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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

不実な美女か貞淑な醜女か

2021-04-10 18:19:56 | 読んだ本

米原万里 平成十年 新潮文庫版
さて、当初目的だった米原万里さんの書評集を読んだわけだが、ほかにも何か読んでみようという気になって、ちょっと前に古本を買い求めた。
タイトルの「醜女」は「ブス」とルビがある、すごいタイトルだね、貞淑なブス。
いったい何が書いてあるんだろうかと興味津々で開いてみると、予想してた雑多なエッセイ集みたいんぢゃなくて、一貫して著者の本業である通訳に関する本であった。
日本語とロシア語の通訳が必要とされるあらゆる場に呼ばれるもんだから、原子炉と核燃料の専門用語をおぼえたかと思うと、次には近視矯正手術に必要な眼の構造をおぼえ、その次にはボリショイ・バレエのインタビューのためにバレエ用語をおぼえ、そのつぎには日本の天皇制とロシアの帝政のちがいや歴史について、とかとか、ただの日常会話ぢゃ済まないことをこなしていくんだけど、
>(略)通訳能力とは、常に新しい分野を勉強していく意思と能力でもある。(p.78)
と堂々と言ってのける、ただのいわゆる語学力だけぢゃないってことだ。
で、そこでなんで美女とブスが関係あるかっていうと、これは外国語を訳したときの訳文のできばえのたとえ。
元の発言を正確に伝えていれば貞淑、まちがって伝えてるのは不実、訳された(我々にとっては日本語)言葉が整ってよいものであれば美女、へたでぎこちなければブス。
日本語としては響きがよいが元の発言の意味を裏切っちゃってるのが不実な美女、意味は正確なんだけどいわゆる直訳調というか不自然で聞きにくくなっちゃってるのが貞淑なブス。
すごいたとえなんだけど、こういう話がでてくる第三章以降がやっぱぐっとおもしろくなってくる、ダジャレを訳せるかとか、対応する慣用句をおぼえておくとうまくいくとか、罵倒する悪い言葉をどう訳すとか。
そういう言葉ってものについて考えてくと、やっぱおおもとにあるその国の文化というか精神性というか、そのへんから理解しないといろんな場でコミュニケーションをサバくのはむずかしいんだろうなってことになる。
よくいわれるように、やっぱ日本人はものごとをはっきり言わないし、議論が下手というか戦わせる気がないのかっていう性質だから、
>したがって、私も多くの先輩通訳者に倣って、日本人の話を外国語に転換する際、もとの発言の隠れた論理性をクッキリと浮き立たせ、白黒のコントラストをより強調してしまう傾向がある。日本語では、どちらかというと、羅列的に、平面的になっているセンテンスとセンテンスのつながりの因果関係を、より明確に、立体的にするよう努めている。また、逆に外国語を日本語に移し換えるときには、メッセージを損なわない範囲で表現をより和らげるよう努めている。(p.230)
と著者はいうんだけど、すごい、プロだ。
時事通信社ワシントン特派員・名越健郎氏による巻末解説には、商社の通訳をしたときに、「彼らはこう言っていますが、ロシア人特有の脅しです」なんて著者はアドバイスをしたこともあるという話があるし。
しかし、言葉のとりあつかいについて、通訳の場でも「使ってはいけない単語」に配慮させられるが、差別的だからって理由で言い換えを求められる、政治的に適切だと推奨される言い回しを決められることについては、疑問を呈してたりする。
>しかし、現場では自戒の念も込めていうが、差別の現状と差別意識を克服しないまま、単に臭いものに蓋をする式の姑息な言い換えにうつつを抜かしているとしか思えない場合が多い。(略)
>(略)差別語をタブー化するというやり方は、差別の現状と差別意識の克服という本来の目的を目指すならば、方法論的に間違っている、といわざるを得ない。(p.38-39)
なんていうのは、いまある言葉は、むかしっから使われてきた言葉とか、民族に共有されてる歴史とか世界観みたいなものとかがあって成り立ってる、ってあたりをおさえてるから言えることなんだろう。
だから、通訳の世界を紹介しながらも、たくさんの言語おぼえたほうがいいとか、早い時期に外国語の勉強したほうがいいとかってことは言わない。
いちばん大事なのは母国語であり、母国語でものを考えるということをしっかりやり、伝えたいこと自分の考えなどを的確に表現できるようになることが最も重要なのだ、ってのが脈々とながれるテーマだと思う。
どうでもいいけど、著者個人の体験だけぢゃなく、通訳業界のシンポジウムでの報告事項なんかのエピソードもたくさんあっておもしろいんだが、師匠の話として、
>「他人の通訳を聞いて、『コイツ、なんて下手なんだ』と思ったら、きっとその通訳者のレベルは、君と同じぐらいだろう。『ああ、この程度の通訳なら、私だって出来る』という感触を持ったなら、その人は、君より遥かに上手いはずだからね」(p.120)
と言ったってのを読んだとき、あー、それって、乗馬といっしょじゃん、と私は思って、笑った。
コンテンツは以下のとおり。
プロローグ 通訳=売春婦論の顛末
第一章 通訳翻訳は同じ穴の狢か――通訳と翻訳に共通する三大特徴――
 1 通訳=売春婦論、もう一つの根拠
 2 異なる言語の出会いに欠かせぬ存在
 3 通訳でもなく翻訳でもなく
 4 同時に二人の旦那に仕える従僕
 5 通訳・翻訳=ブラックボックス論
 6 少し種明かし
第二章 狸と狢以上の違い――通訳と翻訳の間に横たわる巨大な溝――
 1 耳から聞き、口で伝えるということ
 2 時間よ、止まれ!
 3 時の女神は通訳を容赦しない
 4 手持ちの駒しか使えない
 5 先にイカないで!
 6 記憶力の謎
 7 差し引き勘定ゼロの法則
 8 通訳論の一大常識を覆した小さな事件
第三章 不実な美女か貞淑な醜女か
 1 美しさに惑わされるな
 2 貞淑すぎるのも罪つくり
 3 挨拶を侮るなかれ
 4 字句通りの舌禍
 5 駄洒落は転換可能か
 6 恐怖の寿限無地獄
 7 慣用句の逆襲
 8 罵り言葉考
第四章 初めに文脈ありき
 1 文脈の裏切り
 2 ターヘル・アナトミアは文脈が頼り
 3 文脈違いの悲喜劇
 4 カダフィの通訳を見習え
 5 前門の虎、後門の狼
 6 女房と畳、それに情報
 7 シャドーイングの功罪
 8 庶務課係長の訳
第五章 コミュニケーションという名の神に仕えて
 1 師匠の目にも涙
 2 方言まで訳すか、訛りまで訳すか
 3 日本語が決め手
 4 空気のような母なる言葉
 5 英語で演説したがる総理大臣
 6 窮地脱出法
 7 時には殺意も
エピローグ 頂上のない登山


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2 コメント

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Unknown (take16bb)
2021-04-14 16:53:01
私も少し前に興味深く読みました。
返信する
たいへんそうです (kanagawa_kun)
2021-04-15 19:27:07
take16bbさん、コメントありがとうございます。
私ももっと早く読んでいたら、仕事で御一緒する機会のあった通訳さんたちに、もうすこしやさしくなれたのではないかと反省しています。
返信する

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