きょうは、ダービー。
やっぱ、見ちゃう、見ずにはいられないかも。
レースとしておもしろいかどうかは私が考えることではないが、長年関わりあってると、ダービー中心でこの世界まわっていると思わざるをえないようになったし。
まあ、なんつーか、ダービー終わると一つトシをとったような気になる、そういう感覚はある。
べつに、なにを応援するとかそういうの基本ないんだが、袖すり合うも他生の縁ってほどのことでもないけど、ちょっと知ってるいきさつで、ある若い騎手を応援して見ることにした。
勝ったらすげえな、でもそんなあまくないんだろうな、でもでもやっちゃうかもしれないな、とか想像すると発走前はけっこうドキドキする。
ゴール前は、ひさしぶりに、思わず、声が出た。
んー、負けたのは残念だ。
しかし、あの身体小さかった中学生がGIジョッキーだもんねぇ、私もトシをとるわけだ。
野澤亘伸 2021年 日本将棋連盟
前作『師弟』の続編の本書が出たと知って、ちょっと迷って、買ったのは3月だったか、読んだのはつい最近。
なんで迷ったかっていうと、ほとんどは初出時の不定期連載で読んでたからで、「大幅加筆」がどのくらいのものかはともかく、でも、まとまった一冊として持っとくのもいいかとも思った。
前作でも思ったんだけど、インタビュー内容が濃いというか深いというか、めずらしいというか、貴重な証言いっぱいなんで、おもしろい。
その秘密については、著者が「はじめに」で以下のように明かしている。
>個としての棋士は、意志が強く、インタビューを通して自分の世界観の中に他者を簡単には踏み込ませない。(略)
>それが師弟という関係性でアプローチすることで、意外な一面が見えてきた。今を輝くトップ棋士たちが、師との絡みの中では自らの未熟さや少年期のあどけないエピソードを、次々と話してくれたのだ。
ということなので、なるほどと思った。
まあ、もちろん、そういう良好なというか、他人にははかりしれない強い関係をもってる師弟の組み合わせをとりあげているからではあるが。
雑誌掲載時に読んだ細かい内容は忘れてたんだけど、また読んでみて、なんつってもおもしろいのは、中田功×佐藤天彦の、出会ったときは28歳と8歳だった二人の話である。
それは、やっぱ、コーヤンこと中田八段が、先ちゃんこと先崎九段とギャンブルばっかやってたような豪快なひとで、昔気質の将棋指しっぽいとこあるからってのもあるだろう。
タイトル挑戦したりA級に上がったりという成績はないけど、将棋は天才肌で、実際18歳で四段=プロになった、そのとき周囲に「あんなに遊んでいてプロになった奴は他に知らない」と言わしめたんで、やっぱ天才型なんでしょう。
弟子の天彦が奨励会三段リーグで二度目の次点をとってプロ入り資格を得たときに、師匠コーヤンの意見で三段リーグに残ったということは別のとこでも読んだけど、本書によれば中田八段は、
>「うまく言えないけど、気に入らない」
から始まって、
>「フリークラスなんて、勝てなくなった棋士の救済措置じゃないか。そんなところに、佐藤天彦をやれるかよ……」(p.48)
という思いを語っている、うん、やっぱその矜持が弟子をのちに名人にまで押し上げたんでしょう。
ところで、そのむかしの棋士とちがって、当世はけっこう師匠が弟子と将棋を指すらしく、淡路九段が久保九段の子どものときに王将一枚の手合いから教えたというのは有名な話だが、本書では畠山×斎藤とか木村×高野とか盤にみっちり向かい合う師弟関係が明かされている。
(ちなみに昭和的言い伝えでは、師匠が弟子と指すのは2回だけ。入門のときの試験代わりと、プロになれなかった弟子との別れのとき。後者では師匠は負けてやって「お前は強くなった、教えることはもうない、今日の棋譜を持って国に帰れ」と言うという。)
ところが、中田功・佐藤天彦の師弟は、東京と福岡という離れた場所にいたんで、ネットで対局してたんだという、いま風ですね、ちなみに中田八段は昭和の無頼派みたいなイメージある一方で、ネットでバンバン指す人物なんである。
ところが、ところが、佐藤天彦が二段のときに、師匠との対局をやめたいと言い出した、「師匠と指していると感覚が変になります」(p.42)だそうだ。
これはべつに悪口ぢゃなく(あたりまえだ)、勝負に徹する奨励会では相手の手を殺すような指し手が多くて、飛車角をバシバシ切りとばして攻めてくるような人はいないんで、ってことらしい、これまたコーヤン流らしいエピソードでおもしろい。
どうでもいいけど、中田八段の師匠は大山十五世名人なんだけど、弟子入りで上京した中田少年が中学校に通い始めるときに、大名人は自身の揮毫した色紙を校長へのあいさつに持って行かせたんで大歓迎されたという、あまり知られていないんぢゃないかと思われる、いい話がある。
孫弟子が名人になったのは、そんな師匠への恩返しになってるんぢゃないかと思うと、弟子のことおもうこの世界の伝統がうるわしくみえる。
第一章 中田功×佐藤天彦「弟子が叶えた師への恩返し」
第二章 畠山鎮×斎藤慎太郎「少年時代に交わした二つの約束」
第三章 木村一基×高野智史「遠い背中を見つめて」
第四章 淡路仁茂×久保利明「本当の恩返しととは」
第五章 勝浦修×広瀬章人「鷹揚流でつかんだ竜王位」
第六章 石田和雄×高見泰地「悩めるシンデレラボーイが歩んだ一年」
第七章 桐山清澄×豊島将之「二人の師匠」
第八章 杉本昌隆×藤井聡太 師弟対談「将棋の真理を目指して」
星野之宣 2006年 講談社漫画文庫版
もうちょっと星野之宣を読んでみたくてって時期だった、2月頃に買い求めた古本の文庫。
雑誌連載は2002年からだったらしいが、まったく知らない、今回予備知識なしで読んでみた、タイトルからSFものと期待しただけ。
201X年が舞台、のっけからいきなり地球に最大の危機が迫る、でかい小惑星が地球に衝突するまで48時間。
穴掘って核爆弾使えば「アルマゲドン」なんだけど、そんなの間に合わないし核兵器ごときぢゃ爆破できない。
で、ある科学者がまだ仮説にすぎない「膜宇宙=ブレインワールド」という理論にのっとって作戦立てる。
宇宙とは薄い膜のようなものだという考え方に従うと、重力というのはどうしたこうしたとかで、よくわからんけど。
具体的な対策としては、月面上にある基地の粒子加速器で、(超超小型)ナノ・ブラックホールを人工的に作り出し、それを小惑星にどんどん撃ち込む。
質量を失った小惑星は太陽からの引力も弱まり、軌道を変更して地球衝突ルートから逸れると、うーむ、かっこいい。
ところが計算違いというか想定外の状況になり、不安定になった小惑星は月に引き寄せられていき、蒸発しないブラックホールは月を食い尽くすという結果に。
月が消滅、すごい大胆な展開。
月の破片が地球に降ってきて衝突、大津波がくるってだけなら「ディープインパクト」なんだけど、それだけぢゃすまない、月がなくなったから潮汐効果で盛り上がってた海面が一挙に崩れ落ちる。
それどころか地球の回転軸が狂いはじめる、その結果、気候の変動どころか、熱帯とか極地とかの位置もズレていく。
低い土地は海面の上昇で水没するのは当然として、北極点が北アメリカ大陸の南に移動、アメリカは“北極大陸”になっちゃって国土の多くは氷に覆われ、逆に温暖になったアラスカに首都をおく。
しかし、ここまでは物語の序章にすぎないってのがすごい、月の消滅の15年後から本題が始まる。
月が無いままでは、火星みたいに自転軸が10万年周期で何度でも変動するようになり、環境が不安定で生物は生き残っていけない。
これの解決策は新たな月を獲得するしかない、って計画をヨーロッパ宇宙機関って組織が主導する、ちなみにアメリカは現状だと自国の環境が最悪なので反対にまわる、大国のエゴ。
(それにしても、ほかの作品でもそうだったけど、星野マンガってほんと日本人が活躍とかって単純なつくりにはしないね。)
で、具体的にどうするかっていうと、木星の第2衛星エウロパを持ってこようという、壮大だあ。
どうやるかっていうと、木星の第1衛星イオにまたもやナノ・ブラックホールを撃ち込んで、イオが崩壊するときの重力エネルギーを、宇宙空間に網のように張った重力位相制御アンテナつかって重力場つくることによって、エウロパを木星から離脱させるんだという。
そんなことできるのかーって思うんだけど、やります、マンガですから、不可能はない。
かくして遠隔操作で天体の軌道を変えちゃえっていうド迫力シーンを中心に、計画に反対するアメリカが妨害してくる、乗員の誰がアメリカのスパイなのかとか、実はエウロパの海には未知の生物がいるんだけど、これどうすんのかとか、いろんな要素があって、けっこうおもしろく読んでいける。
重力とかに関する科学的仕組みはとにかく、私みたいな古い読者にとっては、木星を引き出してきたとこで、「お、『巨人たちの伝説』ぅ!?」と思い起こしてしまって、感慨深い。
あれも、氷河期を乗り越えるために、古代タイタン族が超能力をつかって“燃える第5惑星”をつくろうとしたり、科学の力で木星を爆発させてその熱を地球に届かせようって話だったから。
SF、たのしい、作者は絵師(←NHK教育「漫勉」での浦沢直樹の表現)として優れてるんで、とてもたのしい。
サイモン・ウィンチェスター/鈴木主税訳 二〇〇六年 ハヤカワ・ノンフィクション文庫版
サブタイトルは、「世界最高の辞書OEDの誕生秘話」。
原題「THE PROFESSOR AND THE MADMAN A Tale of Murder,Insanity,and the Making of the Oxford English Dictionary」は1998年の出版。
これ読もうと思ったのは、『ガセネッタ&シモネッタ』のなかの対談で、柳瀬尚紀さんが「辞書のあるべき姿っていうのは、意味を編者が決めることではなくて、できるだけ多くの実際の例文を集めて、そこから意味を浮かび上がらせるというものでしょう。これはやっぱりOEDしかやってないんですね、たぶん。」という話のついでに、本書を紹介してたからで。
OEDってのはOxford English Dictionary オックスフォード英語大辞典、総ページ数16,570ページ、収録語数414,825語、用例1,827,306、全12巻、ロンドンで言語協会が「まったく新しい辞典をつくる」と決めた1858年から、完成した1928年まで70年かかったという辞書。
この物語には二人の主人公がいて、ひとりはOED編纂者となったジェームズ・オーガスタス・ヘンリー・マレー博士(1837~1915)、イギリスの貧しい家庭で生まれ育ったが、ひとりでこつこつと勉強しておどろくほどの博学になり、言語学では国内第一人者として、この辞書プロジェクトの主幹に抜擢される。
で、OEDってのは、あらゆる単語について、それが初めて使われたのはいつか示し、その後の意味の変遷を記録して、すべて用例として文献から文を載せる、ってつくりを目指しているんで、とても言語学者ひとりでできるものではない。
かくして、広く協力を募る訴えかけの文章を発表し、新聞・雑誌・書店などに配り、まだ調べられたことのない書籍などを読んで引用する仕事をする篤志文献閲読者を探した。
そこへ手紙で応じてきて、その後膨大な数の用例を送って最大の協力者となったのが、もうひとりの主人公ウィリアム・チェスター・マイナー博士(1834~1920)、イギリス在住のアメリカ人。
このひとが問題、手紙やりとりしてるだけなんで、辞書編纂メンバーたちはこのひとが何者か知らなかったんだけど、実はロンドン近郊の精神病院に監禁されてる、タイトルの狂人のほう。
マイナーはアメリカの由緒ある上流階級の家庭で、父が宣教師として赴任してたセイロン生まれ、父の本業が印刷所経営者だったこともあって子供んときからいろんな文献に接したという。
アメリカに戻ってからはイェール大学で医学を学び、29歳で卒業。ときは南北戦争の真っただ中であり、北部連邦軍に軍医として入隊を志願、戦場へ派遣されることになる。
もともと若いころから精神は壊れやすい危ういひとだったということらしいんだけど、戦場で残忍で無情な現場を体験して、だんだんおかしくなっていく。
脱走したアイルランド人へ罰を与える役目とか負わされたせいで、その後アイルランド人から報復を受けるんではないかという妄想にもとらわれるようになる。
軍では、すぐれた外科医で有能な学者であると評価されて、大尉に昇進したんだけど、いろいろあって、やっぱ任務には適さない、精神異常を患っていると判定され、ワシントンの精神病院で18カ月過ごしたが、病状は回復しない見込みで、名誉の除隊となる。
それでマイナーは1871年秋に、本を読んだり画を描いたりして一年ほど休養して過ごすつもりで、ロンドンに渡った。
しかし1872年2月に拳銃で人を撃ち殺す事件を起こす、午前2時過ぎに早朝勤務に出る労働者、なんの面識も関係もない男を撃った。
裁判では、夜中に見知らぬ男たちが部屋に侵入してきて自分に危害を与えるという妄想にとりつかれているマイナーが、部屋から逃げた妄想中の人物を追って外に飛び出し、そこを通りがかってた男を撃ったという経緯が明らかになり、判決は無罪。
しかし、病気は重いので生涯にわたり拘留すべきと判断され、ブロードムア刑事犯精神病院に終身監禁されることになる。(※日本みたいに野に放ったりはしないんだよね、ってのが私としては前回の記事からの続き?)
そこでは院長の理解もあり、比較的自由で自分の部屋にいろんな書物を取り寄せて置いておくことも許され、やがてOED編纂協力募集の情報をつかみ、それに参加していくことになる。
でも、夜中に部屋に侵入してくる加害者によって残酷な拷問を受ける、みたいな妄想はずっと続くことになる、辞書の用例を集めてるあいだは精神的な発作はおさまってたらしいけど。
で、編纂主幹のマレー博士が、長年情報提供してくれていたマイナー博士ってのはどこにいるどんな人か知って、面会しに行くんだけど、それは1897年の辞典祝賀晩餐会の後だというのはフィクションで、史実としては1891年1月のことだという。
日垣隆 平成十八年 新潮文庫版
これは、米原万里さんの書評集で、2004年の〈今年の三冊〉のひとつとして、
>凶悪犯が「心神喪失」なる口実で無罪放免される刑法の犯罪的欠陥、それを運用し続ける司法関係者の思考停止、被害者の哀しみ、怒り、悔しさを冷静に論理化体系化した感動の一冊
って紹介されてたのに興味をもって買い求めた古本の文庫。
そういうわけで、ミステリーみたいなタイトルだけどフィクションぢゃなくて、実際の日本の近年の凶悪犯罪がうじゃうじゃ、で、その加害者が裁判で無罪になるとか、それ以前に不起訴ってことで裁判にもならんとかって実例を取材している。
べつに全部を極刑にしろとまでは言わんが、無罪になった瞬間に被告がニヤリとしたとか、凶悪犯のなかには犯罪の前歴があるけどそのときに心神喪失って理由なら罪を問われないって学習した奴がいるとかって話を読むと、やっぱなんだか納得できないものがある。
>被告弁護側が心神喪失(異常)を、検察側が完全責任能力(正常)を主張し、裁判所がその中間(心神耗弱)をとる、という実に安易で頽廃的な判決が頻出する。(p.167)
というパターンが多いらしい、それって思考停止してるでしょって話だ。
そういうときは精神鑑定ってのを行うんだが、それがダメダメだというのは何度も繰り返して主張している。
>およそ精神鑑定とは、結論先にありきの有罪無罪を誘導するための便宜(フィクション)にほかならないのである。(p.133)
とか、精神鑑定は検証反復可能ぢゃないんで、
>だが精神鑑定は、科学的検証に全く耐ええない。結論は専門家によって異なる。(略)精神鑑定は科学ではなく、証拠でもなく、推測に基づく意見にすぎない。(略)精神鑑定の主務は、現在の、ではなく、事件が起きた過去の一時点における精神状態を推理することにほかならない。(p.82)
とかって言われると、そうなのかってハッとするものある。
精神鑑定をする医師が心神喪失っていって加害者を守っちゃう理由としては、
>(略)犯罪者と患者の混同である。精神科医は医者であって、もちろん法律に通じていなくてもいい。しかし司法精神医学にかかわる以上、そのような怠慢は許されない。診断は医療の仕事だが、精神鑑定は司法の仕事だからだ。心身喪失認定をめぐっては、法律家の精神医学的無知と、精神科医の法学的無知とが混乱をもたらしている。(p.121)
などとしている。別のとこでは、
>(略)鑑定を誰に頼むかで結論は最初からわかってしまうのが日本における精神鑑定の現実なのである。(p.37)
とも言っている。
もちろん医者だけが悪いんぢゃなくて、検察とか裁判所もなんかっつーと理解できない異常な事件が起きると、それを「無かったこと」にしちゃう習性があるんだという。
>精神障害者の責任能力や人格を認めたくないのである。言葉の真の意味において職業的差別者であると言うほかない。(p.112)
とか厳しい。著者は精神鑑定というものについて、
>(略)今では確信をもって害悪と見なすようになった。検察庁や裁判所に思考停止を強い、それを正当化するものにほかならず、時間の無駄と言わざるをえない。(p.80)
という見解をもつにまでいたった。
それで、不起訴や無罪とするんだったら、そうなった凶悪犯罪者を処遇する施設がないのは問題であり、
>そのような刑事治療処遇施設がない状態での心神喪失認定は無効であり、社会正義にも著しく反する。(p.22)
と主張している。この本の最初の出版が2003年12月らしいから、そのあと刑法とかどうなったか私は知らないけど。
どうして凶悪犯のやらかした犯罪の責任を免じちゃうのかって日本社会の体質については、序章で被害者家族の問いに答える形で、
>「犯罪者の責任に限って言えば、被害と法秩序侵犯という結果に対して犯人は責任を負う、というのが正常な考え方だと思います。でも現実には、捜査官や検察官や裁判官が犯人に尋ねるから言葉にして答えるにすぎない“動機”や、事件発生の瞬間に心身喪失だったかどうかなんて誰にもわかるわけもないフィクションによって、犯罪の結果を免責してしまう。日本の司法は、結果ではなく、ひたすら動機を裁いているわけですよね。法律実務家に『理解できない犯罪』は『なかったこと』にしてしまう。動機なるものが不合理だと、どんなひどいことをやっていても、その結果を白紙にしようとするわけです」(p.13-14)
と著者は説明しているけど、なんだやいやな社会だなという気がしないでもない。
序 章 通り魔に子を殺された母の声を
第1章 覚醒剤使用中の殺人ゆえ刑を減軽す
第2章 迷走する「責任能力」認定
第3章 不起訴になった予告殺人
第4章 精神鑑定は思考停止である
第5章 二つの騒音殺人、死刑と不起訴の間
第6章 分裂病と犯罪の不幸な出合い
第7章 日本に異常な犯罪者はいない?
第8章 闇に消える暗殺とハイジャック
第9章 心神耗弱こそ諸悪の根源
第10章 判決に満悦した通り魔たち
第11章 刑法四〇条が削除された理由
第12章 日本は酔っ払い犯罪者天国である
第13章 もう一つの心神喪失規定「準強姦」
第14章 女性教祖「妄想」への断罪
第15章 家族殺しが無罪になる国
第16章 人格障害者という鬼門を剥ぐ
終 章 古今東西「乱心」考