many books 参考文献

好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事

2018-11-25 18:02:03 | マンガ
高野文子 昭和62年 小学館プチフラワーコミックスセレクト版
ことし9月の古本まつりで見つけて、思わず買ってしまったマンガ。
特別好きというわけでもないんだけどね、著者の描くマンガ、興味はある。
タイトルのラッキーというのは、ヒロインの名前、ミス ラッキー=ランタンタン。
お屋敷でメイドをしてたんだけど、デパートにおつかいに行って、ダリヤ=ポポーンズお嬢様の名をかたって、オムライスを食べたのがバレて、クビになる。
でも、昼間デパートで支配人にスカウトされてたから、めでたくリッチデパートの店員という新しい仕事につくことにする。
寝る場所もないので、閉まったデパートに潜り込んで一夜を明かそうとするんだが、そこへ三人組の強盗が入ってきて、なぜかそこに居合わせたドレス売場担当の男性店員タンチー=オルタンスとともにトラブルに巻き込まれる。
かくして、翌日からのラッキーの仕事は、ただの売り子ぢゃなくて、お客のふりして極秘文書を受け取りにくる使者への対応という特殊任務になる。
最初言われたときは、デパートの新築設計図みたいな話だったのに、やがて事態が進んでいくと、国家間の陰謀だと明かされる。
かくして、ヘンなスタイルの帽子をめぐって、15周年記念イベントでごったがえすデパート店内で活劇が繰り広げられるわけだが。
ほかの作品読んだときも思ったけど、不思議な構図、不思議な動きの描写で、慣れない私なんかはときどきクラクラする、そこが魅力ではあるんだけど。

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師弟

2018-11-24 17:59:03 | 読んだ本
野澤亘伸 2018年6月 光文社
副題は、「棋士たち 魂の伝承」、将棋界の師弟の本。
片上大輔七段のブログみて、読んでみようと思ったんだと思う、買ったのは9月になってからだけど。
著者の名前は専門誌なんかでも見たおぼえないような気がするんだけど、本職はカメラマンだそうで。
それにしても、インタビューのなかみが濃くて、棋士の語ることっておもしろいのは承知してたつもりだったんだけど、予想以上にすごいホンネのようなものが出てた。
話題性から藤井聡太七段がとりあげられて、表紙飾ったりするのも出版社的には当然なんだろうけど、表紙の「君は、羽生善治を超えるんだよ」という言葉は、実は藤井七段が言われたことぢゃなく、森下卓九段が弟子の増田康弘当時奨励会員に言ったもの。
森下九段は、将棋以外のことに気持ちが向くと心に空洞ができる、トップになるためにはそれは許されないと、修行中の10代前半であったろう弟子に教える。
森下九段といえば、若いころは米長教室の塾長で、米長からは森下最強と言われてたはずだけど、タイトルが獲れなくて、棋界の不思議と呼ばれてた。
その理由について本書で自身は、
>本気で、欲しいと思わなかったんでしょうね(略)
>人間は本気で思える容量は決まっている気がするんです。(略)
>『本気で思う』というのは、才能なのでしょう。(p.87-88)
なんて驚くべきことを言ってる。タイトルは獲れなくても地獄ぢゃないから、ってとこに気づいたことを認めちゃってる。
でも、弟子に対しては、根性が大事だといって、記録係とかきつい仕事をどうしてやらないのかという。
でもでも、増田六段は感覚が新しくて合理性を好むので、根性みたいなもの必要ないと思って、技術を磨くことに懸ける。
勝つには技術、強くなるにはメンタルも必要、って言うのは簡単だけど、増田六段の自身を語る、
>小さい頃はよく泣いていましたが、奨励会に入って三段リーグの頃から感情を殺すようにしました。切り捨てるって感じですね。(略)棋士でなければ、ふつうに泣いたり笑ったりしたかもしれませんけど。そういう何気ない幸せみたいなものは、捨てたという感じですね。(p.92)
って言葉には、そこまでって凄みを感じる。
ところが、逆に普及イベントとかを仕切ってマルチな動きをみせる糸谷八段の言葉も興味深い。
>将棋一本に絞ったら、もっとタイトル挑戦や棋戦優勝ができるといわれるのですが、私は逆に今より実績を残せないと思います(略)
>将棋が不調なときに、別の思考で自分を客観視することで、陥っている癖をつかみ取れるんです。(p.161-162)
これって、河合隼雄さんの『こころの処方箋』にあった、「人間の心のエネルギーは、多くの「鉱脈」のなかに埋もれていて、新しい鉱脈を掘り当てると、これまでとは異なるエネルギーが供給されてくるようである」ってのと、つながるものが感じられる。
でも、やっぱ、若くて強くなっていく時期には、余計なことはしないほうがいいと、師匠の側は考えるようで。
藤井七段の杉本師匠は、自分が若いころに、対局前後にべつの仕事をいれる先輩棋士を疑問に思っていたのに、いまは藤井七段に期待される取材対応を代わって受けていたりする。
>私の時間を削るのは、いろいろ思いがありますが、仕方ない部分もある。でも、藤井の時間を奪うのは将棋界の損失ですから。(p.217)
って、カッコいいっす。いい師匠ですね。
第一章 手紙 谷川浩司・都成竜馬
第二章 葛藤 森下卓・増田康弘
第三章 気合 深浦康市・佐々木大地
第四章 対極 森信雄・糸谷哲郎
第五章 敬慕 石田和雄・佐々木勇気
第六章 継承 杉本昌隆・藤井聡太
終章 特別インタビュー 羽生善治
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そこそこトレンディ

2018-11-23 17:41:03 | 読んだ本
山崎浩一 1989年 PHP研究所
副題は、「〈そんなバカな!時代〉を見晴らすための60講」。
いまさらなにをって感じのタイトルだけど、まあ世にあふれるトレンドとりあげたものへのパロディってことでしょう。
トレンドって何だ、ってのは、わかってるようで説明するのはむずかしいんだが、本書あとがきには「高度資本主義的感性消費社会の差異化ゲームのアイテム」なんて言葉でズバッと示されてたりする。
情報化ってのが、ネットのないこの時代にも、形はちがうけど既に盛んだったさまが、ガイドブック片手に海外旅行する日本人の若者の姿への批評なんかでわかりやすく例としてあげられてる。
>実際、ガイドブックに掲載されていない――つまり情報化されていない――ものは、彼らにとっては存在しないのと同じであるらしい。
>観光という近代以後の旅行形態は、メディアの時代に入ってさらに情報に従属し、それを確認する儀式として定着してきた。(p.182-183)
という具合だ。本の写真で見たものを見に行く、どんな素晴らしいものが眼前にあっても事前に知識として仕入れてないと気づかない。
そういえば、こないだ、現に窓の外を見れば雨が降っているのに、ネットの雨雲レーダーに情報がないから雨降ってること信じようとしない人がいたな、こわいこわい。
>この本に収録されているのは、主にここ1~2年間に、若者向けからおじさんおばさん向けまで、ファッション誌から大新聞まで、さまざまな媒体からさまざまな形で投げかけられた「なぞなぞ」に対する、さまざまな「とんち解答」のランダムなコレクションだ。
と「あとがき」にあるけど、昭和のおわりころの出来事いろいろ並んでて、そんなこともあったねーと思う。
各章のタイトルを並べとくだけで時代が振り返れそうなんだけど、ひとつひとつが長いので60個書き連ねるのはしんどいから、やめとく。
だって、「ME―TOOイズム●NOWの価値が健在な限り〈行列〉は生成と消滅を繰り返す」とかって、全部がそういう調子なんだもん。
どうでもいいけど、ジェンティルドンナって、あの名馬の名前が、当時は1足12000円なのに年間19万足売れたというイタリア製のパンストの商品名だった、てのは知らなかったなー。
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とりの眼ひとの眼

2018-11-18 17:35:58 | 読んだ本
とり・みき 一九九四年 ちくま文庫版
SFとりあげてみたから、なんとなく、とり・みきのエッセイへつなげてみる。
ことし九月の古本まつりで見つけた文庫、単行本は1989年だそうで。
なかみは83年から89年にかけて書かれたいろんなもので、マンガはなし。
冒頭は1984年夏に原田知世をおっかけてロケやってるニューカレドニアへ行った紀行文。
1983年の『時をかける少女』で著者とその周辺の多数は原田知世にイレこんでしまい、
>笑うだろうなこれ読んでるファンは。俺たちはよ、対等に知世に会うチャンスを得るため(つまり雑誌だの放送だのの企画で)より自分達それぞれの仕事に精を出し始めたんだよ。皆大マジだった。楽しかったぜあの頃は。本当に本当に楽しかったよ。(p.89)
という状態だったそうな、それでみんなしてニューカレドニアまで行って、映画にも出てしまったらしい。
(なお、この文庫の解説は、大林宣彦監督である。)
それでも、1989年ころになると、当時をふりかえって、
>(略)今だって我々――少なくとも私は知世の大ファンである訳ですね。訳だけど、やっぱりあの頃のノリってのはちょっと常軌を逸脱してたというか、どうしてあんなに夢中になれたんだろうと。今、ちょっと考えてる所なんです(略)
>つまり自分の中で、あの頃あんなにバカ騒ぎ出来たのは何故か、どういう意味があったのかを明らかにしておきたいというね……ちゃんとオトシマエをつけておきたい(p.177)
なんて書いてます。あとがきでも、
>特にこの本は女優に眼が眩み半キチ○イになっている頃のハナシが多いので(略)
と言ってるんで、本当は抹殺したかった歴史を、恥ずかしがらずにオトシマエつけるためにまとめたってのが刊行の趣旨だったのかもしれない。
本業のマンガについては、1988年ころと思われる文章で、
>そんな僕が今いちばんやりたいのは元々の意味での“ギャグ”マンガ。しかもこれはメジャー誌で。何をいまさらと思われるかもしれないが、現在メジャー誌にギャグマンガは殆ど存在しない。ここはひとつ奮起して絶滅の危機を救いたいと、まあそう思っとる次第なのであります。(p.97)
と言ってて、御自身は当時たぶん「チャンピオン」なんかを降りてて、『愛のさかあがり』描いてたりとか、「SFマガジン」に参戦してたと思われる。
別のところでも、
>現在、極端な言い方をするとメジャー週刊誌に“ギャグマンガ”というものは殆ど存在しない。レベルの話ではなく形態(スタイル)の話をしているのだ。四コマは、置く。ここで対象としているのは最低でも八ページ位はある、少年もしくは青年週刊誌に連載されている作品である。「そんな馬鹿な」と言われるかもしれない。「アレはどうだコレもあるぞ」と。しかし皆がギャグだと思っている大半の作品は実は“シチュエーション・コメディ”なのである。(p.188)
と書いてて、ギャグマンガにかける思いは強い。
私ももっと読みたいなー、『猫田一金五郎の冒険』みたいなギャグマンガ。
ほかに、おやっと思ったとこでは、映画についてもひとつの章を設けてるんだけど、
>(略)TV洋画そのものを支えている“声優”の“演技”についての批評というのはどこへ行ってしまったんだろう、などと思ってしまうのだ。
>(略)吹き替えの歴史はもはや三十年を越えているのだ。彼ら陰の主役達についてまとまった一冊の評論書も無いとは、いったいどうなっているのだろうか。悪口はよく聞く。だが彼らの演技への正当な評価は、誰もやらない。(p.163)
みたいに意表をつく指摘をしてくれている。そうだよねえ、昭和の子どもたちはテレビでカルチャーに触れて育ってきたんだから、オトシマエはつけたほうがいい。
第一章 マンガ家はらいそ島へ行く
第二章 DIARY‘83~‘89
第三章 銀幕と美少女
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未来の二つの顔

2018-11-17 17:47:35 | マンガ
原作・J.P.ホーガン/漫画・星野之宣 2002年 講談社漫画文庫版
前回につづき、同じ「未来の二つの顔」を読んだ。
でも、ちがう訳のもの読んだとか、原書にあたったとか、そういうんぢゃなくて、これはマンガ。
小説のほう探してたときに、マンガもあるんだ、しかも星野之宣!って急に魅力感じたんで、同時に買った。
そうやって両方読むのもおもしろいかもと思ったんだが、あたりまえだけど小説のほうを先に読んだ。
で、小説読み終えてすぐマンガにとっかかったんだけど、いいねえ。
人物の顔とかのイメージはどうでもよくて、スペースコロニー“ヤヌス”とかドローンたち、メカが具体的な形を画で見られるのがやっぱいい。
(スペースコロニーの挿絵は小説にもあったけどね。)
マンガが描かれたのは1992年ということだけど、機械の形が古くさいとか言う気にはならない、いい味だと思う。
古典のSF映画みて、いろんなモノの造形を批判する気にならないのといっしょ。
(しかし、AIの進化にくらべると、ハードのほうは、現実世界ではクルマが空飛ぶところまではなかなかいかないねえ。)
ストーリーのほうは、ラストの展開が原作と変わってくる。スペースコロニーは失われちゃうんだけど、こっちのほうが私は好きだな、一読した時点では。
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