村上春樹 二〇二三年四月 新潮社
村上春樹の新しい長篇小説が出るって、なんかで目にして、発売日にはさっさと買いにいったさ、4月13日だったかな。
そしたら、その日の朝のテレビ報道で、タイトルが『街とその不確かな壁』って言ってたのを聞いて、ちょっと驚いた。
それって、あれじゃん、第3作でしょ、文藝誌に発表はしたけど、その後、本としては出版されてないやつ。
村上龍との対談『ウォーク・ドント・ラン』において、
>龍 ブローティガンに会ったら、いいにくいこというんですよ。ぼくが、二作目書いたよ、っていったら、彼がいうのね。要するに、二作目は一作目で修得した技術とイマジネーションで書ける。「きみ、問題は三作目だよ」って(笑)。
>春樹 あ、それは、ぼくも非常によくわかる。こないだ、まあ短いものだけど順番からいくと三作目というのを書いたんですよ。『街とその不確かな壁』っていう題です。一作目と二作目は関連してるけど、三作目でがらっと変えたの。いいか悪いか自分でもわからないわけ。とにかく、変えなきゃいけないという意識が起こったんですよ。(略)(『ウォーク・ドント・ラン』p.50-51)
とか、
>龍 表地と裏地みたいな関係が、常に作家にはあると思うのですよ。(略)で、ぼくは『ピンボール』と『風の歌』と、『街とその不確かな壁』でしたっけ、あれはね、おそらく対なはずの作品じゃないかと思うわけ。(略)ぼくは裏地としての『街とその不確かな壁』の続篇とかね、あれに類するものをもっともっと書いたほうがいいと思うんですよね(略)
>春樹 ぼくはいまの予定では『壁』の話を少し作り変えてね、あれにコラージュみたいな、そういうものいっぱいくっつけて、それでまとめたいなという気はあるんです。(略)(同p.105-106)
とかって、語られてて、読んだことないもんだから、気になってたんだが。
それが一層気になることにはさー、どこで読んだんだったか(何に書いてあったんだろ?)、その作品は、私がこの世でいちばん面白いと思ってる小説のひとつである『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の元になってるっていうんだよね、そりゃ気になる。
(ほんと、その情報の出展なんだっけ? たしか村上さんが「『世界の終り~』は自伝的小説だ」みたいなこと言ってたと思うんだけど。)
でも、なんだかんだ、そのうち、なんかの形で収録されて本として出るだろ(だって、出版社は商売商売だろうから)って思ってたら、ぜんぜん出てこない。
待ってたら、30年以上が経ってしまった。
(ほんと、最近、こうやって長い年月が経過したのを振り返ってみたりすると、死なないでいられてよかったな、なんてふうに思ってしまう、人間いつ死んぢゃうかわかんないからねえというトシに達してるから。)
それが出るっていうんだから、驚いてばかりいるんぢゃなくて、読まなきゃなんないぢゃない。
原型を知らないんで、どこまでのどれが(たとえば『ノルウェイの森』のあたまが『蛍』であるように)元々のものかはわかんないんだけど、まあ読んでみたら、なるほど「世界の終り」でした、壁に囲まれた、一角獣のいる街に、夢読みとしてやってきてしまった「私」が出てくる。
村上作品の初期のものらしく、主人公が名前をもってるけど名前で呼ばれたり名乗ったりしないままで物語は進んでく。
っつーことで、出版されたばっかの新しいものに関する常として、あまり細かな話の筋にかかわるようなことは、とりあえず今ここでは書きません。
村上春樹 柴田元幸 令和三年七月 新潮文庫
つい最近に書店で見かけて、おや新しいのかと思って買って、すぐ読んでみた。
前に読んだ『翻訳夜話』も『サリンジャー戦記』もおもしろかったんで期待できたし。
「増補版」ってなってるけど、「まえがき」を読んだら、2019年に出した単行本は、対話7本と独演1本の収録だったのが、この文庫本では対話7本と独演1本を追加して、計16本と倍になっているという。
普通それって二冊目の単行本を出すんぢゃないのか? とか思ったが、まあいいや、単行本読んでない私にはお買い得である。
採りあげられてる小説は私の読んだことないものばっかで、だからって話見えないかというと、そうでもなくて二人の対談はそれなりにおもしろい。
それぞれの作品よりか、あいかわらず村上さんの小説作法の話が興味深いけど。
>小説というのは耳で書くんですよ。目で書いちゃいけないんです。といって書いたあとに音読してチェックするということではなくて、黙読しながら耳で立ち上げていくんです。そしてどれだけヴォイスが立ち上がってくるかということを確認する。立ち上がってこないなと思ったら、立ち上がってくるまで書き直すんです。(略)目で見た時に声が聞こえてこないと物語は書けない。(p.296)
というのは実にカッコよくて、本質を突いてる感じがする。
そこで、ページから声が立ち上がってくる、と柴田さんにも評されている、リング・ラードナーは読んでみなくては、と思わされた。
>小説っていうのは自分の視点がはっきりあって揺るがないぞとなると、どんどん外に広がっていくものなんですよ。だけど自分があっち行ったりこっち行ったりすると広がりようがないんです。(p.386)
っていう村上さんの小説論がこれまた傾聴に値するなーって思わされた。
アメリカのある種の作家が雑誌などから文体を身につけたのかもしれないという議論のなかで、
>スポーツに限らず、アメリカの雑誌にはそれぞれに独特の書き方、個性がありますよね。文体が機能している。日本の雑誌や新聞って、はっきりいって個性的な文体がない。文体がなければ文章はこしらえられないはずなんだけれども、でも、ないんですよ。存在しない。
>そういう意味では、日本の雑誌とアメリカの雑誌は機能がちがうんだと思うんです。アメリカの雑誌や新聞って、報道するためというよりは、むしろ文体をバネにして何かを喚起するために書かれている感じがあります。ジャーナリズムの性質がちょっとちがう。コラムニストの伝統もしっかりとあるし。(p.292)
と村上さんは言っていて、アメリカの雑誌読んだことないけど、なんか意味はわかるような気がする。
っていうか日本の書き手は責任逃れの道をつくってんだよね、あと意味不明な受動態とか使って自分の意見らしく言わないとか。
あと、英語を日本語に翻訳するときに、大和言葉と漢語を使い分けることについて、柴田さんの言っていることでおもしろくて勉強になるのがあった。
もともとの英語はシンプルなアングロ=サクソン語で、たとえば「持つ」は「have」なんだけど、大陸から征服民族がラテン語起源の言葉を持って入ってくる、そういう言葉の「possess」は「所有する」と漢語で訳す。
っていうんだけど、意識したことなかったんで、そういうものかと思わされた。
どうでもいいけど、最後の〆の新たな対談で、村上さんが好きなものしか翻訳はやってないってことを、「縁側で座って盆栽をいじっているような感覚なんですよね」(p.490)って言うんだけど、妙におかしくてウケた。
コンテンツは以下のとおり。
OPENING SESSION 帰れ、あの翻訳
僕たちはこんな(風に)翻訳を読んできた(I)
饒舌と自虐の極北へ ――フィリップ・ロス『素晴らしいアメリカ野球』をめぐって
ハーディを読んでいると小説が書きたくなる ――トマス・ハーディ『呪われた腕』をめぐって
INTERLUDE 公開翻訳 僕たちはこんな風に翻訳している
僕たちはこんな(風に)翻訳を読んできた(II)
雑然性の発熱 ――コリン・ウィルソン『宇宙ヴァンパイアー』をめぐって
共同体から受け継ぐナラティヴ ――マキシーン・ホン・キングストン『チャイナ・メン』をめぐって
INTERLUDE 日本翻訳史 明治篇 柴田元幸
僕たちはこんな(風に)翻訳を読んできた(III)
闇のみなもとから救い出される ――ジェイムズ・ディッキー『救い出される』をめぐって
ラードナーの声を聴け ――リング・ラードナー『アリバイ・アイク』をめぐって
INTERLUDE 切腹からメルトダウンまで 村上春樹
僕たちはこんな(風に)翻訳を読んできた(IV)
青春小説って、すごく大事なジャンルだと思う ――ジョン・ニコルズ『卵を産めない郭公』をめぐって
一九三〇年代アメリカの特異な作家 ――ナサニエル・ウエスト『いなごの日/クール・ミリオン』をめぐって
INTERLUDE 翻訳の不思議
僕たちはこんな(風に)翻訳を読んできた(V)
小説に大事なのは礼儀正しさ ――ジョン・チーヴァー『巨大なラジオ/泳ぐ人』をめぐって
短篇小説のつくり方 ――グレイス・ペイリー『その日の後刻に』をめぐって
CLOSING SESSION 翻訳にプリンシプルはない
村上春樹 2001年 文春文庫版
まだ読んだことなかった村上春樹を読むことにするか、と思って古本屋行くと探したりするようにしてんだけど、これは去年夏に地元で買った文庫。
サブタイトルのとおり、『アンダーグラウンド』の続編、単行本は1998年。
出版当時に出たこと知ってたはずだけど手に取らなかったのは、たぶん『アンダーグラウンド』が私にとってはあまり面白くなかったからではないかと。読み直したりしてないしね。
前作は地下鉄サリン事件の被害者へのインタビューなんだけど、こちらはオウム真理教の信者(元信者)へのインタビュー、もしかしたら、それも私があまり興味をもたなかった理由かもしれない。
で、読んでみたんだけど、やっぱ、ちょっと、何言ってんだかみたいに感じるとこあって、正直それほどおもしろくない。
でも、巻末に河合隼雄氏との対談があって、そこで河合さんの言ってるの読むことで、なんか救われた感があった。
>河合 それでね、インタビューの中にオウムに入ってちょっとやっているうちに身体の調子がぱっと良くなったという人がいたでしょう。あれ、僕はようわかるんです。僕らのとこにもそういう人が訪ねてこられます。で、会って話していてこう思うんです。こういう人はたとえばオウムみたいなところに行ったらいっぺんでぱっととれるやろなと。それは村上さん流に言うたらひとつの箱の中にぽこっと入ることなんです。だからいっぺん入ったら、ぱっと治ってしまいます。(略)
>ところがいったん入ってしまったら、今度は箱をどうするかというものすごい大きい問題を抱えることになります。だから僕らはそういう人を箱に入れずに治ってもらおうとします。(p.301-302)
とかって、治そうとか、しかも早く治そうとかって考えをとらず、さらに続けて、
>河合 (略)絶対帰依です。これは楽といえば楽でいいです。この人たちを見ていると、世界に対して「これはなんか変だ」と疑問を持っているわけです、みんなで、その「何か変だ」というのは、箱の中に入ると、「これはカルマだ」ということで全部きれいに説明がついてしまうわけです。(略)
>でもね、全部説明がつく論理なんてものは絶対だめなんです。僕らにいわせたらそうなります。そやけど、普通の人は全部説明できるものが好きなんですよ。
と言って、簡単そうな解決を性急に求めないことの重要性を説いてくれるんで、安心する。うーむ。
コンテンツは以下のとおり。
インタビュー
狩野浩之「ひょっとしてこれは本当にオウムがやったのかもしれない」
波村秋生「ノストラダムスの大予言にあわせて人生のスケジュールを組んでいます」
寺畑多聞「僕にとって尊師は、疑問を最終的に解いてくれるはずの人でした」
増谷始「これはもう人体実験に近かったですね」
神田美由紀「実を言いますと、私の前世は男性だったんです」
細井真一「ここに残っていたら絶対に死ぬなと、そのとき思いました」
岩倉晴美「麻原さんに性的な関係を迫られたことがあります」
高橋英利「裁判で麻原の言動を見ていると、吐き気がしてきます」
河合隼雄氏との対話
『アンダーグラウンド』をめぐって
「悪」を抱えて生きる
村上春樹=文/稲越功一=写真 1998年 中公文庫版
これは10月になんとなく古本を探しにいったときに、たまたま見つけた文庫。
村上春樹のものはだいたい読んだと思っていたんだが、これは存在を知らなかったんで、なんだろうと思った。
最近のものぢゃなくて、単行本は1994年だという、知らなかった、うーん、そのころ本読むのにはうかつだったかも。
エッセイということになるんだろうが、文章が半分、写真が半分って構成で、文章はびっしりぢゃなく一ページに数行って感じ。
旅行が好きなわけぢゃないという自覚がありながら、あちこち移り歩いているのは、定着できる場所を探してるのかも、ってなことで旅について語ってる『使いみちのない風景』。
ある場所で目にした、ちょっと印象に残るような風景、そっから物語が始まるかも、と思わせといて何も始まらない、どこにも行かない、そういうのが「使いみちのない風景」として自分のなかにあるんだそうだ。
『ギリシャの島の達人カフェ』は、ギリシャに住んだときに、港のカフェで何もすることのない老人たちがいるって話で、「村上朝日堂」のどれかにそんな話があったんぢゃないかと思う、『ノルウェイの森』を書いている時期のこと。
『猫との旅』の書き出しはすてきだ、
>僕が昔から抱いている夢のひとつに、旅行好きの猫を飼うというのがある。(p.134)
だなんて言って、猫をつれて世界中を旅して、バーにも一緒に行って、自分はビール、猫にはミルクを頼むとか、いい趣味の妄想だ。
でも、それは夢であって、実際には旅行が好きな猫なんていないと嘆く、なんでだろう、猫は人になつくよりも場所にいつくみたいなことはよく言うけどね。
キンツェム(1876年からの4年間で54連勝した偉大なサラブレッド)が連れてた猫は旅行好きだったのかなあ。
村上春樹 平成十四年 新潮文庫版
最近また新しいものを読んで、やっぱおもしろいじゃん村上春樹、なんて思ってるんだが。
持ってないもの一応さがしとくか、って中古で買ってきたのがこれ。
小説とちがってエッセイって、タイミング合わないと見逃すことがあるんだよな、なぜか。
なかみはスコットランドとアイルランドをウィスキーをテーマに旅したときのことを書いたもの、自宅で酒瓶ながめてるだけぢゃないのが、さすがだ。
一緒に旅行した奥さんの撮った写真もいっぱい、2ページ文章あったら2ページ写真くらいの半々のわりって感じ。
パブでウィスキー飲むだけぢゃなく、蒸溜所の見学とかにも行ってる。
アイラ島でシングル・モルトをいろいろ飲むとか、まあうらやましい。
ラフロイグの味について、
>文章でいえば、たとえばアーネスト・ヘミングウェイの初期の作品に見られるような、切れ込みのある文体だ。華麗な文体ではないし、むずかしい言葉も使っていないが、真実のひとつの側面を確実に切り取っている。誰の真似もしていない。作り手の顔がくっきりと見える。(p.62)
なんて言ってるんだが、ヘミングウェイなんて読んでない私でも、あーうまいこと言うなーと思ってしまう。
アイルランドではウィスキーだけぢゃなく当然スタウト(ビール)飲んだりもするんだが、
>(略)結局のところ、同じ味のするビールなんてひとつもないということになってしまう。それはときによって、イングリッド・バーグマンの微笑みのようにそっとクリーミーになったり、モーリン・オハラの唇のようにハードに引き締まったり、あるいはローレン・バコールの瞳のように捉えどころのないクールさを浮かべたりもする(略)(p.93)
なんて、またうまいことを言う、私は映画にでてる女優の顔なんてろくに見分けもつかないけどね。(イングリッド・バーグマンは『サボテンの花』って映画がおもしろくて好き。)
どうでもいいけど、酒の味自体の話よりも、私が気になったのは、アイラ島では生牡蠣にシングル・モルトをかけて食べるっていうやりかた。
案内人に「それがこの島独特の食べ方なんだ。一回やると、忘れられない」と言われて、村上さんは「殻の中の牡蠣にとくとくとたらし、そのまま口に運ぶ」ということを実行して、「至福である」と言っている、やってみたい。