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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

不安な遺産相続人

2022-10-26 18:20:05 | 読んだ本

E・S・ガードナー/尾坂力訳 昭和五十三年 ハヤカワ・ミステリ文庫版
また古いペリイ・メイスンシリーズを読みなおしてみた。
というのも、こないだ読んだウッドハウスの『がんばれ、ジーヴス』のなかに、
>この有無を言わさぬ生存欲求は、アール・スタンレー・ガードナーを読んでいた間にもおそらく訪れていたのであろうが、しかし僕は殺人に使用された銃と替え玉の銃とペリー・メイスンが植え込み中に隠した銃の動向に目を光らせるのにあまりにも集中していたため、それに気づかなかったのだ。(『がんばれ、ジーヴス』p.81)
なんて一節があって、へー、イギリスの若紳士でも滞在先の夜寝る前にガードナー読むんだ、なんて思ったからで。
本作には凶器として銃は出てこなかったけどね、原題「THE CASE OF THE HORRIFIED HEIRS」は1964年の作品。
プロローグとして、金持ちの未亡人が何回目かの胃腸障害から回復して退院するとこから始まるんだが、何者かが心臓の弱い彼女を狙って薬物を混入させていることを匂わせる描写がある。
それから、ようやくメイスンの依頼人が登場する、いつものように弁護士事務所に相談しにくるパターンぢゃなくて、まずは空港でトラブルにあう様子が書かれる。
遅れて出てきた自分のスーツケースを取り上げると、警察が寄ってきて、中身はなんだ、見せてくれるかという。
なんのやましいこともないので応じると、なかには身に覚えのない、小さな包みが入ったいくつかの透明な袋が入ってて、麻薬を運んでいるという情報があったのだ、同行願いたいって調子で拘束されちゃう。
取り調べを受ける彼女ヴァージニアは、前に法律事務所で働いてた関係でペリイ・メイスンを知ってたんで、電話をかけて助けを求める。
弁護を引き受けたメイスンは、さっさと開かれた予審で彼女の無実を勝ち取るが、誰が何のためにそんな罠仕掛けたのかって疑問は残る。
そうすると今度は、ヴァージニアのところへ得体の知れない男がやってきて、彼女が前に秘書として働いていた弁護士の書類ファイルを探しているという。
弁護士が亡くなった後は、農家をやってる弟のところにファイル一式は倉庫に入れっぱなしになってるが、そこへ正体の知れない男がやってきて何かを探してさんざ荒らしていく。
自分の関係した事件の協約書の写しを探しているとか言ってたが、どうやら男が探しているのは遺言書の写しではないかとメイスンは推測する、遺言書にはヴァージニアが証人として署名するんで、その関係で彼女がトラブルに巻き込まれてんぢゃないかと。
そうこうしてると、ヴァージニアは金持ちの未亡人から重要な秘密の件で会って相談がしたいと呼び出されて、メイスンからは家にいろと言われてたけど、指定の場所に出かけてく。
メイスンもそこへ出かけてくんだが、当の未亡人は来てなくて、途中の海岸沿いの道で別の車にぶつけられる事故にあい、彼女の車は崖から転落した、運転手は助かったが、未亡人は見つかっていない。
ぶつけた車はヴァージニアのものだってことで、自分はその時間は室内にいて運転してないって言っても、容疑者にされちゃう。
それにしても、依頼人の車に衝突事故あった損傷を見つけたとたんに、その場で自分の車と依頼人の車をぶつけて、車の傷がなにがなんだかわかんなくしちゃうとかって、あいかわらずスレスレの行動をメイスンはとったりするんだが。
かくして、死体がまだあがらないって異例の状況のなかで、予審が始まるんだが、いつものように圧倒的不利と思われる立場からメイスンは逆転を図る。

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がんばれ、ジーヴス

2022-10-20 18:16:31 | 読んだ本

P・G・ウッドハウス/森村たまき訳 2010年 国書刊行会
5月末ころに地元で買った古本、最近になってやっと読んだ。
原題「Stiff Upper Lip,Jeeves」は1963年の刊行だという。
だけど、物語は、私にとってはこないだ読んだばっかりの、1938年に書かれた『ウースター家の掟』のつづき。
登場人物も舞台となる館もいっしょ、やってることもほぼ変わんないって感じ。
トトレイ・タワーズってその場所を訪問した際、前回ひどい目にあった語り手バーティー・ウースターは、あそこには二度と行くまいと決意している。
もっとも、客人としてのバーティーにも問題あることは自身で認めていて、
>僕の話をすればだが、僕の滞在を一週間以上我慢できる主人にも女主人にも、僕は会ったことがない。実際、一週間よりはるか前に、晩餐テーブルの話題はロンドン行きの列車の便がどれほど結構であることかに傾きがちになるのが習わしである。つまりその場にいる人々は明らかに、バートラムがそれを利用してくれぬものかと切なく願ってやまずにいるということだ。二時三十五分のところに大きくバッテンをして「最高の列車。強くお勧め」と添え書きされた時刻表が僕の部屋に置かれているのは言うまでもなくである。(p.19)
なんて語っている、いいなあ、こういうユーモア。
ところが、友人のスティンカー・ピンカーがやってきて、婚約者のスティッフィーが「バーティーにやってもらいたいことがある」って言ってんで、トトレイに来てくれという。
スティッフィーのことについて、バーティーは、
>彼女ときたらごく幼少のみぎりより、人々の頭を白髪に転ぜしむるべく企図された何かしらキチガイじみた計画に着手しないことには日の沈む日の一日とてないのである。(p.28)
という評価をしてるんで、もちろん断る。
友人が困っていたら手を差しのべずにはいられないっていう、一族の掟に逆らうことは心痛むが、あそこに関わることだけはイヤだから。
ところが、これまた前作でもお騒がせを巻き起こしていた友人のガッシー・フィンク=ノトルが来て、婚約者のマデラインのやつはむかむかするとか言い出したんで、状況は変わってくる。
いろいろな行き違いがあって、もしガッシーがマデラインと結婚しないと、バーティーはマデラインと結婚しなきゃいけなくなる、それは絶対避けたい。
というわけで、結局バーティーはトトレイに出かけてって、若き恋人たちの未来のために一肌脱ごうとして、騒動になる。
館の主人であり、元判事で、バーティーを忌み嫌っているサー・ワトキン・バセットや、その友人で、でかい図体でゴリラ呼ばわりされる、ファシスト党首のロデリック・スポードと何かにつけてトラブルになる、スポードはすぐ人の首を折りたがる凶暴な人物。
それに、バーティーはバセット氏の蒐集品を盗みにきたんぢゃないかと疑いをかけられるのも、前回といっしょ。
さすがのバーティーも、
>この家には呪いが掛かってるんだ、ジーヴス。どこを見たって散らされた花々と閉ざされた希望で一杯だ。空気の中に何かあるんだろうな。こんなところを脱出するのは早けりゃ早いほどいい。(p.148)
と逃げ出したがるんだけど、状況は悪化して泥沼にはまってく一方になる。
はたしてジーヴスはその叡智をもって困りきってる若主人様を救うことができるのか、って気になるんだけど、最後は当然めでたしめでたしになる。
どうでもいいけど、このジーヴスものの世界では、用があるときは電報を打つものだとばっかり思ってたが、バーティーをかわいがるダリア叔母さんなんかは、よく電話をかけてくる。
そのダリア叔母さんが電話でバーティーに言うのは、トトレイにジーヴスを連れて出掛けるって、バセット氏はジーヴスを自分のとこに引き抜こうとするんだから気をつけなさいよ、って警告、ダリア叔母さんのコックのアナトールを引き抜こうとした前例があるので、こっちのほうの展開にも注目させられる。
なお、本書には以下の三つの短篇も収録されているんだが、これらはいずれも、私は『ドローンズ・クラブの英傑伝』で読んだことあるものだった。
「灼熱の炉の中を通り過ぎてきた男たち」Tried in the Furvace
「驚くべき帽子の謎」Amazing Hat Mystery
「アルジーにおまかせ」Leave It to Algy

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続 風の書評

2022-10-12 18:39:40 | 読んだ本

百目鬼恭三郎 昭和58年 ダイヤモンド社
前に読んだ『風の書評』の続編、古本屋で並んでたので、五月下旬だったか同時に買っといて、最近読んだ。
初出は『週刊文春』の1980年9月から82年9月の連載、匿名書評コラム「ブックエンド」だということで。
前著『風の書評』では、その連載が継続中なので著者名は匿名そのままで「風」としてたが、本書については連載が終わってるんで実名で出版したと。
匿名書評を嫌う作家は多く、しかもこの書評は悪口いう場合が多いんで嫌われていたというが、特に、
>わけても、人からはほめてもらうことしか期待しない女流作家と、ヨイショ専門の編集者としか交渉がなく、日頃批評の対象になったことのない大衆文学の作家の、匿名批評に対する反応はすさまじいようだ。(p.188「笑え!匿名批評」)
ということらしいが、匿名批評のもつ、著者の存在感よりも論ずる主題だけが存在する普遍性という価値については、このあとがきのところにくわしい。
いやー、しかし、たしかに悪口の言いようがすごいから、紹介されてる本がなんだかは入ってこなくて、こりゃダメだ的印象しか残らない。
>当節は、格好だけはりっぱだが、中味は中途半端、といった本がふえているようだ。(p.27「村井康彦編『年表日本歴史2』」)
とか、
>近年、えたいの知れないヌエ的な本がふえてきた。(p.54「集英社版『日本の街道4』」)
とか、
>(略)歌の名所紀行だが、例によってはなはだ杜撰であり、この著者にはものを書く厳しさが欠けているとしか思えない。(p.58「馬場あき子『歌枕をたずねて』」)
とか、
>四季の風物について書いた随筆くらいつまらぬものはない。読者は、月並みな風物の配置と紋切り型の描写に、うんざりさせられるだけである。世間にゴマンといる俳人の俳句とおなじで、筆者の自己陶酔以外の何物でもない。(p.65「堀古蝶『続筆洗歳時記』」)
とか、
>要するに、作者の知識不足、取材不足と、想像力の欠如というほかはないのである。
>文章力の不足もまためだつ。(略)私にいわせると、作者はまだ小説を書くだけの文章力をもっていないのだが、不思議にも、選評で各委員は、文章力があるとべたほめなのである。(p.82「斎藤澪『この子の七つのお祝いに』」)
とか、ビシビシ言ってる例は枚挙にいとまがないけど、気持ちよく響いてくるのはひとつの芸なんだろう。
あと、
>高名な歴史家を父にもち苦労もなしに有名人になったお坊っちゃんの著者でも、まさかこんなおめでたいことは思っていないだろうから、出版社の詐術とみて「読者をなめるな」と警告しておく。(p.77「羽仁進『自分主義』」)
とか、
>(略)私にはこの作者は読者をナメているとしか思えなかった。(p.113「文学賞(昭和五十六年度)雑感)
とかって、読者をなめているって怒りの表現が、いいかげんなものがあふれてる出版界への警告として、至極もっともって感じがしていい。

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本が好き、悪口言うのはもっと好き

2022-10-05 19:02:30 | 読んだ本

高島俊男 1998年 文春文庫版
著者の『お言葉ですが…』なんかがおもしろいんで、このエッセイ集も古本を買い求めてみた、今年5月ころだったかな、読んだの最近。
単行本は1995年だそうだけど、ひとつづきの連載ものぢゃなくて、あちこちに書いたものから選んで集めたらしい。
タイトルからして、辛口の書評集かなにかかと想像したけど、そういうわけではないし、なにも全編悪口ということでもない。
それでも、やはりというか、悪口言う相手は、日本語のまちがった使い方なんかが主な対象になるようだ。
新聞の言葉づかいがヘンだとかね、でも私も、「指摘する」って語は「おおむねマイナス価値を持ったものを指す場合に用いる」、対象になるものは「弱点・誤り・問題点・疑問点」だ、ってことは知らなかったな、なんでも使っちゃってた。
それと、あいかわらず著者は辞書に対しても厳しくて、辞書が版を改めると新しい語を入れる替わりに古い語を削除しちゃうのはとんでもないとして、
>国語辞典は、われわれが、薄皮一枚の下を部厚く支えている過去と対話するための辞書である。日々死滅してゆくことばを削除してはならない。辞書の項目の増加は、われわれが過去と対話する便宜の増加にほかならぬ。辞書が削除してしまったら、われわれはどこへ聞きにゆけばよいのだ。(p.55)
みたいに論陣を張る、ごもっともであります。
一読したなかでおもしろかったのは、なんといっても「ネアカ李白とネクラ杜甫」、中国二大詩人をとりあげたもの、こういうこと教えてくれたら学校の国語の漢文の時間だってもうちょっと楽しかっただろうに、と思った。
純真な青年の杜甫と、無責任なオッサンの李白、正反対の二人だが、実際に出会ったときは意気投合したらしいけど。
>李白は陽気で八方やぶれの男である。杜甫は律儀でクソマジメでシンネリムッツリ型である。つまり、李白はネアカで杜甫はネクラである。
>これは二人が宴会に出たところを見ればよくわかる。
>杜甫はすみっこに陰気な顔ですわっていて、ときどき上目づかいにみんなの騒いでいるようすをチラチラ見たりもするが、それよりもごちそうを食うのにいそがしい。(略)
>李白のほうは、なるべく目立つ所に陣どってもっぱら酒である。あわせて手ぶり身ぶりでにぎやかにしゃべる。興がのってくると、まんなかへ出ておどりだす。(略)
というような書きぶりがまことにおもしろい、それにしたって、それは相当キャラを脚色してるだろと思うと、
>――こら、見てきたようなウソを言うな、などと言っちゃいけない。李白にしろ杜甫にしろ宴会の詩は非常に多い。それらを片端からたんねんに読めば、右のごとき情景はおのずから眼前にホウフツしてくるのである。(p.173)
と断言されちゃったりする、勉強してるひとにはかなわない。
そうかと思うと、
>杜預はこの本がたいへんに好きであった。みずから「わたしは左伝癖があります」と言っている。癖というのは「ほとんどビョーキ」というような意味で、わが国で「あいつは盗癖がある」などと言うのは、実はこの杜預の「左伝癖」から来ているのである。(p.176)
って杜甫の十三代前の祖先に由来する言葉の話とか、
>(略)中国人は世代というものを非常に重んずる。一つないし二つ上の世代に位置づけられることをよろこび、同じないし下の世代に位置づけられることをきらう。(略)
>(略)日本ではわかく見られるのをよろこぶが、中国では世代の観念のほうが優先するから、たとえば二十代の女性が十二三の女の子に「おねえさん」と言われたら、侮辱されたと感ずるのである。
>子どもがケンカをすると「おまえはおれの孫だ!」とののしる。(略)(p.182-183)
って中国文化の解説とか、してくれちゃうので、まったくもって油断ならない、ためになる読物だ。
そんなふうにして古の詩人のエピソードだけを紹介するのかと思いきや、
>李白と杜甫はいろんな点で好対照の、あるいは正反対の人であるが、その最も対照的なところは、本領とする詩の分野と性格にある。李白は古詩と七絶に長じ杜甫は律詩・排律に秀でる。逆に李白の律詩は凡庸であり杜甫の絶句は見るに足りない。そして二人の得意の範囲をあわせるとちょうど中国の詩の全分野をカバーする。(p.201)
ってマジメな詩に関する話で結ばれるのである、すばらしい。
一方で、日本の短詩型である俳諧について、「なごやかなる修羅場」のなかで、
>こういうところを見ると、俳諧の一座というのは、和気藹藹たる敵意の衝突であることがよくわかる。それはそうであろう。単なるなごやかさのみであったならば、昔からあんなにも多くの人が俳諧に夢中になったはずがない。俳諧は、人間の、人とまじわり親しみたいという本能と、人とたたかいねじりふせたいという本能とが、ともに満足させられる場である。(p.208)
って書いてるのも、鋭いとこ突いてると思わされた。
あと、「「支那」はわるいことばだろうか」という長めの一篇は、勉強になった。
中国には移り変わっていく国号はいくつもあるけど、各時代を通じての全体を指す客観的な名称が存在しない、「中国」ってのはもともとは「わが国」ぐらいの意味、それも「世界の中央にあるわれらのいるところ」ぐらいの意味だ、といったことが整然と説明されてて、歴史と言葉に関して蒙を啓かされるものあった。
(どうでもいいけど、いまパソコンで書いてたら「支那」が変換で出てこない、使うな、そんな言葉はないって意図だろうか。前にも(具体的な語忘れたけど)いわゆるわるい言葉を入力しようとしたら変換候補として出てこなかった記憶がある。そんな言葉は抹殺しちゃえという考えもあるのだろうが、メジャーな企業によるそういうの、なんか危うさを感じる。)
I うまいものあり、重箱のスミ
 あくび問答
 ボウゼンたるおはなし
 FREEZE!
 握りまして先番
 年は二八か二九からず
 まつくろけの猫が二疋
 わが私淑の師
 「コウハイ」と「ハタイロ」
 国語辞典は何のためにあるか
II 新聞醜悪録
 新聞醜悪録
 いやじゃありませんかまぜ書きは
 母なる語の子守歌
 天 夫氏を以て木鐸と為す
III 書評十番勝負
 健全とは、こういうものである
 かかりつけの書評家を持つ幸せ
 豊饒でやたらおもしろい漫画である
 大衆に敗れたエリートのほろにがい笑い
 「イコノロジー」を素人にもわかりやすく解説
 楽しい楽しい言葉のセンサク
 動物行動学の危険性
 二種類の外国人
 善良でのんびりした時代の旅行記
 これこそ目利きというものだ
IV 「支那」はわるいことばだろうか
V ネアカ李白とネクラ杜甫
VI なごやかなる修羅場
VII 湖辺漫筆
 知らず何れの処かこれ他郷
 よい子はあいさつ忘れない
 巨人の星を倒すまで
 税務署よいとこ一度はおいで
 かすみのころもすそはぬれけり
 つかまったのが何より証拠
 おれはひとりの修羅なのだ
VIII 回や其の楽を改めず

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