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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

激震!セクハラ帝国アメリカ

2025-01-16 20:05:42 | 読んだ本
町山智浩 2018年 文藝春秋
これは去年12月に買い求めた古本、出てたのも知らなかったんだけど、これまで何冊か読んだシリーズなんで、ひさしぶりに読んでみたくなった。
サブタイトル「言霊USA2018」ということで、週刊文春連載コラムの2017年3月から2018年3月分のもの。
当時はトランプ大統領だったんだけど、よくムチャクチャな発言するんで、そのネタが多い。
おどろいちゃうのは、トランプのツイートがノーチェックだってこと、広報とかのスタッフが文案とか推敲とか噛んでない、だから「Covfefe」とか打ち間違えと思われる意味ない言葉を発信しても本人が寝ちゃうとそのまま放置されてる、危機管理感まったくなし。
>(略)スパイサー報道官は、トランプが吐き続ける嘘やデタラメを、そのまま垂れ流してきた。記者に矛盾や事実との違いをいくら追及されても、スパイサーはまともに反論できず、イライラと顔を真っ赤にして「ピリオド!」と叫んで会見を打ち切ることが多かった。(p.163)
って、その報道官は半年で突然辞任しちゃったんだけど、そうだっけ、もう記憶ない、ちょっと前のことなのに、でも、また、そういうのが始まるのね、とほほ。
大統領本人だけぢゃなく、息子も娘も前面に出てきては、よくわかんないことをやらかす。
「長男ドナルド・トランプ・ジュニアは父を批判するツイートに突撃を繰り返す、トランプの番犬ナンバーワン(p.114)」なんだそうだが、大統領選挙中に、「ヒラリー・クリントンを罪に問える情報が、ロシア政府からのトランプ支援の一環としてあります」って言われたら、そいつはうれしいって答えて、ロシア政府とつながりがあると称する弁護士と面会したとか、だいじょぶなんか、そんなことして。
>さて、イヴァンカ絡みの言葉、「コンプリシト」が、ワード・オブ・ジ・イヤー、2017年の言葉に選ばれた。(略)
>4月、CBSテレビによるイヴァンカのインタビューが放送された。
>「あなたをコンプリシトと呼ぶ記事があります。どう思いますか?」という質問にイヴァンカはこう答えた。「コンプリシトであることが、善いことのための力になり、ポジティヴなインパクトを与えるなら、私はコンプリシトです」いや、そんないい意味じゃねえし。「コンプリシトがどういう意味か知りませんが」あてずっぽう言ったのか!(p.215)
とかって、ホントだいじょぶなんだろうか、大統領補佐官なんでしょ。
トランプ本人は、気に入らない相手いると徹底的に罵倒するし、都合のわるい情報に対してはフェイクニュースだとか決めつけるんだが、
>「トランプは精神的に不安定で大統領の執務には危険だ」
>去年2月、35人の精神科医がニューヨーク・タイムズ紙に意見広告を出した。リン・メイヤー博士は「大統領は『自己愛性人格障害』の疑いがある」と書いた。「この障害を持つ人は否定された時、激しい怒りを抑えられず衝動的に行動する可能性があります」
>そんな人に7000発の核弾頭の「デカいボタン」を預けておいていいの?(p.236)
って指摘されたこともあったらしい、困ったもんだね。
しかし、あのひとはビジネスマンだから儲かんないことはしないってのが、私のもってる印象、だから戦争は儲かんないからやんないんぢゃないかと、でも儲かるならミサイルのスイッチでも押しちゃうのかな。
イギリス国内での事件の情報を流出させちゃって、当時のイギリス首相はトランプと情報を共有しないことに決めた、とかって話もあるけど、たしかに機密保持とかできなさそうな感じではある、いっそケネディ暗殺の真相とかエリア51に何がどうなってるのかとか、ポロポロ出しちゃわないかな、みたいなヘンな期待をしちゃう。
トランプ・ファミリーの脇がちっとくらいあまくたってべつにいいんだけど、気になったのはロシアの工作の話。
30代白人女性というプロフィールのジェナ・エイブラミスのツイートは人気で、フォロワー数7万超えだったんだが、だんだん政治的内容の発言が増えてきて、保守的な意見で支持を集めてたんだけど、2017年10月にアカウントが凍結された、ってエピソードで始まる「Russian Troll Army」ロシア釣り軍団って一節。
>実はジェナ・エイブラミスという女性は実在しなかった。ロシア政府が対米プロパガンダのために作ったトロール(釣り)アカウントだったのだ。
>今年9月、ロシアの入金によるプロパガンダ広告を掲載してしまったと、フェイスブックが発表した。2016年の大統領選期間中、ロシア政府のプロパガンダ機関インターネット・リサーチ・エージェンシーからの入金で、フェイスブックは3000もの政治意見広告の載せた。(略)
>ロシアが出す広告は右寄りでトランプ支持なものが多い。たとえば「アーミー・オブ・ジーザス(キリスト軍)」という実在しない宗教団体のフリをした広告では、悪魔サタンがキリストと腕相撲をして「この腕相撲に勝てば選挙でヒラリーが勝つ」と言っている。(略)
>その逆もあって、たとえば「LGBTユナイテッド」という架空の団体の広告では反ゲイのキリスト教団体との戦いを、「目覚めたる黒人」という広告では、70年代風アフロヘアーの女性の写真を使ってアフリカ系アメリカ人に白人との闘争を呼びかけている。つまり、ロシアの目的はアメリカ国民を宗教や人種、イデオロギーで互いに対立させ、分断することらしい。(略)(p.190-192)
っていうんだけど、まんまと引っ掛かってるよね、うーむ、怖いっす。
それはそうと、本書のタイトルが「セクハラ帝国アメリカ」ってなってんのは、べつに政治家がその手の発言するからってだけなわけぢゃなくて、2017年10月ころから明らかになってきた映画界の話が注目を浴びてた時期だからってことがある。いわゆる「#MeToo」運動ですね。
>ハリウッドにはサイレント時代からキャスティング・カウチという言葉がある。(p.174)
ってことなんだが、当時セクハラの告発の中心だったのは、プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインなんだけど、追及のきっかけをつくったのが、
>「ノミネーションおめでとう!」2013年のアカデミー賞候補発表式で司会のセス・マクファーレンは助演女優賞候補の5人に行った。「もう、ワインスタインを好きなフリしなくてもいいですね!」(p.175)
ってとこからだった、ってのは知りませんでした。

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でかした、ジーヴス!

2025-01-10 19:12:55 | 読んだ本
P・G・ウッドハウス/森村たまき訳 2006年 国書刊行会
これは去年5月の古本まつりで見つけたんだけど。
背表紙のタイトルみたときに、はたして自分が読んだもんかどうかわかんなくなって、スマホで自分のブログ検索してしまった。
とほほ、なんて情けない、若いころに読んでたら、そんなことの記憶に自信ないことなんかなかっただろうに。
で、結果として、『それゆけ、ジーヴス』と『よしきた、ジーヴス』は読んでたけど、これはまだだったと判明したので、サクッと買った、読んだの最近になってだけど。
原題「Very Good, Jeeves! 」の刊行は1930年で、順番でいくと『比類なきジーヴス』と『それゆけ、ジーヴス』につづくシリーズ第三冊目なんだそうである。
なんつっても短篇集だってのがうれしいね、短篇のほうがおもしろい、たとえそんなのご都合主義の急速解決じゃんとかって展開でも、私ゃ短篇のほうが好きだ。
ところが冒頭の「ジーヴスと迫りくる運命」を読んでいたら、あれ、これって読んだことあるんぢゃ、って思えてきて、あわてて巻末「訳者あとがき」見たら、文春文庫版『ジーヴスの事件簿 大胆不敵の巻』に「ジーヴズと白鳥の湖」ってタイトルで入っていた話だった。(自分の記憶力がそこまで最悪になってなかったことにちょっとホッとした。)
あと本書の「ジーヴスとクリスマス気分」もおなじく文庫で読んだ「ジーヴズと降誕祭気分」って話だった。
ま、いずれのエピソードにおいても、若紳士バーティー・ウースターは自らのマヌケな見識によって引き起こしてしまうトラブルに遭遇し、従者ジーヴスがその卓越した頭脳によって主人を窮地から救い出すさまはあざやかで、ついでに主人を自分の思うようにふさわしい方向へ調教してくのが、いつ何度読んでもおもしろい。
コンテンツは以下のとおり。

1.ジーヴスと迫りくる運命
主人公バーティーはアガサ伯母さんの田舎の邸宅に招待される、アガサ伯母さんが命令するには、お客のフィルマー氏から良い印象をもってもらうよう行動せよってことなんだが、親友のビンゴがなぜかバーティ―の従兄弟の家庭教師として邸にいる、トラブルの予感しかしない。
>「それだけじゃない。自由意志を持った人間が、単に快楽追求のためだけに僕の従兄弟のトーマスの家庭教師を引き受けるだろうか? あいつは手ごわいガキで人間のかたちをした悪魔だってことはあまねく知れ渡ってるんだ」
>「およそ蓋然性なきことと存じます、ご主人様」
>「水底は深いんだ、ジーヴス」
>「言い得て妙かと存じます、ご主人様」(p.18)

2.シッピーの劣等コンプレックス
バーティーは旧友のシッパリー氏を訪ねる、シッピーは週刊誌の編集長として働いているのだが、ある女性に恋をしている一方、昔の校長がおもしろくもない原稿を書いてよこすのには閉口していた。
>「おそれながら、今現在とっさにということであれば、わたくしが自信をもってご提案できる計画はございません、ご主人様」
>「考える時間が欲しいってことだな?」
>「はい、ご主人様」(p.54-55)

3.ジーヴスとクリスマス気分
レディー・ウイッカムから招待されたバーティーはクリスマス休暇をそこで滞在することに決める、当初予定していたモンテ・カルロ行きがなくなったことに不満なジーヴスはいつもよりやや冷淡である。滞在先では因縁のあるサー・グロソップも来ていて不穏な感じもあるんだが、バーティーはロバータ・ウィッカム嬢に恋をする。
>「ジーヴス」僕は冷たく言った。「君がもしあの令嬢に関して何か批判めいたことを言いたいならば、僕の前では言わないほうがいいな」
>「かしこまりました、ご主人様」
>「またその件については他所でも言わないでいてもらいたいものだ。君はウィッカム嬢のどこが気にいらないんだ?」
>「いえ、滅相もないことでございます、ご主人様」
>「ジーヴス。それでもあえて訊きたい。腹を割って話そうじゃないか。君はウィッカム嬢に不満があると言う。なぜかを僕は訊きたい」
>「あなた様のようなお人柄の紳士様には、ウィッカムお嬢様はお似合いのご伴侶ではあられない、との思いがわたくしの脳裏をよぎったまででございます」(p.83-84)

4.ジーヴスと歌また歌
かつてドローンズクラブでバーティーをひどい目にあわせたタッピー・グロソップが、オペラを勉強中のベリンジャーという女性と婚約したから、昼めしをおごれだの過去の悪いことは言うなだの都合のよいことばかり言う。寛容なバーティーは対応してやろうとするが、ダリア叔母さんが訪ねてきて、グロソップは娘のアンジェラに一時期イレこんでたのにポイと捨てて傷つけたのだという。
>「(略)それであたしは、このベリンジャーとの関係をあんたにぶち壊してもらいたいの、バーティー」
>「どうやって?」
>「どうやってだっていいの。好きなやり方でやって」
>「だけどどうして僕にそんなことができるのさ?」
>「できるかですって? 何言っているの。あんたのところのジーヴスにすべてを話せばいいことでしょ。ジーヴスが道を見つけてくれるわ。あたしが今まで出会った中で最も有能な人物の一人だわね。すべての事実をジーヴスの前にさらして、この問題の周辺に心遊ばせてくれって頼むのよ」(p.118-119)

5.犬のマッキントッシュの事件
レディー・ウィッカムの娘ボビーがバーティーを訪ねてくる、用件は自分の母親の書いた脚本をアメリカの劇場経営者に売り込もうとしている、ついてはその経営者が脚本の採用に影響力をもつ悪ガキの息子をつれてくるのでよろしくもてなしてほしいのだという。
>彼女は僕が入っていくと丁重に挨拶した――実を言うと、あまりにも真心込めて挨拶したもので、カクテルを調整しに退室する前にドアのところでジーヴスが立ち止まり、熱くなりやすい息子が地元の妖婦に強気で当たるのを目にした賢明な老父が投げかけるみたいな、一種の厳しい、警告するがごとき表情を向けるのを僕は見たくらいだ。「冷硬鋼!」と言うみたいに僕はうなずき返し、彼はにじみ去り、僕は快活なホストを演ずるべく残された。

6.ちょっぴりの芸術
ダリア叔母さんのヨット・クルーズ旅行に招待されたバーティーだが、いまロンドンを離れるわけにはいかないと断る、新しい女の子に恋をしているのだ。彼女は芸術家で、僕の肖像画を描いてくれたんだと言うバーティーに、ダリア叔母さんは、そんな縁談をジーヴスが認めるわけないわと断言する。
>「ジーヴス」僕は言った。「君はこのちょっぴりの芸術が気に入らないようだな」
>「いえ、滅相もないことでございます」
>「いやちがう。言いつくろったってだめだ。君の気持ちが僕には書物を読むようにわかるんだ。何らかの理由で、このちょっぴりの芸術は君の意に沿わない。反論する点はあるか?」
>「色彩がいささか明るすぎはいたしますまいか、ご主人様?」
>「僕はそうは思わない、ジーヴス。その他の点は?」
>「さて、管見いたしますところ、ペンドルベリー様はあなた様にいささか空腹げなご表情をお与えなさいました」(p.178)

7.ジーヴスとクレメンティーナ嬢
年に一度のドローンズ・ゴルフトーナメントに参戦するためホテルに滞在しているバーティーのところへ、またもボビー・ウィッカム嬢が現れる。13歳の従姉妹の誕生日祝いにディナーをご馳走してくれという彼女は、最後に従姉妹を女子校へ送り届けてくれればいいんだからと頼む。
>僕はよくよく考えた。
>「そういうことならゆうに我々の射程範囲内みたいだ。どうだ、ジーヴス?」
>「わたくしもさようと拝察いたすところでございます、ご主人様」
>この男の口調は冷たくじめじめしていた。それで、彼の顔にさっと目をやると、僕は「あなた様はわたくしの導きに従っておられればそれでよろしいのに」の表情を認め、またそれはものすごく僕の気に障った。ジーヴスにはまるで伯母さんみたいに見える時がある。(p.216)

8.愛はこれを浄化す
八月になるとジーヴスは休暇をとってどこかリゾート地へ行ってしまう、そのあいだどう過ごすか考えているとダリア叔母さんから招待状が届く。行ってみるとダリア叔母さんの息子のボンゾがいるのは当然だが、アガサ伯母さんの息子のトーマスが滞在しているのは想定外だった。悪魔のようなワルガキのトーマスだが、滞在客の提案による「よい子のお行儀大賞」によっておとなしくしている、それでは賭けが不利だと思ったバーティーはジーヴスを招集する。
>ジーヴスにはいいところがある。彼の心臓はちゃんと正しい位置にあるのだ。厳密な検査の結果彼に欠けた所は認められなかった。彼の立場にある人物の多くが、年に一度の休暇の真ん中に電報で呼び出されたら、ちょっとは怒り狂ったりしてなんかいたことだろう。だがジーヴスはちがう。翌日の午後に彼はそよぎ入ってきた。(p.261)

9.ビンゴ夫人の学友
バーティーの親友ビンゴ・リトルは、女流小説家のロージーと結婚して幸せな生活をおくっていたが、ロージーの学生時代の友人ローラ・パイクが滞在すると事態は一変、ローラが食べすぎはよくない、野菜だけ食べてればいいんだなど意見して、しかもロージーはその意見を鵜呑みにしてるんで、食卓は悲惨なことになってしまった。
>「(略)それでまた恐ろしいことに、そんなことをビンゴ夫人は是認してるんだ。細君というのはしばしばあんなふうなのか? 主人であり支配者たる夫に対する批判を歓迎するものなのかってことなんだが?」
>「奥様方は一般に、旦那様の改善向上に関する外部観衆からの示唆に対し、ご寛容でおいであそばされるものでございます、ご主人様」
>「それで既婚男性ってのは青白くて弱々しいんだな、どうだ?」
>「さようでございます、ご主人様」(p.285)

10.ジョージ伯父さんの小春日和
ジョージ伯父さんはどこにでもいるような肥満気味のオヤジさんで、クラブでうだうだ過ごしている毎日しかないタイプだった、ところがある日ひょっこり来た伯父さんはニタニタ笑いを浮かべて、バーティーにむかって「わしは結婚を考えてる」なんて言い出した。
>「あのバカ親爺が!」
>「はい、ご主人様。無論わたくしはあえてそのご表現を用いるものではございませんが、しかしながら閣下はいささか無分別でおいでと愚考するものと告白申し上げるものでございます。とは申せ、一定以上のご年齢の紳士様が、いわゆる感傷的衝動と呼ばれるものに屈服なされる様を拝見いたすのは稀有にはあらざることと、ご想起をいただかねばなりません。かような紳士様がたは、小春日和と名づけてよろしかろう、ある種、一時的な回春状態をご経験中でおいでなのでございます。わたくしの理解いたしますところ、この現象がとみに顕著なのはアメリカ合衆国ピッツバーグの富裕な住民層においてでございます。(略)(p.317)

11.タッピーの試練
今回のクリスマス休暇はブリーチング・コートの通称バートの邸宅にごやっかいになろうと決めたバーティーは、その地にタッピー・グロソップも滞在していると聞き、以前うけた仕打ちの報復をしてやろうと計画していた。ところが当のタッピーから電報が来て、来るときに俺のフットボール・ブーツを持ってこい、できたらアイリッシュ・ウォーター・スパニエルもよろしくと言ってきた。
>「(略)あいつは僕をサンタクロースだとでも思ってるのか? あのドローンズ・クラブでの一件の後、奴に対する僕の感情がやさしい善意に満ちあふれているとでも思っているのか? アイリッシュ・ウォーター・スパニエルだって、まったく! チッ!」
>「ご主人様?」
>「チッ、だ、ジーヴス」
>「かしこまりました」(p.353)
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ひとり暮らし

2024-12-06 19:14:08 | 読んだ本
谷川俊太郎 平成二十二年 新潮文庫版
ちょっと前に、谷川俊太郎さんが亡くなったってニュースをみた。
詩人として有名なひとなんで、どっかでその詩を目にすることはあったはずだけど、ちゃんと読んだことはないなあ、詩集読むガラぢゃないのよ私。
私がいいなあと思ったのは、矢野顕子さんが歌う『さようなら』って曲があって、その作詞が谷川俊太郎さんだった。
ぼくもういかなきゃなんない
すぐいかなきゃなんない
で始まって、なんだろう、どうしたんだろうと思わされてるうちに、
よるになればほしをみる
ひるはいろんなひととはなしをする
そしてきっといちばんすきなものをみつける
みつけたらたいせつにしてしぬまでいきる
ってところで、なんかグッと盛り上がる、曲としては静かな調子なんだけど、なんか伝わってくるものある感じで引き込まれる。
この「死ぬまで生きる」ってフレーズがよくて、この歌詞カードのなかでアッコちゃん自身も「俊太郎さん、死ぬまで生きていてくださいね。絶対。」って言ってるんで、私もマネしてときどき使う。
んぢゃ、なんか読んでみなきゃいけないかな、って気になって、かと言って詩を読むのはどうかなって思って、とりあえず中古で手にとったのが、これ。
エッセイ集ということになろうか、単行本は2001年らしい、最初の章では1980年代後半から2001年までにあちこちに書いたものを集めたようだ。
詩を読んでもよくわかんないと思う私だが、詩について谷川さんが、
>詩は思想を伝える道具ではないし、意見を述べる場でもない、またそれはいわゆる自己表現のための手段でもないのです。詩においては言葉は「物」にならなければならないとはよく言われることですが、もしそうであるとすれば、たとえば一個の美しい細工の小箱を前にするときと同じような態度が、読者には必要とされるのではないでしょうか。そこでは言葉は木材のような材質としてとらえられ、それを削り、磨き、美しく組み合わせる技術が詩人に求められる倫理ともいうべきものであり、そこに確固として存在している事実こそが、詩の文体の強さであるはずです。(p.136-137)
っていってるとこは興味深いものあった。なんかインスピレーションめいたものを書きつけてんぢゃないんだ、木工細工なんだ。
という一方で、朗読会のようなイベントの質問コーナーで、
>いつだったかやはり一人の小学生に、「谷川さんはなんでそんなにくだらない詩ばっかり書くんですか?」と問われ、やけになって「詩なんてみんなくだらないものなんだよ」と答えたのを思い出した。(p.159-160)
なんてやりとりをしてるらしい、笑える、面と向かって「くだらない詩」とか言われるとは。
詩にかぎらず言葉ってものについての考察として、レンブラントの自画像を引き合いにだして、その絵は自分で自分をリアルにみつめたものだとして、
>自分という意識なしで、まるで他人を見るように自分を見ている。私もそんなふうに言葉で自分を描けたらと思うが、思うにまかせない。(略)
>(略)詩で自画像を書こうと試みたこともあるが、これもパロディのようなものにしかならなかった。自画像というような主題抜きで書くほうがきっと正直な自分が現れてしまう、それが言葉というものかと思う。(p.51-52)
みたいなこといってるのも、おもしろいと思った。
それはそうと、今回こうやって著者が亡くなったタイミングで読んでたりすると、ご自身の死について語っているところが気になったりする。
2000年ころで70歳ぐらいだろうけど、ひとり暮らしをしてる影響もあるんだろうか、老いとか死とかを考えたりする機会がけっこうあるみたいで。
>過去の自分と出会うのはしかたないにしても、年をとると未来の自分とももうじき出会うんだと覚悟を決めるようになる。つまり老いと死をぬきにしては自分とつきあえない。そろそろ自分とおさらば出来るのがそう悪い気もしないのは、自分に甘い私にも、自分をもてあましているところがなきにしもあらずだったのか。(p.58)
とか、
>死生観の代わりに私がもちたいと願っているのは、死生術もしくは死生技である。何も目新しいものではなく、処世術もしくは格闘技のひとつと思えばいい。要するにどう死んでゆくかという技術のことだ。これがなかなか難しい。人は死の瞬間まで生きねばならないものだから、生のしがらみは最後までついてまわる。しかもその最後の瞬間に至るまでに起こる状況変化は、各人の運命によって千変万化する。なかなか予定というものが立てられない。(p.88)
とか、
>(略)私は年をとるにつれて自分がいいかげんになっていくような気がする。若いころは気になっていたことが気にならなくなった。(略)年とって自分が前よりも自由になったと感じる。(略)
>まあどっちにころんでもたいしたことないやと思えるのは、死が近づいているからだろう。痛い思いをしたり身内や他人を苦しめて死ぬのはいやだが、死ぬこと自体は悪くないと思っている。この世とおさらばするのは寂しいだろうが、死んだら自分がどうなるのかという好奇心もある。未来に何を期待しますかと問われれば、元気に死にたいと答えることにしている。(p.108)
とかって、まだまだ元気だったときに書いたんだろうが、80歳になり90歳になり実際に死が近づいてきたときにどう思ったんだろうって、ちょっと考えさせられる。
あと、死生観とは直接関係ないけど、著者が豊栄市の図書館は市民が集う場所をめざしてるって話を紹介したところで、
>私はこの時代を理解するキーワードのひとつに、「寂しさ」があるのではないかとひそかに思っている。日本人はかつてなかったほどに、一人一人が孤立し始めているのではないか。大家族はもう昔話だし、核家族という言葉さえ聞かれなくなったくらい家族は崩れかかっている。私もその一人だが独居老人が増えているし、結婚を願わない若者も多い。会社もすでに疑似家族としての機能を失いつつあるし、都会では隣近所も見知らぬ人ばかり。私たちは帰属出来る幻の共同体を求めて携帯電話をかけまくり、電子メールで埒もないお喋りに精を出し、ロックコンサートに群がり、居酒屋にたむろし、怪しげな宗教に身を投じる。(略)「和」で生きてきた私たちは、「個」の孤独に耐えられないのだ。(p.221-222)
っていってるのがあって、2000年当時の話なんだが、今もっとそういうの加速してるような気もする。
コンテンツは以下のとおり。

 ポポー
 ゆとり
 恋は大袈裟
 聞きなれた歌
 道なき道
 ゆきあたりばったり
 葬式考
 風景と音楽
 昼寝
 駐ロバ場
 じゃがいもを見るのと同じ目で
 春を待つ手紙
 自分と出会う
 古いラジオの「のすたるぢや」
 通信・送金・読書・テレビ、そして仕事
 惚けた母からの手紙
 単純なこと複雑なこと
 内的などもり
 とりとめなく
 十トントラックが来た
 私の死生観
 五十年という歳月
 私の「ライフ・スタイル」
 ひとり暮らしの弁
 からだに従う
 二〇〇一年一月一日
 二十一世紀の最初の一日
ことばめぐり
 空
 星
 朝
 花
 生
 父
 母
 人
 嘘
 私
 愛
ある日(一九九九年二月~二〇〇一年一月)
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新聞を疑え

2024-11-29 19:53:54 | 読んだ本
百目鬼恭三郎 昭和五十九年 講談社
これは、今年6月ころだったか買い求めた古本、最近やっと読んだ、読み始めるとなんか勢いついてどんどん進めちゃう感じはした。
著者は昭和59(1984)年3月に、31年つとめた朝日新聞社をやめて、その直後に出した本ということになる。
ずっと新聞はおかしい、自分の考えとへだたりがあると思ってたらしいけど、なんでもっと早く辞めないのかな。
新聞を疑えってのは、新聞に書いてあることが真実とはかぎらないとか、そういうことですね、たいしたことでもないのを騒ぐとか、なんかバイアスがあるとか。
>(略)新聞が真実を報道しない理由については、この本の各章で縷々述べているつもりだが、一口でいうと、それが新聞の伝統的な性格だからである。つまり、新聞は、イデオロギーあるいはセンセーショナリズムによって作られているのであり、真実を追求しているようにみせかけているのは、読者をだます手段だと思えばまちがいなかろう。(p.13)
って、ことだそうです、真実はなにかなんてことより、読んだひとにウケりゃいいってことらしい。
著者は学芸部に長くいたんだが、新聞は、文化勲章とかそういう権威ありそうな賞の受賞者決定すると、この人すごい、この人の仕事すごいって持ち上げるけど、
>私にいわせると、こういう時にこそ文化ジャーナリズムの真価が問われるのであって、受賞者が本当にそれに価する業績をあげている人物かどうかを検証するのが、ジャーナリズムに課せられた使命であるはずだ。(p.29)
という意見をもってます、もちろんその価値判断するのはやさしいことではないんだろうけど。
でも、たとえ可能でも、そういう新聞社のなかの人の識見は紙面には反映されることはないといい、
>(略)本来新聞には事物の価値判断など必要ない、という抜きがたい通念にぶつかるのである。この研究は学問的に価値があるのか、この絵は美術的にすぐれているのか、といったその事物が本来問われるべき価値を、新聞は避ける。いま流行の現象学の用語を借りるなら、「判断停止」ということになろう。そして、新聞が専ら問うのは、ニュース価値という得体のしれぬ代物なのである。
>(略)おおよその見当でいうほかはないのだが、ニュース価値とは、広く世間の話題になるかどうかということであるらしい。平たくいうと、みんながおどろくか、みんなの共感を呼ぶような事物が、ニュース価値があるということになる。(p.31-32)
ってことで、本来の価値なんか検証せんと、ウケることを目指すと。
うーん、そういう方向走ってくと、たとえば学者の研究内容そのものなんか置いといて、そのひとの趣味とか意外な一面とか、そーゆーのばっかフォーカスあてるんだろうねえ。
ものごとの本質とか真実とかには全然興味なくて、世論を煽りたてるような報道ばっかしている新聞記者はあぶないよ、ってことは、
>戦争中、新聞は、軍部に強制されて嫌々戦争に協力する紙面を作ったように、新聞研究史などには書かれているが、あれは全部ホントというわけではない、自分から進んで戦争に協力した新聞記者も少なくなかったはずである。そういう彼らに共通していたのは、理性の働きによって物事を判断しようとせず、ただ世間の感情によりかかっていたこと。先入観にとらわれて、事物を直視しようとしなかったことなどであろう。要するに、一切の既存の価値判断、先入観をぬきにして、事物の本質を見極めようという、ジャーナリズム本来のありかたに背いていたということである。(p.65-66)
みたいな言い様もされている。ウケねらうだけぢゃなく、世論誘導しちゃおうみたいになると、もっと危ないってか。
新聞が自らを権威づけるような傾向に走るのもよろしくないという、たまに読者が電話で何か訊いてくるんだが、わからんと答えると怒り出すひとさえいるとして、
>読者にしてみれば、それだけ朝日新聞の権威を買いかぶっているわけで、つい国立国会図書館とか国立科学博物館などとおなじような社会教育機関と錯覚してしまっているのであろう。新聞はそのように権威ある存在にみせかけることに成功しているけれど、私は、その姿勢はまちがっていると思う。なぜなら、新聞は、何度も繰り返すようだが、立ち向う対象の虚像の部分をひきはがして、真実の姿を読者に示すことを使命としているはずである。その新聞が、自ら虚像を読者に示すことに汲々としていは、結局その報道姿勢まで疑われる事態を招くことになりかねないからだ。(p.95-96)
と危惧している。
最後の章で、新聞の文章の書き方について、この著者得意の講演の形をして書いているけど、これはちょっとおもしろい。
>ご承知のように、新聞記事は、ようやく版を組み終えたと思った途端に、新しく大きなニュースが飛びこんできて、それをのせるために、組んである記事を落としたり、削ったりする場合が甚だ多い。従って、記事は、どこを削ってもいいような文章が好ましいとされています。(略)
>ですから、筆者は、どこを削られても文意がとれる文章を書かなければならないことになる。文章読本の類に名文のお手本としてあげられている文章のように、各部分が互いに有機的につながりをもっていて、どこも削れないような記事は、新聞では歓迎されません。(p.239)
ってことを新聞記者だったひとから教えてもらうと、よくわかる、無味乾燥というか砂をかむようなというか、新聞がそういう文章でも文句は言えないね、そりゃ。
最後の最後に付録として、昭和51(1976)年に田中角栄前首相が逮捕されたときに、裁判もまだなのに逮捕で悪者退治は終わったみたいに騒ぐのはいかがか、みたいなこと書いたら、読者から悪いやつの味方をするのかみたいな抗議がたくさんきたって話があんだけど、
>戦争を知らない若い人たちのために断っておくと、正当な意見を非国民呼ばわりして抹殺しようとしたのは、軍部やその手先ばかりではない。世論までそうだったのである。ちかごろ、戦争の悲惨さを若い人たちに伝えようという運動が盛んなようだが、ついでに世論がいかに戦争に迎合しそのお先走りをしたかも、よく伝えておいてもらいたい。(略)
>とにかく、この種の世論は、自分たちの考えに逆らうような意見が、この世に存在するのは許せない、という感情から出発しているので、はなはだ始末が悪い。反対意見の存在を認め、それと自分たちの意見との調整をはかってゆく、というのが民主主義のやりかただ、などとこの人たちに説明してもムダだろう。この点で、日本はいまなお、戦争中と変わっていないようにみえる。(p.271-272)
って感想が述べられてんだけど、それから50年ちかく経ったわけだが、いまの日本も変わってねえなあと、私は思ってしまった。
コンテンツは以下のとおり。なかで「たった一人の世論」は「現代」に昭和57年から2年間連載したものらしいけど、どれもおもしろい。
新聞を疑え――序にかえて
飛ぶ鳥の記(上) 内から見てきた朝日新聞
飛ぶ鳥の記(下) 内から見てきた朝日新聞
「風」とともに去った朝日新聞
たった一人の世論
 人三化け七
 新版罪と罰
 被害妄想史
 就職難
 文化勲章
 大義名分
 共通一次試験
 人間になった警官
 戦死地図
 子どもの地位
 死の値段
 無党派市民
 黒い手の英雄
 都市生活者の資格
 狂った季節
 革命志向
 文学賞の物差し
 分身
 下手も芸のうち
 能力別学級
 お年玉
 オリンピック
 音声言語
 挑戦
 悪の代理人
 殺人嗜好者
新聞の文章
付録
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世界短編傑作集4

2024-11-22 20:03:57 | 読んだ本
江戸川乱歩編 1961年 創元推理文庫
ことし3月ころに買い求めた古本の文庫、シリーズは全5冊で、第5巻に収録されてる「危険な連中」が読みたかっただけなんだけど、どーせ読むだろと思って、同じ時期に5冊とも買っといた、これ読んだのは最近のこと。5→1→2→3→4の順でいちおう全部読めたことになる。
時代順に作品が並べられてて、本書は1927年から1933年にかけての作品が収録されてるんだが、しょっぱなにヘミングウェイがあって、ちょっと驚く。
ヘミングウェイって推理小説書いたっけか、と思うんだが、この短編のハードボイルドのスタイルが推理小説に影響を与えたって理由での選出らしい、そうそう、このシリーズは探偵ものに限らない、短編傑作集だった。
収録作は以下のとおり。物語の序盤のうちから引用して何となくどんな話だったかのメモとして、あまりくわしく内容を書いたりしないようにしておく。

「殺人者」 The Killers(1927) アーネスト・ヘミングウェイ
>ヘンリー食堂のドアが開いて、ふたりの男がはいってきた。カウンターの前に腰をおろした。
>「何をさし上げますか?」とジョージがきいた。
>「さて」とひとりの男が言った。「アル、おまえ、何を食うかね?」
>「さあ、何にするかな」とアルは言った。「おれにも何が食いたいんだかわからねえ」(p.11)
ふたりの男は、もうすぐここに来るであろう男をばらそうってわけよ、と言い出す。

「三死人」 Three Dead Men(1929) イーデン・フィルポッツ
>私立探偵所長マイクル・デュヴィーンから、西インド諸島まで、特別調査に出張してみないかと勧められたとき、私は飛びあがらんばかりに喜んだ。(略)
>デュヴィーンは次のように説明した。
>「この依頼者は、出張調査の費用として、一万ポンド提供するといってきているのだ。(略)(p.33)
バルバドス島で大農場の経営者と使用人など三人が殺されているのが見つかった。

「スペードという男」 A Man Called Spade(1929) ダシール・ハメット
>サム・スペードは卓上電話をよこにおしやり、腕時計に目をやった。四時ちょっと前だ。「おーい」
>チョコレートケーキをたべながら、秘書のエフィ・ペリンが表のオフィスから顔をだした。
>「シド・ワイズに、きょうの午後の約束はだめだ、といってくれ」(p.97)
私立探偵サム・スペードが、だれかに脅かされていると連絡してきた男を訪ねると、すでに事件は起きていた。

「キ印ぞろいのお茶の会の冒険」 The Mad Tea Party(1929) エラリー・クイーン
>ミランは戸を大きく押しあけた。「さあ、さあ、おはいりになって、クイーン先生。オーエンさまにお知らせして来ます。……みなさん、芝居の下稽古をしているんですよ、きっと。ジョナサン坊ちゃまが起きているあいだはやれませんのでね。(p.159)
エラリーが招待された田舎の家を訪ねていくと、翌日の誕生日祝いの余興の「不思議の国のアリス」の芝居の練習をしていたが、翌朝には関係者の失踪事件がもちあがり、次いで奇怪な出来事があれこれ起こる。

「信・望・愛」 Faith, Hope and Charity(1930) アーヴィン・S・コッブ
>三人の囚人はすわってたばこをふかしながら、護送官がそばにいないときには、いろいろおしゃべりをした。
>スペイン人のガザとフランス人のラフィットは、英語がかなりできたので、彼らはおもに英語で話した。イタリア人のヴェルディ(略)はほとんど英語はしゃべれなかったが、ナポリに三年いたことがあるガザがイタリア語がわかったので、彼のいうことをフランス人に通訳してやった。三人は食事以外は特等車にいれられたきりだった。(p.223)
列車で護送中だった三人の囚人はスキをみて逃げ出して駅から離れていくが、三人それぞれに運命が待ち受けていることになる。

「オッターモール氏の手」 The Hands of Mr. Ottermole(1931) トマス・バーク
>これが『ロンドンの恐怖の絞殺事件』といわれたものの発端であった。『恐怖』と呼ばれたのは、それが殺人事件以上のものだったからである。動機がなく、それには邪悪な魔術めいたところがあった。殺人は、いずれの場合にも、死体が発見された街には、それとわかるような、あるいは、嫌疑をかけ得るような犯人の姿も認められないときにおこなわれた。人っ子ひとり見えない小路がある。その端には警官が立っている。警官はほんのちょっと小路に背をむける。そして、今度ふりかえったとたん、またしても絞殺事件がおこったという報告をもって、夜をつっ走るのである。そして、いずれの方角にも人の姿は見られなかったし、見かけたという人もないのである。(p.257-258)
これ、エラリー・クイーンなど12人が、世界のベスト短編選出を行ったとき、ポオの「盗まれた手紙」、ドイルの「赤髪連盟」をひきはなして、第一位になった物語なんだそうである。

「いかさま賭博」 The Mud's Game(1932?) レスリー・チャーテリス
>かたちもすっかりくずれた服のその男は、ひょうきんそうなかっこうで、テーブル越しに名刺を差し出した。J・J・ネイスキルと印刷してあった。
>聖者(セイント)は、チラッとそれを見ただけで、シガレット・ケースのふたをピンとはねると、一本抜いて勧めながら、
>「ぼくはあいにく、名刺をきらせてしまった。名前はサイモン・テンプラア」(p.281)
主人公サイモンは、義賊なんだそうである、悪漢を懲らしめ、警官の鼻をあかし、可憐な美女を危機一髪の場面で救い出したりするのが仕事なんだとか。そのサイモンに、なにか仕掛けのありそうなカードを使った、インチキ賭博でカネを巻き上げられたって青年が相談をもちかけてくる。

「疑惑」 Suspicion(1933) ドロシイ・L・セイヤーズ
>列車のなかはたばこのけむりが濛々と立ちこめて、ママリイ氏は、しだいに胸がむかついてくるのを感じていた。どうやら、さっきの朝食のせいらしい……
>しかし、べつにわるいものを食べたとも思えない。まず黒パン。(略)かりかりに揚げたベイコン。ほどよくゆでた卵が二つ。それに、サットン夫人独特のいれかたによるコーヒーだった。サットン夫人という女中は、ほんとの意味で掘り出し物だった。この女中のために、彼ら夫妻は、どのくらい助かっているか知れなかった。(p.317)
体調がすぐれないママリイ氏は、新聞紙上を賑わせている、砒素を使った連続殺人の容疑者で行方不明になっている料理女の話題が気になっている。

「銀の仮面」 The Silver Mask(1933) ヒュー・ウォルポール
>ミス・ソニヤ・ヘリズがウェストン家の晩餐会から帰ってくる途中、すぐ耳もとで人の声がした。
>「おさしつかえなければ――ほんのちょっと――」(略)
>「でも、あたし――」彼女はいいかけた。寒い夜で風がほおをさすようだった。
>ふりかえってみると、それはじつに美しい青年だった。(p.349)
ひとりもので五十になるソニヤは、寒さにふるえている青年に、親切心をだして家にいれてやり食べものを与えてやったのだが、後日また青年は訪ねてきて、だんだんおかしなことになっていく。
これ、あと味わるいなあ。
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