まんが専門誌ぱふ 1979年1月号 清彗社
これは今年5月に古本市みたいなとこで見つけたもの、催し物としてはサブカル展みたいなタイトルついてたと思うが、こういう古い雑誌がけっこうあった。
もちろん、表紙に「特集 諸星大二郎の世界」って書いてあったから、それ目当てに買ったわけで。
「未発表作品 昔死んだ男(32P)収録」ってのもなかなかそそる見出しだが、読んでみたら、読んだことあった作品だった。
あとから探したら、『コンプレックス・シティ』に収録されてんだが、その単行本は1980年11月なんで、1979年時点では初出ってことだ。
(こういうとき作品を探すには『諸星大二郎博物館』というホームページがすごく便利、秀逸である。)
この雑誌の発行時点のプロフィールでは、コミックスリストは『暗黒神話』『妖怪ハンター』『孔子暗黒伝1・2』『夢みる機械』『アダムの肋骨』しかないし。
1970年のデビューから1978年12月までの作品一覧表というのもあるが、最新が「徐福伝説」で第43作目とナンバリングされている。
そういうわけで今からみると、ごく初期の作品しか対象になってないんだけど、そこはマニアックな人気が最初からあるので、論評を寄せてるひとはみんなそれぞれ熱いものがあります。
そのなかでも手塚治虫氏が、「ど次元世界」が好きだ、「あれだとわけがわからんながらもとにかくおもしろいんですよ」とか言ってるのは興味深い。
>やっぱり、SFファンと諸星さんの固定ファンのためにですね、今後も描き続けていってほしい。一般の読者をあまり考慮せずにね。或いは、人気とかヒットするかどうかとか大衆うけとか、そういうことを全く考えずにやっていかないと諸星さんは自滅すると思うんですよね。(p.27)
なんてことを今後の期待として語ってますが。
一方で、諸星さんご本人のインタビューもあるんだけど、これが「……」が異常に多い、無言の箇所をわざとそのまま出してくる編集なので、ほんと黙ってしまってる様子がうかがえる。
去年のNHK・Eテレの「漫勉」に登場したときも、寡黙だったからなー、あれテレビ嫌いとか苦手だとかぢゃなくて、昔っからのままだったんだなと再確認してしまった。
インタビュー番外編の筆記回答というなかではおもしろいこと言っていて、
>○怪奇的な事象は科学で解明できると思われますか?
>この質問は間違っている。
>「科学的な事象は怪奇で解明できるか」というのが正しい質問であり、それに対する答は「科学的な解明は怪奇な事象である」となります。
というQ&Aがよくわかんないんだけど印象的。
コンテンツは以下のとおり。
ぱふ美術館
読者のおたより
プロフィール
サイレント・インタビュー――諸星大二郎さんの静かな次元を訪ねて――
諸星大二郎を語る 手塚治虫
諸星世界の幻獣グラフィティ
諸星大二郎――しんとしずまりかえった異常な世界―― 山田正紀
諸星王国の極私的あかでみ賞 まついなつき
所感・諸星大二郎について 服部隆彦
登場人物はすべて作者の分身なのです 筆記回答・諸星大二郎
不安な風景の中の美女 矢野敬子
諸星大二郎名セリフ名場面
諸星大二郎君への手紙 光瀬龍
未発表作品「むかし死んだ男」
コミックス日誌・あたまの中の細密画 小野耕世
1ページ劇場「見ろ、指導者が悪いとああなる。」 諸星大二郎
巻頭すぐの13ページから82ページまでが特集なのに、突然ずっと飛んだ228ページに諸星作品の1ページ劇場をぽつんと載っけてるとか、ずいぶんいーかげんな構成だ。
それにしても、1979年とはわかっているものの、「今、いちばん注目をあつめている若い作家、大友克洋」なんて記事のタイトルをみると、ちょっとしたタイムスリップ感が味わえてしまう。
中井久夫 2010年 岩波書店
これは丸谷才一の『星のあひびき』を読んだときに、
>主題は一貫して日本語論なのだが、本の体裁は論文でも評論でもなく、随筆ないし随筆集である。ふと思ひついて語り出し、語りつづけるが、何かのせいで話が横にそれてもいつこうに気にしない。(略)さういふ書き方がいちいち藝になつてゐるのも随筆にふさはしい。
>(略)四角四面な語り口で行つたのでは、これだけ豊富な内容はとても盛り付けられなかつたらう。この書き方のおかげで読みやすくなつたことも事実で、読者のほうものんびりと、おもしろさうな章から読み出したり、ななめ読みしたり、うたた寝したりすることができる。(略)
>随筆性と教科書性とが奇蹟的に両立してゐる日本語論。(p.162-165「随筆性と教科書性の奇蹟的な両立」)
という書評されていて、読んでみたくなり、古本を探し求めることができたのはことし3月だったが、最近やっと読んだ。
「あとがき」によれば、初出は雑誌「図書」の2006年から2009年までの一か月おきの連載、丸谷さんは「随筆」というが、ご本人は「文字どおりの雑記」と言っている。
著者は精神科医だそうで、そういえば『そして殺人者は野に放たれる』を読んでたら、その本職のほうで名前が出てきてたのに気づいた。
何故にお医者さんが日本語論、などと思ったんだが、ポール・ヴァレリー(仏)とか現代ギリシャの詩の翻訳などもしている人なんだそうで。
詩の翻訳について、ヴァレリーの散文詩を訳してるときに、
>(略)翻訳をしている間、私は数式を解いているのと同じ感覚を覚えた。代入、置き換え、括弧に入れる、括弧を解く、式を変形してみるという感覚である。クールな快感はあったが、韻文詩を訳していた時とは全く別個の心理状態であった。(p.190)
なんてことあったと言っている。
一方、精神医学書を翻訳したときに、編集者に「二十年後も通用する文体で書いて下さい」と依頼され、
>編集長が「二十年後も通用する文体」と言ったのは大きなヒントだった。問題は内容ではなく「文体」だ。サリヴァンはいわゆる難解な思想の人じゃない。適切な文体を探し求めることが第一の鍵だと私は思った。(p.118)
というような体験を語っている。
また、かつて自分が英文で発表した論文を日本語に訳したときには、
>これはいきなり英語で書いてネイティヴにみてもらったものである。しかし、二十数年後に翻訳を試みて私は途方に暮れた。要するに私は一から書き直した。趣旨や内容を、外国人の理解のために書いた日本の歴史的事項以外はできるだけ変えないようにしてである。これは複雑なオモチャを分解して組み立てなおす作業にいちばん近かった。言語の発想とはこれほど違うものかと呆れた。(p.193)
ということが起きたと言っている、いずれも興味深い。
日本語文の書き方については、最終章「日本語文を書くための古いノートから」に、若い医者に科学論文の書き方について訊かれたときの答えとして、具体的に詳しく書いてあって、それは役に立つ。
大事なことは「「文と文との接続」の意識化」であるとしている。
次の文は今の文に対して、並列、解説、敷衍、要約のいずれかにするか考える。
そして、順接するなら単純順接なのか拡大順接なのか収束順接なのか意識する、そうぢゃなくて反対に部分逆説なり例外なりを挙げるなら、それが主張とどのくらい重要に関係するのか考える。
などなど組み立てを説明してって、
>最後に、自己の主張の否定的な面に自ら「反論」を試みておく。これを米国人は日本人の「弱さ」と感じるそうであるが、一本調子で押しまくるのは、日本語では単純にすぎるという感覚がある。米国でも「文章は主張一本にせよ」というの二十世紀になったころに米国の教育当局が決めたことだそうである。私は、自ら自己の主張に対して論争を挑み、自問自答を行うことは、著者の思考の射程の広さを示し、低次元の反論を予防すると考える。(p.251)
というアドバイスがあるんだけど、これはこないだ『思考のレッスン』を読んだばっかりの私にとっては、そのなかにあった丸谷さんの「対話的な気持ちで書く」というのとつながるように思えた。
このへん、「日本語には終止形を嫌う傾向が明らかにある(p.29)」などと、日本語文の文末にいろいろな形があって難しいことを語った章で、
>こう書いてくると、対話性を秘めている日本語の文章には第三の聴き手がいて、ほんとうの対話相手は目に見えない、いわば「世間」のようなものではないかと思えてくる。「ではなかろうか」「というわけである」「なのである」などと言うのは世間というアンパイアの賛成を得ようとしてのことではないだろうか。(p.33)
なんて考察してるのも参考になっておもしろい。
コンテンツは以下のとおり。
1 間投詞から始める
2 センテンスを終える難しさ
3 日本語文を組み立てる
4 動詞の活用形を考えてみる
5 言語は風雪に耐えなければならない
6 生き残る言語――日本語のしたたかさとアキレス腱
7 では古典語はどうなんだろうか
8 最初の精神医学書翻訳
9 私の人格形成期の言語体験
10 訳詩体験から詩をかいまみる
11 文化移転としての詩の翻訳について
12 訳詩という過程
13 翻訳における緊張と惑い
14 われわれはどうして小説を読めるのか
15 日本語長詩の現実性
16 言語と文字の起源について
17 絵画と比べての言語の特性について
18 日本語文を書くための古いノートから
東京オリンピックなんだが、なぜか野球は横浜スタジアムでやるんだという。
そのおかげで、横浜公園が、昨日23日12時から立ち入り禁止になってしまった。
たしかに前から予告はあったんだけど、ほんとにがっちり閉めてしまった。
柵で閉めるだけだと思ってたら、常時警察官が立って番してやんの、本気で封鎖するとは。
公園なんで、わりとどっからでも入れるんだったんだけど、どこも閉められてしまった。
何の権限あってこんなことすんのかな。
旧市役所側の交差点のとこも厳重な警戒ぶり。
いやー、この柵飛び越えてったら、何の罪状で捕まんのかな、とりあえず公務執行妨害?
※2021年8月8日付記
乗り越えると、建造物侵入罪だそうです。
gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/yomiuri/nation/20210808-567-OYT1T50005
五輪野球決勝の最中に「ハマスタ」に男侵入、現行犯逮捕…規制のフェンス乗り越える
東京五輪野球競技の決勝会場「横浜スタジアム」がある横浜公園(横浜市中区)に不法に侵入したとして、神奈川県警は7日、同県横須賀市の会社員の男(45)を建造物侵入容疑で現行犯逮捕した。ちょうど試合が行われている最中だった。
発表によると、男は7日午後7時45分頃、立ち入りが規制された同公園のフェンスを乗り越えて侵入した疑い。男は酒に酔っており、調べに対し「逮捕される理由が分かりません」と話しているという。
フェンスは警備のため臨時に設置されたもので、県警によると、県内の五輪会場で逮捕者が出るのは初めて。
街にはいたるところに、迂回しろ、って立て看板いっぱいあって、美観を損なっている。
そもそも横浜スタジアムに近寄んなってか。
んー、ロードレースとかで選手が公道を走るからそのあいだちょっと待てとかいうんならわかるんだが。
球場んなかで試合してんのに、なんで天下の歩道を市民が歩いちゃいけないのか、ちとわからない。
実際、まわりの道路は一部通行止め。
ご丁寧なことに、通行止めにしたうえで、なんか旧市役所と球場のあいだに臨時の歩道橋つくって渡してるみたい。
関係者は地面踏まないで球場入りできるってことかな、だったら普通の道路は下々のものに通らせてくれてもいいのに。
困ったちゃうことには、JR関内駅南口から横浜公園方向に出られない。
旧市役所をぐるっとまわっていけというのか。
すっげー不便なんすけど。
ちなみに、スタジアムのまわりは、公園内を通れるときでも、すでに囲ってあって球場に近寄れないようにしてあった。
ははーん、さては封鎖しやすいから、神宮とかぢゃなくて横浜に会場もってきたな。
やめてほしいよね、そういうの。
まーったく、公園を立入禁止にしなくちゃできないようなら、やんなくていいよ、オリンピックなんて。
開催に手を挙げる国もだいぶ少なくなってどこでやるか決めるの難儀してるようなこと聞いたんで、だったらどっか絶海の孤島でも買って、そこで毎回やってなさいよ。
とかなんとか言ってたら。
神奈川県では、きょうはそれどころぢゃなくて。
春のセンバツの覇者東海大相模が、メンバーの新型コロナ感染で、準々決勝を出場辞退、夏がおわったという。
悲しいねえ。
丸谷才一 2002年 文春文庫版
これ中古の文庫本買ったの、おととしの7月だった、読んだの最近。
とっくに読めばよかった、と後悔するほど良い本だった、とっくにというのはこの一年二年ぢゃなくて、もっと若いとき、できたら学校通ってたころに読みたかったもんだ。
(とはいえ、初出が「本の話」平成10年からの連載で、単行本が平成11年、冷静にみれば私が学生んときには読もうとしてもなかったんだから言ってもしかたない。)
なんでそう思うかというと、巻末の鹿島茂氏の解説で、「論文指導にこれほど役に立つ本もない」と断言されてる内容だからだ、私もそう思った。
しかも論文の書き方の作法やテクニックなんかぢゃなくて、「何を書いたらいいか、いやどう考えたらいいかさえわからない学生にとって」役に立つような、名著だから。
しかもタイトルからして難しそうな気がしてずっと開かずにいたんだけど、インタビューにこたえる形式の、読むだけだったらとてもやさしいとっつきの本だった。
なかなか常人には思いつかないような発想をすることについて問われた丸谷さんは、
>(略)正しくて、おもしろくて、そして新しいことを、上手に言う、それが文筆家の務めではないか。(p.12)
と言い、そんな完璧にできなくても、せめて新しいことを言うべきで、「遊び心」を大切にしているとも言い、
>(略)大真面目ではないかもしれませんが、しかし多少は頷けて、納得できる節もある、そう言えないことはないなあくらいの説得力はあって、しかもおもしろいというのを心がける。
>これをうんと極端にやったのが、僕の戯文的随筆になるわけです。(p.13)
という、そうだ、それが随筆のおもしろいわけだ、と当人に解説されて心強く膝を打ってしまった。
どうしてそういう傾向の性格になったかについては、幼少期からの疑問や環境にあったのではと語るところから始まるんだけど。
>どうやら日本の小説というものは、ただいやなことを書く、読んでいて不愉快になることを書くということが大事なことらしい。読者に対して嫌がらせをするように書けば、文学的だということになるらしい、と。(p.18)
とか、
>そういうどんより澱んだ、保守的な街に育ったもんだから、僕は、自由にものを考えるということにたいへん憧れたわけですね。それやこれや、いろいろなことが重なって、新しいことを考える人間に対する敬愛の念を強く抱くようになりました。(p.33)
とか言ってる。
ほかの評論なんかでもよく言及してる近代以降の日本文学への不満については、山崎正和氏の『不機嫌の時代』を読んで、だいぶ謎が解かれたという。
>(略)明治四十年代、日露戦争の後で、日本の知識人たちの多くが、方向を失い不機嫌な状態に陥った。五十代の森鷗外も、四十代の夏目漱石も、三十代の永井荷風も、二十代の志賀直哉も、みんな不機嫌だった。そこから近代日本文学は始まった、そういう議論ですね。(p.93)
というわけで日本の小説はじめじめしてい暗いんだとわかった、不機嫌ぢゃないと軽薄で文学的ぢゃないってことになってしまったと。
日本の評論についても、たとえばフランスの作家のジイドからサルトルまでって例にあげて、
>しかし、彼らの小説がおもしろいのは、決して彼らの政治的関心のせいではない。小説が小説そのものとしておもしろいからでしょう。ところが日本の文藝評論家および翻訳者たちは、彼らの政治思想を論じることだけに夢中になって、肝心の小説の地肌の良さとか、書き方の面白さといったことは何も言わなかった。これは実に幼稚で野蛮な態度ですね。(p.49)
って批判する。
いまの日本の文明については、吉田秀和氏に「レトリックを捨てた文明」と教わったという。
>(略)かつては日本にもレトリックというものがあったのに、明治維新でそれを捨て去ってしまった。なにしろ江戸後期はレトリックの飽和状態みたいなものだから、明治の人は江戸のレトリックを捨てたくて仕方がなかった。(略)
>レトリックの欠如。(略)これで行くと、われわれの文明の性格がたいへんよくわかるし、それからさらに現代生活の問題点が実によく心に迫る。(p.53-55)
というと高尚な議論っぽいんだけど、たとえに出してくるのが、喫茶店に「白玉クリームあんみつ」ってメニューがあるが、昔の日本人だったら比喩的に「夏の月」みたいな名前をつけたはず、ただ中身の名前を羅列して散文的な写実性で説明するのが現代日本文化だ、みたいな話なので、おもしろくてわかりやすい。
そんな思想系の前半にくらべて、後半は具体的に本の読み方とか考え方とか文章の書き方の話になってくる。
丸谷さんの本の読み方は、すごくて、
>僕は本をフェティシズムの対象にするつもりはまったくない。大事なのはテクストそれ自体であって、本ではないと思っているんです。(略)だから、平気で本に書き込みするし、破る、一冊の本を読みやすいようにバラバラにする(笑)。(p.163)
ということで、ホントにバラバラにしちゃうらしい、評論を書いてるときに引用するときは書き写すんぢゃなくて破ったページを張り付けたりまでするらしい。
そんな読書スタイルだけの話だったら参考にならないかもしれないけど、大事なのは本読むことだけぢゃなくて、ちゃんと考えることの重要性を説いてるところは傾聴に値する。
>きょうは暇だから本を読もうというのは、あれは間違いです。きょう暇だったら、のんびりと考えなくちゃあ。考えれば何かの方向が出てくる。何かの方向が出てきたら、それにしたがってまた読めばいい。(p.138)
とか、
>とにかく、自分で考えることもしないで、「何か本はないか」――これがよくなかった。
>何かに逢着したとき、大事なのは、まず頭を動かすこと。ある程度の時間をかけて自分一人でじーっと考える。考えるに当って必要な本は、それまでにかなり読んでるはずです。(略)
>まず、じーっと考えて、ある程度見通しをつけた上で、そこで本を読めばいい。(略)
>ですから、大事なのは本を読むことではなく、考えること。まず考えれば、何を読めばいいかだってわかるんです。(p.176-177)
という調子。
文章の書き方についても、具体的で、
>ものを書くときには、頭の中でセンテンスの最初から最後のマルのところまでつくれ。つくり終ってから、それを一気に書け。それから次のセンテンスにかかれ。それを続けて行け。そうすれば早いし、いい文章ができる(p.229)
というのは、ある若い記者に文章心得を問われたときの答えだそうで、センテンス途中で止まって、考えたり迷ったりして、また書き出すというのはダメだという。
ほかにも、
>趣味の問題からもしれないけれど、僕はむしろ「対話的な気持で書く」というのが書き方のコツだと思う。自分の内部に甲乙二人がいて、その両者がいろんなことを語りあう。ああでもない、こうでもないと議論をして、考えを深めたり新しい発見をしたりする。(略)
>ここで注意。僕は対話体で書けといっているんじゃないんですよ。話は自分の頭の中でやるのであって、文章はあくまで普通に書く。(p.250-252)
という心構えを説いている、自分の言いたいことをひたむきに述べるだけではうまくいかない、反論があったり同意があったりの対話的な構造を持ってたほうがいいという、なるほど。
>文章で一番大事なことは何か? それは最後まで読ませるということです。(p.258)
ということを強調して、そのためにどうすればいいかを、書き出し、半ば、結びのそれぞれのコツについて解説して、
>書き出しに挨拶を書くな。書き始めたら、前へむかって着実に進め。中身が足りなかったら、考え直せ。そして、パッと終れ。(p.264)
という具合にまとめてるところは秀逸。
この本は遅まきながら今後何度でも読み返すことになるにちがいない。
コンテンツは以下のとおり。
レッスン1 思考の型の形成史
丸谷少年が悩んだ二つの謎/
読んではいけない本を乱読する/
わが鶴岡――ただしお国自慢にあらず/
俗説を覆す言論に喝采/
「白玉クリームあんみつ」を排す
レッスン2 私の考え方を励ましてくれた三人
その前に、吉田さんのことを少し/
中村真一郎――文学は相撲ではない/
津田左右吉に逆らって/
ジョイスとバフチンの密かな関係/
山崎正和さんが解いてくれた年来の謎
レッスン3 思考の準備
考えるためには本を読め/
本をどう選ぶか/
言葉と格闘しよう/
ホーム・グラウンドを持とう/
七月六日をうたった俳句と短歌の名作は?
レッスン4 本を読むコツ
僕の読書テクニック/
本はバラバラに破って読め/
マヨネーズと索引の関係――インデックス・リーディングということ/
人物表、年表を作ろう
レッスン5 考えるコツ
「謎」を育てよう/
定説に遠慮するな/
慌てて本を読むべからず/
比較と分析で行こう/
仮説は大胆不敵に/
考えることには詩がある/
大局観が大事
レッスン6 書き方のコツ
文章は頭の中で完成させよう/
日本語の特性とは/
敬語が伝達の邪魔になるとき/
レトリックの大切さ/
書き出しから結びまで/
言うべきことを持って書こう
G・K・チェスタトン/福田恆存+中村保男訳 1961年 創元推理文庫版
去年11月に「ブラウン神父の秘密」といっしょに地元の古本屋で買った、最近になってやっと読んだ。
原題「THE SCANDAL OF FATHER BROWN」は1935年の刊行、第五短編集、これで5冊ぜんぶ順番に読み終えることができた。
本書の巻末「訳者あとがき」において、これらの短編小説はテクニカルな推理小説っていうよりも、「寓話的な物語」ととらえてもいいんぢゃないだろうかみたいに解説されてるけど、私も数読み進むうちにそんなふうに思うようになった。
もともと私が興味もって読んでみようと思ったのは、丸谷才一さんが「大人の童話」としてほめていたからで。
たしかに読んでみれば、単に犯人捜しとか謎解きとかを目的とするんぢゃなくて、ちょっとしたオチもある短編小説みたいに思うようになってきた。
ちょっとヘンぢゃないって気がしても、そう来たかぁ的にだまされるのを楽しめばそれでいいかって感じ。
なんだろう、たとえばモーパッサンとか(あまり適当ぢゃない類比だな?)、そういう短編小説のつもりでとりかかればいいんぢゃないかと、ブラウン神父も名探偵というよりは狂言回しみたいなもんだと思って。
一読したなかで、おもしろいと思ったのは「古書の呪い」だろうか。
心霊現象の研究に詳しいオープンショウ教授のところに、プリングル氏という宣教師が尋ねて来る。
西アフリカに赴任したときに、ある大尉から革張りの古書をもらった。
大尉が言うには、この本を開くと、その人は跡形もなく消えてしまう、この本の前の持ち主とは船で一緒になったのだが、その男は本を開けて中を見たために行方不明になってしまった。
そんなことをテントの中で話し合っていて、プリングル氏が後ろを向いているあいだに、大尉が黙ってしまい、振り返ると本はテーブルに伏せて開いてあって、大尉の姿はどこにもなかった。
そんな話は信じらんないオープンショウ教授は、いま本はどこにあるのかと訊くと、客はこの部屋の外の事務室に預けたという。
ふたりで奥の部屋から出て事務室へ入っていくと、本は包み紙からひっぱりだされて机に置いてあり、そこにいるはずの事務員の姿は跡かたもなく消えていた。
なにがどうしてどうなったのかは、ブラウン神父がたちどころに推理するんだけどね、なんでこんな事件が起きちゃったのかって理由を知ると、まあバカバカしいくらいにおもしろい。
コンテンツは以下のとおり。
ブラウン神父の醜聞
手早いやつ
古書の呪い
緑の人
《ブルー》氏の追跡
共産主義者の犯罪
ピンの意味
とけない問題
村の吸血鬼