデイ」
「OFF」
「イルカ」
「卵」
「バス」
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