きょうは、第90回日本ダービー。
どこも行かず、ウチでテレビでみた。
いちばん応援してた人馬は残念ながら負けてしまった。
(どうでもいいけど、レース前の待避所が画面に映ったとき、ずいぶんおっかない顔して乗ってるな、って印象を受けた、たまたまだったのかもしれないが。)
勝った馬ももちろんすばらしくて、前走も直線先頭に立ったときは、この馬が一番強いのか、って一瞬思ったのをおぼえてる。
皐月賞とダービーで1・2着が入れ替わるのも、なんかよくあるような話な気がする、めんどくさいから資料調べたりはしないけど。
でも机上で空想するぶんには、中山でちと届かなくて府中では差し切って逆転、ってパターンになりそうなもんだが逆だったのはちょっと意外。
まあ、馬は一度きりだけど、ひとのほうは来年以降もあるんで、がんばってください、幸運を祈ります。
本日ここに貼ってみる写真は、そのむかし手に入れて、ずっと私の部屋を飾っていたポスター。
「小林薫のカベ競馬新聞」ってシリーズなんだが、テレビCMにしてもこのころのものが私はいちばん好きですね。
第56回なんで、1989(平成元)年の日本ダービーですね、くしくも今年とおなじ5月28日施行。
(※右下に細かく書いてある文字は以下のようなもの)
上から叫んでも、下から叫んでもダービーだ!ダービーだ!
ガシャーンと聞こえるはずのゲートの音が、喚声と悲鳴のようななかで消えてしまいます。
競馬場全体が、浮き上がっているような気がします。
ダービーを目指した2052頭のなかから、難関を突破した24頭のサラブレッド。
彼らの走りを追いかけるように、スタンドのどよめきも4コーナーを回ります。
ゴールがガーンと近づいてきます。
「みんな勝て!勝て!!」僕はきっとワケのわからないことを叫んでしまいそうな気がします。
祭の後の、満ち足りたけだるさの向こうに、たった一頭のサラブレッドがいます。
全身にしたたる汗をきらきらさせて、日本で一番幸せなサラブレッドがいます。
そんなとびっきりのシーンに、やっぱり、どうしても顔を出したくて、今年も僕はダービーに駆けつけます。
高島俊男 2003年 文春文庫版
「お言葉ですが…(4)」ということで、ときどき読んでる『お言葉ですが…』のシリーズの四冊目、昨年末ころに古本を買い求めといて、読んだのは最近。
初出は「週刊文春」の1998年から1999年ころで、2000年に単行本で出たときのタイトルは「猿も休暇」だそうだ、ちなみに「猿も休暇」というのは日本人が英語で「サーモンとキューカンバー(きゅうり)」の料理を頼むときに、そう発音すると通じるって話。
「広辞苑の神話」てのは、広辞苑の新しい版が出るときに新たに載せる言葉が話題になったりすんだけど、
>それにしても不思議だねえ。広辞苑はなんでこんなにエライのだろう?
>広辞苑と同程度の規模の中辞典はほかにもある。(略)
>これらあまたの中型辞典のなかで、広辞苑だけがおかみから御朱印状をいただいているわけでもないし、ズバ抜けて出来がいいというわけでもない。(略)
>結局、広辞苑神話は岩波神話なのでしょうね。
>戦後のインテリの岩波に対する信仰は、なかなかたいそうなものであった。知性と進歩のシンボル。『世界』を読んでないとハバがきかなかった。(p.28-30)
と、広辞苑に書いてあることは全部正しいと思い込むのは盲信っつーもんだ、みたいなスタンスから問題にしているもの。
べつの章で、広辞苑がなんでも正しいと思ってるらしきひとをやっつけてるのがあって、太宰治作品の文庫本の注釈をつくってるはいいけど、広辞苑の丸写しだろがと見抜いて、
>(略)意味がわからないので頼みのつなの広辞苑をひいてみたら、(略)これをそのまま拝借したのだが、この広辞苑の説明もヘンだねえ。(p.113)
みたいに揶揄してる、文学作品に注をつけるのなら、辞書に載ってるどおりぢゃなくて、物語の時代とか舞台になってる土地とかに即して説明しろよ、と。
以前に読んだもののなかにも、まちがった漢字を使うななんて言ってんぢゃない、純然たる日本語は漢字で書くこたあない、って主張があったんだけど、今回もそういうのはあって、たとえば読者から質問がきてる例として、
>「かえる」ということばは、「変える」「代える」「換える」「替える」など感じによって意味がちがってくる。その使いわけがわからない、教えてください、というのがあった。ばかばかしいではないか。
>使いわけがわからないのは意味のちがいがないからだ。日本人は、何かがこれまでとちがったものになるのを「かわる」と言い、人が何かをこれまでとちがったものにするのを「かえる」と言う。それだけのことだ。
>もしだれか、あてる漢字によって別のことばになるのだから使いわけなければならない、などと言うやつがいたら、「アホかおまえは。漢字は日本語のためにあるわけじゃない」と笑ってやればよいのである。毎度申すように、漢字をありがたがるのは無知のあらわれである。(p.180-181)
みたいに厳しく斬り捨ててる。そのすぐあとに、
>なにしろ日本人は有史以来の後進国根性で、いつも自分たちより上等の人種、上等の言語があると思い、それに尻尾を振ってきた。漢字を使えぬのははずかしい、英語ができぬのははずかしいの文化植民地根性が身にしみついている。(p.181)
みたいに言ってんだけど、ほかのところでも、
>無教養な者ほど漢字を書きたがる。(p.286)
とか、
>意味も考えずに漢字を使いたがる人間はむかしからいた。(同)
とか、そのての態度を責めて、
>毎度申すように、漢字で書くと日本語が見えなくなる。漢字はよその国のことばをあらわす文字なのだから、日本語が見えなくなるのは当然だ。小生毎度、日本語は極力かなで書きましょう、と申すゆえんである。(p.287-288)
と言っている。
「かわる」と「かえる」については、日本語の動詞には自動詞と他動詞が対になったものがいろいろあるって話でも出てきて、「とまる・とめる」とか「あがる・あげる」などの例をあげ、
>みな、二音目がエ列だと他動詞、それが同じ行のアになると自動詞、という規則性がある。
>戦後の新かなづかいでわかりにくくなったものをあげるならば、まず「かえる」と「かわる」。
>これは、「かえる」はア行だのに「かわる」はワ行ではないか、とお思いかもしれぬが、本来は「かへる」「かはる」でハ行なのである。(p.268)
と、漢字で書くうんぬんどころか、新かなづかいの非合理性への攻撃にもつながってきちゃう。
そのあとに漢字で書いちゃダメなことの例として、
>「すえる」と「すわる」。これも正しくは「すゑる」suweru、「すわる」suwaru でワ行です。(略)
>これを漢字で「据える」「坐る」と書くと関係が見えなくなる。漢字が日本語を攪乱することがよくわかる。(p.268-269)
というように、さらにわかりやすい説明があったりします。
べつに、今回おもしろかったののひとつに、「る」をつけて動詞にするって話があった。
発端は新聞で「パニクった」って談話が記事になったのを見かけたとこからなんだけど、意味はわかるとしながらも、そこで、
>念のために広辞苑最新版を見たら、「頭が混乱して、わけがわからなくなる」と、ちゃんと出てました。いやあさすがに新語熱心の広辞苑さん、よくひろってあるものですな。(p.74)
みたいに広辞苑をもちだしてるのは、やっぱ神話的扱いの辞書のことを半分バカにしてんぢゃないかと。
広辞苑はどうでもいいとして、「る」つけることについて、
>英語に「る」をつけて動詞にするのは、われわれ若いころからいろいろとあった。
>最もよく使ったのが「サボる」。それから「ダブる」。こういうのは今でもじゅうぶん通用する。(p.75)
として、昭和の初めのころからそういうの多かったというんだが、驚かされたのはその先で、
>外国語に「る」をつけて日本語の動詞にしてしまうという器用なやりくちは、そのもとがあった。漢語に「る」をつけるのがその前からあったのである。
>たとえば「退治る」。これを「退治する」と言えばふつうだし、またそうも言うが、「退治る」も江戸時代からある。「退治た」といきなり「た」をつけてしまう。
>あるいは「愚痴る」。これは「愚痴ってばかりいる」というふうに促音がはいる。(p.76)
というように、英語系の外来語が増えてからぢゃなくて、江戸時代からそういう「る」の使い方してたとは、気づいたことなかった。
それはそうと、著者は言葉のつかいかたがヘンだとか乱れてるとかってことばっか言いたいんぢゃなくて、たとえばある出版社から文学作品を批評する本の執筆依頼があったのをことわったときのことを、
>「文章は非常にいいけれども内容なつまらない作品もあるし、逆に内容はいいが文章がわるい作品もありますよね。そこらあたりのことを……」
>ああこりゃダメだ、と思いましたね。
>文章というのは、文学作品はもとよりその他何であっても、ことばを使ってする技術、あるいは技芸である。つまり「わざ」だ。絵、習字、踊り、工芸等々もろもろのわざと同種である。
>わざは、当然内容をともなってのわざだ。技術と内容とが別々であるはずがない。りっぱな刀をきたえあげたがサッパリ切れない、なんてことはなかろう。切れなければそれはりっぱな刀ではない。すなわちわざと内容とは一如である。文章もまたしかり。(p.55-56)
というようにあげて、文章は内容が大事なんだよ、それを読むひとにわかりやすいように書け、みたいな視点から、なに言ってんだかよくわからんような悪文をビシビシ斬るんである。
コンテンツは以下のとおり。
広辞苑神話
砒素学入門
薫さん、真澄さん、五百枝さん
広辞苑神話
人材えらびの秘訣
十五でねえやは
お里のたより
ノムさんたのんまっせ
十六文キック
金太郎アメ歓迎
十六文キック
中央と地方
パニクっちゃった
新語誕生の現場
子供、子ども、こども
「名前」の前は何の前?
肌にやさしい
江戸博士怒る
これは賤しきものなるぞ
江戸博士怒る
タイムスリップ少年H
過去はどう偽造されるか
金切声の時代
ナニやらカニやら
白菊夕刊語
アドミラル ヤマモト
白菊夕刊語
棒ぎらいの系譜
堪忍袋とカンシャク持ち
英語と日本人
神サマ、仏サマ、患者サマ
学校の名前
砂子屋のこと
砂子屋のこと
ソウテイ問答集
書きおろしとサラ
季節感の喪失
茶話のはなし
父のことば
わたしゃ浮世の渡り鳥
びいどろ障子
カイカイ楽しまず
びいどろ障子
ヤブ医者の論
スバルはさざめく
ムキュウでありました
正字正解
あらためる
猿も休暇
かぞえることば
トンボの由来
併し……
セイジンクンシ大論戦
「…国語」ぎらい
猿も休暇
星野之宣 1982年 集英社ヤングジャンプ・コミックス
またやってしまった、読んだことない古いマンガの衝動買い。
先週のことだけど、定期的にやってる古書フェアに出かけてって、見つけてしまったら買いたくなってしまった。
読めばおもしろいんだけどねー、熱心なファンってわけでもないしー、星野之宣ー、って、ちと迷ったんだが。
初版ってメモされた値札が、カバーの発売当時の定価360円よりちょっと高くって、なんか値打ちもののような気がしてきたら欲しくなってしまった。
収録作は三つ、どれもいわゆるSFでした。
(長篇なのか短篇集なのかすら知らずに買っちゃうんだから、私も無謀というか、それとも星野之宣への信頼度が高いというべきか。)
「美神曲 APHRODITE INFERNO」
過酷な環境の金星で鉱物採掘作業をしていたプラントが突発的な火山活動により破壊されてしまう。
調査に向かった技官と中尉はコンピュータシステムが暴走しているのではないかということに気づく。
「残像 AN AFTER IMGE」
月面で作業中に隕石衝突事故で死んだ女性の遺品に、推定2億年前の地球の写真があった。
女性の元夫であって宇宙写真専門のカメラマンが、月面に調査に行くとガラス物質を発見する。
「世界樹」
火山学者の女性が火星に行き、活発になっている火山性地震の調査をする。
基地の所長は生物学が専門で、太古の火星には水や空気があり生物がいた可能性を追究し、氷の奥深くに巨大な樹の化石を発見する。
村上春樹 二〇二三年四月 新潮社
村上春樹の新しい長篇小説が出るって、なんかで目にして、発売日にはさっさと買いにいったさ、4月13日だったかな。
そしたら、その日の朝のテレビ報道で、タイトルが『街とその不確かな壁』って言ってたのを聞いて、ちょっと驚いた。
それって、あれじゃん、第3作でしょ、文藝誌に発表はしたけど、その後、本としては出版されてないやつ。
村上龍との対談『ウォーク・ドント・ラン』において、
>龍 ブローティガンに会ったら、いいにくいこというんですよ。ぼくが、二作目書いたよ、っていったら、彼がいうのね。要するに、二作目は一作目で修得した技術とイマジネーションで書ける。「きみ、問題は三作目だよ」って(笑)。
>春樹 あ、それは、ぼくも非常によくわかる。こないだ、まあ短いものだけど順番からいくと三作目というのを書いたんですよ。『街とその不確かな壁』っていう題です。一作目と二作目は関連してるけど、三作目でがらっと変えたの。いいか悪いか自分でもわからないわけ。とにかく、変えなきゃいけないという意識が起こったんですよ。(略)(『ウォーク・ドント・ラン』p.50-51)
とか、
>龍 表地と裏地みたいな関係が、常に作家にはあると思うのですよ。(略)で、ぼくは『ピンボール』と『風の歌』と、『街とその不確かな壁』でしたっけ、あれはね、おそらく対なはずの作品じゃないかと思うわけ。(略)ぼくは裏地としての『街とその不確かな壁』の続篇とかね、あれに類するものをもっともっと書いたほうがいいと思うんですよね(略)
>春樹 ぼくはいまの予定では『壁』の話を少し作り変えてね、あれにコラージュみたいな、そういうものいっぱいくっつけて、それでまとめたいなという気はあるんです。(略)(同p.105-106)
とかって、語られてて、読んだことないもんだから、気になってたんだが。
それが一層気になることにはさー、どこで読んだんだったか(何に書いてあったんだろ?)、その作品は、私がこの世でいちばん面白いと思ってる小説のひとつである『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の元になってるっていうんだよね、そりゃ気になる。
(ほんと、その情報の出展なんだっけ? たしか村上さんが「『世界の終り~』は自伝的小説だ」みたいなこと言ってたと思うんだけど。)
でも、なんだかんだ、そのうち、なんかの形で収録されて本として出るだろ(だって、出版社は商売商売だろうから)って思ってたら、ぜんぜん出てこない。
待ってたら、30年以上が経ってしまった。
(ほんと、最近、こうやって長い年月が経過したのを振り返ってみたりすると、死なないでいられてよかったな、なんてふうに思ってしまう、人間いつ死んぢゃうかわかんないからねえというトシに達してるから。)
それが出るっていうんだから、驚いてばかりいるんぢゃなくて、読まなきゃなんないぢゃない。
原型を知らないんで、どこまでのどれが(たとえば『ノルウェイの森』のあたまが『蛍』であるように)元々のものかはわかんないんだけど、まあ読んでみたら、なるほど「世界の終り」でした、壁に囲まれた、一角獣のいる街に、夢読みとしてやってきてしまった「私」が出てくる。
村上作品の初期のものらしく、主人公が名前をもってるけど名前で呼ばれたり名乗ったりしないままで物語は進んでく。
っつーことで、出版されたばっかの新しいものに関する常として、あまり細かな話の筋にかかわるようなことは、とりあえず今ここでは書きません。
片岡たまき 二〇二三年三月 ちくま文庫版
サブタイトルは「ボスと私の40年」、単行本は2014年だって。
これは先月なかばころだったか、書店で積んであるのみて、買ってみた、すでに二刷。
著者はRCの元マネージャーで、本書読むと、最初は衣装係だったらしい。
中学生のときRCのファンになって、聴いたり観たりしてるだけにとどまらず、なんとか働きたいと思いつづけて所属事務所に連絡とったりして、とうとう就職したっていうんだから熱意がすごいね。
しかし、マネージャーとか衣装とかってよりも、あの『忌野旅日記』の構成をやったひとだっていうんで、それがいちばん読んでみたくなったとこかもしれない。
『忌野旅日記』のあとがきの最後んとこみたら、
>そして、俺の友人、知人に関するうわごとを、いつも楽しそうに聞いてくれて、文章にしてくれたゴースト・ライターのたまきにも、とても感謝している。彼女はあきれるくらいEセンスをしてると思うね。彼女になら、俺は何だって話しちゃうよ。
って、ちゃんと書いてあった。
で、本書には、1982年ころのRCのツアーにスタッフとして同行していろいろ仕事したこととか、やがてRCが休止状態になったときのこと、そのあと一時離れていたがまた2003年のツアーから手伝いを始めたときのこと、そして2009年のおわかれまで、いろいろ書いてあります。
1986年ドイツへ行ったときの、
>清志郎は部屋を出るときには、枕元に「ヒトハタウサギ」のイラスト入りで「寸志」、そしてドイツ語と日本語で「どうもありがとう」と書いた紙の上にチップを置いていた。(p.137)
とか、2003年に清志郎から聞いたという、
>ツーリングで行った高原のレストランの壁に飾ってあった長ーい角笛、いったいどんな音が出るのだろうと、内緒で吹いたら、なんと大きな音が出ちゃって、お店の人が驚いてすっ飛んでやってきた。怒られるかと思いきや、「この笛の音を初めて聴いた」と逆に喜ばれた話。(p.211)
とかってエピソード、私は好きだなあ。
あと、1987年にソロアルバムつくってツアーをやったときに、レコーディングしたイギリスのバンドメンバーたちの自己主張に感化されたキヨシローが、
>「伝わろうが伝わるまいが、自分のことを主張しないとダメなんだよな」(P.141)
って言ったって話も、なんかいいなあ。
章立ては以下のとおり。文庫化にあたって「ボーナストラック」として、2015年にリンコさんにインタビューしたときのことが収録されたんだけど、そのなかで八王子のある場所でリンコさんが「ここが『スローバラード』の駐車場だよ」って連れてってくれたってのが驚き、ホントにあったんだ、市営グランドの駐車場。
プロローグ――ステージ衣装
第一章 理解者
私の好きなおにいさん
ちいさな冒険
初めてのライブ
『シングル・マン』の衝撃
ライブハウス
最前列
成人
爆発
第二章 開かれた扉
就職活動
とまらないツアー
極上の一瞬
第三章 舞台袖
即出
ビデオ鑑賞会
バラの花束
マネージャー就任
プラッシー
天職
失敗
第四章 パンドラの箱
禁断の果実
来日公演
彼女の笑顔
からすの赤ちゃん
高圧電線
発表中止
明星即席ラーメンのうた
放送禁止
第五章 ロックン・ロール・ショーはもう終わりだ
空中分解
カオス
清志郎とチャボ
無期限活動休止
第六章 サヨナラはしない
青い空
ピンチヒッター
エロ本
ナンバーワン
ベストドレッサー
7足のブーツ
顔写真
幸せ者
終章 お別れは突然やってきた
あふれる涙
位牌
ボーナストラック
リンコさん
エピローグ――忌野清志郎ランドの日々
ちくま文庫版エピローグ――ラスト・ショウ
もうひとつのボーナストラックをあなたに 竹中直人