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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

こぶとり爺さん・かちかち山

2019-02-24 18:09:55 | 読んだ本
関敬吾編 1956年 岩波文庫版・日本の昔ばなし(I)
河合隼雄さんの本を読むと、おはなしを改めて読むことを意識して、グリムとか全部読んでみたわけだが。
日本のものも読んでみるかと思い、よく引用されてるようにみえる、この岩波文庫を買った、去年のいまごろだったかな、街の古本屋で。
前回の『猫だましい』にも、日本の昔話として、「猫のうた」「猫と釜蓋」「竜宮の猫」「犬と猫と指輪」「猫と蟹」「猫と十二支」なんてのが並べられてて、猫の多様な姿があげられてる。
「犬と猫と指輪」ってのは、船乗りが子どもたちにいじめられてる蛇と犬と猫を助けてやったら、蛇は実は竜宮の娘だったんで、つかいが来て招待される。
竜宮から帰るときに御礼に指輪をもらって、それさえあればなんでも願いはかなうはずだったのに、悪い人間にだましとられてしまう。
そこへ以前助けた犬と猫がきたんで、指輪をとりかえしてくれたら、おまえらには高膳で飯を食わせてやるからと頼む。
犬の見つけられないとこにある指輪を、猫のほうはつかまえた鼠とか蟹とか使って拾い出すことができたんだが、犬はそれを横取りして男のとこへ持っていく。
けれども猫がほんとのことを話したので、「高膳は罰があたる。猫は家のなかで飯を食え、犬は庭で食え」と言われて、以来ペットとしての犬と猫の定位置はそうなったんだと。鹿児島県薩摩郡で採取されたおはなし。
どうでもいいけど、まえがきにあたる部分で、著者は、
>昔話はもともと読む文学ではなく耳の文学です。(略)こうした物語は、幼いものに直接読ませるよりは、語って聞かせた方がはるかに効果的です。
と言ってるんで、これ出版したのも、読む用ではなく読み聞かせようってことなんだろう。
コンテンツは以下のとおり。
瓜姫
たにし長者
手なし娘
魚女房
鶴女房
猿の婿どの
母の目玉
天降り乙女
謎婿
かぶ焼き甚四郎
絵姿女房
山の神とほうき神
猿長者
爺と蟹
地蔵浄土
こぶとり爺さん
天ぶく地ぶく
夢を買うた男
灰まき童児
三人の兄弟
犬と猫と指輪
聴き耳
火男の話
わらしべの王子
金の茄子
見とおし童児
豆の大木
運のよい猟師
馬喰やそ八
旅人馬
牛方と山姥
飯くわぬ女
一軒屋の婆
髪そり狐
化狸
八つ化け頭巾
小鳥の昔話
 1ほととぎす兄弟
 2啄木鳥と雀
 3山鳩の孝行
 4郭公
 5水乞鳥
 6山鳩の不孝
 7片脚脚絆
 8時鳥と継母
 9行々子
 10馬追鳥
動物の競争
 1猫と蟹
 2虎と狐
 3狐と獅子と虎
 4猫と十二支
 5鯨となまこ
狐物語
 1尻尾の釣
 2狐と川獺
 3魚泥棒
 4熊と狐
 5狸と狐
 6鶉と狸
かちかち山
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猫だましい

2019-02-23 18:35:25 | 読んだ本
河合隼雄 平成十四年 新潮文庫版
これは去年10月ころ買った、わりと新しめの中古で、平成28年8刷の文庫。
河合隼雄さんの書くものはおもしろいんだけど、それでもなるべくむずかしくなさそうなのがいいなと思って、変わったタイトルのこれを手にとってみた。
猫だましいってタイトルのまんまで、「新潮」に12回連載したものだそうで、単行本は平成12年というからそのころなんだろう。
連載にあたっては、「たましいの顕現」としての何かについて書こうって、すごく高尚そうな狙いがあったらしいんだが、そこを猫にしちゃうのがさすがである。
たましい、ってのは、これまでも河合さんの理論のなかでは重要なワードだとは思ってたけど、かならずしも心のことだけを言ってるんぢゃないらしい。
>近代の特徴は、たましいの存在を否定してしまったことである。ものごとをすべて明確に区別して考える。心と体とを区別する。精神と物質を区別する。近代はこのようにして驚異的繁栄を見た。(p.252)
っていうんだけど、そのまえのとこに、
>人間を心と体に切り離して、それらを合わせてみても、もとの全体としての人間には戻らない。そのとき、心と体とを全体として、一個の生命ある存在にならしめているものを、たましいと呼ぶのである。(同)
って定義してる、なんだろう、それって思うんだが、
>たましいは広大無辺である。それがどんなものかわかるはずもない。従って、何かにその一部の顕現を見ることによって、人間は「生きる」という行為の支えを得ようとする。(p.253-254)
ってことで、どんなものかはわからない。でも、ある、んだよね、きっと。
で、なんだかわかんないんだけど、ひとによっては猫がその顕現になりやすいから、そのときはたましいのこと考えてごらんと。
というわけで、猫が出てくる小説とか物語をとりあげて、いろいろと話を展開してくれている。
>話がたましいの領域にまで拡大されるとき、人間のドラマにはしばしば動物が登場するものだ。(p.177)
とか、
>(略)猫について人間がとやかく言うのも、結局は人間が自らの性格を語っているようなところが多い。従って、古来から、猫について人間が描くいろいろなイメージは、結局のところ人間の特性を述べているものと考えられる。
>これから、猫を主人公とするいろいろな物語や小説などを取りあげていくが、それは要するに、人間のたましいのはたらきについて語っているのだ、というのが私の立場である。(p.20)
とかってことらしい。
ほかの動物から遠く離れすぎちゃった人間というものについて、
>現代人の日常生活を考えてみると、いかに人間のもつ動物性から切り離された生活をしているかがわかる。まず第一に変な衣服を身につけている。道具や機械を使って好きなことをする。それに言語によって意志の伝達が行われる。これによって、人間は自然を征服したように感じる。(p.194-195)
って、なにかを支配したりするのが幸福になることって考えがちかもしれないけど、そういうのって緊張しっぱなしで実は不安だってひとがけっこう多いって解説してくれてる。
何かに勝つとか金もうけするとかだけぢゃなく、猫を撫でるときのように、「とろける世界の見事さ」を知れっていうんだけど、いいなあ、それ。
出てくる物語のなかには、私の知ってるものはわずかで、全然知らなかったもののほうが多いんだが、なかでもこれは読みてえなと思ったのは、ポール・ギャリコの『トマシーナ』。
I なぜ猫なのか
II 牡猫ムル
III 長靴をはいた猫
IV 空飛び猫
V 日本昔話のなかの猫
VI 宮沢賢治の猫
VII 怪猫――鍋島猫騒動
VIII 100万回生きたねこ
IX 神猫の再臨
X とろかし猫
XI 少女マンガの猫
XII 牝猫
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コロンブスの卵

2019-02-17 18:10:52 | 丸谷才一
丸谷才一 一九八八年 ちくま文庫版
この文庫は、去年七月に地元の古本屋で買ったもの、なんかむずかしそうなんで、ついつい読むの後回しにしてた。
なんとか全部読んだら、あとがきに、
>『コロンブスの卵』は『梨のつぶて』につづく、わたしの第二評論集です。
とあったんで、やっぱ評論集ってのはちょっと高尚な感じするねえと思ったんだが。
『梨のつぶて』が1966年(去年古本買って、持ってるんだけど、まだ読んでない)、これの単行本が1979年ってことで、そのあいだにもいろいろ評論を出してるはずなんだが、著者はあれもこれもちょっと違うんで、この本が第二評論集なんだという。
しかも、
>全集その他の解説として書いたものでも、ここにはわりあひ出来のいいもの、自信のあるものだけ集めることになりました。批評家としてのわたしの仕事は、さしあたり、『梨のつぶて』と『コロンブスの卵』で見ていただくのがいちばん好都合だ、と思つてゐます。
と自負しているようなので、エッセイが好きなだけで丸谷さんを読んでる私なんかにはむずかしく感じられるのもしかたないというものか。
シェイクスピアのなかの詩とか、ジョイスの文体とか、そういうのは知識も素養もないからわかんないんだけど、小説に関するはなしはおもしろい。
特に、「四畳半襖の下張り裁判」は、東京地裁で弁護側証人として読み上げたものらしいけど、文学とはなにかっていうことについてのすごくいい論文だとおもう。
これをわいせつだとか何とか起訴する側が常識がない、として、なんでこんな当たり前のことを言わなきゃなんないんだって調子で、堂々と述べ立ててる。
古今東西の名作といわれる小説を例にあげて、
>(略)とにかく、男たちも女たちも愚しい、それが小説だと言つてかまはないでせう。市井にうごめく凡夫凡婦の愚行を書きつづるのが、小説といふものなのであります。(略)
>しかも驚くべきことは、作家たちはみな実在の人物のことを叙したのではなかつたといふ事情であります。わざわざ手間暇かけて、かういふ何の取柄もない人物たちを考へ出し、彼らを動かし、せつせと愚行を演じさせるのが小説家の仕事なのである。(p.232-233)
なんて言って、小説が不品行ばかり扱ってなにがわるい、ひとびとの無意識の欲望を解消させ、別の人生を提供するという夢を見せるのが小説のいいところだと言ってのける、まことに痛快。
小説が、哲学とか思想とかってのを大上段にかまえてふりかざすもんぢゃないってことは、べつのとこでも書いていて、
>(略)イギリスの女流作家の作品を読んでゐると(略)ぼくはきつと、やはり小説といふのは女が書くのが本当なのかな、といふ、男の小説家としてははなはだ情けないことを考へてしまひます。
のようなことで始まる小説論で、
>小説といふのはもともと些事の連続によつて、あるいは積み重ねによつて、尨大な人生を提出する藝術であります。(p.314)
という見解を披露してくれているのは、たいへん勉強になる。
I歴史
 徴兵忌避者としての夏目漱石
 歴史といふ悪夢
II詩
 ハムレットの小唄
III批評
 退屈を教へよう
 黒い鞄
 詩学秘伝
IV小説
 夜半の狭衣
 四畳半襖の下張り裁判 1起訴状に対する意見 2弁論要旨
 通夜へゆく道
 一双の屏風のやうに
 女の小説
 問はず語り
 維子の兄
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運命のボタン

2019-02-16 18:11:10 | 読んだ本
リチャード・マシスン 尾之上浩司=編 伊藤典夫・尾之上浩司=訳 二〇一〇年 ハヤカワ文庫版
『激突!』を読みたいんだけど、見つけらんないんで、これ読んでみた、リチャード・マシスンの短編集。
冒頭の表題作を読んだら、ほー、そう来るぅ、っておもしろかったんで、あとも勢いでスッと読めた、全部で13篇。
SFかっていえば、そういう感じのもあるけど、そうともいえない。ホラー色もつよいけど、幻想小説っていうのかねえ。
「運命のボタン」Button,Button(1970)
ニューヨークのルイス夫妻のところへ、押しボタン装置のついた木箱が送られてきた。
夜八時になると、スチュワードという男が訪ねてきて、説明しますと言った。
「そちらでボタンをお押しになりますと、世界のどこかで、あなたがたのご存じない方が死ぬことになります。その見返りとして、あなたがたには五万ドルが支払われます」
夫のアーサーはタチの悪いいたずらだと相手にせず突っ返すが、妻のノーマは気になってしかたない。
「針」Needle in the Heart(1969)
大っきらいな姉だか妹だからしきテレーゼをやっつけようとする女性の告白のような日記。
憎き相手を抹殺する方法は、父の蔵書のなかから見つけたヴードゥーの秘術で、人形に針を刺すことだった。
「魔女戦線」Witch War(1951)
オーバーオール姿の七人の美少女はみんな16歳未満、〈PGセンター〉という建物のなかにいて無邪気におしゃべりしている。
外では戦争が行なわれていた、将校が敵を攻撃するように指示すると、「また、やんなきゃなんないの」なんて言って、彼女たちは精神集中を始めた。
「わらが匂う」Wet Straw(1953)
妻を亡くして数か月後、男は眠ると、風が吹き込んできて、濡れたワラの匂いがする幻影に悩まされはじめた。
妻といっしょに、急な雨におそわれたとき、納屋に入って、雨の音や濡れたワラの匂いがしたことを思い出した。
「チャンネル・ゼロ」Through Channels(1951)
刑事が少年に供述をもとめて録音しているというスタイルの話。
自宅で家族が悲劇にあったとき、テレビがついていて、いやな臭いがして、床がぬるぬるしてたと少年が記憶をたどる。
「戸口に立つ少女」Little Girl Knocking on My Door(1950頃書かれてお蔵入り、発表は2004)
夕食のしたくをしていると、黒く長い髪をして、白い絹のドレスを着た少女がドアをノックした。
「ねえ、おばちゃまの家の子と遊んでいいですか?」という、娘のアリスは二階にいるが、今日はもうだめだと答えた。
しかし、うっかり「明日、いらっしゃいな」と言ってしまったばっかりに、翌朝その少女はやってきた。
「ショック・ウェーヴ」Shock Wave(1963)
教会のオルガン奏者のミスター・モファットは、周囲が古いから処分しようと言い出してから、オルガンの調子が悪いという。
従兄のウェンドールに否定されても、老奏者はオルガンには意志があり、勝手に動くことがあるのだという。
「帰還」Return(1951)
時間転移機が完成し、ウェイド教授は妻の止めるのもおかまいなしに、五百年後の未来へ行く実験に乗り込む。
彼は2475年の世界に到着するが、そこの学者たちは、あなたはこの時代の存在となったのだから過去に戻ることはできないという。
「死の部屋のなかで」Dying Room Only(1953年)
砂漠地帯の道の途中で、ボブと妻のジーンは車をとめて、ぼろい喫茶店に入ったが、そこは冷たい水も出ないような店だった。
ジーンが洗面所からもどると夫のボブの姿がない、店のひとや他の客に訊いても知らないという。
「小犬」The Puppy(お蔵入りで発表は2004)
サラは6歳の息子をかわいがっているが、犬を飼いたいというのは神経質になる息子にはむりだろうと認めない。
ある日、うちに帰って息子が寝たあと、家の中に小犬がいたので、遠くまでいって放してきたのだが、翌朝同じ犬がウチに勝手に入ってきた。
「四角い墓場」Steel(1956)
ポールとケリーは時代遅れでガタがきてるB-2型の機械ボクサーを運んで試合会場へと向かう。
部品もオイルも手に入らないんで整備士のポールは無理だというが、ケリーはまだまだこいつは戦えると引っ込まない。
「声なき叫び」Mute(1962)
ニールセン家が火事になったあと、ただひとり生き残ったパール少年は保安官の家にひきとられたが、ひとことも口をきかなかった。
大学教授だったニールセン夫妻はパールを学校に行かせなかったが、保安官夫妻は地元の学校に入れた、そこへある日ドイツから事情をよく知る男が訪ねてきた。
「二万フィートの悪夢」Nightmare at 20,000 Feet(1961)
ロサンゼルス行きの夜の飛行機に乗ったビジネスマンのウィルスンは、ナーバスになっていて胃も痛く、とても眠れる状態ではなかった。
二万フィート上空で窓から外を見ると、翼の上に黒い人影が見えた。しかし、スチュワーデスを呼ぶと、機外にいたその何かは姿を消していた。
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あなたも落語家になれる 『現代落語論』其二

2019-02-10 17:53:01 | 読んだ本
立川談志 1985年 三一書房
ずっと気にして探してたこの本だが、ことし正月3日に地元のワゴンセールで見つけたので、こいつぁ春からと喜んで買った。
1985年の出版だが、あとがきで「三年もかかった」と書いてあって。
最後の著者略歴みたいなとこには、「1952年東京高校中退 同年柳家小さんに入門 1963年五代目立川談志襲名、真打になる 1971年参議院議員に当選 1982年破門 同年6月家元立川流創立、現在にいたる」とあるんで、立川流起ち上げたときから書きはじめて三年ということか。
しかし、律儀に「破門」って書かなくてもよさそうなもんだが。
でも、本文中では
>が私は小さんに入門してよかったと心底思っているし、今でも、小さん師匠を尊敬している。いや愛している。(p.282)
なんて書いてるし、騒動の結果として飛び出したけど、通じ合ってるものはあるんだろう。
協会と袂わかって寄席に出なくなったからというわけではないだろうが、当時の現代落語の危機感みたいなのについては厳しい。
>実をいうと、私はこの頃寄席という建物を含めて、そこで演じられている諸々の芸のすべてが、私には古く感じてしまうようになった。時代とのズレを感じるのだ。(p.150)
と言うんだが、それをどうこう改善しようってんぢゃなく、
>私は現在の寄席のなかにいては、社会を相手に語り、行動する落語家は育たなくなる、と判断した。逆に一般社会を相手にしたくない、できない芸人が寄席にいればいい、ときめた。(p.271)
と、時代遅れに気づかない連中は見捨てる方向に行ったようだけど。
そこには、やっぱ、伝統も大事だけど、現代に受けるもんぢゃなきゃいけないって考えがある。
んなもんだから、芸術だとか、本筋だとか、作品派だとかってものだけをありがたいと思う聞き手とのあいだには微妙な緊張が生じる。
古典をやるのに、現代のマクラから入ると、反応が冷やかなんで、
>古典落語を聴きにきた客にとっては、現代の話は邪魔であり、迷惑なのだ。(略)
>たとえそのマクラがどんな面白くても、ムリにも笑わない。それを笑う自分が嫌なのだ……。現代のマクラを喜んでは古典落語ファンらしくないのだ。(p.61)
なんて言ってるが、自分もかつてはそうだったから、そういう心理はわかってはいるんだけど。
>伝統を軽蔑するとエライことになる。これを承知の上であえてズバリといえば、いまの落語家は少数の寄席ファンを相手に落語を喋っているだけで、社会を相手に喋っていないのだ。(略)
>十年一日の如く演じている落語家たちにいわせると、
>「私は、こういうスタイルが好きで、こんな風にしか落語が喋れないんです」
>という。しかし、それは嘘である。自己の怠惰にたいする言い訳である。(p.188)
というぐあいに、売れないことに危惧もたずに昔のスタイルにしがみつくことを否定する。
主流派ばかりをもちあげる評論家みたいなひとたちに対しても、
>大衆の喜んでいる量的な芸と、芸術性のある質的な芸とはっきり二派にわけてしまい、量的な芸を、何とポンチ絵派といったのである。(略)
>この際はっきりいおう。寄席を、落語を支えていたのは、彼らポンチ絵派といわれた人たちにほかならないのである。質的芸人、量的芸人の両車輪ではなく、量的芸人が質的芸人を生かしておいたのである。(p.43)
と、わかってねえなあと言わんばかり。本気でやれば、いちばん本格派なひとが言うんだから、すごいよね。
自分は本格派だと言って新しいことに打って出ない弟子の世代たちにも、売れなきゃダメなんだと否定する。
>本当に欲しければ、自分で取りに行けばいい。取れないことはないはずだ。人間が創った世の中、人間が解決できないこともあるまい。
>欲しいものは取ればいいのに、取りにいかないで、“欲しい”という。つまり、欲しくないのだ、といわれても仕方あるまい。文句もいわない、公道も起こさないのは、欲しくないのだ。それを“欲しい”といい、“でもそれが手に入らない”ということで己れを安住させているのだ。(p.225)
ってのは、落語界にとどまる話ぢゃないよねえ、さすがだ。
テレビが先頭切るかたちでドキュメント全盛の時代になっちゃったけど、フィクションの世界に遊ぶってのも人間の楽しみのひとつだ、ってのも傾聴に値する意見だし。
ちなみに、タイトルの「あなたも落語家になれる」は、立川流には三つコースがあって、Aコースが従来の弟子入り型、Bコースは芸能人などが名前をもらうタイプなんだが、Cコースで普通のひとが落語に関わりたければ二万円の入門料と月々五千円で立川流に入って研究生になれるんでいらっしゃい、ってことらしい。
序 落語って何んだ
その一 落語のルーツ=私説落語史
その二 落語私史
その三 回想の落語家
その四 現代の芸人たち
その五 いま、落語は
その六 古典落語時代の終焉
その七 家元立川流の創立
終 現代に挑戦する
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