吾妻ひでお 一九九六年 ハヤカワコミック文庫
先月のとあるときに、ふと、そういえば『アズマニア2』は持ってるけど『1』は持ってないな、なんて思いついてしまい、古本を探し求めた。
文庫の作品集だけど、収録されてるのはSF(SFなんだろうな? SFの定義がよくわからずに言ってるが)3篇。
「ぶつぶつ冒険記」1~7は、宇宙海賊にあこがれる少年「ぶつぶつ」がボロ宇宙船に採用されて宇宙をとびまわる。
「マッドくん」1~5は、「空想科学探偵漫画」って副題で科学局につとめるマッドくんが怪獣とか宇宙人と戦う。
>宇宙人たちとの戦いには いつも わざをかけられたら受け 相手のテクニックを十分アピールさせてのち こちらもしかけるとゆー一種の紳士協定があるんだ(p.125)
ってセリフが妙におもしろくてツボを突かれた。
「あめいじんぐマリー」は、正義の美少女科学者摩理ちゃんが得意の発明で悪と戦う。
どれも、美少女、ロボット・メカ、怪物・エイリアンが登場する独自のワールドなんだが、やっぱ私にはそれほどノメりこめるものでもないと気づいてしまった。マニアにゃなれないな。
「It's A Wonderful Life」は、1946年のフランク・キャプラ監督作品。
前に、町山智浩さんの『ブレードランナーの未来世紀』を読んだら、80年代のいくつかの映画のルーツにはこの作品があるって解説されていて、とても気になっていた。
さらには、1976年の『ロッキー』だって、
>街をランニングするロッキーが人々の励ましを受けて両腕を空に突き上げるシーンは明らかに『素晴らしき哉、人生!』の最後にジョージが町を駆け抜けるシーンの再現です。(『ブレードランナーの未来世紀』p.7-8)
ってことらしいしね、そりゃどんなもんだか観てみたくなる。
アメリカぢゃあクリスマスになるとテレビで必ず放送するってことなんで、日本だってその季節になりゃやるだろと思ってたら、ちっとも見かけない。
そしたら最近古本屋で安く売ってるDVDみつけたんで買ってみることにした、キープ株式会社の2009年発売版。
さて、観る前からだいたいのストーリーは本で教わっちゃってるんで、それ確かめるように観てくわけだが、まあ驚きを期待してるわけぢゃないからいいんだけど。
絶望して川に身を投げて自殺しようとしてる主人公の男んとこに、翼を持ってない身分の天使がやってきて救出する。
男が生まれていなかった世界ってのを見せてくれる、そこでは男のまわりの人たちが幸福になってない。
それ見て、やっぱ元に戻してくれって祈ると、現実に戻されて、まわりの人たちの助けで自身のトラブルも切り抜けることができた、と。
主演はジェームズ・ステュアート、いいよね、私は『スミス都へ行く』のほうがいいと思ったけど。
フランク・キャプラ監督作品は、『或る夜の出来事』と『オペラハット』なんかは観たことあるけど、いいよね、安定した古き良き物語って感じで。
そんな明るい話だけ作ってたわけぢゃないってことらしい『群衆』ってのを次には観てみたいとは思ってるが。
ところで、この映画がのちの世にいろいろ影響与えてるらしいってことは、歴史とか脚本や演出の作法にも詳しくない私にもなんとなくわかった気がする。
つい最近、たまたま、『天使のくれた時間』(2000年)ってのを観たんだけど、あー、もし違う人生選択してたら、ってテーマなのは、これじゃん、という感じがしたし。
『ラ・ラ・ランド』(2016年)だって、最後に、もしこうだったら、って人生のイフをさーっとみせてくれるのは、こういう伝統の流れなのかあ、って感じするし。
まあ『バック・トゥ・ザ・フューチャー』もそうだよね、アナザーワールドがヤだから強引に歴史に関与していくのは現代調だけど。
違う選択肢のもたらすもの、もしかしたらこうだったのにって別の世界、そういうの映像で大胆に描くのは映画の特権だなあ、って思う。
んなこと考えてると、例によって、『AKIRA』のなかの
>…未来は… 一方向だけに 進んでる訳では ないワ…
>私達が選択 出来る未来も あるはずよ…
ってセリフを意味もなく思い起こしてしまう。
丸谷才一 平成元年 新潮文庫版
著者の決定版国語読本であるはずの、『完本 日本語のために』という文庫本を読んだら、二冊を合本したはずが「頁数の都合上」収録されてなかった項目があったんで、もとの『日本語のために』を読んだらおもしろかったんで、もうひとつの本書も読んでみたくて古本を買い求めた。
単行本は昭和61年だというけど、日本語を考える状況ってのは現在も変わってないとは思う。
本書あとがきには、
>日本語論はいま全国民的関心の対象になつてゐます。(略)なぜさうなつたかといふと、一方には社会の激変によつてもたらされた、どうも現在のままの日本語ではうまくゆかないといふ反省があつた。標準語は果してどれだけ、論理と情感を伝へることができるのか。片仮名ことば、ローマ字ことばの氾濫ははふつて置いていいのか。(略)
>そして他方には、これももちろん社会の変動に促されて生じたものですが、一体われわれはどこから来てどこへゆくのだらう、日本人の根拠は何なのかといふ不安があつた。つまりアイデンティティ(自分は何であつて何に属してゐるか)の問題ですが、このとき手がかりになるのはまづ日本語である。国語はその民族その文明の記憶を入れてある仄暗い倉庫ですから、かういふ疑問が生じたとき、最上の資料になるのはわれわれの言葉なのです。(p.265-266)
ってあるけど、つまりそういう問題意識。
さて、私が読みたかったのは「日本語へらず口」という章なんだが、たとえば「――させていただく」という言い回しが厭だという。
そも歴史ひもとくと、「させていただく」ってのは上方の言葉で、浄土真宗の教義から出たという。
浄土真宗ではわれわれはすべて阿弥陀如来によって生かしていただいてるって他力の考え方があり、なにごともそのおかげに感謝してるから、そういう言葉づかいをするんだが、それが近江商人によって各地に広がってったらしい。
それがいまでは語法だけになって、「本日は○○のためお休みさせていただきます」みたいに使うのは、別に阿弥陀如来のおかげで休むんぢゃなくて、
>はつきり言へば誰のおかげでもない。普通この言ひ方は、
>「あなたの許可を事後承諾的に得て、休みにします」
>といふ気持ちだらう。そしてその事後承諾のづうづうしさと妙に丁寧な言ひまはしとが慇懃無礼な感じになつて、不快なのだらう。(p.177)
って指摘する。
「させていただく」を使うことによって、相手に恩を売るんぢゃなくて、恩を感じてるのはこっちですと言いたいんだろうが、
>口さきだけで恩の売り買ひのまねごとをしてゐるわけだ。その偽善性は癇にさはるものだし、(略)
>それにあの謙譲語法は長つたらしくていけない。あの七音の、長い長いへり下り方をたくさん使はれると、相手と自分との恩のやりとりを測るのに忙しくなつて、話の中身のほうはついおろそかになる。(p.182-183)
みたいに説明されると、なるほどと思う、言葉は丁寧そうにみえて実は一歩も譲る気ないって感じの態度が裏にはあるよね。
別の章では漢語と和語について論じてるけど、明治以後、プラスのイメージには漢語を使い、マイナスイメージには和語を用いがちな言語風土ができてきたという。
さらに西洋語がはいってくると、いちばん格の高いのが片仮名の西洋語で、次が漢語、いちばん下が和語という具合になってきたという。
>この三種類の言葉にによる三段階の格式は、現代日本語の大問題である。いつぞや国語学の大野晋さんが、片仮名で「アイディア」と言へばいかにも内容のあることをきちんと考へたやうだし、漢語で「着想」と言へばそれに次ぐくらゐの貫禄なのに、和語で「思ひつき」と言ふとひどく詰まらぬことを軽薄に思つただけのやうに聞えると指摘してゐたが、まさしくその通り。(p.186-187)
なんて教えてくれるのは、とてもおもしろい。
違う章に移っても、
>片仮名ことばを大幅に採用して、日本語を豊かにするなんてことは、痴人の夢にすぎない。(p.201)
とかなかなか厳しい。
ちなみに、明治初期に始まった鉄道と郵便を比較して、鉄道系には「乗車券」とか「運賃」とか「線路」とか漢語系が多いのに対して、郵便用語は「葉書」とか「小包」とか「為替」とか和語系が多いのは、郵便の父たる前島密の言語観が反映されているらしい。
前島密は明治初年には漢字廃止論を提案したことあるらしいが、江戸以前からの耳慣れたことばを郵便制度には採用することにしたという、「印紙」案を却下して、耳慣れた「切手」を押し通したなんてのは、ちょっとトリビア。
本書のコンテンツは以下のとおり。
I 国語教科書を読む
1 分ち書きはやめよう
2 漢字配当表は廃止しよう
3 完全な五十音図を教へよう
4 読書感想文は書かせるな
5 ローマ字よりも漢字を
6 漢語は使ひ過ぎないやうに
7 名文を読ませよう
8 子供に詩を作らせるな
9 古典を読ませよう
10 話し上手、聞き上手を育てよう
11 正しい語感を育てよう
II 言葉と文字と精神と
III 日本語へらず口
させていただく
字音語考
郵便語と鉄道語
巨人の腹
IV 大学入試問題を批判する
慶応大学法学部は試験をやり直せ
小林秀雄の文章は出題するな
附録1 歴史的仮名づかひの手引き
附録2 和語と字音語の見分け方
わたしの表記法について
ラードナー/加島祥造訳 1989年 福武文庫
リング・ラードナーを読んでみようと思ったのは、こないだ『本当の翻訳の話をしよう』を読んだら、めちゃめちゃホメられてたからで、柴田元幸さんは、
>イギリスの小説が描写で読ませるとすれば、アメリカの小説は声で読ませるんだと思う。マーク・トウェインからはじまって、リング・ラードナーもそうだし……与太話をべらべら喋ってるだけなんだけど、そこに魅力がある。(略)
>ラードナーに限らず、昔の短篇は、書き手が「自分は物語を語れるんだ」という信念から語りはじめていて、(略)(『本当の翻訳の話をしよう』p.27-29)
みたいに言ってて、そりゃ読んでみたくなった。
ほんとは『アリバイ・アイク』ってのを探してたんだけど、去年11月ころだったか地元の古本屋で本書を見つけて、目次みたら「弁解屋(アリバイ)アイク」入ってたんで、とりあえず買った、読んだの最近(先にフィリップ・ロスとか読んでたんで)。
読み始めたら、いきなり、
>やつの本名はフランク・X・ファレルというんだがね、どうもXってのは、「言いわけ(イクスキューズ・ミイ)」のX(イクス)じゃねえかなあ。なぜってこの男、ファインプレーした時も失敗した時も、球場にいる時も外にいる時も、何かやったらきまって「ごめんよ、実は――」って言いわけか弁解をやるんだ。(p.5)
みたいな調子なので、なんだかデイモン・ラニアンみたいだなって思ったんだけど、訳者がいっしょでした。
収録作は以下のとおり。
「弁解屋(アリバイ)アイク」
なんかっつーと言いわけするんでアリバイ・アイクってあだ名をつけられた野球選手の話。
失敗したときだけならともかく、去年の打率が三割五分六厘もあるのに、「シーズンの間ずっとマラリアに罹ってたもんでねえ」とか、ライトスタンドへホームラン打っておきながら、「あんなにあわてて振らなければ、センター・スタンドをオーバーするやつを打てたんだけどね」とか言う、ヘンな奴。
「自由の館」
ミュージカルの作曲・指揮者の夫人が語り部で、いろんな興行先でホテルの滞在客から週末はうちの別荘に来てくれ、みたいな招待がもちかけられるので、それを望まない夫のために断る。
夫は、ひとさまの家に泊まると、部屋が寒かったり、ベッドサイドにスタンドがなかったりと不自由なのが嫌い、滞在から逃げ出すためには自分で自分宛てに急用の電報を打って、それを口実にして引き上げる。
「相部屋の男」
野球選手のエリオットの奇行でチームメートは誰が相部屋になっても彼のことを嫌がった。
バッティングはいいが守備はダメなエリオットは、滞在先では一晩中バスルームの水を流しっぱなしにしたり、夜中にひげを剃りだしたり、はては大声で歌い出す。
「でっちあげ」
ボクシングを始めて一年とすこしのバークは、いまやウェルター級のチャンピオンに挑む位置にあった。
しかし、彼はどの相手とやっても、ノックアウトできるはずなのに、撫でるみたいなパンチしか出さなかった。
彼が本気を出して相手を殴るには、それなりの理由がなくてはならなかったんで、トレーナーたちは策を考える。
「ハリー・ケーン」
語り部のキャッチャーからも大馬鹿よばわりされる、二十歳の新人投手ケーンの話。
おかしな服で現れ、歩き方がのろのろしてるこの男、すごい速球を投げるんだが、スカウトされてメジャーリーグに行きたくなかったのは、町にいる恋人と離れたくなかったからだとかぬかす。
「散髪の間に」
語り部は理容師、はじめての客にこの町のことを語るという体裁。
変わり者のジム・ケンドールはひとをからかうのが好きで、突拍子もないいたずらばかり考えつく男だったという。
「ハーモニー」
首位を走る野球チームの若手選手ウォルドロンは4割を打って、ホームラン9本、盗塁25、さらに歌がうまくてピアノもひける。
他チームの秘密兵器のはずだったこの選手をいかにスカウトしたのか訊かれた監督は、外野手のアート・グレアムが掘り出してきたのだという。
ウォルドロンにポジション奪われてアートはまもなくお払い箱になるが、チームメートのビル・コールが監督も知らないウォルドロン発掘の秘話を記者に語る。
P・G・ウッドハウス/森村たまき訳 2021年 国書刊行会
去年11月ころに買っといたんだけど、最近になってやっと読んだウッドハウス名作選の二つ目。
原題「Uncle Fred in the Springtime」は1939年作の長編。
タイトルにもなってる主人公のフレッド伯父さんというのは、
>第五代イッケナム伯爵フレデリック・アルタモント・コーンウォーリス・トウィッスルトンは、長身痩躯、粋な口ひげと頭の回転の速さと進取の気性をうかがわせる目をした、威厳に満ちた人物だった。(p.44)
と紹介される貴族、そういわれると立派なひとみたいだけど、ところがまともぢゃない。
伯父さんというからには甥がいて、その甥とはドローンズ・クラブなんかに出てきたポンゴ・トウィッスルトンなんだけど、そのポンゴに言わせると、フレッド伯父さん=イッケナム卿は「扁桃腺の奥の奥まで頭がおかしい」ということになる。
しかしイッケナム卿からみればポンゴなんて「陰気で、憂鬱で、いつも疑心暗鬼で不安で一杯」な若者ということになる、ただしイッケナム卿はポンゴのことが大好きである、伯父さんのほうが陽気すぎるだけで。
イッケナム卿もいつもおかしいわけぢゃなく、ハンプシャーの邸宅にいるときは比較的おとなしいんだけど、ひとたびロンドンの都会に出てきたりすると、実年齢60以上のはずなのに精神年齢22歳くらいになっちゃって、過剰な何かをやらかす。
なので奥方からはロンドン行きを禁じられてて、愛妻家なんでおとなしく従ってるんだけど、ひとたび伯爵夫人がどこかに行って不在だったりすると大都会の空気を吸いに行き、バカげたことをする。
この貴族階級の人間がヘンなことをするというのが、イギリスユーモア小説のいいとこで、貴族は頭のおかしなのばっかり、執事とか庭師とかのほうがよっぽどまとも、って図式がおもしろい、アガサ・クリスティーなんかでも殺人犯すのは上流階級ってとこに意味があるのといっしょ。
本作でも、大衆席賭け屋あがりの私立探偵でトランプゲームで儲けるのが得意なんて怪しい登場人物はいるけど、それよりやっぱ上流階級のひとたちのほうがヘンなことばっかりする。
本作でも、ほかに出てくる妙な貴族としては、まずは『エムズワース卿の受難録』でおなじみのエムズワース伯爵、飼い豚をこよなく愛して、屋敷内の実権は妹に握られてる愛すべきご老人。
もうひとりはダンスタブル公爵、この人は癇癪もちで、甥のホーレス・デヴンポートが駅まで送りについてこなかっただけで、火掻き棒を振り回して居間の家具を御破壊あそばされたというアブナイひと。
で、ダンスタブル公爵がエムズワース卿のブランディングズ城にお客として滞在するんだが、豚をめぐってトラブルになったりして、エムズワース卿の妹が、精神科医のサー・グロソップを呼んできてってエムズワース卿を使いに出すんだけど、それを聞きつけたフレッド伯父さん=イッケナム卿がその精神科医になりすましてブランディングズ城に乗り込む。
当然すんなりうまくいくはずはないんだけど、いかなる困難に直面しても、イッケナム卿は、
>こいつはただの追加の障害物ってだけだし、我々は障害物は大歓迎なんだからな。障害は人を奮起させ、その者のうちなる最善のものを引き出すんだ(p.184)
とか、
>自分の有能さは自分でよくわかっているし、時々自分でも絶対的に驚くことがあるくらいだ。このワンダーマンの力に限界はないのかと、俺は自問する(p.261)
とかって、自信満々、その場の思いつきで人々の追及をかわして鮮やかに立ち回る。
豚の一件以外にも、若者である甥たちは常にカネがなくて困ってたり、ちなみに伯父さんたちは甥にカネを貸さないが、若者たちは例によって惚れやすくて恋におちたり、でもすぐ喧嘩したりとか、複雑に登場人物たちの思惑がからみあうんだが、最後はめでたしになるべくしてなるのはわかってんで安心して読み進める。
まあ、いいかげんなことばっかり言ってるようだけど、イッケナム卿って、若いひとたちの幸せを願ってる、いいひとなんぢゃないかなって気がする。
なお、本書には、短篇の『ゆけゆけ、フレッド伯父さん』(Uncle Fred Flits by)が収録されてんだけど、これがおもしろい。
甥のポンゴをつれての散歩の途中で大雨に降られると、知らないひとの家のはずのドアの呼び鈴を押して、「オウムの爪を切りに伺いました。こちらは助手のウォルキンショー君で、麻酔をかけてくれます」なんて言って応接室にあがりこむフレッド伯父さん、最高。