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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

風の書評

2022-08-31 19:13:44 | 読んだ本

風 昭和55年 ダイヤモンド社
こないだ読んだ『「週刊文春」の怪』の文庫巻末解説に、
>二十年近く前、大学生の私は、やはり『週刊文春』に連載されていた「風の書評」を能天気に愛読した。「風」氏が当時、売れっ子の作家や学識豊かとみなされていた評論家たちの著作を毎週次々と舌鋒鋭く斬り捨てて行く(略)のを目の当りにして、世の中にはすごい人がいるものだと、一種すがすがしい思いで、愛読した。
って坪内祐三氏が書いてて、高島俊男「お言葉ですが…」は批判の鋭さが「風の書評」の再来を感じたっていうんで、「風の書評」が気になってしまった。
そしたら五月下旬だったか、地元の古本屋で運よくみつけることができたんでサッと買った、運よくってのは隣に、このあと読むことになるであろう「続風の書評」と並んでて、そっちの「百目鬼恭三郎著」って背表紙の文字が目立って見えたからで。
そう、本書は、背表紙にも「風 著」となってて匿名のままの出版なんだが、書いたのは『現代の作家一〇一人』と同じく百目鬼さんなんで、おもしろくないわけがない。
匿名で書いてることについて批判もあったらしいけど、本書あとがきでは、
>(略)匿名は、怯懦の坊やが身を隠すための母親のスカートではない。いわば、この世ならぬ人格を創出するための仮面なのである。匿名子は、世俗のかかわりを切り捨てた一個の人格なのである。
と別にズルくないよと主張している。
本書のなかみは週刊文春で1976年から1980年にかけて掲載されたもので、本書出版時点ではそっちの連載も続いてたんで「風」のままにしたそうな。
いやあ、しかし、厳しいっす、あいかわらず、いっと最初の項目で、谷崎潤一郎賞受賞作をとりあげてんだけど、
>普通の読者はこういう風に賞をもらった作品を有難がるものなのである。そして、たいていは、つまらなかったか、わけがわからなかったか、のどちらかにがっかりしてこうつぶやくのだ。
>「どうもオレには、文学はわからないらしい」
>私にいわせると、普通の読者は文学がわかないのではなくて、賞をもらった作品がつまらなすぎるのである。(p.3)
ときたもんだ。賞については他にも、
>エッセイスト・クラブ賞を受賞するのはたいてい、愚直さだけが取り得の調査物か、格好だけで中味のない身辺雑記で、ことによるとこの賞は、無才の文筆家の救済が目的ではないか、とさえ思いたくなる。(p.98)
とか、それどころか、
>文学賞を受賞した作品が、間然するところのない場合は、この欄ではとりあげない。わざわざ提灯持ちをするまでもないからだ。が、不満のある作品は、とりあげてけなすことにしている。受賞によってまちがった評価を読者に与えることに義憤を感じるからである。(p.170)
とまで言ってんで、確信をもってやってるんである、こりゃ。
まわりの書評とかを見渡しても、
>新聞や雑誌の書評でほめていても、読んでみるとくだらない本が少なくない。書評でほめれば著者や出版社は喜ぶだろうが、それを真に受けて本を買う読者こといい面の皮である。(p.40)
とか、
>新聞や雑誌の書評欄は、ふしぎなほど本当の意味での教養書を取りあげない。編集者も、書評者も、ともに教養がないせいではないかとさえ疑いたくなるほどだ。(p.151)
とかって同業にも容赦ないし、読書案内を中心にした出版物に対しても、
>第一に、著者がつまらない本ばかり読んでいるのにおどろかされた。(略)著者は高名な落語研究家だそうだから、まさかこんな本ばかり読んでいるわけではあるまい。きっと、仕事のために読んだちゃんとした本の名は隠しているにちがいない。(略)
>第二に、読んだ本はたいてい誉め、感心、敬服しているのにおどろいた。よほど善意の人なのだろう。(p.140-141)
とかって調子で、人気文筆家ってのは編集者とか友人と付き合いがいいんで他人様の本の悪口はいえないのかとやっつける。
つまらない本が出ることについては、
>人気のある芸能人が書いた本はつまらない。どうしてこんなものを出してはずかしくないのかわからない。おそらくは、本などロクに読んだことがないので、面白いつまらないの区別がまるでわかっていないのだろう。こういう無知は責任能力がないから仕方ないとして、つまらないことを承知のうえで出す出版社の責任は、大いに問われてしかるべきだろう。(p.107)
みたいに言ってるのは序の口で。
たとえば美食の本が増えても、そうそう美食家はいないから適当な物書きを引っ張り出してくるのには、
>むろん、こうした食通でない物書きの食物の本は、おのずと未発達のままに終わった自分の味覚と貧弱な知識にガンコに固執するか、さもなければ開き直って文明批評を一席ぶつ、というふうになりがちだ。つまり、ここには、著者の食生活に関する境涯が現れているわけで、そういうつもりで読むなら問題はないが、美食についての知識を得ようなどと思ったら、失望することは請け合いである。(p.8)
みたいに評価低い。
物書きの専門である作家に対しても、
>前にもいったが、古典や美術の案内書に作家を使うのは感心できない。彼らは生半可な知識しか提供できず、結局は綴方、雑文に終わってしまうのがおちだからである。(p.218)
とか言ってるくらいのはまだやさしくて、
>もう何遍もいってきたことだが、日本の作家はどうしてこう教養と知性と無縁のところで物を書いているのだろう。彼らは随分本は読んでいるにちがいない。ただ、なぜか、それが身につかない。身につかない教養、知性を振り回すほど、彼らは愚かではないから、自然、実感に頼ってものを書くということになり、教養、姿勢と無縁の文学になってしまうというわけなのであろうか。(p.204)
というように指摘する。
あと、学者に専門外のことを語らせることに対しても、
>日本では、一芸に秀でた人は、専門外のことについても深い考えをもっていると信じられている。(略)
>それが錯覚にすぎないことはちょっと考えればすぐわかるはずだし、また、一芸に秀でた人はたいてい、己れを知っていて、専門外のことには口を出さないものだ。口を出すのは、自分の専門のこともまだよくわかっていないやつ、ということになっている。が、一芸に秀でていても、世の人を善導しようという熱意にあふれた人が、稀にはいるものだ。
>そういう人は喜んで何にでも口を出すが、申し合わせたようにきわめてその意見は平板である。こんな平板な考えかたしかできない頭脳でないと、人間はえらくなれないのではないかとさえ思いたくなるほどだ。(p.136-137)
というように価値を認めない。
日本の作家に教養が身につかないっていう話があったけど、本当の教養というものについては、
>つまり、現代日本の教養は、目標にだけしか目を向けない馬車馬的な教養なのであり、これでは創造性が養われるはずはない。本当の教養とは、一見バラバラで互いに無関係のような雑多な知識が、いつか網の目のように結びあって、頭の中で一つの体形を作りあげるに到ることなのだ。(p.51)
というふうに言っていて、妙に問題性というか思想性をもつものだけぢゃ教養書ぢゃないと指摘している。
どうでもいいけど、夏目漱石研究の本を斬り捨ててくとこで、
>私は近代文学研究ぐらいバカバカしいものはないと思っている。メザシはいくらつっ突いてもメザシである。たとえ新事実を続々と発見しても、元の値打ちがなければその発見は意味がない。(p.64)
って言ってるのが、妙におもしろくて笑ってしまった、これだけ威勢のいい啖呵はなかなか言えるもんぢゃない。

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水滸伝の世界

2022-08-29 19:33:05 | 読んだ本

高島俊男 二〇〇一年 ちくま文庫版
この本は丸谷才一さんがほめてたんで気になって探して、ことしの春ごろに古本まつりで文庫を見つけたんだが、最近になってやっと読んだ。
私は水滸伝を読んだことないんだけどね、残念なことに。今後もたぶん読まないんだろうなあ。
本書はそれでもたのしく読める、なんとなく原典の雰囲気わかる。それでもおそらく読もうとしないのは私の趣味の問題なんだろう。
おもしろそうだと思わされるのは、やっぱ登場する豪傑たちのエピソードを並べられるところで、
>(略)この四つの殺人――無邪気で陽気な魯達の殺人、冷酷緻密な武松の殺人、窮鼠かえって猫を噛むていのやむにやまれぬ林冲の殺人、そして兇暴至極の李逵の殺人、こんなさまざまなタイプの殺人をみごとに描きわけてあるだけでも、水滸伝は古今一流の小説の名にそむかない、――と読者諸賢もお思いになりませんか?(p.90)
みたいに言われると、読んでないのは損かなあという気にさせられる。
著者もべつのとこで、
>水滸伝でほんとうにおもしろいのはこれら独立故事である。だから、御用とお急ぎのかたは第七十一回まで読めばたくさんだということになる。(略)
>つまり武松は、水滸伝の重要人物ではあるが、梁山泊の重要人物ではないのである。
>このことは、武松だけでなく、魯智深や林冲や楊志についても言える。(p.143)
と言ってるように、豪傑たち108人が集まるところまでが面白くて、そっから官軍的性格になって戦いに出るとこはまた別の意味のお話らしい。
もと水滸伝は全120回あるらしいが、本国である中国では1640年ころに、
>(略)この百八人が勢ぞろいするのが第七十一回のなかばあたりなのだが、金聖嘆は、ここまでで打切りにして、以下の部分を「これは原作者施耐庵の水滸伝にはないもので、羅貫中がくっつけた愚作である」と言って切り捨ててしまった。(p.267)
って本が出され、全70回の本が出来てそれが主流になったらしい。
作者うんぬんとあるけど、誰が書いたのかはよくわからなくて、講談のネタだったのが次第にまとめられていったらしいが、1500年代前半ころに羅貫中という名で書かれたということについては、
>正徳嘉靖のころの羅貫中は、長篇通俗小説を集団制作したグループの名であろう。一つのグループとはかぎらない。あるグループが羅貫中という名で三国演義を出したところたいへんにヒットしたので、他のグループも同じ名前で出し、また別のグループも出し、というしだいで、羅貫中作と銘打つ長篇小説が短期間のうちに数十種も出る結果となってしまったのであろう。その際最初のグループが商標権の侵害であるとねじこんだり訴えをおこしたりする懸念はない。通俗小説の世界では、他の本屋が出した本をそっくりそのまま出すのも、書きかえるのもつぎたすのもチョンぎるのも、すべておかまいなしなのである。著者の名前を拝借するくらい何でもない。(p.201)
ということらしいので、ひまな知識人たちが適当におもしろく二次的な制作をしてたらしい、なんかそういうのって歴史的伝統になるのかねえ、現代でも中国のひとは「いい商品があればコピーをつくるのはあたりまえぢゃないか」とか言ってるらしいけど。
ところで、本書は「まえがき」で、各章は独立してるからどこからでもおもしろそうなところを読んでくれればいい、って宣言されてるが、順番に一応ぜんぶ読んだけど、どういう本がいつの時代に出版されたかみたいな研究者的な話には、私はあまり興味がもてなかった。
やっぱ豪傑たちのエピソード紹介なんかのほうがおもしろい、それにしても108人ってのは多すぎる、きっとスッと読んだだけなら憶えられないと思う、全員揃うころには最初のほうの人は誰だっけそれ状態になるんぢゃないかと。
でも、そこに一番から百八番までちゃんと順位がつくとかって解説されると、なんでそういうことこだわるかなと不思議な気もするが、序列大事なのかな中国では、やっぱ。
で、その序列第一位の人物が、べつに強くなくて、知恵もあるわけぢゃなく、人格も立派ぢゃないとかって解説されると、ちと読んでみたい気もしてくるが。
それはそうと、この108人って数には、天罡星三十六人と地煞星七十二人って理屈がついてるらしいんだけど、この天罡・地煞ってのは、私にとっては愛読マンガの『西遊妖猿伝』で五行山の白雲洞のなかの岩に刻まれてる人名として古くから(昭和のころから)認識してたものの、元ネタが水滸伝だったとは今回初めて知った、無知とははずかしい。
あと、この108人についてるアダ名、「九紋龍」とか「豹子頭」とか「黒旋風」とかってのの意味由来を解説してくれてる章なんかはわりと楽しいが、そこで、どうでもいいけど、「わが国でよく牛馬を鑑定する者をバクロウと称するのはこの伯楽がなまったのである」(p.320-321)って説明があるけど、知らなかった、それ。伯楽と馬喰ぢゃ、だいぶイメージ違うよね、ふつう。
章立ては以下のとおり。
一 豪傑たちのものがたり
二 総大将宋江
三 副将盧俊義
四 英雄色を好む?
五 人の殺しかたについて
六 李俊のばあい
七 女傑たち
八 人を食った話
九 武松の十回
十 講釈から芝居まで
十一 誰が水滸伝を書いたのか?
十二 遼国征討
十三 一番いいテキスト
十四 「天都外臣」とは誰ぞや?
十五 水滸伝をチョン切った男
十六 中国で出ている水滸伝いろいろ
十七 豪傑たちのアダ名

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西遊妖猿伝 西域篇 火焔山の章4だ!

2022-08-23 20:05:49 | 諸星大二郎

諸星大二郎 2022年8月 講談社モーニングKC
はい、本日が発売日ということなので、さっさと書店に買い行って、すぐ読みました、最新刊。
もう、この夏はこの日だけを楽しみに、指折り毎日を過ごしておりました。
物語のほうは、あいかわらず火焔山近くで、暴動起こしてる農夫とか浮浪児とかと高昌城の兵とかソグド兵とかの戦いが続いてるんだが。
主人公の悟空は、いよいよ宿敵であるはずの牛魔王と決戦するのかと思いきや、なかなか戦わない。
運命の宿敵らしく、近くにいるかどうか気を感じるだけで察することができて、あまり近づくと生き死にを懸けた戦いになっちゃうことが本能的にわかってるんで、闘いが最優先事項ではない今回はあまり近づかないように己を抑えている。
そんななかで、魔族たちが仕掛けた悪いもんは一応やっつけられたんで、騒ぎは一段落したかというところ。
前巻ではまったく登場の機会もなかった玄奘が、ようやく最後にちょろっと顔を見せるんで、あー、ようやく天竺へ再出発してくれるのかと思うが、次回への予告によると、まだまだこの場所で事件があるんだそうだ。
「これからの展開は…… どうぞ気長にお待ちください。」って、はい、待ちますよ、お待ち申し上げます。
第十二回 勇躍して双童 師命を受け 機を見て公主 戦場を走る
第十三回 孫行者 火中に栗を拾い 牛魔王 暗中に塔に登る
第十四回 双童 勇を鼓して牛王に見え 魔王 義に感じて妖邪を破る

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読みなおし日本文学史

2022-08-16 20:01:12 | 読んだ本

高橋睦郎 1998年 岩波新書
持ってたことも読んだことすらも忘れたまま、しまってあったのをことし三月に再発見した新書のひとつ。
なんで読もうと思ったんだろう、たぶん私の好きな本『短歌パラダイス』(1997年)の歌合せで判者をやっていたのが著者なので、そのへんからの興味ぢゃないかとは思う。
副題に「歌の漂泊」とあって、
>(略)わが国の文学史は、歌、連歌、俳諧を中心に、歌の運命の歴史、さらにはっきりいえば歌の漂泊の歴史、さすらいの歴史と捉えることができる。もちろん、歌に従って歌びとも漂泊した。その漂泊は歌を表に立てての読人知らずとしての、無名者としての漂泊だった。(p.7)
って「はじめに」で宣言してるように、著者はそういう観点から古代からの日本文学史をとらえなおそうとしてる。
読み人知らずってのは、短歌集の撰者が一巻の完成度を高めるために、自分でつくった歌をしかるべきところに配置した奥の手って説は、私は近年になって丸谷才一さんの『新々百人一首』で読んだことだったが、それより前にこの本にも書いてあった。
>(略)勅撰集の歌には、読人しらずという例外を除き、すべてに作者名かそれに当たる官名、通り名がある。しかし、それは表面上、中国の詩文選の体裁に準ったものにすぎず、作者より作品、さらには集ぜんたいの諧調の方がはるかに大切にされている、と私は考えている、その現われのひとつがほかならぬ読人しらずで(略)、集ぜんたいの諧調を整えるために選者が代作し、読人しらずとして入れたものがかなりある、と想像される。(略)要するに歌びとより歌なのだ。
>なぜ、歌びとより歌か。私の考えをいえば、歌がほんらい神聖なものと考えられてきたからだ。おそらくその発生において歌は神から人間への託宣だった。(略)歌びとはあくまでも神の代行者で、神の存在は歌の中にあると考えられたから、歌びとより歌の方が大切にされた。(p.6)
ということだそうで、それは物語なんかも同じで、作者よりも作品が重要、っつーことで何々の作者は誰々なんていう文学史はつまんないからやめようぜってことにつながってくる。
作者なんて重要ぢゃないって説は、ずーっと時代が下がったところで、
>ついでにいえば、西鶴の真作は『好色一代男』のみという説がある。しかし、作者はほんらい無名の代作者であり、作者名は商業上の問題にすぎないという立場に立てば、この説はとりたてての意味を持たなくなる。(p.158)
なんて調子ですごいことさらっと言うことにもつながったりする。
ふつうの国文学史では、勅撰集は「古今和歌集」から始まることになってるけど、著者は、天武天皇がつくれといった「古事記」が変則的ではあるが最初の詩華集といえるし、持統上皇が最初つくれといった「万葉集」だって同じだという説をとる。
勅撰集の意図するところは何か。国語による詩歌つまり、うたによって、王権、具体的にいえば天皇家の国家支配を正当化し、賛美することだ。なぜうたによってそのことが可能か、あるいは可能と考えられたかといえば、わが国において古来うたが神聖なものとされてきたからだ。(p.37)
とか、
>「持統万葉」には額田王や柿本人麻呂が登場するが、彼らの歌を彼ら個人の歌と考えるのは早とちりというものだろう。代作者は自分の名を露わにしている時も、王権のために作っているまた天皇や皇子・皇女の歌とされるものも、事実は大部分が彼らの代作である可能性が高い、と考えるべきだろう。(p.44)
とかって、古代における歌のパワーの認識を説いてくれるところはとても興味深い。
ほかにも「古今和歌集」では和語を自由に細やかさをもってつかえる平仮名の採用について、
>『古今和歌集』仮名序は、外来の漢字をもとにこの国で発明された平仮名を採用することで、歌が新しい時代に入ったことの誇りかな宣言、とも読める。(p.75)
といって、神の歌ばかりぢゃなくて人間の歌が多くなったと説くのもおもしろい。
「新古今和歌集」には、武士出身の西行法師の歌が多く採用されているが、それが歌集の並びのなかで深い意味を持つとして、下命者後鳥羽上皇にすれば、
>それはそのまま文をもって武を押さえようとした上皇への部門の服従の象徴ともとれるだろう。この武門の服従の姿勢が読人しらずに渡されることで、民衆一般に拡がる。(p.99)
みたいな意図があったんぢゃないという深読みを披露してくれるのが刺激的である。
さらには、「源氏物語」でも物語の核になるのは歌であって、登場人物がよむ歌を作るのに作者もいちばん苦労したのではないかとして、
>その中には四季あり、恋あり、離別あり、哀傷あり、羇旅あり、物名の遊びもある。作者は撰者・編集者としてその箇所その箇所にふさわしい歌を置く。『紫式部日記』にいうごとく作者が一条天皇から「日本紀の局」と呼ばれたことを思えば、『源氏物語』は一条天皇=中宮彰子下命・紫式部単独撰の勅撰集「光源和歌集」とでも呼び換えてもいいのではあるまいか。(p.126)
などという大胆な提唱もしている。
第一章 神の歌と人間の詩 詩華集としての『古事記』
第二章 挫折した勅撰集 『万葉集』の成長
第三章 仮名文学始まる 『古今和歌集』の意味
第四章 漂流する宮廷 勅撰集の時代
第五章 みやびおの流れ 『伊勢物語』から『好色一代男』へ
第六章 ますらおの系譜 戦記物・隠者文学・町人物
第七章 神前から人前へ 祝詞・能・歌舞伎
第八章 漂泊の果て 連歌、そして俳諧

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飛ぶ教室

2022-08-10 19:19:42 | 読んだ本

ケストナー/丘沢静也訳 2006年 光文社古典新訳文庫版
ここのところ『雪の中の三人男』とか『一杯の珈琲から』とか読んで、ケストナーっていいな、なんて改めて思ったりしてんだが。
この有名な、巻末解説によれば「20世紀ドイツ児童文学の傑作」を、恥ずかしながら読んだことないなと気づいた、子どものころ何をしてたんだろうね、私ゃ。
買い求めた古本の文庫は、古典新訳版にしてみた、新しいほうが読みやすいんぢゃないかなという気がして、特にこだわりないし、昔からいろんな版があるそうだけど。
なんせ元の発表は1933年の作品だし、って本書巻末の年譜によれば、その年にナチスが政権をとり、ケストナーはドイツ国内での出版を禁止され、焚書の対象とされたそうだ。
どうでもいいけど焚書って最低だよなって私ゃ思う、それほどひどいことがあろうか。
さて、おはなしのほうは、いまさら紹介するほどでもないだろうけど、主にギムナジウム5年生の5人の少年に関する、クリスマス近くのシーズンの物語である。
ギムナジウムってのは、小学校を卒業した10歳から入学する9年制の中高等学校だそうで、寄宿舎があって寄宿生は休暇のときだけ家に帰る。
で、近くの実業学校の生徒たちといざこざがあって、人質を奪還するためにケンカしたりとか事件はいろいろありますが。
タイトルの「飛ぶ教室」ってのは、クリスマス祭に体育館で生徒たちが上演する劇のタイトルで、筋書きは地理の授業を現地でするために、先生が生徒をつれて飛行機に乗って、ヴェスヴィオ火山とかピラミッドとか北極とか天国に行くというもの、その脚本を書いたのも生徒のうちのひとり。
全体としてちっと物足りないのは、わるい大人が出てこないからかなって気がする、私ゃエミールたちが泥棒を捕まえたりするような物語が大好きだからな。
で、出てくるいい大人のなかのひとりが、最後のほうでこう言うところがあるんだが、
>「大切なことを忘れないために」と、禁煙さんが言った。「できることなら消えてほしくないこの時に、お願いしておく。若いときのことを忘れるな、と。(p.181)
これが重要なひとつのメッセージっていうかテーマっていうのかなという気がする。
著者ケストナーによる「まえがき その2」においても、
>どうして大人は自分の若いときのことをすっかり忘れてしまうのだろうか。(略)(この機会に心からお願いしたい。子ども時代をけっして忘れないでもらいたい。どうか約束してもらいたい)(p.18)
ってあるからね、それが児童向けの物語を書くときの著者の基本的スタンスなんだろうと思う。

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