many books 参考文献

好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

ブッカーKが見た激動の時代

2018-03-31 18:13:15 | 読んだ本
川崎浩市 2017年 双葉社
(※著者の姓の「さき」の字はホントは「﨑」だけど環境依存文字なので)
副題は「UWF、そしてPRIDEの崩壊」、“プロレス激活字シリーズ”とやらのvol4らしいけど、ほかの3冊は知らない。
私は『証言UWFの真実』なんかといっしょに去年の暮れに買った、表紙帯の高田対ヒクソンの写真が気に入ったもので。
著者の肩書は、元プロレス・格闘技ブッカー、というものだそうで、有名なひとらしいが私はそういう方面の報道には触れずに試合見ることしかしないタイプだったので知らなかった。ヴァンダレイ・シウバとか扱ってたらしいけど。
もとは福岡で大学卒業したあとサラリーマンになって数か月経ったとこで、UWFの興行の手伝いでポスター貼りとかしたら、誘われてUWFの社員になったんだと。
で、UWFは前田とフロントが対立して、前田についてかない若手がいて、解散しちゃって、ってとこは前に本で読んだばっかりなんだけど、それで著者は3つに分裂したうちの藤原組に行ったと。
藤原組でもいろいろあったけど、一年半で辞めることになって、そのあとはリングスへ。
リングスにいるうちに、アメリカぢゃあUFCが盛り上がってきて、ブラジルのファイターをつかってのヴァーリ・トゥード路線に行きたいがリングスはそっち行こうとしないので、辞めることになる。で、そのあとはフリーで活躍。
新しくて小さめの組織渡り歩いたからかもしれないが、90年代のプロレス興行って、けっこう手作り感満載だったんだなという感じがする。
大きな会場の座席配置図を自分たちでつくったり、チケット夜通し手作業で数えたり、ポスター貼ってまわったり、ひとつの興行終わると次の場所に先乗りして滞在して一人で全部やるような御苦労があったらしい。
ただ、格闘技ばなしとしては、やっぱ選手が語る形式のほうが私にはおもしろいのかなという気はした。
だから、裏方が中心の本書にしても、たとえばUWFの人気ある時代に、チケット買うためプレイガイドに徹夜で並んでるファンのとこに、前田と山崎と高田を連れてって缶コーヒーを差し入れした、とかって話のほうが私は好きである。
特に、自宅にいなくて、昔だから携帯もなくて、つかまんない高田を探して、行ってそうな店に片っ端から電話して探しあて、それで既に泥酔状態の高田を連れてったらハイテンションでファンと交流した、なんてのは笑う。
あと、藤原組のとき、選手とフロントのあいだにどうも溝があるんだけど、遠征先で鈴木みのるに「仲間なら落ちてください」って言われて、関係がうまくいくように、船木のスリーパーホールドで落とされたとか、そういう人種のプロレスラーが好きなんだろうな、私は。
それに比べると、興行の舞台裏でいろいろ動いてるひとたちのなかには、なんだか信用できない怪人物がけっこういるみたいに思える。
各章のタイトルは以下のとおりだが、なんだかネガティブな言葉が多いのもそのためか。
第1章 新生UWFの顛末
第2章 藤原組という選択
第3章 リングスとの別離
第4章 PRIDEの終焉
第5章 格闘技バブルの崩壊
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深読み日本文学

2018-03-25 17:46:50 | 読んだ本
島田雅彦 2017年 集英社インターナショナル新書
1月下旬に書店で見かけて買った、著者の小説は好きなんだけど、文学について何語るんだろうって、ちょっと気になったもんで。
源氏物語から始まって、西鶴、近松、そして漱石と文学史としてたどってくるんだが、樋口一葉を高く評価してるとこが、読んだことない私には勉強になった。
で、文学史もけっこうなんだけど、現在の実社会において文学は重要な役割があるということを熱く語ってるのがいい。
>人文社会科学とは、人類が歩んできた歴史全般を扱う学問です。ゆえに、人文社会科学の教養のない人間が政治家になると、歴史認識において大きな躓きを招いてしまいます。(p.8-9)
と冒頭から人文系の教養の欠如に警鐘をならして、なかみのないフレーズをふりまわす政治家なんかを批判してる。
政治だけぢゃなくて経済についても、金銭関係で人間関係がどういうことになってしまうかとか分析するのが文学であって、
>文学は最も下世話な経済学だと言えます。逆に文学を知らない経済学者は単に理論に忠実なだけで、確実に経済の実態を見誤るでしょうから、そういう人の勧める株は買わないに越したことはありません。(p.83)
と文学の意義を主張して、そういう教養のない経済の専門家をけん制してる。
どうも、正しい言葉の使えない昨今の政治家とか官僚なんかに対するいらだちがかなりあるようで、戦後の文学の解説においても、
>政治、経済、国家を大上段に構えて論じる「大説」が嘘で固めた妄言に過ぎないことがわかったとき、人々は生活実感の中から立ち上がる「小説」の方を信用するようになりました。(略)戦後七二年が経過し、戦争の記憶が風化してくるのと引き換えに登場した愚かな施政者たちが無責任かつ幼稚な妄言を繰り返していますが(略)(p.161)
とか、
>公務員とは今も昔も、公を最も私物化できる立場の人たちです。戦争に負けたから、モラルが低下したのではありません。戦争遂行者のモラルが低かったから、戦争に負けたのです。(p.167)
なんて攻撃してる。
人間とは何か、ということに答えを出すのが文学だっていう自負がとてもいい。
現代文学については、多様性が広がってるのはいいことだとしながらも、
>文学をはじめとする文化は、多様性を喪失すると急速に活力を落とします。(略)
>多様性の確保のために必要なのは、歴史に学ぶ姿勢です。
と、やっぱ保守の思想を唱えてるんで、あれ、このひとサヨクぢゃなかったんだ、なんて、ちょっと面白く思ったりもした。
序章 文学とはどのような営みなのか
第一章 色好みの日本人
第二章 ヘタレの愉楽―江戸文学再評価
第三章 恐るべき漱石
第四章 俗語革命―一葉と民主化
第五章 エロス全開―スケベの栄光
第六章 人類の麻疹―ナショナリズムいろいろ
第七章 ボロ負けのあとで―戦中、戦後はどのように描かれたか
第八章 小説と場所―遊歩者たちの目
第九章 現代文学の背景―世代、経済、階級
第一〇章 テクノロジーと文学―人工知能に負けない小説
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愛と狂瀾のメリークリスマス

2018-03-21 17:50:10 | 堀井憲一郎
堀井憲一郎 2017年 講談社現代新書
私の好きなライター、ホリイ氏の新しい著作。
ちゃんとクリスマス前の10月に出版されてたようだが、1月になってから買った、知らなかったもんで、すいません。
えー、でも、クリスマス? さんざやったじゃん、あれでしょ、アンアンだかノンノだかが仕掛けたという、まさか焼き直し?
と思ったら、全然ちがった、サブタイトルの「なぜ異教徒の祭典が日本化したのか」に従い深い考察がされてる、大マジメな新機軸。
なんせキリスト教伝来の戦国時代までさかのぼって、当時クリスマスはどんなだったかなんてことまで文献調べてるんだから、まったく日本史。
戦国時代の文献がそんなあるわけはないんだが、近代に入ると、東京朝日新聞の1888年(明治21年)からこのかた12月1日から31日までの紙面をぜんぶ見て、記事でクリスマスがどう報じられてるか、広告でどんな扱いになってるかを調べてる。
あいかわらず、すごいひとだ。
で、広告に初めて「サンタクロース」の文字が出た1906年(明治39年)から、日本ではクリスマスがはしゃいでもいい日になったという。
理由は、ロシアに戦争で勝ったから。このへんが、日本とキリスト教の関係にからんでる。
それから、昭和に入って、以前はそれでも子供向け要素の多かったクリスマスに、大人たちが遊ぶようになったのは、12月25日が大正天皇祭(崩御された日)で祭日になったことも理由のひとつ、ってのは全く知らなかった。
この昭和初期のころについて、なんか暗い時代であった、みたいに思われてるのはまちがいで、「暗かった戦前」というのは1937年(昭和12年)から始まる、っていうのも、学校の授業ぢゃ教えてくれなくて、当時の資料を実際にあたってみた人にしか言えないことだ。
ここにひとつのテーマがあって、1928年(昭和3年)から1936年(昭和11年)にかけてクリスマスの大騒ぎというのが実際にあって、それは1948年(昭和23年)から1957年(昭和32年)までに起きた戦後の狂瀾クリスマスと同じ、つながっているものだという。
そういう戦前と戦後でつながりがあるってことが語られないのは、戦争は間違っていたという圧倒的な世の意見のせい。敗戦によるリセットで、新しくて楽しい社会になった、みたいな思い込みが戦後生まれの人にはどうしても押しつけられちゃう。
そのあとの昭和は、高度成長とかオイルショックとかいろいろあって、で、いよいよ1983年にアンアンのクリスマス特集で女性主導のクリスマスが始まる。
このアンアンの宣言について「治承四年の以仁王の令旨のようなものだ(p.215)」ってたとえてるのには、爆笑してしまった。
で、そのあとの時代の観察も続いて、派手なクリスマスが消えるのが2003年、クリスマスは恋人と過ごそうという記事が消えたのは2009年だという。
でも、明治大正からクリスマスにまつわる日本の歴史をみてきたひとは、今は沈静期だけどまた大騒ぎする時がくるんぢゃないかと予想するわけで。
>クリスマスで騒がなくなったのは、社会が成熟したわけではない(うちの社会は何があっても成熟しない社会だと私はおもう)。社会が平穏なのだ。「まもなく緊張が高まりそう」と変動を予感したときに、われわれの社会はクリスマスで大騒ぎする。(p.235)
ってのは卓見だと思う。私としては括弧内の一文がツボにきたけど。
クリスマスに代わって2009年くらいから騒ぎが始まったのがハロウィンだという。
そうやって外国のものを取り入れて、祭りとして騒ぐだけにするのは、外から来たものだから捨てようと思えばいつでも捨てられるからだと。
西洋文化の祭りのイメージだけをとりいれて独自に騒ぐ、西洋文化を受け容れているポーズだけはとるんだが、そこが肝心なとこなんだと。
キリスト教の本質的なものは国内に持ちこませないが、わかったふりはしようというのが、明治のころ急に諸外国とつきあわなければならなくなった日本のとった態度でその後の伝統。
>宗教部分を抜いた“文化としてのキリスト教”をうまく取り入れるようにしよう。どこにも明文化せず、言葉にせず、瞬時にそうすることに決められた。言葉を交わさずにそういう国民的合意が成り立つところが、この国の強みであり、海外から見たときの不気味さにつながっている。(p.82)
っていう明治初期からの日本人の特質はなんも変わってないと思う。
コンテンツは以下のとおり。
序 火あぶりにされたサンタクロース
1章 なぜ12月25日になったのか
2章 戦国日本のまじめなクリスマス
3章 隠れた人と流された人の江戸クリスマス
4章 明治新政府はキリスト教を許さない
5章 “他者の物珍しい祭り”だった明治前期
6章 クリスマス馬鹿騒ぎは1906年から始まった
7章 どんどん華やかになってゆく大正年間
8章 クリスマスイブを踊り抜く昭和初期
9章 戦時下の日本人はクリスマスをどう過ごしたか
10章 敗戦国日本は、狂瀾する
11章 戦前の騒ぎを語らぬふしぎ
12章 高度成長期の男たちは、家に帰っていった
13章 1970年代、鎮まる男、跳ねる女
14章 恋する男は「ロマンチック」を強いられる
15章 ロマンチック戦線から離脱する若者たち
終章 日本とキリスト教はそれぞれを侵さない
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休日の午前中に免許更新しにいく

2018-03-18 18:25:30 | Weblog
5年ぶりの運転免許更新、忘れてはいなかったけど、ハガキがやってきた。
こーゆー、どーせやることは、やれるうちに早くやったほうがいいと思ったので、期限まで余裕があるけど、ひまなうちにさっさと済ませることにした。
検討の結果、ひさしぶりに、電車乗り継いで、運転免許試験場まで行くことにした。
っていうのは、歩いて行ける範囲の警察署で手続きすることも可能で、実際前回はそうしたんだが、なんせ私のほうの休日が平日ぢゃなくなっちゃったんで、休みとるほどのことでもないし、しかたない。
過去3回は住んでる場所の警察署でやってるし、しかも北海道とか東京とか場所もちがってたんで、かつて10代だったときに免許試験受けた場所に行くのはホントひさしぶり。
実は私にとっては地元と言うに近いところだったんだけど、駅周辺とかすごく変わってて、おどろいた。基本的な道幅とかむかしのまんまだけど。
朝は8:30から受付っていうんだけど、朝イチって絶対開門前から並んでるひといて、かえって待たされるような気がしたんで、すこしだけ遅く行ってみた。
日曜は、ふつうの免許試験はやってないっぽい、更新だけみたいなんだけど、やっぱ人多い。みなさん日曜しか時間ないのね。
更新って誕生日のひとの多い月がいちばん混むのかな、いまの日本人は10月生まれがいちばん多いって聞いたのはだいぶ前(もっと前は1月生まれが多かった)だけど、変わってないのかなとか、役に立たないことなど考えながら並んでたりする。
それでもなんでも受付窓口を増やして対応してくれているのはありがたい。
ややこしそうな書類を代書屋さんでつくるようなこともなくて、立って待ってるだけで目の前で免許証コピーして申請書わたしてくれる。
おもてに名前と生年月日とか書いたら、裏の質問票に、病気で意識失ったことないかとか、アルコールびたりぢゃないかとか、すごい質問書いてあるので、正直に答える。
それから視力の検査、年々ちょっとずつ不安になるんだけど、まあふつうに見えたので無事通過。15年前だったかな、けっこう見えにくくて焦った記憶がある。
それから手数料と講習料込の証紙買う。この順番、大事、手数料払ってから視力で引っ掛かって出直しになったらどうすんだろとか思ってたんだが。
で、また行列つくって申請書の確認をしたら、写真撮る。このためだけに、休みというのに、ヒゲ剃って、ネクタイしてきた。
写真撮る前に、暗証番号のバーコード読み込んだりして、何をやってるのかまったくわからないんだけど、いろんなことが進化していくなあ。
そしたら、講習会の教室に行けというので、通路に引いてある案内の線を頼りに移動してく。
ここまで施設到着から40分くらいかなあ、まあこんなもんか、おそれてたより早く終わりそうかも、と固いイスと机の席につくと、次の講習開始は30分後だという。
さっきまで行列のあっちとこっちで進みが早いか遅いかなんてジリジリしてたのが意味なくなる30分のインターバル、やれやれ、文庫本もってきといてよかったと思いつつ、休憩。
講習の前に人数カウントして、まちがった部屋にいる人を探し出したりする、今回の定員はぴったり200人なのだそうだ。
30分の講習の前半の15分は映画。しかし、なんだね、ドライブレコーダーの普及のおかげで、ずいぶんとリアルな事故映像あるね。
後半は最新の道路交通法の変わったとこなど。2014年にできた信号のない環状交差点ってのは、県内まだ三箇所しかなくて、今後増えても十箇所くらいの予定だとか。
終わったら、できあがってる免許が部屋に持ってこられて、名前呼ばれたら前に出てって受け取って、そのまま退場。
聞いてると、呼ばれるのは名前順でも、地域順でもないし、ランダムっぽい。200番目だったらツイてないなーと、カウントしながら待ってたら、たぶん36番目だった、わりと早いほう。
以上、全部で2時間弱。まあ、このくらいで済めばよしとしたものでしょう。休日の半日はたっぷりと残されたし。
(しまった、周辺の写真撮ってくればよかった。なつかしい街並だったし。)
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熊を夢見る

2018-03-17 18:51:56 | 中沢新一
中沢新一 2017年 角川書店
去年11月だったかな、買ったの、最近やっと読んだ。読んだらとてもおもしろかった、早く読めばよかった、って近ごろこのパターン多いな。
タイトルに熊がついてるけど、カイエ・ソバージュ読んだばかりの私としては、お、熊、「熊から王へ」、人に贈りものをもたらしてくれる熊、対称性人類学だなと、ピピっときたので、見てすぐ買った。
予想どおりである。いきなり序文で、
>したがって「熊を夢見る」とは、旧石器時代以来のとてつもなく古い人類の思想を表現した言葉である。(略)
>「熊を夢見る」ことができるうちは、人類の心はまだ健全さを保っていると思える。
と来たもんだ。
対称性ってのは、人間と動物とは違うものみたいに考えないことで、なにもかも共通の世界に存在してて互いに行ったり来たりできるような関係なんであるみたいな感じ。
>対称性の思考は、ものごとを分離するのではなく、つながりをつくりだし、全体のつながりの中にものごとを包みこみながら思考する。(略)
>「私」は「私」という個性であると同時に、ヤムイモであり、オポッサムであり、岩であり、宇宙をつくりあげている「すべてのもの」である、というオーストラリア先住民の考え方は、こうした心的構造から生まれてくる。(p.112-113「対称性の思考としてのアニミズム」)
だなんて、とても美しくて魅力的なものの考え方だと思う。
>これにたいして現代人に大きな影響をもっている科学的思考では、自然を人間から分離して、客観的な対象物としてとらえる「非対称性の思考」を発達させているので、地震のような自然の現象と人間的な世界の現象とを、別々に考える習慣がついてしまっている。そのために、自然に起こった出来事とそれがために人間に引き起こされた出来事を、一つの統一的な視点から思考するということができずに、自然のことは自然のこと、人間のことは人間の問題として、分離して処理される傾向が強い。(p.134-135「プレート上の神話的思考」)
って言ってるところでは、地震などの災害の後で、それまでに築いた富を失った人がいる一方で、復興がらみでにわか成金が出てくるように、社会に大規模な資本の流動化が発生するようなことを、人間の世界の経済も自然の一部として含まれているものだという統一的な視点で考えようという例が示されている。
いいなあ、対称性の思考、去年出会ったなかでいちばん刺激的なものの見方だ。
似たようなもので、アナロジーという方法も紹介されている。
>アナロジーは事物を分離する「別化性能」よりも、異なる事物に共通性を見出す「類化性能」によって、世界を分類する思考方法である。外見が異なってても、深層に似ているところがあれば、アナロジーはそこに「同じもの」がある、と認識するのである。(p.184-185)
ってことで、さらに、
>近代的な思考では、別化性能を用いて分離した物事の間に、論理的な「因果関係」を見出すことが、本質に迫る唯一の方法であると、たいした根拠もないのにそう思い込まれている。(略)現実の世界を生み出すおおもとの潜在空間において、力や事物がどのように結び合っているかを、近代が重視するこの方法では、あきらかにすることができない。(p.188「禅竹」)
と非対称性な、科学的な、近代的な思考をズタッとやっつけてるのが気持ちいい。
そこで大事なのは、直感だったりする、いいなあ、そういうの、私も長年の勉強やら宮仕えやらで失ってしまったと思えるそういうの、取り戻したい。
コンテンツは以下のとおり。
・序 熊を夢見る
・私の収穫
・空間のポエティクス
・サーカス/動物
 ・堂々たる「貧」―ジンガロ『バトゥータ』
 ・猿まわしの哲学のために
 ・人は熊を夢見る
 ・クマよりもたらされしもの―根源をたどる足跡をめぐって
・対称性の思考としてのアニミズム
・神話と構造
 ・「ふゆまつり」の神々
 ・プレート上の神話的思考―コルネリウス・アウエハント『鯰絵』
・東京どんぶらこ
 ・お金のかからない高級さ―世田谷区山下
 ・けなげな町―世田谷区代田橋
 ・異界との境界地帯―新宿区四谷三丁目
・日本の芸能
 ・菩薩としての遊女
 ・禅竹―中世的思考の花
 ・離脱の芸術
 ・吉本の考古学
・書物のオデッセイ
 ・原点の一冊―山中共古『甲斐の落葉』
 ・小さな、過激な本―柳田國男『遠野物語』
 ・網野さんがくれた本―石母田正・武者小路穣『物語による日本の歴史』
 ・寺山修司の詩的限界革命―『寺山修司著作集』
 ・山国の詩的人生
 ・ダンテのトポロジー
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