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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

「わからない」という方法

2021-11-28 18:16:01 | 読んだ本

橋本治 二〇〇一年 集英社新書
このブログの第一回の記事は、『男の編み物、橋本治の手トリ足トリ』というちょっと変わった本なんだが。
こないだ、そこんとこ読み返してたら、著者がどーしてセーターの本を書いたのかは、『「わからない」という方法』に書いてある、って自分で書いてたのを忘れてたんだが。
ブログ内検索したら、見つからない、ない、『「わからない」という方法』、あげてなかったのか。
本はどこ行った、って探したら、まあ、しまい込んでましたが、無事発見。
で、読み返してみたんだけど、持ってるのは2005年の15刷、なんでこれ読もうと当時の私が考えたのかはまったくおぼえていない。
>私の書くものは、時としてくどい。もしかしたら、「いつもくどい」かもしれない。どうしてそうなるのかと言えば、書き手である私が、いつもいつも「なんにも知らない、なんにもわかっていない」というところからスタートするからである。(p.93)
っていう一節があるんだけど、まあ確かに、たいがいくどい。
しかし、セーターの編み方のように誰かに何かを教えるときには、なんにもわかんない人を対象として、筋道を説明して納得させるプロセスが大事で、反対に「これだけ覚えればよくて、簡単だから覚えなさい」的な世間一般のやりがちな「わかりやすさ」って方法は、理解に結びつかないという。
>「わかるべきこととはいかなることか」を知るのは、「至るべきゴールの認識」である。それがわかれば、後は努力だけである。(略)
>「わからない」を口にしたくない人間は、見栄っ張りの体裁屋である。(略)だから、「わからない」を探さない。それを探すのは「できない自分」を探すことになって、「できる」とは反対方向へ進むことだと考えてしまう。(p.104)
って、「わからない」を掘り起こして、自分の基準にあわせて「わかる」を再構成することが大事なんだと。
編み物の話だと、ふつうの編み物教室では、できて当然、ほら簡単だからできるでしょ、みたいな下手な教え方をして、丁寧にとかキレイにとかって“お作法”を強制するから、生徒がやる気なくすってことになる。
ほかにも著者が試みた古文の現代語訳の仕事についても、
>それでは、なぜ私は「正解」にたどり着けたのか? それは、自分の古文の読解能力に自信がなくて、思いっきり「ああだこうだ」と迷った結果である。(略)「わからない」があったればこそ、そこに「正解へ至る方法」も登場してしまったということである。(p.192)
というように、わからないでスタートすることが成功につながると説く。
そもそも、なんでひとは「わからない」を認めたがらないかっていうと、二十世紀は理論の時代だってとこから始まる。
「どこかに“正解”はあるはずだ」って、みんなして確信してるもんだから、「自分の知らない“正解”がどこかにある」って思い込んぢゃうと、わからないのは恥ずかしいって感覚に陥ってしまう。
でも、なんでもかんでも正解があるってのは幻想なんだから、「わかるはず」からスタートして「わからない」ってゴールに着いちゃうんぢゃなくて、「わからない」をスタート地点にしなさいって話だ。
著者は自分を「へんな人間」と認めたうえで、「へん」が中立の指標だとか、「へん」と「へんじゃない」はイーヴンだとか説く。
>「へんじゃない」は、「自分はへんじゃない」という理由だけで、「へん」という「もう一つ別の立場」を公然と排除してしまう。その結果、「へんじゃない」の視点は、「へんじゃない=自分=正しい」の一つだけになって、自分を検討するために存在するはずの批判的な視点をなくしてしまうのである。(略)
>(略)どこもかしこも、誰も彼も、自分の立場を主張して「へんじゃない」と言い、「正当」だと言う。それはつまり、批評されることを拒否する人間達が増えたということであり、つまりは、自己中心的な無責任人間がやたらと増えたということである。(p.56-58)
とか言って、自分の「へん」を把握することができないことには、「わかる」が当然だって時代が終わったのに、「わからない」を発見できないでしょって展開するんだが、世の中はますます自分が正当でどこかに正解があるはずって風潮が強まっているような気もする。
コンテンツは以下のとおり。
第一章 「わからない」は根性である
 1「わからない」という恥
 2「わからない」を「方法」にする方法
 3企画書社会のウソと本当
 4「へん」の使い方
第二章 「わからない」という方法
 1私はなぜ「セーターの本」を書いたのか
 2「わかる」とはいかなることか
 3ハイテクとは錯覚である
 4「わかる」と「生きる」
第三章 なんにも知らないバカはこんなことをする
 1基本を知らない困った作家
 2天を行く方法――「エコール・ド・パリ」をドラマにする
 3地を這う方法――桃尻語訳枕草子
第四章 知性する身体
 1この役に立たない本のあとがき
 2知性する身体

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虚航船団

2021-11-27 18:55:34 | 読んだ本

筒井康隆 平成四年 新潮文庫版
このあいだ『ゼウスガーデン衰亡史』(ハルキ文庫版)を読み返したときに、巻末解説で巽孝之氏が小林恭二の名を知ったのは筒井康隆氏からだったという話を書いていて。
1987年秋の谷崎潤一郎賞受賞パーティ会場であったとき、筒井氏が言うことには、「いやあ、小林恭二には、してやられた」、「『虚航船団』をやられちゃったんだよ、『ゼウスガーデン衰亡史』で」と、興奮した様子で賞賛してたんだと。
翌年の「ユリイカ」の誌上対談では、
>小林恭二 それから、何と言っても『虚航船団』ですね。何だこれは、やりたい実験を全部してるじゃないか、どうしてくれると思いました。
>筒井康隆 僕は以前から『虚航船団』の第二部と小林さんの『ゼウスガーデン衰亡史』の類似が非常に気になっておりました。(略)
というやりとりもされたという。
ん? なんだそれは? いままで気にしてなかったが、どうも最近『ゼウスガーデン衰亡史』こそ自分にとってのベスト小説ではないかと考えているところもあり、それに先立ってあったというその小説は読んでみたくなった。
単行本の刊行は昭和59年だという、くしくも小林恭二のデビュー『電話男』と同じだ。
文庫で570ページほど、長い話だ、しかも開いてみたら、最初の段落が文字びっちりで4ページにもわたっていて、この密度でこの厚さかと思うと気が重くなった、『表層批評宣言』ぢゃないんだからさ。
物語は三部構成で、「第一章 文房具」「第二章 鼬族十種」「第三章 神話」。
文房具って何のこっちゃと思うんだが、
>まずコンパスが登場する。彼は気がくるっていた。
で始まるんで、なんなんだいったい、と思うんだが、以降も、
>次に登場するのは日付スタンプである。彼は日付がわからなくなって以来気が狂ってしまっていた。
とか、
>ホチキスが登場する。彼は気ちがいだった。
とか、
>ここで輪ゴムが登場する。彼は気が狂っていた。
とか、
>分度器が登場する。彼は完全に気が狂っていた。
とか、みんなそういう調子である、なんなんだこれはと思うんだが、宇宙を航行する大船団のなかのひとつ「文具船」の乗組員の様子が紹介されてって、最後には文具戦は船団を離脱して惑星クォールに進攻して全居住民を殲滅せよって指令に従う展開になる。
第二章は、そのクォールの居住民のイタチ族の歴史の話。
イタチにもいろんな種類があるらしく、クズリとかオコジョとか、ミンクやテンやスカンクも含まれてて、なんつってもイイヅナなんて種族もいて、それらがクォールの地で栄枯盛衰する。
中世のいろんな王朝の系譜や殺戮の歴史を経て、火薬や大砲なんかの発明がありいの、諸革命や宗教の対立なんかもあっての近代を経て、大戦があったのちには核兵器開発や宇宙開発を競い合う現代にいたり、まるっきり人類史をなぞりながら、イタチたちの歴史が記述されるんだが、いったいなんなんだこれはと思う。
かくして、この星の刑紀という暦の九九九年になって、宇宙から「天空よりの殺戮者」がやってくる、これが文具船で、その戦いのさまが第三章。
十二方面軍に分かれて各地で戦闘を繰り広げるんだが、乗組員の「紙の楮先生」をして、
>クォール中に散らばって文具船内のあの日常的な大小の騒動をクォール全体に拡大し撒き散らしつつある文房具たちの様子をひとつ残らず掌握したい。いかなるナンセンスが、いかなる残虐が、いかなる無謀が、いかなる内輪もめが、いかなる目茶苦茶が行われていることであろうか。(p.408-409)
と言わせるくらい、目茶苦茶でナンセンスなことになるのはわかりきっていて、そのさまが延々と描かれていく。
んんん、字面だけは追っかけて勢いで読み通してはみたけれど正直わからないんで、私ゃ、ゼウスガーデンのほうが美しくて好きだなあ。

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ホリイの調査(文庫版)

2021-11-21 18:44:55 | 堀井憲一郎

堀井憲一郎 1994年 扶桑社文庫版
前回の丸谷才一さんの文庫本は、合本だと思ったら完全ぢゃなかったんで元の本を買い直したってやつだったんだが。
今回のは、好きな本だと単行本すでに持ってるくせに文庫も買っちゃっうこともあるってパターン。
いや、『ホリイの調査』は確かに持ってるんだけど、去年の秋だったか古本街をさまよってたら見つけてしまって、文庫もあるんだ知らなかったと思った次の瞬間には衝動買いしてしまった、っつーだけのことだが。
(私は見かけたの初めてだったんだけど特にレアではないらしく普通の古本の文庫本の値段だった。)
何か新しいこと増補してないかちょっとだけ期待したが、特に変わってなくて、最後に文庫版あとがき代わりに、「『ホリイの調査』の書評・評」というのがあっただけ。
「書評・評」ってのは、1993年に単行本出たときに雑誌・新聞で17誌が書評・新刊紹介でとりあげてくれたんだが、それを比較検討しているもの。
例によって最後にはランキングをつけるんだけど、これがただの文字数のカウントなんかぢゃなく、「愛の深さランキング」を勝手につけてるとこが、らしいといえばらしい。
1位はなんと『子供の科学』で、インタビューを受けて、しかも破格の3ページの記事になって、さらには「調査といえば、みなさんにとっては、夏休みの自由研究。堀井さんのお話には、たくさんのヒントがあったように思います」なんて子供に呼びかけちゃってるという肯定的な内容。ホリイさんは「だめだよ、こんなのヒントにしちゃ」と言ってますが。
そりゃなんたって、たとえば「川崎球場887人の謎」って何をやったかっていうと、1986年10月16日(木)に川崎球場の消化試合のデーゲーム、ロッテ・南海戦で、調査員4人で出かけてって、双眼鏡と数取り器つかって、観客数を実際に数えてみたって話だ。
ちなみにこの日は外野席が無料開放されてたんだけど、5回表から数え始めて5回裏の時点では、外野515人、内野372人、合計887人が実際の人数だったという。
それで終わりぢゃなくて、翌日の新聞を見るとロッテ球団の発表した観客数は2000人なので、球団に電話した。
(いまは実数を発表するようになったけど、当時はザクっとした数しか発表してなかった。)
訊いてみると、「各入口から4回終わったくらいの入場者数の集計が来るのでそれを使う」、「それ以降どれくらい入るかという見込みも加えて、だいたいの数字を発表する」、「実際には券はもっと売れていて、5000席ぐらいのシーズン予約席というのは売れているわけで、そういうのも加味して発表する」などとツッコむたびに回答がえられる。
「最終的には球団と球場が相談してですね、発表するわけです」なんて答えを引き出して、観客数という客観的そうなものでもあまり科学的でない方法で決められていることがわかった、なんて結論に至る。
この電話で直撃取材するっていうのも、数えるだけぢゃなくて、あらゆる調査の基本にあって、あちこちに同じこと訊いた結果、回答のなかみに応対具合なども加えて、勝手にランキングをこしらえたりするのがおもしろい。
スキー場に「クマは出るのか」と聞いてまわったときの危険度状況1位は、富山・立山山麓スキー場の「見られるってえか、なんか出没しておりまして、そいでもー危険なもので、地元のほうで猟友会の方が出とったりしておりますんで」とか。
動物園に「珍しい動物はいますか」と聞いてまわったときの好感度1位は、釧路動物園の「ヘラジカっていう、シカでは最大なのがいるんですよ。馬ぐらいあります。ついこの間、日本で初めて赤ちゃんが産まれましてね。日本で初めて繁殖して、6ヵ月以上生育しますと、繁殖賞ってのが授与されるんですよ。全国の飼育係の勲章ですね。みんなで挑戦してるんですよ」とか。
百貨店に電話して「屋上には何がありますか」と聞いてまわったときの自慢ランキング1位は、岡山・天満屋百貨店の「えー、遊園地があるんですよね。あのー、観覧車ですか、それがあるし。なんかね、モノレールみたいなもんでカッコイイやつがあるんですよ」で、ほかのところが子供遊びなものしかありませんと恥ずかし気なのに対して「胸張って主張できる明るさがえらい」と評している。
コンテンツは以下のとおり。
川崎球場887人の謎
23区区役所に電話する「マークの由来は何なのだ」
TVを数える
日が替わる瞬間のTV
ビデオテープを探し求める旅
山手線29駅で駅員に乗り換えを訊ねる
山手線29駅の改札を不足キップで突破する
大使館に電話する「国歌を教えてもらいたい」
駅伝美人コンテスト
スキー場に電話する「クマは出るのか」
ロコスキー場に電話する「そこはロコ?」
坂口良子を吟味する
動物園に電話する「何がいるのだ」
ペコちゃんの頭を叩く人
都会のまぬけな待ち時間
政党に電話する「漫画アクションを知ってますか」
昭和天皇の崩御、その時あなたは
映画館に電話する「その名前は何なのだ」
報道TVカメラマンの根性の違い
百貨店に電話する「屋上には何があるのだ」
たけしの首ふり
東京地下鉄1万9887歩の乗り換え
人探し広告の不思議な世界
私家版・コーラ目隠しテスト
編集部の本当の忙しさ
編集部の原稿催促ファクス公開
『ホリイの調査』の書評・評

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日本語のために

2021-11-20 18:10:52 | 丸谷才一

丸谷才一 昭和五十三年 新潮文庫版
前に『完本 日本語のために』を読んだときに、完本という看板に偽りありで元々の旧版にはあったものが大きく削られちゃってることに気づいた。
そのあと『夜明けのおやすみ』という編集本を読んだときに、そのカットされたもののうち二つを読んだんだが、たいそうおもしろかった。
というわけで最近になって、この文庫を地元の古本屋で手に入れた。
私が読みたかったのは「当節言葉づかひ」という章で、けっこう量あって本書の半分くらいのページ数を占めていた。
「総理大臣の散文」ってのは、ときの田中角栄の『日本列島改造論』の文章をとりあげたもので、「厄介な言ひまはし」とか「凝つたあげく意味が判らなくなつて」とか指摘して、「かういふ言葉づかひが大好きなやうな、軽薄な役人、ないし軽薄な御用学者にふさはしい文体で書いてある本」とケチョンケチョンに言う。
「娘たち」は、「娘ことばといふものがある。昔はこれが小説家の藝の見せどころだつたが(略)」で始まるんだが、現代作家は娘ことばを書きたがらない、それは今の娘ことばが風情がないからだという。
たとえば、為永春水の『梅ごよみ』では若い娘が別れるときに「ハイさやうなら」と言うんだが、今の女性は「ぢやあね」と言う、これは「耳で聞いてこそ楽しい台詞であつて、かうして字で書いてみると何とも趣がないことおびただしい」んで、別れの挨拶の場面を小説家は娘ことば使って書かず、「二人は駅で別れた」とか無愛想に書いちゃうんぢゃないかっていう。
「江戸明渡し」では、伊藤正雄という国文学者の指摘をあげて、「……してほしい」という言葉は元来は関西弁で、江戸っ子は「……してもらいたい」と言うもんだが、「してもらいたい」は何となく命令調でよろしくなく、「していただきたい」だと丁寧すぎるから、中間的な言い回しとして「してほしい」を使うようになることが戦後に流行ってるんぢゃないかっていうんだけど、それ関西弁だとは知らなかった。
「泣虫新聞」の項はおもしろくて、日本の新聞は、「事実はあまり書いてなくて、すこぶる一方的な意見と、それを塗りたくる多量の泪が今の日本の新聞の文体なのだ」と、「また泣いた庶民」とか「悲しみの一周忌」とかって見出しを格調が低くて下品だと一刀両断。
>つまり日本の新聞は概して言葉に対して無神経である。すくなくとも紙やインクに対するほどは、言葉に対して丁寧なあつかひをしてゐない。
とか、
>(略)大新聞の使命は国民に教養と識見を与へることで、国民をめそめそと泣かせることではない。
とかって厳しく弾じる、いつも丸谷さんは新聞に厳しい、いちばん厳しいのは文部省に対してだけど。
あと「最初の文体」の項では、絵本の文体がひどいって指摘してるんだけど、これは確かにって思わされた。
人生最初の文章は読んでもらう文章であり、親に読んでもらう絵本の文体は大事、それが意識に与える影響は大きいだろうという。
ところが、よくある絵本の文体は、「さあ、どうです、かはいいでせうと押売りしてゐるやうな文章」で、ただ甘ったるいだけなのは、「頭のなかにある観念的な子供に合せていい加減に文章をでつちあげてゐる」からだという、そういう部分はあるだろうなと思う。
この本はきっとときどき読み返すだろうな、言葉なんて乱れてくいっぽうだろうから、書いてあることちっとも古くならんという気がする。
(※2022年1月23日追記)本書の単行本は昭和49年刊行。
コンテンツは以下のとおり。
I 国語教科書批判
 1 子供に詩を作らせるな
 2 よい詩を読ませよう
 3 中学生に恋愛詩を
 4 文体を大事にしよう
 5 子供の文章はのせるな
 6 小学生にも文語文を
 7 中学で漢文の初歩を
 8 敬語は普遍的なもの
 9 文学づくのはよさう
 10 文部省にへつらふな
II 日本語のために
 未来の日本語のために
 将来の日本語のために
III 当節言葉づかひ
 1 総理大臣の散文
 2 娘たち
 3 片仮名とローマ字で
 4 江戸明渡し
 5 敬語はむづかしい
 6 電話の日本語
 7 泣虫新聞
 8 テレビとラジオ
 9 最初の文体
 10 タブーと言霊
 11 字体の問題
 12 日本語への関心

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茄子

2021-11-14 18:28:45 | マンガ

黒田硫黄 2009年 新装版 講談社アフタヌーンKC 上・下巻
こないだ『大王』で初めて黒田硫黄を読んでみたわけだが、なんかピンとくるものなくて。
あきらめずにもうひとつくらい何かと思って、これを探してみた。
最初見つけた古本市ではずいぶんと高い値段がついてて躊躇したんだが、その後リサイクル書店で安くしてるのを見つけたので買った、先月のことだ。
読んでみたら、これはおもしろかった、けっこうおもしろい。
2000年から24回連載した短編を集めたもので、著者あとがきにいわく、
>茄子がテーマで、毎回違う短編を描くという変な企画です。(略)
>(略)当時の編集長が「茄子のマンガ描けよ」とムチャ振りしたからです。
ということらしいが、よくまあ24回も描けたものだし、ナイスムチャ振りとも思う。
基本は、もと学者かなんからしいが農村地帯に引っ込んで野菜つくってる五十男と。
その男のところに「寝だめ」に高級外車でやってくる、ふだんは2~3時間しか眠れない、なんか事業やってるらしい5歳年下の女性と。
親が借金つくっていなくなってしまい、親戚に引き取られて、農村地帯に来てからは、何かと五十男のところに顔を出す女子高生と。
高校卒業して2年経つけど、なんか特にやりたいこともないままでいる女性、といったあたりが主要登場人物で、毎回ちょこちょこっと茄子が出てくる。
で、変わったところでは、平成38年(2026年)の富士山地熱プラント工事中の怪異っていうSFっぽいのとか。
初物買いが過熱したんで公儀御法度で五月にならなきゃ茄子は手に入らない江戸での時代劇っぽいのとかってのあって、目先が変わって楽しい。
その変わり種のなかに、タイトル名だけは私でも知っていた、有名な「アンダルシアの夏」があって、これはスペインの自転車ロードレーサーの話で、地元の名物だという茄子のアサディジョ漬けが出てくる。
これはワインといっしょに食べるものであって、ビールと食べちゃダメだ、なんてくだりはあるが、主題は自転車レース(主人公のチームのスポンサーはベルギーのビール会社だが)であって、それも茄子を食べたからレースに勝ったとか負けたとかってつくりぢゃないんで、茄子はどーでもいーったらいーんだが、それがまたなんともいい。
こいつぁ、おもしろい、と思った。
その1 3人(前編)
その2 3人(後編)
その3 2人
その4 空中菜園
その5 アンダルシアの夏(前編)
その6 アンダルシアの夏(後編)
その7 4人
その8 ランチボックス
その9 39人(前編)
その10 39人(後編)
その11 東都早もの喰
その12 続 東都早もの喰
その13 富士山の戦い(前編)
その14 富士山の戦い(後編)
その15 残暑見舞い
その16 お引っ越し
その17 焼き茄子にビール
その18 電光石火
その19 いい日
その20 茄子の旅
その21 一人
その22 考える人
その23 スーツケースの渡り鳥
その24 夏が来る
その後 As time goes by

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