今シーズンの横浜スタジアムは、なんかっつーと工事をしてて、とても気になってはいたんだが。
外から見ると、こんな感じで、場違いのような気さえする、ドでかいスタンドが付け足されてる。
(今ふと思ったんだが、むかーしの後楽園球場にこんな感じのがあったような気がする。)
聞くところによると、来年2020年のオリンピックで野球をここでやるらしく、従来3万人がやっとだった入場者を、もっと入るようにしたいらしい。
この面積ぢゃあこれよか大きいスタンドは建てられないらしいんだが、そこをゴーインに建てることにしたらしい、しかし前から傾斜きつくて狭い観客席なのに、さらにきつく見える、危なくないのかね、やだね身を乗り出したら転がり落ちそうで。
この外野席は、べつに魅力はないんだけど、まあどんな感じなのか中入ってみたいとは思ってたんだが、とうとうプロ野球シーズン中は行かなかった。
最近、いつ行っても混んでるしね、ベイスターズ主催試合。個人的には、野球なのか、試合後のイベントのほうがやりたいのかよくわかんないようなときもあるし、あまり好きになれないってこともあるんで。
そんで、とおりがかったとき見たら、今週は関東地区大学野球選手権大会ってのをやってる、なんか内容はよく知らんが、見物としては手ごろそうな気がした。
きのう調べたら、本日は準決勝だというので、観に行くことにした。
朝の天気予報で、「なにをするにも快適な陽気です」って言ってくれてたしね。
第一試合は10時半開始なんで、その直前に入った。全自由席なんで、バックネット裏の適当なとこ座る、どこでも空いてるし。
外から見たら異様にそびえたってたライトスタンドの張り出しは、↑のような感じだった。地震あったら怖そうだけどね。
レフト側は、いま現在まさに工事中。
市役所の建物より高いような感じがする。
これは球場のなかから見ると、↓のような進捗状況になってる。
この席から、試合中にジェット風船飛ばすと、風向きによれば、JR根岸線の架線に引っかからないとも限らないから、たぶん禁止だな。
外から見ると、センターのスコアボードの裏も、なにやら工事中。
穴開いてて、クレーンが一所懸命働いてたりする。
これを内側から見たら、試合中でも、なんか人がそこで働いてた。
早く作んないとオリンピックに間に合わないんだろう。
(できあがってからIOCに、どっかよその場所に会場変更されないことを祈る。)
スタンドの具合を見物できたら、本日の目的はほぼ達成なんだが。
さてさて、試合はというと、三塁側・先攻・東海大と一塁側・後攻・上武大の一戦、残念だが知ってる選手など私にはいるわけもなく。
ぼーっと見てるとよくないので、スコアつけながら観ることにした、スコアブックなんか持ってないから適当なノートだけど。
緊張感もつために、1イニングごとに投球数も数えて書いておいたさ、ちゃんとストライク・ボールつける、球種とかつけないけど、ファールの方向とかつけないけど。
それでも、5回くらいで飽きかけてしまった、そこまで約1時間。
野球ってのは、やっぱどっちかを応援しながら観たほうがいいね。
というわけで、便宜上、東海大のほうを、そっとではあるが、応援することにした。まあ、そこは神奈川県だから。
東海大の応援は、ときどき一人がソロでボーカルをとったりするのがおもしろかった。
毎回ヒットが出て、押してるようなんだが、ダブルプレーとか、二塁からヒットで本塁突いたら好返球でアウトになったりとかで、なかなか点が入らない。
真剣に応援してたらストレスたまる展開だが、そこは適当に見てるのでだいじょうぶ、それよりスコアのほうに真剣になったりする。
それでも7回にはヒット3本重ねて3点を取り、ようやく形勢が大きく動いた。
上武大は一番と四番をのぞいてあとは左打者って並びなんだが、なかなか打てない。
こっちの応援は、声がでかい、そんなに人数いるわけでもないが感心するくらい大きな声を出す。
私のカンでは控えの野球部員が中心とみたがどうだろう、なんか出場選手への呼びかけがそんな感じする。
試合は、東海大が8回にも3点取り、そのリードで逃げ切った、7回と9回に上武大は1点ずつ取ったが及ばず。
でも、9回裏の上武大は代打陣が3連続ヒットなんてことして、上位打線にまわって4点差で二死満塁ってとこまで追いかけた。
あとひとり出て三番バッターまでまわってたら、どうなったかわからないけど、そこまで。
最後打ち取られたバッターは泣き崩れてたな。あれで、大きな試合だったんだとわかった。勝てば神宮大会、そこ重要だったんだ。
あと五番手で八回二死から登板した加藤クンというピッチャーは、1球投げるごとにウリャーって感じで叫ぶ、若いなと思ったが、最後150キロ三連発したのには驚いた。
よく予備知識もなしに、ひさしぶりに野球を観たら、なんか不思議な感じした。
まず、DH制なんだね、大学野球。そういうもんなんだ。
あと、ときどき守備のときにタイムとってマウンド行くのは監督だと思うんだけど、背番号が50なんだね。
私の認識では監督の背番号って30なんだけど、そういや30とか36とか30番台の選手がいたし、もしかして登録選手の数って多いのかな。
それから、近頃はテレビでプロ野球もろくに観てないんでわからないんだが、ときどき投球間隔が長くなると、二塁塁審がタイムとってピッチャーになんか注意するんだ、いまって。
それによってボールカウント増えたりはしてなかったけど、そこで主審は守備側のベンチになにか注意してたし、そういうの厳しくなってんだね、きっと。
それでも、試合は終盤戦に動きが多かったんで、終わってみれば13時半まわってた。
ひゃー、3時間もすわってた。最初、直射日光なくてラクだなと思ってたんだけど、終わるころにはちょっと寒いなって感じさえした。
それでもなんでもいいな、たまには、野球観戦。
去年も行った、神保町の古本街の古本まつりが今年もやってるっていうんで、行くことにした。
昨日の雨も朝にはキレイにあがってて、どっか霧が出てるとこもあったらしいが私はそんな朝早くは関係ないし、気候もよさそうなので出かけることにした。
土日に行くことも考えたんだが、平日のほうが人が少なくてよいだろうと。いい本が出てるかどうかは知らんが。
ふつうの店舗だけぢゃなく、みんな路上に出店を出すんで、あの通り中が、ずっとこんな感じ。
ヘンなもんで、これだけあると、古本に足を止めない通常の通行人のほうが邪魔者なんぢゃないかという錯覚にさえおちいる。
しかし、去年買った本も未消化なのに、どうすんだ、これ以上本買って、と我ながら思うんだが。
特に本日は、目立った収穫もなし、大量に荷物抱えることにもならなかった。
まあ、これといって探す目当てのものもなしに行ってんだから、しょうがないというか、あまりいい態度とも言えないけど。
でも、ねえ、そういうとこ歩くのが好きだったりするんで、しょうがない。
↑この一歩入った通りの雰囲気なんかは大好きだ。
ああ、ああ、ずっとここさまよっていたい、って気分になる。
町山智浩 2014年 講談社文庫版
これは地元の古本屋の均一棚で最近見つけたもの。
町山さんのアメリカリポートだけど、いままで何冊か読んだ「言霊USA」シリーズとは出どこが違うらしい。
月刊「クーリエ・ジャポン」で2010年から2012年に連載した「USニュースの番犬」というのが初出だそうで。
なので時代は、オバマ政権の1期目のこと、ブッシュが赤字だらけとかムチャクチャにしちゃったのをいろいろ変えようとしてたころ。
なにが「99%対1%」かというと、「上位1%の富裕層が国全体の富の40%を独占する」のが当時のアメリカだから、その1%のひとたちがカネにものいわせて政治を好きなようにしちゃおうとしてると。
>オバマは医療保険改革、環境汚染やCO2規制、金融規制、石油業界への税制優遇中止案、それに富裕層への増税案によって、保険業界、化学業界、金融業界、石油業界、そして富裕層全員を敵に回している(略)(p.253)
という状況で、アメリカの最高裁は、2010年に企業にも政治活動の自由を認めるという判断をくだしたんで、大企業は莫大な政治資金をつぎこむようになった、それが「スーパーPAC」っていうんだが、現代政治の勉強としてすごく役立つ情報だな、これ。
ロビー活動ってだけぢゃなくて、アメリカの有権者はCM観て投票行動決めることが多いので、選挙にも影響を及ぼしてるとか、企業の投ずる政治資金が。
それと、2010年から急に勢力をのしてきたティーパーティー活動の実態も詳しく書かれてるんで、それも勉強になる。
イギリスから独立するしたときと同じティーパーティーって名前を掲げて、なんか自由を求める草の根運動っぽく見せかけてるが、実態は大企業のカネでつくられた富裕層への増税反対の集まりだと。
社会保障などの福祉削減と、規制の撤廃をすすめて、富の再分配には大反対するっていうこの政治思想、そのおおもとに1905年生まれのアイン・ランドって作家の小説があるってのは初めて知った。
私はもちろん読んだこともないんだけど、自分の幸福を追求することが善で、他人への共感がまったく持てないって人格を肯定するような思想を、
>他人への共感の完全な欠如は、精神医学上、サイコパスの特徴である。(略)
>サイコパス的な思想がティーパーティーを、いや、現在の共和党を動かしていると考えるとぞっとする。(p.212)
って町山さんは危惧している。
しかし、憲法に国が国民の健康を保障するみたいな項目がないから、公的な医療保険制度はなし、自由に民間の保険会社を使いなさいって国は、やっぱちょっと普通ではない気がする、私はとくに自分がリベラルだとは思ってないけど、日本で生まれ育ったからかな。
あと、極右的なメディアの言いたい放題のさまはこれまでの著作でも読んできたけど、本書でも、FOXニュースがあいかわらず、気に入らない大統領をイスラムだとか社会主義者だとかレッテルを貼ろうとすることに、
>核安全保障サミットの件でわかるように、FOXは自分では取材しない。調査報道もないからスクープもない。すべて伝聞の二次情報だけ。(p.91)
ってバサッと言ってる。そんな報道見て、戦争を支持しちゃう有権者が多いんだから、おっかないよなー。
丸谷才一 一九六六年 晶文社
これは去年11月に神田古本まつりのどこかで見つけたもの。
ことしは行けるかなー、神保町。ヒマはあるけど、なんか出かけてくパワーみたいなものが落ちてるし。
と思って、いま「日本の古本屋」で調べたら、きのうから始まってるぢゃないか、11月4日までだって、行かなくちゃ。
で、この本は、評論集って銘打たれててカタそうだし、なんせ箱に入ってると気軽に手が伸びないしで、ずっと放っておいたんだが、最近やっと読んだ。
いくつかはどっか他の文庫に再録されてたのを読んだような気がする、最初の「未来の日本語のために」とか。
そのなかで、小学生にローマ字教育なんかしなくていいって丸谷さんは言ってんだけど、それは1964年の話で、いまぢゃキーボード入力するためには、やっぱ教えとかないといけないのかなって気がしないでもない。
全体的に、近代の日本文学について、私小説とかそういう方向にいっちゃったことを批判している、といっていいんぢゃないかと思う。
「暗くてみじめで貧しくて深刻なこと」(p.39)が価値があるかのように、そういったこと書くのこそが文学だ、ってのは片寄ってるよと。
だから、ユーモアとかロマンとかがありゃしないんだ、日本のいわゆる純文学ってやつには、真面目ぶってればいいってもんぢゃないよと。
それが、
>明治文明はヨーロッパ文明の十八世紀以前を切り離して十九世紀だけを学んだ。そして近代日本文明はその基盤の上に築かれた。文学の不幸は、文明全体のこのような不幸の、文学という一部門、一領域におけるあらわれにすぎないのである。(p.40)
って日本の文明のありかたに問題の所在をもとめちゃうのは、なかなか大きな話だ。
べつのとこでは、
>しかし彼はまた知っている。小説とはもともと無限定的な形式であり、純粋化を嫌う形式なのだということを。小説とはもともと、F・M・フォースターが嘆息しながら言うように、面白いお話なのだということを。そして、小説が芸術作品として磨かれすぎるとき、それは本来的な魅力を失い、素朴で荒ら荒らしい生命力の欠けたものになってしまう危険があるということを。(p.255)
と言ってて、ここの「彼」というのはグレアム・グリーンのことなんだけど、小説とはおもしろくあるべきと説いてくれてる。
これ読んでて思い出したんだけど、『挨拶はたいへんだ』のなかで、村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』谷崎賞贈呈式での選考委員祝辞で、
>たしかにこの長篇小説は現代日本小説の約束事にそむいてゐます。
>第一に、主人公はすなはち作者自身である……らしいといふ錯覚を与へない。(略)第二に、このことでもわかるやうに、これはSF仕立てであつて、明治末年以後、約八十年にわたつてつづいて来た、小説は生の現実に密着しなければならないといふ風習に逆らつてゐます。そして第三に、汚したり、読者に不快感を与へたりすることが文学的勘どころになるといふ、これも約八十年つづいた趣味を捨ててゐます。(『合本挨拶はたいへんだ』p.248-249「この抒情的な建築」)
って、その冒険的ともいえる日本文学伝統への反逆を紹介して、絶賛している。
リアルぢゃなきゃいけないなんて決まりはない、そこを認めることは純文学にとって大事なことだと思わされますね、たしかに。
コンテンツは以下のとおり。
I 文明
未来の日本語のために
津田左右吉に逆らって
日本文学のなかの世界文学
実生活とは何か、実感とは何か
II 日本
舟のかよひ路
家隆伝説
吉野山はいずくぞ
鬼貫
空想家と小説
菊池寛の亡霊が
梶井基次郎についての覚え書
小説とユーモア
III 西欧
「嵐が丘」とその付近
サロメと三つの顔
ブラウン神父の周辺
若いダイダロスの悩み
西の国の伊達男たち
エンターテインメントとは何か
グレアム・グリーンの文体
父のいない家族
四方田犬彦 二〇一九年七月 ちくま文庫版
副題は、「李小龍(レイシウルン)の栄光と孤独」。
ちなみにレイシウルンというのは粤(えつ)語で、北京官話とはちがうんだそうだけど、とにかくこの粤語ってボキャブラリーは本書にたくさん出てくるんで、広東語のことだと理解しないと読みにくい。
最近になって、ブルース・リーってのはすごいんだ、「燃えよドラゴン」がなかったら世界における香港映画というかアジア映画のいまはないんだ、みたいな論評に複数個所で触れたもんだから、気になってたところに、この文庫が出たんで、読んでみることにした。
もちろん、私はブルース・リーについては、アチョーってキックやパンチを繰り出す何本かの映画を観たことでしか知らないんで、まずは彼はアメリカ公演とかしてた粤劇の名優を父にもち、それで赤ん坊のころから子役としてたくさんの映画に出てたってことにおどろかされた。
十代では、街で喧嘩ばかりしてたってのは、なんとなく想像つかないでもないが、チャチャチャが好きで踊るのが上手ってのはちょっと意外。
で、誰もが知ってる、私でも知ってる、主演映画ってのは四本。
1971年 『唐山大兄』 The Big Boss 『ドラゴン危機一発』
1972年 『精武門』 Fist of Fury 『ドラゴン怒りの鉄拳』
1972年 『猛龍過江』 The Way of the Dragon 『ドラゴンへの道』
1973年 『龍争虎鬥』 Enter the Dragon 『燃えよドラゴン』
あと、他人が原案とはまったく異なる形でつくっちゃった、1978年『死亡遊戯』Game of Death ってのもあるわけだが、これについては
>この作品が李小龍のフィルモグラフィのなかで、最後の十数分を除いてほとんど意味も価値ももっていない(略)(p.320「李小龍の行動様式」)
とケチョンケチョン。
やっぱ子役時代のことなんかよりは、主演作品についての解説にしか私なんかは関心がないわけだが、
>『唐山大兄』の功夫場面から窺い知ることができるのは、韓英傑と李小龍のコレオグラフをめぐる熾烈な覇権争いが、場面場面においてなされてきたことの痕跡である。京劇出身で、ときにアクロバットをも辞さず、優雅な舞いを披露したり短いショットを巧みに編集して、観客に驚異を体験させようとする韓英傑に対して、李小龍はどこまでも、実際の武道家として長回しに拘泥し、現実に生起するアクションの身体的現前をそのまま映像として記録することにより関心をもっていた。(p.218「『唐山大兄』――移民労働者」)
なんて専門的な解説をされちゃうと、おおっと思うし、どっかで知ったかぶりして使いまわしてしまいそうな気分になる。
功夫を駆使して戦ってる場面を私なんかはカッコええなあぐらいにしか見てないないんだが、
>『唐山大兄』では武闘のほとんどが屋外の開かれた空間でなされていた。『精武門』で舞台となるのはすべてが空間的に限定されたセットであり、それはかなり厳密にコレオグラフを準備しなければならないことを意味している。(略)
>韓英傑による人物配置と転調のぐあいは見事であり、幾何学的な構図をもつとともに豊かな弾力性に満ちていて、次々と表面は変化してゆくものの堅固な構造が見てとれる。(p.229-231「『精武門』――抗日ナショナリズム」)
みたいに「武術指導」ってものの解説されると、そうかあ、ただカメラまわしてりゃ撮れるものが映画ぢゃないよなって、あたりまえのことに気づかされる。
つづく作品では、自分で監督をしたこともあって、それまでの主流というか伝統的というかの演出からはさらに離れる。
>『猛龍過江』では韓英傑と羅維の軛から解放されたことが手伝って、これまで以上に自由にして多様な功夫技を見ることができる。(略)
>また彼は韓英傑風のアクロバットをどこまでも拒絶する。唐龍が天井のシャンデリアを蹴り付けて割るショットが存在しているが、そこで李はきちんと床をカメラに収めている。それはこの超人的な演技がけっしてトランポリンを用いた人工的なものではないことをされげなく物語っていて、京劇の流れを組む装飾的な誇張を排除しようとする姿勢がそこからも窺える。(p.252-253「『猛龍過江』――西欧との対決」)
という調子である、そういえば昔「ほかはみんな早回しだけど、ブルース・リーはちがうぜ」ってブルース・リー好きに教わったような気がするが。
『ドラゴンへの道』は私もいちばん好きなんだけど、この映画のなかでは、
>彼が最終的に理想としてきた截拳道の自由なあり方が、ここにみごとに実現されているといえる。(p.253同)
ということになってるらしく、やっぱブルース・リーのいいとこでてるのかなと思う。
ブルース・リーは自らの功夫を、ひとに教えるだけぢゃなく、本にして残してもいるそうで、『截拳道』という1998年の彼の3冊目の書物にその思想がのってるらしい。
発行が1998年なのは、遺稿を研究者が編纂したからで、もとは1975年に『截拳道への道』というなまえで一度出されたものらしい。
そのなかで、
>武道の究極は確実な型をもたないことであると、李小龍は繰り返し説いている。特定の型が権威として踏襲されたとき、そこに生じるのは頽廃である。(p.170「李小龍の著述活動」)
と説いてるらしく、実は自由なストリートファイティングが目指すところだったんぢゃないかということのようで、やっぱ若いときに街角でリアルファイトしていただけのことはあると妙に感心してしまう。
それはそうと、戦いの場面だけぢゃなくて、
>李小龍のフィルムがいかに中国人としての、また英領植民地に育った香港人としての苦悩に満ちているかという問題に関しては、本書の基調となる重大な主題なので(略)(p.25「李小龍以前と以後」)
とか、
>反体制運動とエスニック集団の異議申し立て運動の象徴としてのブルース・リー。(p.364「李小龍の後に」)
とかって、世界中でいまもブルース・リーが支持されている理由についても論述されてて、なるほどなーと思うんだけど、やっぱ私は映画観るときはむずかしいこと考えたりしないんである。
さ、ひさしぶりに何か観てみるかな、やっぱ『ドラゴンへの道』かな、『燃えよドラゴン』の最初の、Don't think,feel!のとこも好きなんだよな。