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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

遊び時間

2017-03-26 18:15:16 | 丸谷才一
丸谷才一 昭和56年 中公文庫版
年明けに買った古本、最近やっと読み終えた。
短いものの集まりは、それだけにいつでも読めると思って少しずつしか読まなかったりして、意外と日にちかかることがある。
それでも、読んだときは、エッセイ集みたいなやつのなかでも、これはずいぶんおもしろいなと思ったんだが、巻末の著者あとがきに、
>(略)主として短い文章のなかから、いささか自信のあるものをよりすぐつて成つた本です。ずいぶんいろいろの型のものを並べたつもりですから、わたしの芸の見本帖と言つてもいい。
なんて書いてあって、そうか、このひとが自信あるっていうなら、そりゃあいいに決まってると合点がいった。
書評なんかが数としては多いんだけど、文学に関するいろんな評論がとても勉強になる。
1968年発表の「書きおろし長篇小説のすすめ」で、西洋の小説は十九世紀は連載での発表形式だったのが、今日では書きおろし単行本という形に改まったと言ってるんだが、それに関して、
>二十世紀小説の重要な技法の一つに、時間の転置といふことがある。前世紀の小説では(略)時間は自然科学的に進が、今世紀の小説では心理的な時間が重視されるため、たとへば今日の出来事の次に一昨日の事件が叙述されることになる。(p.31)
と言って、だから雑誌とか新聞に載せると時間の進行が、読者の日常的な時間の進行と合わなくて、連載には向かないんだという、なるほど。
1962年の「市民小説への意志」のなかで、小説の文体についてチラッと触れてるとこでは、
>(略)一般に英米の小説の文体は(略)日本のそれと比較して遙かに大味なのである。(略)そして、文体が小味なものになつてしまへば、やはり小説からはロマネスクな力がそれだけ失はれてしまふのである。(p.142)
と散文のストーリーテリングの力について大いなる見解を示してくれている。
(それも、「あの過度に洗練された、衰弱した文体の持主」と、三島由紀夫を攻撃してるおまけつき。)
そうなんだよな、平易な文章でいいから、物語をつむぐことが大事なんだよなと私なんかは思う。
本書の後半では、映画やテレビなんかへの評もあるんだけど、1973年の「当今新聞文体論」では、
>近頃の新聞記事の書き方はどうもをかしい。政治的偏向とか何とかぢやなくて、記事そのもの、文章そのものが奇妙である。
と厳しい批評をしてる。論証の材料をそろえて整理して筋道だてて書くんぢゃなく、感傷的・ヒステリック・非論理的に抗議の気持ちを並べてるだけだと。
>(略)例の全共闘の騒ぎ以来、抵抗だの、反抗だの、造反だの、何だのかんだのが言ひたい放題といふ風潮が生じたため、まあこのくらゐで言ひたい気持は世間に判つてもらへるといふやうに、気がゆるんだのではないかしら。
>しかし、このくらゐで言ひたい気持は通じるといふ馴れあひが、実は表現の敵なのである。さう安心して高をくくつたとき、その気持は、まづごく一部分の身近な者にしか通じなくなり、次に、その一部分にも通じなくなる。つまり、まつたく無意味な消耗品としてしか意味がなくなるのである。このとき戦後民主主義は大衆文化に変質するであらう。(p.282-283)
って、それ、21世紀の今でもまったくもってそういう状況ひどくなる一方で進行中なんぢゃないかと思う。
国語教育は大事なんだけどねえ、スマホさわってばっかりの世代には、またむずかしくなるんだろうねえ。
それはいいとして、丸谷さんの本を読むと、読んでみたくなる小説のタイトルがまたたまるんだけど。
今回メモっておきたいのは、1953年のジョン・ウェイン「急いで降りろ」、1954年のキングズリ・エイミス「ラッキー・ジム」とアイリス・マードック「網のなか」といったところか。
また古本屋探しに行かなくては。
おおまかな章構成は以下のとおり。
I 個人的な事情
II 文学と言葉についての閑談
III 論争一束
IV 推薦文の練習
V 書評の楽しみ
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9回裏2死満塁

2017-03-25 18:52:11 | 読んだ本
玉木正之編 平成28年 新潮文庫
副題は「素晴らしき日本野球」、新潮文庫オリジナルのアンソロジー。
去年の秋遅くなって読んだんだったかな。
最近は野球の話題もなかなか盛り上がってるようで、けっこうなことだ。
ところが、本書のなかに、
>アメリカ野球が、個性的な際立った文化であることを証明する為には、ほかにも決定的な証拠がある。
>それは、英国人とフランス人が、野球をやりたがらないという事実である。(略)
>どちらも、その底には、野球を始めたところで、所詮アメリカ人の下風に立つしかないという劣等感と、妬ましさが働いているに違いなくて、歯を喰いしばって無視するという以外に、方法がないらしい。それは、アメリカ野球という偉大な文化の存在を価値づける無言の証拠にほかならないと私には思える。(「文化としてのアメリカ野球―序説」p.90-91)
というような論があるんだけど、やっぱ世界中で面白がられるスポーツではないような気がして、私なんかも、いいよオリンピックでやんなくたってと今は思っている。
(だからさー、オリンピック期間でも堂々とナイターででもシーズン続けて、野球観たいひとは球場行って見りゃあいいんだよ。)
この野球に関することだけのアンソロジーが、意外とそれほどおもしろいとは思わなかったのは、やっぱ私がこれまでボリューム的には野球にいちばん多く触れてきただろうから、ちっとやそっとぢゃ刺激を感じないからなのかもしれない。
知らないスポーツのほうが、ほー、そんなことが世の中にはあるのかー、とか興味ひかれやすいから、本読むとしたら。
そのなかでも、おもしろかったのは「さらば 宝石」で書かれている、大毎オリオンズの強打者、榎本喜八の話。
私はこのひとのこと、何も知らない(上で書いたように、そういうんだから面白いと思うのかも)が、2314本のヒットを記録している。
それが、ポテンヒットや当たり損ねが野手のあいだ抜けたりしたヒットだと、たとえ三安打してても、今日は四打数ゼロ安打と自省し、ちゃんと球をバットでとらえた打撃ができていれば、ノーヒットでも四の四とひとり喜ぶひとだったそうな。
なんでも、《体(たい)が生きて、間が合えば、必ずヒットになる》(p.274)という理論の持ち主だったらしい。よく意味わからんが。
あと、個々のプレイヤーのことぢゃなくて、「期待と重圧に包まれて―イチローの流儀」に登場する、当時オリックスの三塁コーチだった松山秀明氏の言う、
>野球ではみんなで仲良くすることがチームワークではないんです。もしそれが仮にチームワークだとしても、そんなものは全く必要ない。一人が他人のミスをカバーできるほど僕らのやっていることは甘くない。(略)
って言葉は好きだな。そうなんだよ、プロフェッショナルって。
コンテンツは以下のとおり。
私を野球に連れてって 意訳詞・玉木正之
野球詠九首九句 正岡子規
吾輩は猫である(第八章・抄) 夏目漱石
日本野球事始め/野球害毒論おこる 池井優
文化としてのアメリカ野球―序説 神吉拓郎
飛田穂洲の野球哲学 桑田真澄
栄冠は君に輝く 詞・加賀大介
六甲おろし(大阪タイガースの歌) 詞・佐藤惣之助
時代の陰影―巨人・阪神戦について 虫明亜呂無
テツガク的一塁手の回想 埴谷雄高
球道徒然草(抄) 大下弘
スランプ 小林秀雄
長嶋茂雄は祈ることの醜さを球場から追放した 草野進
ON記録の世界(抄) 宇佐美徹也
さらば 宝石 沢木耕太郎
プロ野球二都物語―甲子園詣 玉木正之
少年の夢―野茂英雄が歩いた道 佐瀬稔
逆風に立つ―松井秀喜の美しい生き方(抄) 伊集院静
期待と重圧に包まれて―イチローの流儀
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臆病な共犯者

2017-03-20 18:58:22 | 読んだ本
E・S・ガードナー/井上一夫訳 昭和59年 ハヤカワ・ミステリ文庫版
原題は「THE CASE OF THE NERVOUS ACCOMPLICE」という1955年発表のペリイ・メイスンシリーズ。
たまに読み返すと、ひまつぶしにはちょうどいい、考えるより先に話が進んでってくれるようなとこあるから。
今回の依頼人は、不動産周旋業者の夫人で、夫が不動産投資の相談にのってる女と浮気してるんで、取り戻したいんだという。
離婚問題は取り扱わないというメイスンに、そうぢゃなくて、ある会社の株を買って、急遽重役会議に出席して、そこの議論をむちゃくちゃにしてくれればいいんだという。
引き受けたメイスンは、シルヴァン傾斜地開発会社ってその会社の株主になって、重役会議で依頼人の夫のからんでる土地開発問題をひっかきまわし、うまくいかないようにする。
その件が頓挫すれば、夫は浮気相手と仲たがいをして、自分のところに帰ってくるだろうというのが依頼人の狙い。
一方、メイスンが立ち入ってきた会社のほうでは、メイスンが常識はずれな金額で株を買ったということで、あの土地に何があるのだろうかとざわざわしだす。
そんなことしてるうちに、依頼人がくだんの土地で、人が殺されているのを見つけてしまい、警察にも届けずメイスンのところへ駆け込んでくる。
状況としては彼女が疑われてもしょうがないんだが、弁護を引き受けるメイスンは、依頼人が現場近くから乗ったタクシーの運転手に顔をおぼえられてるかもしれないので、もういちど同じ車に乗って同じ額を払うようなシチュエーションをつくるといった策を弄する。
秘書のデラに、ホントに依頼人を弁護するのかと問われたメイスンは、
「弁護士の第一の義務は、依頼人を守ることだよ。デラ、ものごとの軽重をわきまえなければならない。たとえば、危篤の病人の病床に急ぐ医師の場合を考えてごらん。おそらく医者はあらゆる交通法規を犯すだろうが、危急の場合はそれもやむをえない。(略)」
なんてことを言う。
物語の後半で、探偵ポール・ドレイクから「わたしが弁護士だったら、こっちに嘘をついた人間の弁護士にはならないね」と言われたときも、メイスンは、
「それでは、あまり依頼人は来ないだろうな。とくに刑事事件ではね。」
と意に介さない。
そんなこんなで依頼人は捕まってしまい、不利な状況で予審が始まる。
宿敵のハミルトン・バーガー地方検事は
「法律上の華々しい議論や、派手な反対訊問、芝居気たっぷりの演説などの手続きが必要となってくると思われます。(略)かかる無用の芝居気を除くように致したいと思います」
と冒頭でメイスンに敵意をむきだしにするんだが、こともあろうに判事まで
「本予審廷においても、巧妙にして非常に狡猾な法の曲解が曲解者の意図の見えすく、限度をこえたものと認められた実例もいくつかあることは事実です」
だなんて言って、メイスンに警告じみたことを言う。
そう言われたからか、メイスンはほとんど反対訊問をしないどいて、判事を心配させるんだが、最後にやっぱりドカンと爆弾を落とすような反対訊問をして、検事側証人を窮地に追い込み、この予審では被告の釈放を勝ち取る。
しかし、依頼人にさらに不利な証拠や証言が集められた状態で、本チャンの陪審法廷が開かれることになる。
だけど、ここでもメイスンは最初は反対訊問をそれほどしないどいて、やっつけるべき証人が出てきて、それに対する反対訊問をするタイミングのときに夕刻の休廷にうまく持ち込む。
公判中の一晩のあいだに、新しい反撃材料を探すのは、このシリーズのお手の物。
新聞にも、メイスンが何か隠してる切り札を出すはずだ、みたいな記事がのるもんだから、翌日の法廷は劇的な展開見たさの傍聴人がいっぱいになってたりする。
そんななかで、メイスンははったりを効かしたワナをかけ、真犯人を見つけ出す。
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愛と名誉のために

2017-03-19 18:33:55 | 読んだ本
ロバート・B・パーカー/菊池光訳 1994年 ハヤカワ・ミステリ文庫版
パーカーつながり。
いくらスペンサー・シリーズを読み返してるとはいえ、これをもう一回読むとは思わなかった。
ってのは、文庫出たときに確かに読んだんだけど、これは二度は読まんよと判断して何度目かの引越のときに売っちゃった、明確な記憶があるから。
それなのに、ことし年明けに古本屋でフラフラと買った、原題「LOVE AND GLORY」は、探偵小説ぢゃない。
簡単にいうと、女にフラレタ男がとことん落ち込んで、そっから再起してくるって話。
自分をとりもどすんだ、彼女にふさわしい立派な男になるのだ、みたいなスペンサー以上に、男はこうあるべき的なテーマが初めて読んだとき、ダメだったんだよねえ私には。
主人公のブーンは1950年に大学に入学、あまり真面目な学生ではないが、作家志望でクラス中の作文を引き受けたりするようなとこある。
新入生のパーティで一目ぼれしたジェニファは最初他の学生とつきあってたんだが、やがてブーンとつきあうことになる。
>十九歳、何かが起きようとしている。(略)神様が今まさに自分に刻印を打とうとしておられる、それがわかっていて、私は心底から怯えた。
ってのが彼女を自分のものにしようとしたときの心境だが、神様が出てくるのはたぶんカソリックだからぢゃないかと。
これでハッピーな人生が開かれるかというと、成績も素行もわるくて退学になってしまい、ブーンは徴兵されて朝鮮戦争に行くことになってしまう。
(スペンサーも朝鮮戦争行ってたね、たしか。)
どこへ行っても熱烈な手紙を彼女に送り続けるんだけど、ジェニファは彼の留守中にべつの男と婚約してしまう。
>あなたに対してはいつまでも特別の感情を抱いているが、あなたの愛情の激しさ、完全を求める気持ちにはとうてい応えられない
だそうだ彼女の言い分は。その後ブーンから送った手紙はいつも未開封で返送されてくる、やれやれ。
帰国して、彼女の結婚披露パーティに出たとき、ブーンは酔っぱらってしまったけど、
>二人で愛について語り合った時、私たちは別々のことについて話していたのだ、自分の解釈の仕方が常に正しいとは限らない
ってことに気づく。彼女のほうは「わたしたち、友だちでいられる」とか言うんだけど。ときに1954年8月。
かくして希望してたのと別の人生を歩むことになったブーンだが、就職すんのも苦労して52社目の面接でようやく雇われる。
しかし、会社でうまくやっていけずに、すぐやめる。そのあとも職を転々としながら、二日酔いで無断欠勤してクビになったりを続けながら、だんだんひどい状態になりながら放浪してく。
あてもなくさまよい続けて、ボストンからスタートしたはずだが、服もぼろぼろ浮浪者同然でたどりついたとこは西海岸のサンタモニカ。
どこへ行っても、投函されるはずはないがジェニファにあてて書き続けてる手紙というか日誌のノートは、離さず持ってるんだけど。
絶望しきって泣きながら浜で寝て、目覚めたとこで、彼はようやく再起を志す。東のほう見て「君を必ず取り戻す」とか言う、よしなさいって。
で、皿洗いの仕事を始めたのをきっかけに、心身の健全さをとりもどすことを始める。
浜を走ったり、雇い主につれられてベンチプレスを教わったりすんだ、やっぱスペンサーとやること一緒だ。
その後、仕事を大工に変えたりしながら、とうとう一年後にはボストンへ戻る。目的は夫の教授といっしょに大学で助手をしているジェニファに会うため。執念深いねえ。
彼女のほうは、あいかわらずの性格で、「またあなたがそばにいてくれて、ほんとに嬉しい」なんて言う。
もっともブーンのほうも、彼女が義母と言い争うことがあるなんて話をすると、即座に「きみと意見がくいちがったら、彼女がまちがっている。きみが正しい。」なんて言い方するんだから、おいおいどれだけ女神さまなんだよ。
かくして、再会した二人はいろんなことを語り合ってくうちに、お互いの存在のおかげで、自分は自力ではなれなかった、まともな人間になれたって認め合うことになるんだが。
やっぱ、なんかおもしろくないんだよなあ、そのへんが。かっこつけすぎで。

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スクール・デイズ

2017-03-18 18:56:12 | 読んだ本
ロバート・B・パーカー/加賀山卓朗訳 2009年 ハヤカワ・ミステリ文庫版
これ、どっか出張先で買ったの、去年の8月ころだったんだよな、たしか。でも、読んだの今年2月のおわりごろ。
そんなことだからシリーズのおしまいまでまだたどり着かないんだよな、スペンサー・シリーズの33作目、原題は「School Days」そのまんま。
事件は、ボストン近くのハイスクールで起きた銃乱射、スキーマスクをかぶった少年二人によって7人の犠牲者が出た。
立てこもったうえで投降したのは一人だけ。その一人の証言によって、現場から姿を消していた、もう一人もつかまった。
スペンサーの依頼人は、あとからつかまったほうの少年の祖母。うちの孫は無罪に決まってるから、証明してくれという。
純粋な犯人捜しぢゃない、スペンサーは弁護士ぢゃないんだし、めずらしいタイプの依頼。
例によって、あちこち突っつきまわる調査をはじめるスペンサーだが、関係者はみんな、少年たちが犯人でしょうがないから事件のことはおしまいにしようよって態度でいる。警察も学校も、少年の両親でさえも。
少年自身も何考えてんだか、よくわかんないタイプ。まあ、まともなら銃乱射なんかしないだろうけど。
大人に訊くのが間違ってたんだって気づいたスペンサーは、ハイスクールの生徒たちに彼らのことを聞きまわる。
いつものように、女子大生とか女子高生とかに話しかけるときのスペンサーは、かっこつけたがるんだが。
やがて、その地域の若いワルのグループにたどりついて、はなはだ激しく衝突することになるんだが、スペンサーは暴力のプロなのでガキには負けるはずもない。
結局、調べてみても、少年がやったことには間違いないんだが、その理由が知りたいスペンサーは、一度はじめたことは手を引けと言われたってやめない。
で、ストーリーはさておき、どうでもいいけど本作では、恋人のスーザンはどこか遠くの学会に出かけちゃってて不在。
相棒のホークも出てこない。よって、いつものような掛け合い漫才は無い、この話。
スーザンがいないこともあって、スペンサーは愛犬パールの世話をしてるんだが、どこへ捜査に行くときも、なんとこの犬を連れて現れる。それが、ちょっとコミカル。
どこの世界にジャーマン・ショートヘアード・ポインターを連れて訊きこみにいく探偵がいる。相手もびっくりして警戒心解くかな。


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