many books 参考文献

好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

遠くへいきたい

2014-01-31 20:38:32 | マンガ
とり・みき 1997年 河出書房新社
タイトルは聞いたことあったけど、読んだことなかったマンガ。
年明けに、古本屋で3冊そろってるのを買った。
1巻の帯に「初の完全収録版」って書いてあるけど、そうぢゃない版があるかどうかもしらない。
初出は「TV Bros.」って隔週刊らしいけど、掲載分を初出順に収録ってことになってる。ちなみに第1回は1988年12月24日号だって。
「連載時のままにオール2色」ってのも単行本化としてウリらしい。
なかみは、9コママンガである。
外見のかたちそのままに、なかみも真四角のコマが3×3で正方形に配置されてる。
で、セリフが一切ない。
描き文字による、擬音とか擬態語とかもなし。説明のト書きもなし。まったくのサイレントである。
とり・みきのマンガにはそういうところあるので、そんな違和感みたいなものはないんだけど、これだけを丸まる一冊読むのは、けっこうホネである。
雑誌で1ページだけあるなら毎号開くたびに楽しみなページになるとは思うが。
そのへんの間も含めてか、冒頭に「できるだけゆっくりお読み下さい。」って書いてあるのは、親切っちゅうたら親切である。
登場人物は、とり・みきおなじみのキャラクターたちだけど、主役はタキタカンセイ氏。
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ダブル/ダブル

2014-01-30 20:36:50 | 読んだ本
マイケル・リチャードソン編 柴田元幸/菅原克也共訳 1990年 白水社
前回のつづき。なんで当時読もうと思ったのか分かんないけど、とにかく今まで持ってる、外国の小説ということで。
これまた、ひさしぶりに読み返してみた。
原題もそのまんま「Double/Double」で、帯にいわく「分身小説」のアンソロジー。
訳者まえがきは、もうちょっと丁寧に説明していて、
>原則として二十世紀に書かれた西洋の小説の中から、〈双子〉〈分身〉〈鏡〉〈影〉〈人造人間〉といった、いわば「一人が二人で二人が一人」の物語
を集めたって紹介してます。
ドッペルゲンガーを見ちゃった人の話とか、自分のダミーのロボットを作って代わりに生活させる男の話とか、身体の一部がくっついたままの双子の話とか、ときに幻想的で、ときに気持ちわるいところもある、いろんな短編の集まり。
ときどき意味のよくわかんないのもあるけど、一編あたりがわりと短いんで、面白くてもつまんなくても、次行こう次って感じでサクサク読んだ。
編者のあとがきに、
>アンソロジーの個性というものは、あまり知られていない作品を積極的にとりあげることはもちろん、有名な作品を意図的に外すことによっても生まれてくるものです。
とあるように、なにも定番の名作ばっかりを集めようとしたことではないことは明らかだし、まあ全部が全部、自分の趣味にあわなくても別に不思議ないんだろうなという気もする。
どうでもいいけど、今回写真を撮るため二十年以上ぶりに、書店(渋谷の大盛堂ね)でかけてくれた紙のカバーを外すまで、装幀が玖保キリコの画だなんて、まったく忘れてた。
「かれとかれ」ジョージ・D・ペインター
「影」ハンス・クリスチャン・アンデルセン
「分身」ルース・レンデル
「ゴーゴリの妻」トンマーゾ・ランドルフィ
「陳情書」ジョン・バース
「あんたはあたしじゃない」ポール・ボウルズ
「被告側の言い分」グレアム・グリーン
「ダミー」スーザン・ソンタグ
「華麗優美な船」ブライアン・W・オールディス
「二重生活」アルベルト・モラヴィア
「双子」エリック・マコーマック
「あっちの方では―アリーナ・レイエスの日記」フリオ・コルタサル
「二人で一人」アルジャーノン・ブラックウッド
「パウリーナの思い出に」アドルフォ・ビオイ=カサーレス
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食べ放題

2014-01-28 19:33:14 | 読んだ本
ロビン・ヘムリー/小川高義訳 1989年 白水社
原題“All You Can EAT”は、1958年生まれの著者が1988年に出版した短編集。
なんでこんな本もってるのか、自分でもよくわからないんだけどね。
っていうのは、その後はまったく興味がもてず、ずっとどっかに仕舞っておいたまんまだったし。
まあ、思うに、この出版社が「新しいアメリカの小説」って銘打ったシリーズのひとつとして刊行されたんで、同じなかにポール・オースターの『鍵のかかった部屋』なんかが入ってることもあり、これからはこういうのを読まなきゃいけないんだー、みたいに思い立ったんだろうね、若気の至りで。
ご丁寧に、帯の背に「無類におかしい13の短編」なんて書いてあるから、こういうのを面白いと思うような感性がなきゃいけないんだー、みたいに思い込んだんだろうね、若さの逸り気のしでかすところだ。いまだったら、こういう宣伝文句には乗らないね。
で、ひさしぶりに読み返してみたんだけど、なんというか、つかみどころがない。
ちょっとシュールだなあという気がしないでもない。
あとがきや帯の言葉を借りると、多彩といっちゃえば多彩、「妙な連中を描いて」るっていえば、確かにそう。
表題作「食べ放題」は、教会主催のイベントで、パンケーキが食べ放題って場所に渋々出かけてった男の話なんだけど、最初は隣席の客とかに嫌悪感を感じてたりもしてたのに、だんだん場の空気にのまれてハイな気分になってっちゃう。だから何がどうだということはないけどね。
コンテンツは以下のとおり。
「食べ放題」
「ネズミの町」
「手がかり」
「ホイップに乗る」
「同類探し」
「赤ん坊を落とす」
「ポーランド袋」
「裏庭の穴」
「思い出の狼」
「トランペットを吹く男、その妻」
「何だい、そんなの、耳につけて」
「雨に歩けば」
「芸術の設営」
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ムチ折れちゃった

2014-01-27 19:07:35 | 馬が好き
乗馬にいく。
きょうは寒いよ、風が冷たい。週に一度しか来ないと正しい比較はできないが、バケツに氷も張ってたし、私が出てきたなかでは今シーズンいちばん寒かったのでは。でも、乗るときには、ウィンドブレーカーは着ないけど。
きょうはひさしぶりのリニモスター。

なかなか手ごわいよ、最初動こうとしないことあるし。
馬房から出そうとしたとき、折悪しく乾草など食べてたから、まあ機嫌の悪いこと。
耳絞ってうるさくしてんだけど、ハミまでつけちゃうと、おとなしくなるんだよね。
おとなしいというより、運動してくれる気みせてくれないっていうのか。
さて、またがって他のひとより早く馬場に入る。列になって始めてから止まったりしたら迷惑だから、その前にエンジンをかけておきたいと思った。

やってみると、前やられたように、速歩いくときにゴネたりとかってことはない。これならひどいことにはならないかなと思ったのが甘かった。
早いうちに景気づけで駈歩やっとこうかと思ったら、うまく出ない。スーパー速歩になっちゃいそうだから、すこし詰めてからと思うと、手が強すぎるのか前進気勢を殺してしまう。
困ったなあと思ってると、きょうは、参加人員の関係で、部班が不成立だから、そのまま広いとこで乗れということになった。
輪乗りで軽速歩するんだけど、前には出ないわ、内を向いてくれないわ、そのわりには内に入り込んでくるわで、グダグダ。
「ギューと挟むような脚の使いかたは、それで反応があるならよいが、反応しないのに続けても効果がなく、人も疲れるだけ。使ってみて反応がなければ、軽く蹴飛ばす、ムチを使う、といったことに切り替えて。」
「脚をずっと使わなきゃいけない状態では、いい姿勢で乗ることはむずかしい。前に動いていく馬に乗っていくことができればラクになるのだから、もっと動かして。」
ということで、脚つかったのに前出てくんないから、脚のうしろでムチをチラチラさせるんだが。
「もっとやっていい。持ってるだけでは、ムチの意味を馬はまったく気にもしていない。動かなかったら、ムチをいまと逆に持って、馬の尻を強く叩いていい。」
ってんで、いつもはムチの先は小指側にあって、手綱持ったりしてれば自然と下を向いてるんだが、持ち替えて親指側から天井を指す形で持ったムチを、上から下後方に振り下ろす。これぢゃ競馬だよ、まるで。
「前に出たほうがラクになると分かれば、馬も前に出る。前に出たら愛撫!」
そうかそうか、こちらの意図する方向に動いたら、プレッシャーを解除するのは馬をコントロールする基本。
「人が気おくれしてはいけない! 馬に対して常に人が上位になくてはいけない。」
はいー、“ボスになれ”ってやつですな。毅然と命令すれば、馬は服従すると同時に人を信じて、課題を達成しようとするし、それは喜びである。
「前に出ようとしてんのに、引っ張ってジャマしなーい! 前行けと言っておいて手綱でブレーキかけたら、馬が混乱する。人間は動きに遅れずについていって前へ前へ乗っていく!」
またやっちゃってるよ、ビュンって馬がスピードアップした瞬間に、ひとは後ろに取り残されて、馬との重心が一致しないでガックンガックンしてる。前に乗っていけって、いっつも言われてる。
んぢゃ、駈歩。馬も最初とは状況ちがうのわかってるから、ふつうの扶助で発進するよ。
でも、「もっと!馬場大きく使って、走らせて!」ってことなんで、あいかわらずバッシンバッシン叩くのが続きながら、走らせる。
駈歩でサラブレッドのケツにムチくれるのって、けっこうドキドキなの知ってた? もし馬がまちがって、襲歩になったら止めるべきすべを知らないって弱みがあるからね、シロウトには。
けっこうやってるつもりなんだけど、動いてないってことで、いちど先生に乗り替わり。
ところで、駈歩してる最中に気づいてたんだけど、なんと、私のムチが使ってるあいだに折れちゃった。安物のマイ鞭なんだけど、先から3分の1くらいのとこで芯が折れて、巻いてある材質でかろうじてつながってるだけでぶらぶらしてる。
ムチ折れるって、どんだけ叩いてんのさ。っていうか、馬、だいじょうぶ?(野球のバットといっしょで前から折れてた可能性はないでもないが。)
息も荒くなってしまったのを整えながら、下で見ている。速歩から駈歩、またその逆の移行するとき、人間の身体が何もぶれない、もちろん遅れたりはしない、一体の生き物みたいだ。うーむ、でも、あーは乗れないよな、見てるほど簡単ぢゃない。
さて、乗り替わって、そこらへんに置いてあった長くて重いムチを貸してもらって、駈歩の継続である。
「もっと!長蹄跡では伸ばして。…そう、そのくらい」と言われたのは、私にしてみりゃメーターの障害飛ぶときくらいのベースの感じだ。でも、まだ隅角では勝手に内に入ってくるし、ほんとに踏み込んでる感はないから、飛べないだろうけど。
んぢゃ、よくホメて、いったん休憩したら、速歩で地上横木を通過だ。

回転のとこで強く、って思ってはいるけれど、横木へ向いたのにまだフラフラしそうな感じ、強く推進して、横木はツーポイントで通過してみる。
繰り返すと、元気よく通過はしてくが、そのあと行った先で勝手に止まったり回ったりしそうになるんで、もうちょっとだけ前行かせてから止めたりする。
んぢゃ、こんどは、横木4本速歩で通過したら、そのあと駈歩をだして、その先にある横木1本を通過。
あいだの距離は20mくらいだろうか、ぼやぼやしてると駈歩でないだろうから、横木またぎおわったら流れに任せないで一度詰めるようにして、すぐ発進させる。「そのとき引っ張らない!」って、また言われちゃうよ。
こんどは反対から駈歩で入って、1本をまたいだら、速歩におとして4本またぐ。勢いつけて駈歩で一本目を突破すると、なかなか止まんない可能性があるから、入る前からコントロールしてかなきゃいけないんだけど、あまりゆっくり入ってもしょうがないし、強く前進はさせてく。
速歩に落としたときに、またバタバタすると前進気勢まで削いぢゃうから、速歩になったらなるべく早くかえしてやる。速歩での横木通過は引っ張りながら通るんぢゃなくて、手をラクにしたまま乗っていきたい。
んぢゃ、次は駈歩で入ったら、歩度をつめて、駈歩の歩幅の2本に減った横木を詰めた状態でまたぐ。ブレーキかけたあとは、すぐかえしてやって、拳に力を入れずとも詰めた駈歩のまま、リズムよく通過したい。
そしたら、最後、後半の横木を40センチくらいの垂直に変える。「これは障害ぢゃなく横木のつもりで、人間が飛ばしにいってはいけない。」うーん、一歩余計に入れるくらい近くまでいって、ポッコンとまたぎたいんだけど、できるかなあ。
最初の左手前では、まあまあ、詰めたあとも引っ張らない状態で駈歩維持できて通過したんだけど、次の右手前では真ん中から速歩になっちゃった。そのまま強引に飛んぢゃったけど。
思うに、その前から、右手前のときのほうが、気持ち外というか左に逃げてく感じがある。それを直そうとジタバタすると、結局止めちゃうんである。でもねえ、横木だったら多少左右に寄ってもいいけど、障害だと端に傾いてくのは、やっぱ怖いからねえ。
もう一回やって、なんとか遅れないイメージで乗って行けたとこで、終了。
「横木始めてから、良くなった」って講評は、私の乗りかたぢゃなく、馬へのホメ言葉だな。前もそうだったけど、障害飛んだりすると、何をどう覚悟をきめるのか知らないが、けっこう前向きになるんである、リニモスター。
でも、不思議なことに、ムチでぶったたいたときも(こないだ別の人が乗ってたときもそうだったんだけど)、決して暴走したり、ハネたり、ひとのこと落としてやろうとしたりとかって、そういうのがない(安心して叩ける?)。
でもでも、これって、基本的にはお利口さんなのに、やっぱ乗ってるひとナメて、どこまでサボってもいいか試してるとしか思えない。
(どうでもいいけど、へとへとになった日は、馬の写真を撮ってる余裕がない。)
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緑の資本論

2014-01-24 19:33:42 | 中沢新一
中沢新一 2002年 集英社
資本が世界を駆けめぐる話という意味では、前回のつづき。
「フランシスコ・X」と同時期に読み返すことになったのは、たまたまだけど。
9.11の同時多発テロのあと書かれたもので、当時の、アメリカ的正義の振りかざし方によって、イスラームは悪なんぢゃないかって思いこんぢゃう単純な図式に対する抗議がこめられてる。
カネがカネを生むという自己増殖的なものを否定する一神教であるイスラームでは、利子というものを禁止した。
一方、おなじ一神教だったキリスト教では、三位一体論とかなんとか言ってるうちに、13世紀に資本主義に対するストッパーを解除していったという。
コンテンツは以下のとおり。
「圧倒的な非対称」
「緑の資本論」
「シュトックハウゼン事件」
appendix「モノとの同盟」

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