鈴木孝夫 昭和50年 新潮選書
きのうからは、日本語の勉強つながり(?)で。(ちょっと強引)
私の持ってるのは昭和58年の20刷。
たぶん高校にあがってすぐか、夏休みにでも読んだんではなかろうか。
そのころ、日本語の勉強が好きだったんで。
これは、もしかしたら、予備校の講師(国語ぢゃなくて英語の時間だったかも)から薦められたんぢゃないかと、遠い昔の記憶がある。
ひさしぶりに押入れから出してみた。(少なくともハタチ過ぎてからは読んでないな。)
そういうわけで、ブランクがあるんで、どういう本か紹介すんのは裏表紙の福田恆存氏(誰?)の推薦文から引用。
>明治以來、今日に至るまで日本語、及びその表記法は難しく非合理的で近代化や進歩の障碍になってゐるといふ偏見、或は劣等感が支配的であるが、著者はさういふ考へ方こそ如何に非合理的であるかを指摘し、一般の日本人がどうしてこの様な劣等感を懐くに至ったか、どうしたらそこから脱け出せるかについて、誰にも解る平易な文章で解明してゐる。
(↑漢字はみんな旧字体なんだけど、めんどくさいんで普通の字にしといた)
まあ、いろいろあるんですが、簡単なおもしろい例をあげると、
家族のなかで話するとき、父親は自分のこと「おとうさんは~」って言ったり、兄は「お兄ちゃんのペンどこやった?」って言ったりしますが、逆はないですね。
逆ってのは、弟が「弟にそれください」とか言わないってこと。
だいたい、そんな感じで日本語の人称って、そのグループんなかでいちばん下の立場の人のから見た視点で作られたりすんですよね。
自己の位置が相対的なんです、英語だったらI=アイは誰が相手でも絶対Iですが。
相手によって自分の立場っていうか存在が決まる、人間関係の把握のしかたがそうだから、相手と同調しちゃおうとする。
また会話の例をあげると、外国人にカタコトの日本語で話しかけられると、カタコトで返しちゃったりする、英語圏のひとってそんなことしない。
状況が変われば言葉の使い方も変わっちゃう、そういう性格が、自我構造っていうか、ものの考え方、コミュニケーションに影響してないわけない。
言われてみれば、ふしぎな言語です。
きのうからは、日本語の勉強つながり(?)で。(ちょっと強引)
私の持ってるのは昭和58年の20刷。
たぶん高校にあがってすぐか、夏休みにでも読んだんではなかろうか。
そのころ、日本語の勉強が好きだったんで。
これは、もしかしたら、予備校の講師(国語ぢゃなくて英語の時間だったかも)から薦められたんぢゃないかと、遠い昔の記憶がある。
ひさしぶりに押入れから出してみた。(少なくともハタチ過ぎてからは読んでないな。)
そういうわけで、ブランクがあるんで、どういう本か紹介すんのは裏表紙の福田恆存氏(誰?)の推薦文から引用。
>明治以來、今日に至るまで日本語、及びその表記法は難しく非合理的で近代化や進歩の障碍になってゐるといふ偏見、或は劣等感が支配的であるが、著者はさういふ考へ方こそ如何に非合理的であるかを指摘し、一般の日本人がどうしてこの様な劣等感を懐くに至ったか、どうしたらそこから脱け出せるかについて、誰にも解る平易な文章で解明してゐる。
(↑漢字はみんな旧字体なんだけど、めんどくさいんで普通の字にしといた)
まあ、いろいろあるんですが、簡単なおもしろい例をあげると、
家族のなかで話するとき、父親は自分のこと「おとうさんは~」って言ったり、兄は「お兄ちゃんのペンどこやった?」って言ったりしますが、逆はないですね。
逆ってのは、弟が「弟にそれください」とか言わないってこと。
だいたい、そんな感じで日本語の人称って、そのグループんなかでいちばん下の立場の人のから見た視点で作られたりすんですよね。
自己の位置が相対的なんです、英語だったらI=アイは誰が相手でも絶対Iですが。
相手によって自分の立場っていうか存在が決まる、人間関係の把握のしかたがそうだから、相手と同調しちゃおうとする。
また会話の例をあげると、外国人にカタコトの日本語で話しかけられると、カタコトで返しちゃったりする、英語圏のひとってそんなことしない。
状況が変われば言葉の使い方も変わっちゃう、そういう性格が、自我構造っていうか、ものの考え方、コミュニケーションに影響してないわけない。
言われてみれば、ふしぎな言語です。
