丸谷才一 昭和56年 中公文庫版
年明けに買った古本、最近やっと読み終えた。
短いものの集まりは、それだけにいつでも読めると思って少しずつしか読まなかったりして、意外と日にちかかることがある。
それでも、読んだときは、エッセイ集みたいなやつのなかでも、これはずいぶんおもしろいなと思ったんだが、巻末の著者あとがきに、
>(略)主として短い文章のなかから、いささか自信のあるものをよりすぐつて成つた本です。ずいぶんいろいろの型のものを並べたつもりですから、わたしの芸の見本帖と言つてもいい。
なんて書いてあって、そうか、このひとが自信あるっていうなら、そりゃあいいに決まってると合点がいった。
書評なんかが数としては多いんだけど、文学に関するいろんな評論がとても勉強になる。
1968年発表の「書きおろし長篇小説のすすめ」で、西洋の小説は十九世紀は連載での発表形式だったのが、今日では書きおろし単行本という形に改まったと言ってるんだが、それに関して、
>二十世紀小説の重要な技法の一つに、時間の転置といふことがある。前世紀の小説では(略)時間は自然科学的に進が、今世紀の小説では心理的な時間が重視されるため、たとへば今日の出来事の次に一昨日の事件が叙述されることになる。(p.31)
と言って、だから雑誌とか新聞に載せると時間の進行が、読者の日常的な時間の進行と合わなくて、連載には向かないんだという、なるほど。
1962年の「市民小説への意志」のなかで、小説の文体についてチラッと触れてるとこでは、
>(略)一般に英米の小説の文体は(略)日本のそれと比較して遙かに大味なのである。(略)そして、文体が小味なものになつてしまへば、やはり小説からはロマネスクな力がそれだけ失はれてしまふのである。(p.142)
と散文のストーリーテリングの力について大いなる見解を示してくれている。
(それも、「あの過度に洗練された、衰弱した文体の持主」と、三島由紀夫を攻撃してるおまけつき。)
そうなんだよな、平易な文章でいいから、物語をつむぐことが大事なんだよなと私なんかは思う。
本書の後半では、映画やテレビなんかへの評もあるんだけど、1973年の「当今新聞文体論」では、
>近頃の新聞記事の書き方はどうもをかしい。政治的偏向とか何とかぢやなくて、記事そのもの、文章そのものが奇妙である。
と厳しい批評をしてる。論証の材料をそろえて整理して筋道だてて書くんぢゃなく、感傷的・ヒステリック・非論理的に抗議の気持ちを並べてるだけだと。
>(略)例の全共闘の騒ぎ以来、抵抗だの、反抗だの、造反だの、何だのかんだのが言ひたい放題といふ風潮が生じたため、まあこのくらゐで言ひたい気持は世間に判つてもらへるといふやうに、気がゆるんだのではないかしら。
>しかし、このくらゐで言ひたい気持は通じるといふ馴れあひが、実は表現の敵なのである。さう安心して高をくくつたとき、その気持は、まづごく一部分の身近な者にしか通じなくなり、次に、その一部分にも通じなくなる。つまり、まつたく無意味な消耗品としてしか意味がなくなるのである。このとき戦後民主主義は大衆文化に変質するであらう。(p.282-283)
って、それ、21世紀の今でもまったくもってそういう状況ひどくなる一方で進行中なんぢゃないかと思う。
国語教育は大事なんだけどねえ、スマホさわってばっかりの世代には、またむずかしくなるんだろうねえ。
それはいいとして、丸谷さんの本を読むと、読んでみたくなる小説のタイトルがまたたまるんだけど。
今回メモっておきたいのは、1953年のジョン・ウェイン「急いで降りろ」、1954年のキングズリ・エイミス「ラッキー・ジム」とアイリス・マードック「網のなか」といったところか。
また古本屋探しに行かなくては。
おおまかな章構成は以下のとおり。
I 個人的な事情
II 文学と言葉についての閑談
III 論争一束
IV 推薦文の練習
V 書評の楽しみ
年明けに買った古本、最近やっと読み終えた。
短いものの集まりは、それだけにいつでも読めると思って少しずつしか読まなかったりして、意外と日にちかかることがある。
それでも、読んだときは、エッセイ集みたいなやつのなかでも、これはずいぶんおもしろいなと思ったんだが、巻末の著者あとがきに、
>(略)主として短い文章のなかから、いささか自信のあるものをよりすぐつて成つた本です。ずいぶんいろいろの型のものを並べたつもりですから、わたしの芸の見本帖と言つてもいい。
なんて書いてあって、そうか、このひとが自信あるっていうなら、そりゃあいいに決まってると合点がいった。
書評なんかが数としては多いんだけど、文学に関するいろんな評論がとても勉強になる。
1968年発表の「書きおろし長篇小説のすすめ」で、西洋の小説は十九世紀は連載での発表形式だったのが、今日では書きおろし単行本という形に改まったと言ってるんだが、それに関して、
>二十世紀小説の重要な技法の一つに、時間の転置といふことがある。前世紀の小説では(略)時間は自然科学的に進が、今世紀の小説では心理的な時間が重視されるため、たとへば今日の出来事の次に一昨日の事件が叙述されることになる。(p.31)
と言って、だから雑誌とか新聞に載せると時間の進行が、読者の日常的な時間の進行と合わなくて、連載には向かないんだという、なるほど。
1962年の「市民小説への意志」のなかで、小説の文体についてチラッと触れてるとこでは、
>(略)一般に英米の小説の文体は(略)日本のそれと比較して遙かに大味なのである。(略)そして、文体が小味なものになつてしまへば、やはり小説からはロマネスクな力がそれだけ失はれてしまふのである。(p.142)
と散文のストーリーテリングの力について大いなる見解を示してくれている。
(それも、「あの過度に洗練された、衰弱した文体の持主」と、三島由紀夫を攻撃してるおまけつき。)
そうなんだよな、平易な文章でいいから、物語をつむぐことが大事なんだよなと私なんかは思う。
本書の後半では、映画やテレビなんかへの評もあるんだけど、1973年の「当今新聞文体論」では、
>近頃の新聞記事の書き方はどうもをかしい。政治的偏向とか何とかぢやなくて、記事そのもの、文章そのものが奇妙である。
と厳しい批評をしてる。論証の材料をそろえて整理して筋道だてて書くんぢゃなく、感傷的・ヒステリック・非論理的に抗議の気持ちを並べてるだけだと。
>(略)例の全共闘の騒ぎ以来、抵抗だの、反抗だの、造反だの、何だのかんだのが言ひたい放題といふ風潮が生じたため、まあこのくらゐで言ひたい気持は世間に判つてもらへるといふやうに、気がゆるんだのではないかしら。
>しかし、このくらゐで言ひたい気持は通じるといふ馴れあひが、実は表現の敵なのである。さう安心して高をくくつたとき、その気持は、まづごく一部分の身近な者にしか通じなくなり、次に、その一部分にも通じなくなる。つまり、まつたく無意味な消耗品としてしか意味がなくなるのである。このとき戦後民主主義は大衆文化に変質するであらう。(p.282-283)
って、それ、21世紀の今でもまったくもってそういう状況ひどくなる一方で進行中なんぢゃないかと思う。
国語教育は大事なんだけどねえ、スマホさわってばっかりの世代には、またむずかしくなるんだろうねえ。
それはいいとして、丸谷さんの本を読むと、読んでみたくなる小説のタイトルがまたたまるんだけど。
今回メモっておきたいのは、1953年のジョン・ウェイン「急いで降りろ」、1954年のキングズリ・エイミス「ラッキー・ジム」とアイリス・マードック「網のなか」といったところか。
また古本屋探しに行かなくては。
おおまかな章構成は以下のとおり。
I 個人的な事情
II 文学と言葉についての閑談
III 論争一束
IV 推薦文の練習
V 書評の楽しみ