堀井憲一郎 1994年 扶桑社文庫版
前回の丸谷才一さんの文庫本は、合本だと思ったら完全ぢゃなかったんで元の本を買い直したってやつだったんだが。
今回のは、好きな本だと単行本すでに持ってるくせに文庫も買っちゃっうこともあるってパターン。
いや、『ホリイの調査』は確かに持ってるんだけど、去年の秋だったか古本街をさまよってたら見つけてしまって、文庫もあるんだ知らなかったと思った次の瞬間には衝動買いしてしまった、っつーだけのことだが。
(私は見かけたの初めてだったんだけど特にレアではないらしく普通の古本の文庫本の値段だった。)
何か新しいこと増補してないかちょっとだけ期待したが、特に変わってなくて、最後に文庫版あとがき代わりに、「『ホリイの調査』の書評・評」というのがあっただけ。
「書評・評」ってのは、1993年に単行本出たときに雑誌・新聞で17誌が書評・新刊紹介でとりあげてくれたんだが、それを比較検討しているもの。
例によって最後にはランキングをつけるんだけど、これがただの文字数のカウントなんかぢゃなく、「愛の深さランキング」を勝手につけてるとこが、らしいといえばらしい。
1位はなんと『子供の科学』で、インタビューを受けて、しかも破格の3ページの記事になって、さらには「調査といえば、みなさんにとっては、夏休みの自由研究。堀井さんのお話には、たくさんのヒントがあったように思います」なんて子供に呼びかけちゃってるという肯定的な内容。ホリイさんは「だめだよ、こんなのヒントにしちゃ」と言ってますが。
そりゃなんたって、たとえば「川崎球場887人の謎」って何をやったかっていうと、1986年10月16日(木)に川崎球場の消化試合のデーゲーム、ロッテ・南海戦で、調査員4人で出かけてって、双眼鏡と数取り器つかって、観客数を実際に数えてみたって話だ。
ちなみにこの日は外野席が無料開放されてたんだけど、5回表から数え始めて5回裏の時点では、外野515人、内野372人、合計887人が実際の人数だったという。
それで終わりぢゃなくて、翌日の新聞を見るとロッテ球団の発表した観客数は2000人なので、球団に電話した。
(いまは実数を発表するようになったけど、当時はザクっとした数しか発表してなかった。)
訊いてみると、「各入口から4回終わったくらいの入場者数の集計が来るのでそれを使う」、「それ以降どれくらい入るかという見込みも加えて、だいたいの数字を発表する」、「実際には券はもっと売れていて、5000席ぐらいのシーズン予約席というのは売れているわけで、そういうのも加味して発表する」などとツッコむたびに回答がえられる。
「最終的には球団と球場が相談してですね、発表するわけです」なんて答えを引き出して、観客数という客観的そうなものでもあまり科学的でない方法で決められていることがわかった、なんて結論に至る。
この電話で直撃取材するっていうのも、数えるだけぢゃなくて、あらゆる調査の基本にあって、あちこちに同じこと訊いた結果、回答のなかみに応対具合なども加えて、勝手にランキングをこしらえたりするのがおもしろい。
スキー場に「クマは出るのか」と聞いてまわったときの危険度状況1位は、富山・立山山麓スキー場の「見られるってえか、なんか出没しておりまして、そいでもー危険なもので、地元のほうで猟友会の方が出とったりしておりますんで」とか。
動物園に「珍しい動物はいますか」と聞いてまわったときの好感度1位は、釧路動物園の「ヘラジカっていう、シカでは最大なのがいるんですよ。馬ぐらいあります。ついこの間、日本で初めて赤ちゃんが産まれましてね。日本で初めて繁殖して、6ヵ月以上生育しますと、繁殖賞ってのが授与されるんですよ。全国の飼育係の勲章ですね。みんなで挑戦してるんですよ」とか。
百貨店に電話して「屋上には何がありますか」と聞いてまわったときの自慢ランキング1位は、岡山・天満屋百貨店の「えー、遊園地があるんですよね。あのー、観覧車ですか、それがあるし。なんかね、モノレールみたいなもんでカッコイイやつがあるんですよ」で、ほかのところが子供遊びなものしかありませんと恥ずかし気なのに対して「胸張って主張できる明るさがえらい」と評している。
コンテンツは以下のとおり。
川崎球場887人の謎
23区区役所に電話する「マークの由来は何なのだ」
TVを数える
日が替わる瞬間のTV
ビデオテープを探し求める旅
山手線29駅で駅員に乗り換えを訊ねる
山手線29駅の改札を不足キップで突破する
大使館に電話する「国歌を教えてもらいたい」
駅伝美人コンテスト
スキー場に電話する「クマは出るのか」
ロコスキー場に電話する「そこはロコ?」
坂口良子を吟味する
動物園に電話する「何がいるのだ」
ペコちゃんの頭を叩く人
都会のまぬけな待ち時間
政党に電話する「漫画アクションを知ってますか」
昭和天皇の崩御、その時あなたは
映画館に電話する「その名前は何なのだ」
報道TVカメラマンの根性の違い
百貨店に電話する「屋上には何があるのだ」
たけしの首ふり
東京地下鉄1万9887歩の乗り換え
人探し広告の不思議な世界
私家版・コーラ目隠しテスト
編集部の本当の忙しさ
編集部の原稿催促ファクス公開
『ホリイの調査』の書評・評
堀井憲一郎 2020年7月 東京ニュース通信社
私の好きなライター、ホリイ氏の新しいものが出たと知ったので、さっそく買って読んだ。
タイトルはなんのこっちゃと思わせて、なかみはそのまんまで、テレビドラマのレビューというか、この女優はこういうところがいいねみたいな話の数々。
なーんだ、とっつきやすそうにみえて実は深い若者文化論でもブッテくれるんぢゃないかと、ちょっと期待したんだが、ちがった。
私はテレビあんまりみないし、特にドラマってほとんどみないから、書いてあることの意味はほとんどわからない。
それでも、ふんふん、そういうものかと、読んでっちゃうんだから不思議なものだ。
だいたいドラマのなかみの前に、俳優の名前と顔が一致しないよ、一部しか。
なかには、あー名前知らないけど見たことある顔だね、ってひともいるけど、ほかのそういう俳優と並ばれたら、もう見分けがつかない。
(悲しいね、若い人の顔の見分けができないのは、そういう認識能力が落ちているかららしいし。)
高畑充希については、私はほとんど知らなかったんで、JRAのCMに出てから顔がわかるようになった程度。
そのお芝居については断片的な映像を見るくらいなんだけど、なんだかやたらと目を丸くするひとだなという印象がある。
本書ではホリイ氏が役によってみせる顔の違いについて、
>ヘアスタイルやメイクだけの問題ではなく、目の力だとおもう。
>おそらく「黒目をどんな状態にするか」ということを意識的に操っていて、それで表情を変えているのだろう。そういう不思議な部分に惹かれていってしまう。
>高畑充希が、2010年代の若者の不安をしっかり引き受けてくれている気がする。(p.18)
なんて言って、ホメている、ホメているんだろうな。
んー、そーかー、きっと同世代の若いひとは、そういう顔をみて、なんか感情の動きを共感できるんだろうな、それでイイと思うんだろう。
現実世界でああいう演技の顔する人と出っくわしたら、私なんかは、自分の思ったことを言葉にできないで変な顔するような奴だな、なんて受け取るんぢゃないかという気がするが。
ところで、全然べつの、有村架純の『中学聖日記』の話題のなかで、ホリイ氏は、
>人の心、恋する心をきちんと描こうとしているので、セリフでの説明が少ない。その表情の変化を追っていかないといけない。いろんな気持ちが言葉では説明されないのだ。たしかに恋愛とはそういうものだろう。
>画面を見ずに音を聞いてるだけでは、肝心の部分をけっこう見逃してしまう。そういうドラマだった。(p.99)
と言って、ホメている、ホメているんだろうな、「とても丁寧に作られていた」って書いてるんだし。
そーかー、表情でなんかしようと思うと、そういう目になるのかなって気がしてきた、私のなかでは新垣結衣という女優さんもやたらと目を丸くする印象があるので、なんかそういうのが流行りなのかなと。
まあ、なんせあまりドラマとか観ないので、よくわかってはいないんだが、なんか人間というよりもアニメのキャラクターの動きみたいな感じするんだけど、そういうのも立派な芸なんだろう、きっと。
人の顔ささておき、ドラマのテーマにふれて、ときどき著者が、
>大人に比べて若者はいろんな部分で劣るかもしれない。
>ただそのまっすぐなおもいは、世界をよい方向へ変える可能性を持っている。(p.74)
とか、
>わが社会のチーム仕事のむずかしさは、責任者はいるものの、強力なリーダーシップを取らないぶん、責任の所在があいまいになってしまうところにある。(略)空気が人を動かしているからだ。(p.80)
みたいな言説をあやつるとき、お、現代のドラマにみる日本社会の課題、みたいな展開を期待するんだが、本書は役者の魅力について語るのがメインなんで、そっちのほうへは行かない。
どうでもいいけど、全体的にパラパラとした感じの本で、いつもに比べたら、なんか改行でページ数増やしてるようにすら見えるんだけど、あとがきによればインターネット記事として書いたコラムが元だということなので、そういう環境だとそうなるのかもしれない。
それでも、ネットで読めと言わずに、紙の本にしてくれるところが私としてはうれしいが。
コンテンツは以下のとおり。
高畑充希が演じる役はなぜ忖度できない若者ばかりなのか
生田斗真の「働いたら負けだ」とおもわせる力
木村拓哉が演じる役には世界を変えてしまう力がある
多部未華子の役どころは、真面目に見られる女子の苦悩を一手に引き受けている
驚くほど幅の広い役を演じるフェミニンな深田恭子の魅力
小芝風花が見せる居場所を与えられない若者の苦悩
ああいう人に私もなりたいとおもわせる吉高由里子の力
ひたすら切なく古風な香り、有村架純の役どころ
二階堂ふみが醸し出す妖しい世界
石原さとみの演じる役は、なかなか幸せにはなれていない
戸田恵梨香の「どんな役でもやれる」という役割
新垣結衣が演じる役は、世界を明瞭にして、すべてを受け入れる
綾瀬はるかの役柄は「自己肯定していく力」が魅力
配役を通してこれからの大河ドラマを考える
注目度が半端ではない朝ドラヒロインの世界
…って、驚いた。私の使ってるパソコンの日本語入力・漢字変換はバカでちっとも学習しないんだけど、上記の俳優の名前の部分だけはすべて一発で正しく変換した。
「ふみ」とか「さとみ」とかはムリヤリ漢字当ててきそうなものをサラッと仮名で返してきたし。
「辞書に載ってる名前」ってことなの?
堀井憲一郎 2019年10月 東京ニュース通信社
私の好きなライター、ホリイ氏の新しいのが出たので読んだ、先月買った。
わかりやすいタイトルで、とりあげられているのは、そういうこと。
『テレビブロス』という雑誌で1987年から1990年までホリイ氏が連載していた「かぞえりゃほこりのでるTV」というコラムの原稿を出してきて、それについて現在の視点からテレビがどう変わったかってことを論じてます。
私なんかも昭和から生きてるんで、そうそう、そんなんあったねえと思うことしきり、昭和に比べて今テレビ観てないから、現状のほうがわかってなかったりして。
個別のこまかいことはともかくとして、全体的な感じとしては、かつてはバラエティ、ワイドショー、ニュース番組ってきっちり区分けがあったんだけど、いまそれらゴッチャになって、情報番組つくろうとしてるってことかなと。
>お昼休みといえども、何かしら役に立つことをみんな求めている、という空気が前提になっているのだろう。それにテレビが反応して、情報番組が並んでいる。落ち着きがない。(p.130)
とか、
>まあ、お楽しみバラエティが情報番組に蹂躙されていくという図式ですね。(p.140)
とかってことらしい、ここで言ってんのは主に平日昼のテレビのことだけど。
しかもねえ、詳しくない私が言うのもなんだけど、どこのテレビ局もおんなじようなことしかしないからねえ。(テレ東はちがうか?w)
お昼にかぎらず、ゴールデンタイムも変わってきてて、たぶん結論といってもよいことは、
>書いていて、そうか、「お茶の間」存在の問題か、といま気づいている。
>かつてテレビを見てる場所を「お茶の間」と呼んでいた。テレビのなかから、ときにお茶の間へ呼びかけることもあった。いま、視聴者のいる場所を「お茶の間」とは規定していない。(p.156)
ってことなんだろうと思う、しかたないっていえばしかたないのかもしれない。
それに気づかないというか、昔の夢が忘れられないひとが、年末に昔とおんなじような放送をして、また視聴率がとれないとか言ってんぢゃないかという気もする。
視聴率はどうでもいいとして、ホリイ氏は例によっていろんなものを数えてんだけど、本書で(といっても実際数えたのは30年前になるわけだが)いちばん驚いたのは、『ねるとん紅鯨団』の告白の勝敗数。
1988年秋から翌89年2月までの18回の放映、220人分の勝敗トータルが記載されていて、意外と高いなと思った。
おもしろいのは、参加者のプロフィールにある「理想のタイプ」のタレント別に集計してることで、そういう発想いいな。
その時期の1位は中山美穂で14名、その告白勝敗は4勝10敗、勝率は.286なんだけど。
全220人の勝率は、それより高いんだが、あえてここには記さない。
あと、集計について、プロであるホリイ氏は、コマーシャル出演者についての真理を次のように明かしている。
>テレビを見てると、コマーシャルで露出している人に偏りがある感じがして、つい調べたくなるのだけれど、偏りを感じてるのは、ほぼ思い込みですね。テレビのコマーシャルを何回も何年も調べてるうちに気づきました。(略)
>(略)それを集計すると、だいたい「何でもない」という結果がでるんですね。何十回とやって、徒労に終わる調査だと気がつきました。(p.41)
そうかあ、そういうものなんですか。
コンテンツは以下のとおり。見出しを見ただけで、なんとなく30年間で無くなったものを想像することができる。
1 地上波からきれいになくなった時代劇
2 昭和、平成、令和を生きる『サザエさん』はすごい
3 微妙に変わってきた朝ドラにおける女の人生縮図
4 昭和の終わりのテレビコマーシャル
5 テレビの中で外国人をたくさん見かけていたころ
6 もう見られない究極の深夜テレビ「砂の嵐」
7 夕方のニュースキャスターは男女ペアが定番だった
8 ドラマにおける電話と食事のシーンの30年
9 本当にいつのまにかなくなっていた昼の帯ドラマ
10 大河ドラマは、変わってほしくない「日曜の夜もの」のひとつなのだろうか
11 衝撃!!独占!!緊急大発表!!ワイドショーの刺激的な秘密
12 平日の午前中に放送されていた「ドキュメント女ののど自慢」
13 夏の夜は地上波で毎晩巨人戦を見ていた
14 かつてお昼休みはのんびりする時間だった
15 『笑っていいとも』の中心はテレフォンショッキングだった
16 海外旅行が憧れだった時代に飛ばしてたアメリカンジョーク
17 家族そろって見るテレビ『連想ゲーム』
18 『オレたちひょうきん族』はおしゃれな番組だった
19 これこそがバブルの象徴『ねるとん紅鯨団』
20 これから売れそうな若手を起用した『夢で逢えたら』
21 『風雲!たけし城』を見ながら結婚年齢について考えた
22 深夜になると「何でもあり」の世界があった
堀井憲一郎 二〇一九年 本の雑誌社
私の好きなライター、ホリイ氏のあたらしい本が出たと知ったので、さっそく読んでみた。
サブタイトルは、「ホリイのゆるーく調査」、なんでも『本の雑誌』という雑誌にそういうタイトルの連載をもっているそうで、そこの調査記事から50編がまとめられたのが本書。
「ゆるーく」ってのは、帯にあるように「役に立たないこと」が対象だし、ガチガチに統計固めようとしてないで手近にあったもの調べるだけで済ましてることを言ってる。
いーねー、私そーゆーの好きなんです。
オープニングは、書名のとおり、文庫本を積んでって何冊までいけるかの調査、ゆるーくなんで同じ本を積んだり、厚さそろえた材料つかったりはしません、そこにあるもので適当に。
でも実験場の編集部には出版社べつに文庫がおいてあるんで、岩波、講談社、集英社、光文社、新潮に分けて記録をとってたりします、最後に「各社連合」って混ぜたのやるとこがおもしろい。
今回の結論は、新潮文庫は積み上げに強い、ってことになったんだけど、ゆるーくなんで繰り返しの検証とかするはずもないから、それが不変の真理かどうかはわからない、どうでもいいからいいんだけど。
しかし、ふと思ったんだが、前に著者の書いたもので、「エスカレーターとエレベーターのどちらがはやい」みたいなタイトルはダメだって話があったとおもうんだけど、その伝でいくなら「文庫は40冊を超えて積むな」みたいなタイトルにしないのかな、って気がした。
ほかにも、しょうもない計測がいろいろあって、文庫の高さって微妙に違うなとは私も思ってたんだけど、実際計ってみて講談社は148.3mmなのに一番高いハヤカワは157.4mmとか。
文庫本のカバーの長さをはかったついでに、背幅をはかって、川端康成の「掌の小説」は背幅19mmで本体価格840円だから背1mmあたり44.2円で、「名人」の同57.1円よりオトクとか。
本屋大賞の歴代の受賞作をならべて、重さはかって、「鹿の王」の上巻がいちばん重くて560グラム、100グラムあたり285.7円だとか、そこ1ミリあたりとか100グラムあたりで計算しなくていいでしょってとこを計算して並べてるのがおもしろい。
本の外見ばかりで、読んでないのかっていうと、もちろんそんなことはなく。
ロシアの小説の一段落って長いよなってことで、「カラマーゾフの兄弟」の第一部の第一編は62ページあるけど25段落なんで、1ページあたりのおよその段落数は0.4段落という調査結果をえて、それを「罪と罰」とか「戦争と平和」とか、ぢゃあフランスの「赤と黒」はどうか、イギリスの「ジェーン・エア」はどうなんだと比べたりしてます。
明治の小説は漢字が多いよなってことで、夏目漱石の「吾輩は猫である」の冒頭から約5ページ、二千文字くらいまでを採取して、2073文字中に漢字は779文字だから、漢字率は3割7分5厘という結果をえて、それを漱石が1867年生まれだから、その50年後の1917年生まれの作家と、100年後の1967年生まれの作家をとりあげて比較してます。結論として、やっぱ漢字率は落ちるんですねえ。
それだって文章の外見のことだけじゃんっていうひともいるかもしれないが、ときどき出版界の現状にも切り込んでる。
新潮文庫の解説目録の2000年と2015年のを比べて、海外の作家がどんなに切られているか調査、アガサ・クリスティの10冊全部とか、パスカルの「パンセ」、ロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」なんかでも、売れないものはバッサリ切られて無くなっていると。
べつの章では、新潮文庫のフランソワーズ・サガンは1979年に16冊あったのに、2000年には9冊に減って、読者層がついていかなくなったんだろうな、とか。
若いひとは本を読まないからねえって話になると、「ぼくは本が読めないのです」という大学生について、
>病気だね。病気だ。受け身でぼんやりしている私を楽しませてくれないものはつまんないぞ病だね。(p.86)
とバッサリ。
そうそう、読者だけぢゃなくて、最近の文庫の解説はあらすじの紹介だけってのが多いことについて、
>文庫の編集者に、これでいいの、と聞いたところ「だめです、とは言えないんです」と苦しげに答えてくれていた。そりゃだめですわね。(p.39)
と厳しい。
新潮文庫の「細雪」上中下3巻を読んだところ、本文が全1101ページなのに「注」が861個もあると。なかには「え、なんでこれに注つける?」って思うものもあって、
>なんか注釈者が他社の物語として読んでるのがわかってきますね。(略)この小説の登場人物たちは、自分たちと違って金に困らない身分の人であるという解説を繰り返していて(略)(p.211)
として、これは注ぢゃなくて副音声解説だろと指摘している、1.28ページことに1注つけるかあ、と。
どうでもいいけど、私が興味ひかれたのは、本を買うだけ買って読まないでいることについて、
>本は腐ります。
>物理的にではなく、気分的に腐っていきます。(略)
>読みたいとおもって買った本は、ひとつきも手に触れないと、なんか腐っていきますね。本自身がすねてきて、「もう、読んでくれなくてもいいよ」という気配を出し始める。(略)(p.32)
って表現をして、そのあとの別の章で「未読の悪魔はどれくらいで取り憑くか」と題して、自分の机にすぐ読むつもりで積んであるけど読んでない本を分析してる。
見えない何かが取り憑いて、本を開くことができなくなる、日にちが経てばたつほどそれは強くなって、
>21日過ぎたら危険ゾーンに突入、30日越えたらほぼアウト、という結論をとりあえず出しておきます。(p.49)
っていうんだけど、日数は個人差あるだろうが、私も気をつけなきゃいけない、って思うんだけど、逆に、誰でもそういうもんなんだって安心する面もあったりして。
堀井憲一郎 2019年8月 マイナビ新書
私の好きなライター、ホリイ氏の新しいのが出たというので、さっそく買って読んだ。
これまでにも『落語論』とか落語関係の著書はあるんだけど、なにをあらためてまたと思ったもんだが。
巻末の方の宣伝見たら、教養として学んでおきたい仏教とか哲学とかあるんで、出版社側でシリーズ組みたいってことかもしれないが、哲学と並べるかね、そのうち大学の一般教養で単位くれるようになるんだろうか、落語学。
でも、ホリイ氏は、近年のちょっとした落語ブームみたいので本が出るようになってることに関して、
>落語の本は、ほんと無駄に出てますね。たぶん、無駄だとおもう。この本もその流れの一冊でしかないんだけどね。(p.193)
なんてサラッと、“この一冊を読んどきゃ大丈夫”みたいな出版社的ウリの狙いのようなものに、背を向けるようなこと言ってますが。
>「おもしろいものだけを聞いて、つまらないものを聞きたくない」という人は落語に向いていない。聞かないほうがいいとおもう。
>べつだん、落語を聞かなくたって、人生、何の問題もない。(p.188)
なんて言って、安易な“これを聞いておけばまちがいなし”みたいなガイドブック的な期待にも、応えようなんて思ってはいないみたいだし。
そんなこんなで落語そのものについては、前の著書を超えるようなものがある感じではないが、落語家に関しての考察はおもしろいとおもった。
たとえば、弟子入りしたはいいが、あれこれ教えてもらえないからわからないという人間はダメだという、
>(略)そのあと一生、ずっと自分で気付いていくことによってのみ生き延びていくわけだから、最初の時点で、教えてもらえばわかるのに教えてくれないのは教えないほうの責任だという考えを持ってる時点で、この世界で生き延びていくのがなかなかむずかしい。(p.101)
みたいなことは、やっぱ落語業界内のひとは自分たちから言わないことなのかもしれないし。
で、どうしてそういうことになっちゃうかというのを、江戸の昔と比較して説明してくれるからわかりやすい。
江戸時代は丁稚奉公にでるのと一緒で、12歳で前座、17歳から二ツ目、20代半ばで真打になるようなシステムだったんだけど、
>いわば「子供」「青年」「大人」という違いになる。
>いまは20歳を越えてから前座になるから、大人なのに子供の修行をさせられてしまうのだ。それは選んだほうが悪いということになる。落語界のほうはそのシステムを崩すわけにはいかない。(p.112)
って、二十歳過ぎてからようやく働きはじめる現代社会のほうが、落語からみたらおかしいんだと指摘する。
あと、師匠をしくじって破門ということになっても、詫びを入れれば戻れるって世界について、
>もちろん江戸時代のシステムだから、いろんな抜け道がある。日本システムのすばらしいことは、抜け道がたくさんあるところだ。日本にいるかぎりは日本システムはとても有効なのだが、世界システム(近代システム)と競合すると問題の多いシステムに見える。(p.141-142)
って近代化でうしなわれてしまった日本伝統文化論を展開してるとこがなんとも刺激的でいい。
第1章 活況を呈する今の落語業界
第2章 落語の歴史を紐解く
第3章 落語にはどういうものがあるのか
第4章 落語家とはどういう人たちか
第5章 落語と落語家をとりまく世界
第6章 寄席という場所
第7章 どの落語から聞くか